ミサ聖祭について✿ฺ

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福者コルンバ・マルミオン修道院長
 
霊的生活における生温さの危険性
 
罪から遠ざからなくても、神との一致は可能だと考えることほど
大きな錯覚はありません
 
しかし、このような錯覚は、意外にもしばしばであり
また、それだけに一層、危険をはらんでいます
 
悪い習慣と戦わない霊魂の内的生活は、至って平凡です
罪を避けることをしない霊魂の善徳の殿堂は、もろい砂上の楼閣です
 
司祭たちや修道者たちの恐るべき破戒の実例を
私たちはしばしば見せつけられることがあります
 
いったい何が、彼らをこのような破滅にまで導いたのでしょうか?

それは決して一朝一夕で潰れてしまったのではなく
その要因はずっと前の段階にまでさかのぼります
 
傲慢心、自愛心、神への畏敬の欠如、感覚的満足の追求
これらがずっと以前から、その建物の土台を蝕んでいたのです
 
霊魂が、遵守すべき霊的規範に対して
普段、知りながら、故意に、習慣的に、不忠実をおかして
それでいて、その心のうちで、なんら内省せず
呵責も感じようとせずに、聖霊の促しを無視して、平然としている時
この霊魂が、完徳に向かって、真実に、絶え間なく、進歩することは
絶対的に不可能です
 
私たちのうちで働きかけをなさる神の御手を
いわば麻痺させ、活動不能にするもの
それは、霊魂による、感覚的なものへの愛着、自愛心への愛着です
 
これこそが、そこから不忠実と、故意に犯す罪が
最も多く生まれてくる母胎となっているのです
 
神は、しきりに、ご自分を霊魂に与えようとなさっているのに
霊魂自身が、そこに障害物をおいて
神の御手に思う存分な力を発揮させず
従順、謙遜、愛に立ち帰るよう促す、神の積極的な招きに
「いいえ」をもって応えて、これに抵抗するのです
 
聖霊は、霊魂による意識的な抵抗によって
悲しまれ、ついに沈黙してしまわれます
 
この冷淡の状態は
それが傲慢や不従順などの精神的罪に関する時
とりわけ危険です
 
それは、神と霊魂との間に
越えることのできない壁を築いてしまうことになるからです
 
しかも、神は、私たちの完徳の第一要因であられますから
神の働きかけをしめだす霊魂は
自分の手で、永遠の生命への活路を断つようなものです
 
このような危険な状態から逃れる最良の方法は
悔い改めの精神を自らのうちに養うことです
 
痛悔の精神の欠如
 
いにしえの修道者は、その修道的環境において
現在の修道者に比べて、決して恵まれていたとは言えませんが
それでも、その内的生活においては、私たちよりも、ずっと早く
恒久性と堅実性との高い度合いに到達していました
 
これに反して、現代のキリスト信者の多くは
熱心な修道者たちでさえも
その内的生活においては、驚くほど不安定な状態にあります

彼らの内的生活は、外面とは裏腹に
頻繁に流転し、変動して、落ち着きがありません
 
神へと向かう内心の飛躍は
いつも妨げを受け、霊的生活の進歩も阻まれているのが現状です
 
いったい何が、この内心の変遷の原因なのでしょうか?
 
それは、痛悔の精神の欠如に起因しています
 
霊的生活を、堅固で、恒久不動のものにするための
最も確実な手段は、実に、痛悔の精神なのです
 



教会のセンスである心の痛悔
 
教導教会は、ミサの典礼において
心の痛悔の顕著な規範を示しています
 
被造物が、神に捧げることのできる最高の犠牲である
このミサ聖祭を挙行する際
司祭の心をみなぎらせるべき想いとは、いったい何でしょうか?
 
多くの人々のうちから彼を選んで
天使たちさえも、それにかなわなぬ永遠の司祭職に任命された
神の特別な恩寵への感謝の想いでしょうか?
 
実際のところ、司祭の唇をついて出るのは
痛悔の叫びです
 
「私は告白いたします。全能の神、幸いな終生おとめマリアに...
これは私の過ち、私の過ち、私の大いなる過ちです...」
 
ミサが進むにつれて痛悔の叫びは、ますます哀切を極めていきます
 
「主よ、私たちから、私たちの不義を遠ざけてくださるよう願い求めます
私たちが清められた心のうちに、至聖所に入ることができますように...」
 
「主よ、ここに聖遺物をおかれている、あなたの聖人たちの功徳によって
また、全ての聖人たちの功徳によって
私の全ての罪をお赦しくださいますように。アーメン」
 
「福音で語られた御言葉によって、私たちの過ちが赦されますように」
 
生きておられる真の神の御前に
汚れないオスツィアとカリスを捧げる際、司祭は唱えます
 
「聖なる父、全能永遠の神よ
私の数え尽くすことのできない罪と過ちと怠りのため
ここに集う全ての人のため
さらに、キリスト信者の生者と死者、全てのために
あなたの取るに足りないしもべである私が
私の生けるまことの神であるあなたにお捧げする
この汚れのないオスツィアをお受け入れください
こうして、このオスツィアが、私と彼らにとって
永遠の生命における救いに役立つものとなりますように。アーメン」
 
「主よ、私たちは、あなたのいつくしみを願い求めて
救いのカリスをあなたにお捧げいたします
こうして、このカリスが、私たちと全世界の救いのために
あなたの神的御稜威の御前に
ここちよい芳香と共に立ち昇りますように。アーメン」
 
「主よ、へりくだりの精神と痛悔の魂のうちに
私たちがあなたに受け入れられますように
今日、あなたの御前で、私たちのいけにえがふさわしくされて
神である主よ、あなたに喜ばれるものとなりますように」
 
さらに聖別後の奉献文中では
イエズスと同心同体となりながらも
罪人としての自覚のうちに、胸を打ちながら強調的に嘆願します
 
「また、私たちは罪人に過ぎませんが、あなたのしもべであり
あなたのはかりしれない憐れみに希望を抱く私たちをも
あなたの聖なる使徒たち、殉教者たちとの
関わりと交わりに連なることをお許しくださいますように...」
 
聖体拝領によって、まさに神であるいけにえと1つになろうとする際
深いへりくだりのうちに次のように祈ります
 
「主イエズス・キリスト、生きておられる神の御子よ...
このあなたの神聖な御体と御血によって
私の全ての罪と、あらゆる悪から、私を解放してください...
取るに足りない私が、あえていただくにあたり
これが私にとって、裁きと罰をもたらすことなく...」
 
「主よ、あなたを私の家にお迎えするには、私はふさわしくありません...」
 
なぜ教会は、このように定めたのでしょうか?

なぜ教会は、へりくだりのふるまいを幾度も繰り返させ
痛悔のうちに胸を打つことを定めたのでしょうか?
 
それは、痛悔の精神のないところに
キリスト教的生活の領域もありえない、ということをよく知っているからです
 
イエズスの犠牲は
いつでも、御父に喜んで受けおさめられます
 
しかしながら、それが
私たちを経て、御父に捧げられる時
御父からこころよく受けおさめていただくための条件は
私たち自身の、悔い改める心と、深いへりくだりの精神であることを
決して忘れてはならないのです
 
実際、心の痛悔は
私たちがあずかる秘蹟から
より一層、大きな霊的利益を引き出してくれるからであり
また、それこそが、まことの信心のしるしだからです





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