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司牧者によるスキャンダルについて
 
 
 
主は仰せられます
 
つまずきは必ず起こる
しかし、人をつまずかせる者は不幸である
 
私を信じる この小さな者の1人をつまずかせる者は
首に ロバの碾き臼をかけられ
海の深みに沈められるほうがましである
 
 
つまずきをもたらす聖職者たち
 
霊魂の司牧者たるべき立場にある司教、司祭などによる
自らの立場を濫用して犯行に及ぶ
修道女へのレイプや児童性的虐待というスキャンダルが
世界的規模で衝撃を与えています
 
この種の裏切りや背徳の多さは
想像をあまりにも遥かに超え過ぎています
 
「聖職者だって?彼らは生殖者、いやいや性喰者だろう」
と揶揄されてもいたしかたないでしょう
 
 
身を引かない聖職者の霊的行末
 
犯行に及んだ聖職にあるものは
性的堕落の一線を越えた初めの段階で
その任をただちに辞するべきですし
また、そうしなければなりません
 
そのように身を引かない聖職者は
おそらく地獄の深淵に堕する可能性が高いです
 
というのも、改心の機会が十分与えられていながら
その蛮行を不悔悛によって改めず
邪欲と狡猾さのうちに、さらなる犠牲者を出し続けていたからです
 
その状態で司祭職を継続しつつ
犯行を重ねていったとすれば
おそらく、その司祭は、その件につき、痛悔も、告白もしていない可能性が高く
偽の告白、つまり汚聖の告白、汚聖の拝領をなしていたと容易に推察されます
 
そのような大罪の状態で
ふさわしくない身でありながらミサを捧げ続け
汚聖の聖体拝領をなし続けていたことは、実に恐るべきことであり
悪魔の喜びの的でしかありません
 
 
不道徳への強烈で深刻な堕ち方
 
個人的な考えとして
熱心であったキリスト者(司牧者、修道者を含む)が堕ちた時には
一般の人の堕ち方よりも、さらに酷い堕ち方をする
というのがあります
 
また、当然ながら
一般の人よりも、信者のほうが地獄での苦しみが大きく
信徒よりも、修道者(奉献生活者)のほうが地獄での苦しみが大きく
修道者よりも、司祭のほうが地獄での苦しみが大きく
司祭よりも、司教のほうが地獄での苦しみが大きいでしょう
 
 
事件が、その加害者が生きている間に発覚した場合は
ある意味で、その加害者への神の憐れみでもあり
被害者への癒しと赦しの促しでもあります
 
至福八端にあるように
この世での被害的立場のものは
天において慰めと癒しを十全に受けるでしょうが
この世での加害的立場のものは
そうではありませんし
むしろ、永遠の地獄の炎の苦しみが大きな口を開けて待ち受けています
 
生きている間に、というのは
犯行を重ねて不悔悛であったものが
発覚したことで、悔い改めの可能性が強まるからです
もし、その加害者が、真に悔い改めたならば
他の霊魂への毀損から
他の霊魂への救いに意を用いるようになりうるからです
 
しかし、事件が発覚せず、不悔悛のまま
この世の外面的な保身でやりすごしていった加害者は
改心することが非常に困難であり、死後、永遠の死に入る可能性が高いです
 
 
結婚を口ばしる軽薄な司祭
 
あと、小児性愛傾向の人で事件起こす司牧者は
たぶんもともと、立候補してはいけない人物だったと思います
また、おそらくですが、結婚したとしても
小児性愛傾向で一般の事件になっていたかもしれません
 
自身、内的にその種の傾向を自覚する者は
聖職を志願するべきではありません
 
聖職者としての立場を濫用して
犯行に至ることは悪質であり、神とキリストの神秘体に対する裏切りです
 
ここしばらくちらほらと、司祭職にあるものが
「司祭も結婚したほうがいい」などと口ばしるケースがありますが
 
そもそも、司祭が結婚をしたら、児童性的虐待がなくなるとか
そういうたぐいのものではありません
 
既婚者でさえ児童性的虐待や児童虐待する事件も見受けられますから
結婚することと児童性的虐待がなくなることとは関係ありません
 
司祭も結婚したほうがイイなんて主張するような司祭は
カトリック司祭を辞めるべきだと思います
 
 
霊的な世界での罪の醜悪さの極み
 
ある司教が修道女を継続的にレイプしたという事件に関しては
司教側の弁明がなんであれ
修道女との間に同意があろうがなかろうが
その身分(おとめ)を害してる段階でアウトであり
そのシスター(奉献者)についての汚聖と
自身の身分(奉献者)についての汚聖からして
罪の悪性は極めて重く
その間ミサでの継続的な汚聖の拝領も重ねられて
 
さらに、教会に対しても、世間に対しても、重大なつまずきが加わるので
社会的な罪科もさることながら
霊的な世界での罪の醜悪さもかなり極まると思います
 
犯行が事実であれば
真の悔い改めがない限り
その霊魂の救いは危ういでしょう
 
 
いずれにせよ
この種の裏切りや背徳に関しては
性的堕落の一線を越えた初めの段階で
聖職にあるものは
その任をただちに辞するべきだし、そうしなければなりません
 
 
不道徳に堕落した司祭についての信者の告発の重い義務
 
あと、不道徳に堕落した司祭もしくは司教から
淫行の勧誘を受けた信者は
年齢や地位のいかんを問わず
淫行勧誘の犯行後1か月以内に
(もしくは告発の義務を知らされた後1か月以内に)
その所属の教区長(裁治権者である司教)もしくは教皇庁に対して
告発しなければならない
という重い義務の規定があります
 
また、告白において、被害者からその犯行を知らされた聴罪司祭は
その被害者に、そのことを告発する義務があることを
それが良心上の重大な義務であることを
その告白者に知らせなければなりません
 
(聴罪司祭が、被害者を飛び越えて、上長に打ち明けることは
当然ながら、秘跡の秘密の封印を破ることになり、破門になるので
被害者本人に告発を促しえるだけです)
 
それは、直接の被害者が
堕落した司祭によって他の人にも被害を及ぼされないよう
さらなる犯行を未然に防ぐための措置を
上長に適切に講じてもらうためです
 
以前の教会法2368条2項には
「信者が、自分を誘惑した者を知りながら
1か月以内に告発を怠った場合
既定の破門制裁に服する。
この信者は、義務を果たすか
果たすことを確約しない限り、赦免されない」
という重い義務が課せられていました
 
この種の犯罪行為は
隠れたところで、一般の目に触れないところで
じわじわと拡大していく危険が高いからです
 
 
虚偽の告発および告訴
 
また、当然のことながら
事実に反して司祭をおとしめる意図をもってなされる
偽りの告発も咎められます

「誘惑の犯罪について、自分自身で、または他人を通じて
司祭を、その上長者に讒訴(ざんそ)した者は
その事実によって、当然、使徒座に特別に留保される破門制裁を受ける。
この破門は、讒訴を公式に撤回した上で
讒訴によって生じた損害を、できる限り賠償するまでは
いかなる場合にも赦免されない。
さらに、赦免の際に、長期にわたる重い償いを科さなければならない」
といったものです
 
なお、現在の教会法においては以下のように規定されています
 
「第1387条 ゆるしの秘跡の執行において、または、その機会に、または、その口実で、ゆるしの秘跡を受ける者を、第6戒に反する罪に誘惑する司祭は、犯罪の重さに応じて、聖職停止、禁止、剥奪をもって、処罰されなければならない。かつ、より重大な場合には、聖職者身分から、追放されなければならない」
 
「第1390条 ①第1387条所定の犯罪について、偽って聴罪司祭を教会の上長に告訴する者は、伴事的禁止制裁を受ける。かつ、聖職者の場合は聖職停止制裁も受ける。②その他も、教会の上長に中傷的犯罪告発をなす者、または、他の方法で他人の名誉を傷つける者については、懲戒罰を含む正当な刑罰をもって処罰することができる。③中傷者については、相応の償いを果たすよう強制することもできる。」
 
 
格子つき告白場の意味について
 
あと、余談ですが
聖堂内に赦しの秘跡の『格子つきの告白場』が設けられているのは
おもに、女性や女子の告白者の、司祭からの性的保護のためです
 
というのも、第三者の目に触れないような応接室や居宅では
堕落した司祭による、女子の告白に乗じた淫行勧誘を防ぎがたいからです

ごく最近も、私の知人信徒女性が、応接室での告白の際
「不意に、司祭から抱きつかれキスをされ気持ち悪かった」
という話を聞きました

その司祭は前フリとして
「私の国ではハグやキスは挨拶のようなもの」
と告げて自らを正当化しようとしたようですが

ここは日本であり、通常、単なる友人関係の異性に対して
ハグやキスをする習慣はありませんし
日本人の感覚として、恥ずかしいという思いを抱くような行為です

恋人同士なら、ハグやキスは挨拶的な行為の範疇に入りますが
恋人でもない、異性の知人(しかも友人でも親友でもない)に対して
一方的に、不意に、抱きついて、キスをして、相手に自分の粘液をつける
というのは、司祭としての職務上の立場や機会を濫用した逸脱行為でしょう

少なくとも、された本人は、抱きつかれてキスされて嬉しいとは全く思っておらず
戸惑いと嫌悪感を抱いているところからすれば
セクハラか準強制わいせつか迷惑防止条例違反行為といったところでしょう

なお、海外の司牧者による修道女へのわいせつ行為やみだらな行為も
格子のない応接室のような場所が、犯行現場となっているようです

教会は過去の経験から
女性や女子の告白のために
堕落した司祭が彼らに直接触れる機会を妨げるために
格子つきの告白場を設けるよう定めたのでした
 
そのため、聴罪司祭が、格子のない応接室において
女子の良心上の問題について話した場合
そして、告白を望む場合
原則として、告白台へ導かなければならない、とされています
 
以前の教会法909条1項には
「女子の告白を聞くための告白台は
常に、公開の見えやすい場所
すなわち、原則として教会または公用あるいは準公用礼拝堂における
女子のために指定された場所に置かなければならない」
と定められていたほどです
 
男子の告白については
個人の住宅、その他の場所において
告白台を使わずに聞くことができる、とされていました
 
が、ただ、最近、男子児童への性的志向をもつ男性もいるようですし
その種の犯罪や性的虐待が明るみになっていることから
男子の告白についても
常に、格子つき告白場でなされるべき規定が必要かもしれません
 
 
いずれにせよ
この種の裏切りや背徳に関しては
性的堕落の一線を越えた初めの段階で
聖職にあるものは
その任をただちに辞するべきだし、そうしなければなりません
 


閉じる コメント(39)

.
が、この以前の教会法の条項は
ベネディクト14世教皇による
1741年6月1日付け使徒憲章『Sacramentum Poenitentiae』の
教皇制定法により、規定されたものであり
現在も、法としての効力をもっていますし

聖ヨハネ・パウロ2世教皇による
2001年4月30日付け自発教令『Sacramentorum sanctitatis tutela』においても
ベネディクト14世の『Sacramentum Poenitentiae』の規定が
現在も法的効力をもつものとされていますので

現行の教会法には明確に記載されていないにしても
可及的速やかに告発がなされることが勧められていると思われます

なお、告発に際して、被疑者である司祭には
告発者の名前が明かされないような措置が講じられますし
また、告発者自身も、裁判において
名前を明かされない権利があると定められていますので

被害にあわれたかたは心配することなく
加害者の上長もしくは教理省に勇気をもって告発してもらいたいと思います
.

2019/2/14(木) 午後 10:45 Benedictus

.
『主の祈りにあるように、「人をゆるす」ことの大事さに
こころが向いていて、「その人が回心して行いを改めますように」
と祈って誰にも相談できない人もいるのではないでしょうか。』
について言えば

加害者であるものが、その教えや、被害者の善意を悪用して
『赦し』を強調しながら、自らを改めず、そこにつけこむ
といった狡猾さを有していると思われるので

他の犠牲者の増加や被害の拡大を防ぐためにも
不道徳に堕落しきった司祭の犯罪を
告発によって終わらせることが大切になると思います

それは被害者である当事者にしかできないことなので
裁治世権者もしくは教理省に告発してもらいたいと思います
.

2019/2/14(木) 午後 10:45 Benedictus

.
2019/2/12(火) 午前 5:24の内緒さん
お待たせしました
こちらこそありがとうございます
.

2019/2/14(木) 午後 10:49 Benedictus

.
2019/2/12(火) 午後 2:11の内緒さん
いつも気にかけてくれてありがとうございます
.

2019/2/14(木) 午後 10:50 Benedictus

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ベネさん、詳しいお返事をありがとうございました。
以前の教会法も、聖ヨハネ・パウロ2世教皇によって
現在も有効であると宣言されているのですね。
被害者のプライバシーも保護される規定なので、
性的被害を訴えることは、大変な勇気が必要だと
思いますが、他者への被害が拡大しないためにも
自分だけのこころにしまいこまないようにしたいですね。

2019/2/15(金) 午後 11:27 ニール

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私はカトリック教会においてこの種の事件が数多く発生した原因として、第二バチカン公会議による影響が大きいと思います。カトリックが真のカトリックであるためには、どうしてもラテン語ミサに徹するべきだと思います。私はカトリック信者ではありませんが、以前に近くのカトリック教会に行ってミサに参加したことがあるのですが、日本語ミサに落胆した経験があります。全てのカトリック信者は聖書の「死体のある所にはハゲタカも集まる」という御言葉を思いめぐらすべきだと思います。

2019/5/12(日) 午前 10:12 [ zel*h*elef ]

.
zel*h*elefさん
ありがとうございます
そう思われてもいたしかたないでしょうね

ただ、この問題は、公会議以前から、一般の目には触れなかっただけで
教会内部にじんわりと、隠れて、巣食っていた病巣でもあります
実際、昨今の追跡調査によるだけでも公会議以前のものはかなりあるようです

この問題が発覚する以前に、私が衝撃を受けたことは
教会公文書や倫理神学書を学んでいた中で
司祭による第6戒の重い罪が、告白という罪の赦しの機会において
濫用され、時に、当事者同士、つまり聴罪司祭と女性告白者の間で
不適切な接触や交わりがなされていたことや
罪を犯したその当事者たちが、罪を赦す側、赦される側として
外部に、他の司祭に知られないよう、当事者同士で秘跡を濫用していたことです
.

2019/5/12(日) 午後 10:06 Benedictus

.
そのため教会は、そのような不適切な関わりや秘蹟の濫用を避けさせるため
第6戒の罪を犯した当事者同士の赦しの秘跡の執行を禁じる教会法や
また、堕落した司祭から、女性や女子を守る目的で
格子つき告解場を設けるよう、教会法で定めたりもしました

漠然と司祭は貞潔において守られていると思い込んでいたので
そのようなドロドロした事案を知り、マジか?と思っていた時もありましたが
『格子がもうけられて手を出せる機会も減り
女性や女子に手を出せないなら、
意見を言えないような弱くて従順そうな男子に触れよう、エヘヘ』、などという司祭も
あらわれていたとしても
今の段階では、ありえる話であったと思います
.

2019/5/12(日) 午後 10:06 Benedictus

.
「日本語ミサに落胆した経験」とのことですが
最大の要因は、そのミサを捧げる司祭のあり方でしょう

はたしてミサ前後の準備と感謝の祈りを
忠実に唱えている司祭が日本にはどれだけいるでしょうか?
聖務日課でさえなおざりにする司祭が
ミサ典礼文を口先だけで、倦怠感満載で唱えている司祭が
ミサ前後の祈りを唱える可能性が極度に低いことは自明でしょう

現状、日本語のローマ・ミサ典礼書には欠陥が大いにあり
翻訳の間違い、内容や意味のすりかえ、省略がかなり見受けられ
さらには認可されていないものを公式祈願をおいやって使用している部分については
本当にがっかりしています
.

2019/5/12(日) 午後 10:07 Benedictus

.
しかし、神の行為である最高のいけにえであるミサ自体に
批判を向けないように気をつけてください

(典礼文翻訳を含め典礼挙行を含め)過ちを犯しているのは人であって
いけにえそのものとなって、恩寵の与えてくださるのは、神であり
不完全極まりない司祭を用いて捧げられるのは主キリストご自身だからです

ミサを捧げる人が過ちを犯すのであって
ミサにご自身を現存させる神が過ちを犯すのではありません

『ラテン語は天使の言葉』、というのをどこかで聞いた覚えがあります
私はラテン語が好きで、教会での共同の祈り以外ほとんどラテン語でお祈りしています
個人的には週に1回は小教区のミサでラテン語が使用されることを望んでいます
また、通常形式だけでなく、特別形式も実施されることを望んでいます
現状は、通常形式ミサの前後を、ラテン語の準備の祈りと感謝の祈りで覆い尽くす感じです
.

2019/5/12(日) 午後 10:08 Benedictus

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最も大切なことは
ラテン語にしろ日本語にしろ
それを心を込めて敬虔に謙遜に注意深く、愛のうちに唱えることです

『たとえ天使の言葉を話しても、愛がなければ無にひとしい』

もし、そこに、性急さや、倦怠や、傲慢や、慣れや、散漫があるなら
ラテン語ミサであれ、日本語ミサであれ、特別形式であれ、通常形式であれ、
神の御心にそぐわない可能性が高くなります

特別形式でさえです
過剰なまでの早急さや、典礼文の省略が(私はこれを『ワープ』と呼んでいます)
残念ながら特別形式ミサにおいて、しばしば経験してきました

もちろん敬虔で発音もしっかり丁寧にする特別形式ミサの司祭もいますし
感激のあまり言葉を詰まらせ涙ぐむ敬虔な特別形式ミサの司祭もいますが
空気の読めない司祭や侍者、ワープさせる司祭もいますので
特別形式ミサだから、全て完璧で素晴らしい、というわけではないのが現状です
.

2019/5/12(日) 午後 10:08 Benedictus

.
繰り返しになりますが
「がっかり」の最大の要因は、そのミサを捧げる司祭のあり方でしょう

それにより、本来注がれるはずの恩寵や祝福が大いに減じ
あるいはマイナス10倍、あるいはマイナス30倍、
あるいはマイナス100倍(もはや冒瀆段階ですが)といった状態になり
司祭自身や信徒にとって、かなり薄められた恩寵の果汁のようになり

場合によっては、恩寵を、穴のあいたザルで受けとめて
帰る時には、ほとんど有益な効果を受けない状態、といったこともありえます
中には、あたかも汚聖を犯しにミサに行ったような状態
また、あたかも冒涜や愚弄をするためにミサに行ったような状態
また、主を悲しませる機会をもうけるためにミサに行ったような状態
というのもあるでしょうし

それは信徒だけでなく、司祭においても
通常形式にしろ、特別形式にしろ
そんなような状態である可能性がありえます
.

2019/5/12(日) 午後 10:09 Benedictus

.
主は、エウカリスツィアにおいて、ご自身を、人に委ねられました
それをもって、祝福と恩寵の泉にするも、そうでなく濫用するも、その人次第であり
また、捧げる側の司祭の心のあり方はもちろんのこと
秘蹟に参与する側の信徒の心のあり方によっても
それぞれに、同じミサ(通常形式、特別形式、日本語ミサ、ラテン語ミサ)において
各自で、受ける恩寵と祝福の量は異なります

実際、神は公平で公正な御方なので
どのようなミサであろうと、心を尽くして、敬虔に、その秘蹟に向かうものを
豊かな恩寵と祝福で満たしてくださいます

また、同様に、それが特別形式のラテン語ミサであろうと
その参与において、慣れや敬虔の欠如があるなら
それ相応のものしか、そのミサから汲み取ることはできません

『多く愛するものは多く赦されるが、少ししか愛さないものは少ししか赦されない』ように
多く愛を示すものは、主ご自身から、(司祭がどうであれ)、豊かに恩寵と祝福を注がれるが
わずかな愛しか示さないもの、冷淡で上から目線なものには、そうではない

これは疑いえない真実なことです
.

2019/5/12(日) 午後 10:10 Benedictus

顔アイコン

他のかたへの、返信コメントですが、私も読ませて
いただきました

神様は霊的なおかたですから、私たちもこころから
霊的なお祈りと讃美をおささげしたいと思います

2019/5/14(火) 午前 8:03 ニール

.
ニールさん、ありがとうございます

そうですね
アーメンです
.

2019/5/14(火) 午後 0:12 Benedictus

> 2019/5/28(火) 午後 4:56の内緒さん

こんばんは

凄惨な殺傷事件
あれはまさに悪魔のなせる業です

悪魔に自分自身を委ねた者を介して
悪魔が悪魔自身を誇示した業です

あのように悪魔が力をふるうことができるのは
世間一般の人々の道徳的罪の蔓延によるもので
(被害者たちのことではありません)
それにより道徳的に退廃した人を悪魔が支配しえることを示しています

人生の最後に弱者に刃を向け
殺害の限りを尽くして自らも確実に死ぬことは
全く卑怯なこと全く恐るべきことで
自身に永遠の死における
絶え間ない憎悪と
決して終わることのない苦しみをもたらすものです

被害者たちにとっても
この事件を知る全ての人にとっても
あまりにもショッキングな事件です

亡くなった被害者たちの永遠の安息と
傷つけられた被害者たちの身体的な回復と
今後の精神的な癒しを願うばかりです
.

2019/5/29(水) 午前 0:14 Benedictus

.
あと、神様がこのことをおゆるしになったのは
人々が道徳的罪を避けるべきこと
人々が悔い改めて祈りと償いをなすべきことも
示しているのかもしれません

というのも
悔い改めない道徳的罪の放置と
祈りと償いの不足は
悪魔が人々に働きかけやすくなる
おもだった要因となるからです
.

2019/5/29(水) 午前 0:14 Benedictus

顔アイコン

こんばんは
罪のない子供たちもふくめて、19人もの人々が死傷
された痛ましい事件ですね
人のこころに平和がなければ、このような凶悪なことを
してしまう原因になってしまいます
このような事件としては現れませんが、現代はたくさんの
胎児がその生命を奪われている残酷な現実が改善されて
いきますように

2019/6/3(月) 午後 10:26 ニール

.
ニールさん、こんばんは

そうですよね

少子化の時代にあって
次世代を担う子供たちに殺意を抱いて
次々と犯行におよび
また有望で有能な人を死傷させるなんて
全くもって非難にあたいします

改心する時間は
十分過ぎるほど与えられていたでしょうに
偽りの平和と安逸をむさぼり
人生の多くを浪費した者の末路は
他者に害を及ぼすことしかできないのか
と思わせるような事件でした

ひきこもりにも
白ひきこもりと黒ひきこもりがあると思いますが
その残忍性の実りからして
黒ひきこもりであることは明らかで

ニュースで報じるような
ひきこもりを1つのカテゴリーとして
過保護的な解釈を推進して
ごく自然で全うな見解をつついて
個々の本質や本性をぼかしてしまうのは
誤った見方を植えつけるように思えますね
.

2019/6/3(月) 午後 11:06 Benedictus

.
また、少子化を危惧する時代にありながら
今もって堕胎に関しても
それを有効に防ぐための対策や
生命の尊厳に関する実際的教育が手薄なのは
全くありえないことだと思います

中でも、生命の誕生や
生命の維持や保護を推進すべき医療機関が
胎児殺害の協力機関になりさがることは
実に嘆かわしいばかりです

ある司祭は
第二次世界大戦で殺害された被害者たちの人数よりも
この時代に殺害される胎児たちの人数のほうが
はるかに多いと述べていました

胎内で殺害される生命
トイレや公園で産み落とされて遺棄される生命
幼くして親から虐待され殺される生命

か弱く、保護されるべき子供が
これほどまでに苦しみを受けるのも
全くありえないことだと思います
.

2019/6/3(月) 午後 11:07 Benedictus


.


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