教皇聖下の声✿

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イエズスの聖心の福者マリア・セラフィナおとめ
 
記念日;3月24日
 
心の福者マリア・セラフィナは、1849年9月11日イタリア、トレントのイメルで生まれ、クロティルダ Clotilde Micheli と名づけられ、3歳の時、トレント司教から堅信を受け、1858年初聖体の際、奉献生活への強い憧れを抱き、しばしば長時間ひざまずいて聖体礼拝のうちに過ごすことが多くなり、幼い頃から神秘的な体験や私的啓示を受けていたが、その中で、1867年8月2日、小教区聖堂での聖体礼拝の際、天使たちに囲まれた幸いなおとめマリアが福者のもとを訪れ、至聖なる三位への特別な礼拝のための修道会発足の召命を促された。
友人と共にヴェネツィアに赴き、ドミニコ・アウグスティノ司祭(のちのヴェネツィア総大司教、枢機卿)に助言を求めた際、新しい修道会発足に向けた計画を進めるよう励まされ、修道会則の草案を促されたが、自分には困難で自分はその器ではないと怖れを抱き、1867年パドヴァに移るが、そこでも霊的指導者たちから新しい修道会の基盤作りを促された。
1878年両親が福者の知らぬ間に縁談を進めていたことがわかり、その縁談から逃れるため、ドイツのエプフェンドルフに移住し、聖エリザベト姉妹会が運営する診療所で看護師として働いたが、1885年両親の死を機に、自らの生き方を問うため、1887年5月、姪のジウディッタの協力を得て、徒歩でローマ巡礼を行ない、8月ローマの汚れない愛徳姉妹会に入り、『マリア・アンヌンツィアータ』という名前を選び、1888年アナーニ教区に属するズグルゴラ修道女院の院長を務めるが、フランシスコ・フスコ司祭の助言を受けて姉妹会を退会した。
1891年カゼルタへ赴き、そこでフィロメナ・スカリンジやその他の若い女性たちと共に共同生活をするための家を建て、カゼルタ司教エンリコ・デ・ロッシの支援を受けて、ノチェーラ・インフェリオーレ近郊で、1891年6月28日、天使たちの姉妹会を創立し、5名のおとめたちと共に修道誓願を立てて、修道名に『聖心のマリア・セラフィナ』を選び、フランシスコ・フスコ司祭を会の霊的指導者とし、至聖なる三位への礼拝の信心を推進し、見棄てられた孤児たちや貧しい病者たちの世話、青少年たちの霊的育成を推進し、天使たちにならう奉献生活に努めた。福者が院長を務める間に、修道女院を15箇所もうけ、現在その修道院は50箇所に広がり、イタリア、ブラジル、インドネシア、ベナン、フィリピンに及んでいる。
1895年頃から福者は病気に苦しむが、治療に意を用いることはせず、自身の奉仕職に努め続けた。ある日、ある神学生が福者に面会を求めてきたが、病気に伏していた福者を煩わせまいとして断った修道女たちに向けて、その神学生が獣のような遠吠えと共に怒号を浴びせだしたため〜その神学生は7位の悪魔に憑依されていた〜、福者は彼に(実際は悪魔に対して)静かにするよう命じて、十字架のしるしを通じて、憑依されていた神学生の悪魔祓いを行ない、その神学生を悪魔から解放させた。
1911年3月24日ベネヴェントのファイッキオで帰天した。2011年5月列福。
 
地獄の幻視
 
883年11月10日夕刻、ドイツ皇帝ウィルヘルム1世が主催したマルティン・ルター(1483.11/10-1546.2/18)誕生400周年の祝賀ムードでアイスレーベン(現在のルターシュタット・アイスレーベン)一帯は満たされていたが、福者はこの祝賀に興味はなく、その地域にある各教会を見つけては聖体礼拝をすることを常としていて、日も暮れて暗くなっていたが、この日もそのようにするため、ある教会を訪れた。しかしそこは扉が閉まっていたため、祈りのひと時をもつため、入り口の階段でひざまずいた。
福者は、そこが、カトリック教会ではなくプロテスタント教会であることに気づいていなかった。福者がひざまずいて祈りを捧げていると、守護の天使が目に見える姿で福者に現れて告げました。
「立ち上がりなさい。ここはプロテスタント教会です。マルティン・ルターは、その傲慢のゆえに処罰されました。それは致命的な大罪であり、カトリック教会に敵対して反乱を起こしたからです。彼がどこで処罰されているか、また、彼がその傲慢の罰として、どのような苦しみの痛みを受けているかを見なさい」。
すると、福者は、激しい怒りの渦のうちにある、おびただしい霊魂の痛々しい拷問を幻視しました。
その渦のような獄の穴の底に、悪魔に取り囲まれ、ひざまずかされているマルティン・ルターがいて、彼の頭は大きな釘のようなもので突き刺され、ハンマーのようなもので酷く打ち叩かれていました。
 
 
大勅書Exsurge Domineで指摘されたマルティン・ルターの誤謬

95箇条の命題におけるルターの誤謬のいくつか
(ex. デンツィンガー・シェーンメッツァー 『カトリック教会 文書資料集』)
 
告解には、痛悔、告白、償いの3つの部分があるというのは、聖書にも教父たちの教えにも基づいていない。
痛悔(良心の糾明を含む)によって、人は偽善者となり、もっと悪い罪人になる。
全ての大罪を思い出すことは不可能だから、全ての大罪を告白しようと考えてはならない。
告白をする人が痛悔していなくても、司祭が本気でなく冗談で赦したとしても、自分は赦されたと信じる人は、本当に赦されている。
免償は信者を迷わせるための信心深い詐欺であって、役に立たない。
自罪の罰の赦しのために、免償は何の役にも立たない。
免償が有益なもの、霊的に役立つもの、と信じる人はだまされている。
完全に行なわれた善業は、小罪である。
煉獄の存在は、正典に含まれる聖書から証明できない。
煉獄の霊魂は、罰を恐れている間は絶えず罪を犯している。
 
記のマルティン・ルターの主張は、カトリック教会の赦しの秘跡の否定、良心の糾明・痛悔・免償・善業・煉獄の否定、また、煉獄の霊魂への侮辱を含んでいます。
 
そのため、プロテスタントには、叙階の秘跡もなく、そのため、聖餐式はあっても、聖変化させる司祭がいないので、実質、聖体の秘跡もなく、また同じく、罪の赦しを与える司祭がいないので、赦しの秘跡もなく、そのため、信者は秘跡的赦免を受けられませんし、教会の有する霊的宝庫がプロテスタントには閉ざされてしまっている、というのが現状です。
 
カトリックのエキュメニズム
 
トリック教会のエキュメニズムとは、プロテスタント諸教会との兄弟的で友好的な対話を通じて、彼らのカトリックへの帰正を促すものであって、カトリック信者がプロテスタント諸派の教えに染まることを意図したものではありませんし、カトリックがプロテスタント化することでもありませんし、プロテスタント諸派に、「あなたたちはあなたたちのままとどまっていてイイんですよ。私たちと仲良くやっていきましょう」と見せかけの表面的な仲良しアピールの自己満に浸ることでもありません。
 
回心の必要のないプロテスタント信者はいません。
また、回心の必要のないカトリック信者もいません。
回心の必要のない人は、どこにもいません。
 
カトリックのエキュメニズムを誤解して、『カトリックの教えを裏切る行為』として、対話を促す教皇庁を否定するのもおかしな振る舞いであり、心の偏狭さを示しています。
というのも、自己開示的で抱擁的対話なしに、相互理解を介した、『真理への気づき』が、対話相手にもたらされないからです。
それは、放蕩息子の帰還を、いつくしみ深い抱擁のうちに祝宴を催した父親に対する、兄の心の狭さと同じ振る舞いです。
 
また、聖座の歩み寄りの意図を誤解して、地方教会の司牧者が、カトリックの教えをないがしろにしてプロテスタント諸派に迎合するのもおかしな振る舞いであり、霊魂の救いへの無関心を示しています。
というのも、真理の教えを明確に示さず、誤謬を誤謬のままに放置することは、『真の愛徳』にもとるからです。
それは、物質的に飢えた人に助けをもたらす一方で、霊的に飢えた人には、助けを与えずに放置するようなものであり、霊的慈善とは真逆の振る舞いです。
 
いずれも両極端な誤断に過ぎず、より多くの霊魂を救いの小道に立ち帰らせたいと望まれる、神のいつくしみを反映させるものとは異なる姿勢です。
 
カトリックのエキュメニズムは、兄弟的交わりや相互理解を深めることを通じて、真理の小道に人々を向かわせ、立ち帰らせるための、司牧者たちや信徒たちに向けた、聖霊の愛と想いやりの呼びかけです。


«Paenitemini et credite Evangelio»
 

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フランシスコ教皇聖下
 
良心の糾明は、心戦を戦い抜くために、必要不可欠である
 
イエズスは、私たちに回心を呼びかけておられます
 
そして、この回心とは
悪魔に対する戦いを意味していますし
また、自分自身の心に対する戦いをも意味しています
 
悪との苦闘は
あなたに快適さをもたらしませんが
しかし、あなたに真の内的平和をもたらします
 
イエズスが地上に放とうと望まれた炎は
自らを変えることへの呼びかけを示すものです
 
自らを変えること、それは回心です
それは、肉体、霊魂、全てを含む回心です
 
自らを変えることは
メイクアップのように表面的な変化をもたらすことではなく
聖霊がもたらす内的刷新です
 
自身のうちで聖霊が働きかけられるようにしなければなりません
それは、自分との闘いを意味していますし
実際、戦わなければなりません
 
安逸をむさぼるキリスト者は、戦おうとしません
そのような人々は、キリスト者ではありません
彼らは生温さを示しています
 
内的平和のためのピルなどありません
ただ聖霊だけが、霊魂の内的平和をもたらすことがおできになり
キリスト者に霊的強さをもたらすことがおできになります
 
日々の良心の糾明が、このことの助けとなりえます
敵の蒔いた病魔、世俗化という名の病魔と戦う助けとなりえます
 
悪魔に対して繰り広げられたイエズスの闘いは
遥か遠い昔の出来事のもの、いにしえの悪に対するものではなく
それは、今、現代の出来事のもの
全ての日々、こんにち現出している悪に対するものです
 
イエズスが、私たちの心の各々にもたらそうとされる炎をもって
私たちのうちに入ることがおできになるよう
私たちは、日ごとに自分自身に問いかけなければなりません
 
私は、世俗化から遠ざかるため、また、罪から遠ざかるため
恩寵に向けて、なんらかの努力をなしているだろうか?
 
私は、聖霊が、私のうちで働くことができるよう
聖霊のための場を、差し出しているだろうか?
 
私たちの生活上の種々の問題は
真理を押し黙らせることでは解決されません
 
真理は私たちに告げています
イエズス・キリストは私のうちに炎をもたらすために来られ、戦われる
それなのに私は何をしようとしているのだろうか?
 
自他に回心をもたらすためには、想いやる心、忠実な心が必要です

想いやりは、つねに愛に由来するものです
忠実さは、神の御言葉への忠実さのことです
 
 
 

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