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両形態拝領における疑問
つい最近も、司祭が、両形態での信徒の聖体拝領の際
信徒に聖体を授けて
信徒自身に、祭壇脇のカリスの中の聖血に浸させていました
以前にも、その司祭に
その行為が禁じられていることを何度か告げましたが
一向に聴き入れてもらえず、今も、それをやめようとしません
また、自ら聖体を聖血に浸して拝領していた知り合いの信徒に
その行為が禁じられているのを認識しているかを尋ねたら
「ダメだとは知っているけれど、特別許可があるんじゃない?」
と答えていて、それをやめる気配が一向にありません
信徒自身に聖体をカリス内の聖血に浸させることについて
何か特別許可みたいなものがあるのでしょうか?
聖体の両形態拝領において
司祭は信徒自身に聖体を聖血に浸させてはならない
聴く耳をもたない人々のふるまい
ミサの聖体の両形態拝領において
信徒自身に聖体をカリス内の聖血に浸させることについて
特別許可というものはありません
それは、悪魔が蒔いた偽りの種のようなものです
それは次第に良心を麻痺させ
さらなる聖体への侮辱に道を開いてゆくものです
人は、自分が行なうことが
間違っている、もしくは、間違っているかもしれない
との認識を抱く際
2つの道のどちらかを選択します
1つは、素直に誤りを認めて、自らを矯正する道を選択します
もう1つは、自分の誤りを認めたくないとの意識のうちに
誤りの中に、逃げ場を探し出そうとして
理由にならない理由を創作し、それをつなぎ合わせて
なし崩しにして、誤りを継続する道を選択します
端的に言えば
謙遜か、傲慢か、の違いの表面化です
誤りの認識がありながら継続する人の傾向として
司祭の場合
誤りを指摘する人への不満から
(指摘されたことについて自らのプライドが邪魔をして)
聴き入れたくない意識がはたらいて
正しいことを告げられても、それに耳をふさいで
その禁止行為をやめようとしない
そのような傾向があるようです
信徒の場合
司祭がそうするように促しているから
みんなもしているから
といったように自分以外の人への責任転嫁でごまかそうとしたり
客観的事実を捻じ曲げて解釈しようとこころみ
自己保身という独自のフィルターにかけた上で
自ら創作した理由(「きっと特別許可みたいなのがあるんだわ」)を
機会があるごとに、自らの意識に刷り込み続け
それを発言することで、それを確信にすりかえて(記憶のすりかえ)
その禁止行為をやめようとしない
そのような傾向があるようです
聖体の両形態拝領において
司祭は信徒自身に聖体を聖血に浸させてはならない
聖体の両形態拝領において
司祭は、信徒自身に、聖体をカリス内の聖血に浸させてはなりません
信徒も、自ら、聖体をカリス内の聖血に浸してはなりません
このことはずいぶん前から公式に禁止され
幾度も教皇庁から公式通達が出されていました
2014年から日本で効力を発する聖体拝領の方法についての指針でも
日本全体で次の行為が禁止されています
『両形態による拝領の場合
司式者と共同司式者以外の者は、以下の方法で拝領することはできない。
⑴ 祭壇上に置かれたカリスを自分の手で取って御血を拝領すること。
⑵ カリスの中の御血に、自分で聖体を浸して拝領すること。
⑶ カリスから拝領した後、拝領者が次の拝領者にカリスを手渡すこと。』
これにより、日本国内で挙行される全てのミサにおいて
日本在住の全ての司祭(教区司祭、修道司祭)が、この規制を受けます
そのため、依然として信徒にセルフインティンクションを行わせる司祭は
司祭という自らの立場を濫用し
この禁止行為=違法行為を信徒に
ある意味で、強要させることになります
また、禁止された行為と知りながらそれを行う信徒は
全くの無知な信徒の場合と異なり
主の御前で、その違法行為について
より一層大きな責任を負うことになります
教皇庁が公式指針や公式通達でNGを出し
日本の司教協議会の公式指針でNGを出したにもかかわらず
あえて頑強に、この違法行為に自他を委ねる人は誰であれ
聖体の秘跡に対する甚だしい侮辱を犯すことになります
創世記において
神がNGを出したことについて
NGかどうかは私が決める、という振る舞いを選択した人祖のように
神がルールではなく、私がルールだと
言葉ではなく、行いによって、不従順を行動宣言するようなもので
神の権威を愚弄し、侮辱し、踏みにじることに等しい、と言えます
神は、人が、死に向かわないように指針を与えています
神は、理由なく、人に指針を与えていません
多くの人は、その指針を、「べつに大したことじゃない」と軽んじがちです
悪魔は、創世記における人祖に対してささやいたと同様に
「こんなことであなたは死なない。大丈夫だ。安心して、ほおばれ」
と現代の司祭や信徒の耳元でささやき続け
彼らの傲慢さにつけこんで
偽りの安心感であざむき
終わりに、突如、その霊魂を神からもぎ取り
人を永遠の死へと導こうとするのです
「正しくないことを行なって
真理を阻んでいる人々のあらゆる不信の心と
正しくないことに対する神の怒りが、天から現わされます」(ローマ1,18)
フランシスコ教皇聖下
現代のキリスト者の愚かなふるまい
愚かなふるまいとは
『聴き入れない』タイプのことで
いわばNescioと呼ばれるもので
「私は知りたくもない」「私は聴きたくもない」といった状態のことです
彼らは神の御言葉に耳を傾けることに無気力で
神の御言葉は、その中に入ってゆくことができません
聴こうとさえしていないがゆえに、それを内面にもたらせないのです
愚かな人は、聴く耳をもちません
その人自身は、自分が聞いていると信じていますが
しかし、実際のところ、聴いていないのです
常々その人自身が置く妨げによって、また、それが要因で
神の御言葉が、その人の心の中に入ることができないのです
そして、そこ(その人の心の中)に、愛のための居場所がないのです
また、仮に、そこに御言葉が入れたとしても
その人のうちで、その人に都合のいいように、それが蒸留され
その人にとっての現実味を帯びた独自解釈へと
すっかり変質させられてしまうのです
愚かな人々は
聴くすべを知ろうとしません
そして、この心の難聴は
心の堕落へと導いてゆきます
神の御言葉は、そこに入ることができません
そこには、愛のための居場所がなく
ついには、自由のための居場所がなくなってしまうのです
このようにして、彼らは奴隷化してしまいます
なぜなら、彼らは、神の真理を、自らの偽りにすり替えて
創造主のかわりに、被造物(自分自身)を礼拝してしまうからです
彼らは自由ではありません
聴く耳をもたないからです
この心の難聴は
愛のための部屋も、自由になるための部屋も持ちあわせず
常に、彼らを隷属へと導いてゆきます
私は神の御言葉に耳を傾けているでしょうか?
私はそれを自らのうちへともたらそうとしているでしょうか?
「実に、神の御言葉は生きていて、力があり
どんな両刃の剣よりも鋭く
魂と霊、関節と骨髄の分かれ目まで刺し通し
心の思いや考えを見分けることができます
神の御前に隠れた被造物は1つもなく
全てのものが、その眼には裸であり、あらわです
この神の御前で
私たちは総決算をしなければなりません」(ヘブライ4,12-13)
私は、神の御言葉を、私自身の中に迎え入れているでしょうか?
それとも、それに対して、耳をふさいでいるでしょうか?
私はそれを自己保身の外観へと変質させていないでしょうか?
私はそれを自己陶酔、偶像崇拝的傾向
あるいはイデオロギーへと変質させていないでしょうか?
依然として、そのように自己に都合よく変換させていれば
神の御言葉が、その人のうちに入ることはありません
これが、キリスト者における愚かなふるまいです
現代の愚かな人々のアイコンを見てみましょう
そこには、愚かなキリスト者たちが
さらには、愚かな司牧者たちさえ、そこにいます
聖アウグスティノは告げています
「司牧者たちの愚かなふるまいは、その群れを傷つける」
この愚かなふるまいのすぐそばで
彼らの心のドアをたたいて
いつも待ち続けておられる主を見ることができます
イエズスは、イエルザレムについて、憂いて
嘆きのうちに涙を流されました
「イエルザレム、イエルザレム
預言者を殺し、自分に遣わされた人を石で打ち殺す者よ
めんどりが翼の下にひなを集めるように
私は幾度あなたの子らを集めようとしたことだろう
しかし、あなたたちは、それに応じようとはしなかった」(ルカ13,34)
もし私たちが、この愚かなふるまいに堕ちていくならば
私たちは、主から離れ去ることになり
主を嘆かせることになります
イエズスの憂いは、私たちへの憂いです
主がお選びになられた民、主から愛された民
それでいて、自らの愚かさゆえに
自己保身の外観、偶像、イデオロギーを選択した民への憂いです
私たちは悪魔のステルスに警戒しなければならない
「誘惑に陥らないよう、目覚めて祈りなさい」(マタイ26,41)
主は、私たちが誘惑に陥らないよう
目覚めて祈りなさい、と仰せられました
悪魔は、静かに、私たちのところに入り込んできます
そのようにして、悪魔は、人々の人生の部分となり始めます
彼らのアイデア、インスピレーションによって
人々がより快適に生きるのを助けるかのようにして
人々の心や人生に入り込み
なんらのノイズもたてず、静かに、人々の思考を変え始めます
この悪魔の方法は
かつての強烈な悪魔的憑依とは異なっています
この現代における悪魔的憑依は
あたかも『リビングルーム』のような憑依であり
悪魔は、ゆっくりと、私たちの基準を変えさせて
私たちを世俗化へと導いてゆきます
それは、私たちの行動様式のカムフラージュであり
私たちが最も注意していなければならないことです
内的基準を変えられてしまった人は
悪魔から解放されたとしても
世俗の重荷をひきずる悪い人になってしまいます
それこそが、まさに悪魔の狙いです
世俗とは、惑わしです
というのも、悪魔が、惑わしの父であるからです
悪魔が私たちのうちに入り込もうとする時
甘い雰囲気や見栄え良さのうちに
私たちの思考を掌握しようとします
そして、私たちの価値観を
神への奉仕から、世俗化へと変質させてゆきます
そのようにして、私たちは
生ぬるいキリスト者、世俗化したキリスト者となり
まるでフルーツサラダのように
世俗的精神と神的精神をミックスさせてしまうのです
各々、十字架につけられたキリストの御前で自己を糾明すべき
「目覚めて」とは
私たちの心の方向性を見つめることを意味しています
それは、自分の生活のあり方を糾明するべく
立ちどまって内省することを意味しています
十字架につけられたキリストだけが
私たちを世俗化へといざなう魅力や惑わしから
私たちを救うことがおできになります
キリスト者は、いつも、十字架につけられたキリストを仰ぎ見て
自分自身について、祈りのうちに、良心の糾明をしなければなりません
私たちの日々の活動の合間にはさむべき
この良心の糾明は
悪魔と、他の7位の悪霊が、私たちのうちに形成しようとする
精神的世俗化や妥協を、打ち崩すものです
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