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Deus totum in Verbo Suo dixit 『神は、かつて預言者たちによって、多くの形で、また、多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました』(ヘブライ1.1,2) 人となられた神の御子キリストは、御父の唯一の、完全な、決定的な御言葉です。 キリストにおいて、神は全てを語られましたが、キリスト囲碁、その他の言葉はありません。 このことを、わけても十字架の聖ヨハネが、ヘブライ人への手紙1章の1節から2節を注解しながら、明晰に語っています。 『神は、唯一の御言葉である御独り子を私たちに与えることにより、この唯一の御子と場のうちに全てを1度に話されたので、それ以上話されることはないのです。 それは、以前、預言者たちに部分的に話されたことを、ご自分の全てである御子を私たちに与えることによって、神はことごとく語られたからです。 したがって、今日になってもなお神に何かをたずねたり、あるいは何かの示現や啓示を望むような人がいるなら、その人はキリストだけに目を注がず、他の何かを、また新奇なものを探すことによって、愚かじみたことをするだけでなく、神を傷つけることになるでしょう』 Alia Revelatio ulterius non habebitur 『従ってキリスト教的経綸は、新しい決定的な契約として、ついに過ぎ去ることなく、私たちの主イエズス・キリストの栄光に満ちた再臨以前には、もはやいかなる新しい公的啓示も期待されるべきものではありません。』(啓示憲章) しかしながら、たとえ啓示は完結したにしても、明白にし尽くされてはいないのです。 キリスト者の信仰は、幾世紀にもわたって、それが含む全ての意義を、徐々に把握してゆかなければなりません。 キリスト教の長い年月の中には、『私的な』といわれる啓示があって、その幾つかは教会権威から公認されています。 しかし、それらの啓示は、『委ねられた信仰の遺産』には属しません。 それらの役割は、キリストの最終的啓示を『改善したり』『補足したりする』ことではありません。 歴史のある時期に、キリストの啓示を、『より十全に生きるのを助ける』ことにあるのです。 信者は、教会の教導権に導かれ、その信仰心によって、これらの私的啓示の中に、教会に向けられたキリスト、あるいは聖人たちの真正な呼びかけを識別し、受け入れることができるのです。 それ故、キリストによって完結された公的啓示を「凌駕するものである」とか、あるいは「修正するものである」などと主張する『諸啓示』を、キリスト教信仰は承認することが出来ないのです。 |

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