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司牧者によるスキャンダルについて
 
 
 
主は仰せられます
 
つまずきは必ず起こる
しかし、人をつまずかせる者は不幸である
 
私を信じる この小さな者の1人をつまずかせる者は
首に ロバの碾き臼をかけられ
海の深みに沈められるほうがましである
 
 
つまずきをもたらす聖職者たち
 
霊魂の司牧者たるべき立場にある司教、司祭などによる
自らの立場を濫用して犯行に及ぶ
修道女へのレイプや児童性的虐待というスキャンダルが
世界的規模で衝撃を与えています
 
この種の裏切りや背徳の多さは
想像をあまりにも遥かに超え過ぎています
 
「聖職者だって?彼らは生殖者、いやいや性喰者だろう」
と揶揄されてもいたしかたないでしょう
 
 
身を引かない聖職者の霊的行末
 
犯行に及んだ聖職にあるものは
性的堕落の一線を越えた初めの段階で
その任をただちに辞するべきですし
また、そうしなければなりません
 
そのように身を引かない聖職者は
おそらく地獄の深淵に堕する可能性が高いです
 
というのも、改心の機会が十分与えられていながら
その蛮行を不悔悛によって改めず
邪欲と狡猾さのうちに、さらなる犠牲者を出し続けていたからです
 
その状態で司祭職を継続しつつ
犯行を重ねていったとすれば
おそらく、その司祭は、その件につき、痛悔も、告白もしていない可能性が高く
偽の告白、つまり汚聖の告白、汚聖の拝領をなしていたと容易に推察されます
 
そのような大罪の状態で
ふさわしくない身でありながらミサを捧げ続け
汚聖の聖体拝領をなし続けていたことは、実に恐るべきことであり
悪魔の喜びの的でしかありません
 
 
不道徳への強烈で深刻な堕ち方
 
個人的な考えとして
熱心であったキリスト者(司牧者、修道者を含む)が堕ちた時には
一般の人の堕ち方よりも、さらに酷い堕ち方をする
というのがあります
 
また、当然ながら
一般の人よりも、信者のほうが地獄での苦しみが大きく
信徒よりも、修道者(奉献生活者)のほうが地獄での苦しみが大きく
修道者よりも、司祭のほうが地獄での苦しみが大きく
司祭よりも、司教のほうが地獄での苦しみが大きいでしょう
 
 
事件が、その加害者が生きている間に発覚した場合は
ある意味で、その加害者への神の憐れみでもあり
被害者への癒しと赦しの促しでもあります
 
至福八端にあるように
この世での被害的立場のものは
天において慰めと癒しを十全に受けるでしょうが
この世での加害的立場のものは
そうではありませんし
むしろ、永遠の地獄の炎の苦しみが大きな口を開けて待ち受けています
 
生きている間に、というのは
犯行を重ねて不悔悛であったものが
発覚したことで、悔い改めの可能性が強まるからです
もし、その加害者が、真に悔い改めたならば
他の霊魂への毀損から
他の霊魂への救いに意を用いるようになりうるからです
 
しかし、事件が発覚せず、不悔悛のまま
この世の外面的な保身でやりすごしていった加害者は
改心することが非常に困難であり、死後、永遠の死に入る可能性が高いです
 
 
結婚を口ばしる軽薄な司祭
 
あと、小児性愛傾向の人で事件起こす司牧者は
たぶんもともと、立候補してはいけない人物だったと思います
また、おそらくですが、結婚したとしても
小児性愛傾向で一般の事件になっていたかもしれません
 
自身、内的にその種の傾向を自覚する者は
聖職を志願するべきではありません
 
聖職者としての立場を濫用して
犯行に至ることは悪質であり、神とキリストの神秘体に対する裏切りです
 
ここしばらくちらほらと、司祭職にあるものが
「司祭も結婚したほうがいい」などと口ばしるケースがありますが
 
そもそも、司祭が結婚をしたら、児童性的虐待がなくなるとか
そういうたぐいのものではありません
 
既婚者でさえ児童性的虐待や児童虐待する事件も見受けられますから
結婚することと児童性的虐待がなくなることとは関係ありません
 
司祭も結婚したほうがイイなんて主張するような司祭は
カトリック司祭を辞めるべきだと思います
 
 
霊的な世界での罪の醜悪さの極み
 
ある司教が修道女を継続的にレイプしたという事件に関しては
司教側の弁明がなんであれ
修道女との間に同意があろうがなかろうが
その身分(おとめ)を害してる段階でアウトであり
そのシスター(奉献者)についての汚聖と
自身の身分(奉献者)についての汚聖からして
罪の悪性は極めて重く
その間ミサでの継続的な汚聖の拝領も重ねられて
 
さらに、教会に対しても、世間に対しても、重大なつまずきが加わるので
社会的な罪科もさることながら
霊的な世界での罪の醜悪さもかなり極まると思います
 
犯行が事実であれば
真の悔い改めがない限り
その霊魂の救いは危ういでしょう
 
 
いずれにせよ
この種の裏切りや背徳に関しては
性的堕落の一線を越えた初めの段階で
聖職にあるものは
その任をただちに辞するべきだし、そうしなければなりません
 
 
不道徳に堕落した司祭についての信者の告発の重い義務
 
あと、不道徳に堕落した司祭もしくは司教から
淫行の勧誘を受けた信者は
年齢や地位のいかんを問わず
淫行勧誘の犯行後1か月以内に
(もしくは告発の義務を知らされた後1か月以内に)
その所属の教区長(裁治権者である司教)もしくは教皇庁に対して
告発しなければならない
という重い義務の規定があります
 
また、告白において、被害者からその犯行を知らされた聴罪司祭は
その被害者に、そのことを告発する義務があることを
それが良心上の重大な義務であることを
その告白者に知らせなければなりません
 
(聴罪司祭が、被害者を飛び越えて、上長に打ち明けることは
当然ながら、秘跡の秘密の封印を破ることになり、破門になるので
被害者本人に告発を促しえるだけです)
 
それは、直接の被害者が
堕落した司祭によって他の人にも被害を及ぼされないよう
さらなる犯行を未然に防ぐための措置を
上長に適切に講じてもらうためです
 
以前の教会法2368条2項には
「信者が、自分を誘惑した者を知りながら
1か月以内に告発を怠った場合
既定の破門制裁に服する。
この信者は、義務を果たすか
果たすことを確約しない限り、赦免されない」
という重い義務が課せられていました
 
この種の犯罪行為は
隠れたところで、一般の目に触れないところで
じわじわと拡大していく危険が高いからです
 
 
虚偽の告発および告訴
 
また、当然のことながら
事実に反して司祭をおとしめる意図をもってなされる
偽りの告発も咎められます

「誘惑の犯罪について、自分自身で、または他人を通じて
司祭を、その上長者に讒訴(ざんそ)した者は
その事実によって、当然、使徒座に特別に留保される破門制裁を受ける。
この破門は、讒訴を公式に撤回した上で
讒訴によって生じた損害を、できる限り賠償するまでは
いかなる場合にも赦免されない。
さらに、赦免の際に、長期にわたる重い償いを科さなければならない」
といったものです
 
なお、現在の教会法においては以下のように規定されています
 
「第1387条 ゆるしの秘跡の執行において、または、その機会に、または、その口実で、ゆるしの秘跡を受ける者を、第6戒に反する罪に誘惑する司祭は、犯罪の重さに応じて、聖職停止、禁止、剥奪をもって、処罰されなければならない。かつ、より重大な場合には、聖職者身分から、追放されなければならない」
 
「第1390条 ①第1387条所定の犯罪について、偽って聴罪司祭を教会の上長に告訴する者は、伴事的禁止制裁を受ける。かつ、聖職者の場合は聖職停止制裁も受ける。②その他も、教会の上長に中傷的犯罪告発をなす者、または、他の方法で他人の名誉を傷つける者については、懲戒罰を含む正当な刑罰をもって処罰することができる。③中傷者については、相応の償いを果たすよう強制することもできる。」
 
 
格子つき告白場の意味について
 
あと、余談ですが
聖堂内に赦しの秘跡の『格子つきの告白場』が設けられているのは
おもに、女性や女子の告白者の、司祭からの性的保護のためです
 
というのも、第三者の目に触れないような応接室や居宅では
堕落した司祭による、女子の告白に乗じた淫行勧誘を防ぎがたいからです

ごく最近も、私の知人信徒女性が、応接室での告白の際
「不意に、司祭から抱きつかれキスをされ気持ち悪かった」
という話を聞きました

その司祭は前フリとして
「私の国ではハグやキスは挨拶のようなもの」
と告げて自らを正当化しようとしたようですが

ここは日本であり、通常、単なる友人関係の異性に対して
ハグやキスをする習慣はありませんし
日本人の感覚として、恥ずかしいという思いを抱くような行為です

恋人同士なら、ハグやキスは挨拶的な行為の範疇に入りますが
恋人でもない、異性の知人(しかも友人でも親友でもない)に対して
一方的に、不意に、抱きついて、キスをして、相手に自分の粘液をつける
というのは、司祭としての職務上の立場や機会を濫用した逸脱行為でしょう

少なくとも、された本人は、抱きつかれてキスされて嬉しいとは全く思っておらず
戸惑いと嫌悪感を抱いているところからすれば
セクハラか準強制わいせつか迷惑防止条例違反行為といったところでしょう

なお、海外の司牧者による修道女へのわいせつ行為やみだらな行為も
格子のない応接室のような場所が、犯行現場となっているようです

教会は過去の経験から
女性や女子の告白のために
堕落した司祭が彼らに直接触れる機会を妨げるために
格子つきの告白場を設けるよう定めたのでした
 
そのため、聴罪司祭が、格子のない応接室において
女子の良心上の問題について話した場合
そして、告白を望む場合
原則として、告白台へ導かなければならない、とされています
 
以前の教会法909条1項には
「女子の告白を聞くための告白台は
常に、公開の見えやすい場所
すなわち、原則として教会または公用あるいは準公用礼拝堂における
女子のために指定された場所に置かなければならない」
と定められていたほどです
 
男子の告白については
個人の住宅、その他の場所において
告白台を使わずに聞くことができる、とされていました
 
が、ただ、最近、男子児童への性的志向をもつ男性もいるようですし
その種の犯罪や性的虐待が明るみになっていることから
男子の告白についても
常に、格子つき告白場でなされるべき規定が必要かもしれません
 
 
いずれにせよ
この種の裏切りや背徳に関しては
性的堕落の一線を越えた初めの段階で
聖職にあるものは
その任をただちに辞するべきだし、そうしなければなりません
 


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「家族に遺言せよ。おまえは回復せず、死が近づいている」(イザヤ38,1
 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
7.救霊をなおざりにして死を想わないで生活した臨終者の抱く感情
 
②瀕死の罪人の空頼み
 
あぁ、死の時、信仰の諸真理は、どれほど明白に現われるでしょうか
 
しかし、悪い生涯を送り続けた人にとって
それは、この上もなく大いなる悩みの種となるのです
 
特に、神に身を捧げた人々にとっては、なおさらです
 
なぜなら、このような人々は
神に奉仕する様々な便宜や多くの時間を有していて
良い手本に接する機会も多く
より多くのインスピレーションを受けることができえたからです
 
彼らが、神の御前で、熟慮の末に
「自分は、他人を責めておきながら
その他人よりも、多くの悪をなしてしまっていた
世を棄てて奉献生活に入っていながら
この世の快楽、虚栄、誘惑を探し回っていたのだ」
このように白状しなければならない時
彼らはどれほど大きな苦悶をおぼえることでしょうか
 
これらの修道者たちは
神が自分に恵まれた光明をもってすれば
異教の人々でさえも聖人となりえたであったに相違ないと思い至る時
どれほど激しい良心の呵責にさいなまれることでしょうか
 
最後に、自分が信心業を軽視して
他の人々がこれを重んじているのを見て
鼻で笑ったり、女々しい者だとなじり
その一方で、傲慢や自愛心に好都合な
世俗的格言を自分が重視していたこと
苦しみを避けて、あらゆる気晴らしにふけることを追及していたこと
これらのことを想い出して、どれほど苦しい思いをいだくことでしょうか
 
死の時、私たちは
今まで、空費していた時間を、どれほど欲しがることでしょうか
 
聖グレゴリオは、その『対話』の中で、次のように物語っています
 
かつて、金持ちで不品行なクリザンスという人がいました
 
この人は、最後の時
悪魔が群れをなして自分の霊魂を捕らえに来たのを見て
「明日まで待ってくれ!頼むから時間をくれ!」と叫びました
 
すると悪魔たちは、口々にののしって言いました
「アホなことを言いやがって
おまえは、我々に時間を求めるのか?
そもそもお前は、その『時間』を使って悪を犯してきたんだ
今さら時間を要求したところで、もう残ってなんぞいないんだよ」
 
悪魔のののしりを聞いて、この人はなおも叫び続けました
 
そのそばには、その息子マキシムがいました
マキシムは修道者になっていました
 
瀕死のその人は息子がそばにいるのを見て叫びました
「私の子よ、私を助けておくれ
 あぁ、親愛なるマキシムよ、私を助けろ!」
このように叫び、火のように顔を赤らめて
床の上で狂ったように暴れ出し
そして、最期の痙攣と絶望の叫びと共に
彼の不幸な霊魂は、肉体を離れていきました
 
あぁ、この種の愚かな人々は
生涯の間、どれほどの情熱をもって、その悪徳に執着したことでしょう
しかし、死に臨んでは、彼らは目を開き
自分たちが、いかに愚かな者であったかを白状するのです
それでも、その時はもはや過去を償う望みも、ますます失うばかりなのです
そして、そのような状態で死ぬならば
その永遠の救いに関して、甚だしい不安と喪失感を残すのです
 
兄弟姉妹よ、あなたたちは、この話に目を通して
「それは事実なのだろう」と考えるでしょう
 
しかし、これが事実であるなら
これらの真理を知っていながら
時間があるうちに、これを善用しないのは
まことに甚だしい狂気であり不幸なことではないでしょうか
そして、死の時には
あなたがこの文面を読んでいたこと自体が
苦しみの剣と変わりえるのです
 
ですから、悔い改めに心を開きましょう
今はまだ、このような恐るべき死を避けることができます
 
その悔悛の機会を逸することなく
悔い改めの業に取り掛かりましょう
 
好機を逸してしまわないようにしてください
またの機会、来週、来月などと先送りにしてはなりません

「もし、今日、主の御声を聞きえたならば
 あなたたちの心を頑なにしてはならない」
 
神が、その憐れみをもって
今、あなたに送っているこの光明は
改心の最後の招きでない、と誰が断言できるでしょうか
 
私たちの死は確実であり
私たちの永遠の運命は、これに左右されるのです
 
愚かなことは、死が訪れることを把握していながら
これについて準備をしないことです
 
今、死の時になってなすに違いないことを想いめぐらし
その折に立てるに違いない決心を、今、立てるべきです
 
ある貴族が、神への奉仕のために
宮廷生活を棄てて、カール5世のもとを去る前日
皇帝は彼に「なぜせっかくの栄華を棄て去ってしまうのか」と尋ねました
すると貴族はこれに答えて言いました
「霊魂の救いを得るためには
不道徳な生活を棄て去り
死ぬまでに誠実に償いを果たしていかなければならないからです」
 


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「家族に遺言せよ。おまえは回復せず、死が近づいている」(イザヤ38,1
 


聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士


 
7.救霊をなおざりにして死を想わないで生活した 臨終者の抱く感情
 

①死に臨む罪人の恐怖と良心の呵責
 

数時間の生命しか残されていない病人のそばにいると想像してみてください
 
なんと可哀想な臨終者でしょう
昏睡、息詰まり、痙攣、冷汗など
さまざまな苦しみに苛まれています
 
その上、頭が極度に疲労していて、ほとんど何もわからず
ひと言も発することさえできません
 
しかし、これらの惨めさも
次の惨めさに比べれば、なんでもないのです
 
この人は、死のうとしていながら
自分の霊魂の行末について考えもせず
永遠の世界のために、自身の決算をととのえようとは思わないのです
 
医者や薬のことしか考えておらず
生命をおびやかしている病気から救われようと願っているのです
 
聖ラウレンツィオ・ユスティニアーニは
このような臨終者について、次のように語っています
 
「その人は、自分自身について心配する以外に、何もできない」
 
せめて、親族もしくは友人が、この可哀想な瀕死者に
死の危険について注意してくれたらよいのですが
親族も友人も1人として、死の近いことを警告したり
最後の秘跡を受けるよう勧める勇気もないのです
 
みな瀕死者を悲しませまいとして
これについて語るのを拒むのです
 
しかし、みなが黙っていても
病人は、家族の心配そうな様子に気が付くものです
 
医者が頻繁に診察し、しばしば劇薬を用いるのを見て
その可哀想な霊魂は、動揺と恐怖に陥ります
 
そして、いろいろな不安、良心の呵責、絶望の誘惑に襲われ
心の中で「あぁ、このまま死んでいくかもしれない」とつぶやくのです
 
最後に悲しむべき知らせがもたらされます
「家族に遺言を。あなたは回復せず、死が近づいています」
 
その時、その心の中はどうでしょうか
「あなたの病気はもう治りません。最後の秘跡を受け
神様と一致して、この世を去りましょう」
このように聞かされた時
どれほど悲しんで叫ぶことでしょう
「この世を去れというのですか
何もかも遺し去れというのですか
この家、この別荘、この親族、この友人
あの集会、あの遊戯、あの楽しみを去れというのですか」
 
そうです
全てに別れを告げなければならないのです
 
すでに公証人が、そこに来ています
その手で運命の言葉を綴るのです
「私は遺棄する。。。私は遺棄する。。。」
 
死にゆく人は何を持ちゆくことができるでしょうか
みすぼらしい死装束だけで
この装束も、まもなく墓の中で朽ち去り
あるいは遺体と共に焼かれ去るだけなのです
 
周囲の人々は涙にくれ、友人たちは黙して自分を取り囲み
ひと言も発する力もなく、見つめているのを見て
どれほど暗く絶望的な考えが、この罪人の霊魂をかき乱すことでしょう
 
しかし、この嵐の中にあって
いつになく激しい良心の呵責にさいなまれる時
どれほどの苦悩を感じることでしょう
 
なぜなら、天からの勧めや光明に逆らい続け
聴罪司祭の忠告も聞かず、立てた決心も守らず
これらを棄て去って、送り続けた不道徳な生活を
まざまざと思い浮かべるに違いないからです
 
その時、その人はこう言うに違いありません
 
「自分はなんと不幸なのだろう
 神からこれほどの光明を受けていながら
 自分の良心を糾明して痛悔する時間を与えられていながら
 自分はそのことをしなかった
 
 今、自分は死に直面している
 あの機会を避け、あの愛情を棄て、毎週告白するのは
 自分にとって難しいことではなかったではないか
 
 たとえ、それがどんなに難しいことであったにしても
 自分の霊魂を救うために
 どんなことでもしなければならなかったはずではないか
 霊魂こそ、自分の全てではないか
 
 あぁ、あの時、あの決心を守っていたならば
 自分は今どんなに幸福であったろうか
 
 ところが自分はそうしなかったのだ
 今はもう、そうする時ではないのだ。。。」
 
生涯の間、良心をおろそかにしていた人が
死に臨んで抱く感情は
地獄に落ちた霊魂の感情に似ています
 
地獄においては、罪のために罪を嘆くのですが
この嘆きは、何の効果もなく、また、慰められもしないのです
 

  


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2019年 教皇聖下の祈りの意向
 
これらの毎月の祈りの意向に
『当月の喫緊の意向』が追加表明される場合もあります
 
 



1月 若者たち
 
若者たち、特にラテン・アメリカの若者たちが、マリアの模範に従い、福音の喜びを世界に伝えるために、主の呼びかけに応えることができますように。



 
2月 被害者たち
 
人身売買、強制売春、暴力の被害者たちが、想いやりをもって迎えられますように。
 



3月 キリスト者のコミュニティ
 
キリスト者のコミュニティ、特に迫害を受けているコミュニティが、彼ら自身、キリストの近くにいるということを感じ取ることができますように。また、彼らの有する権利が尊重されますように。
 
4月 紛争地域で活動する人々
 
他の人々の生命を救うため、自分の生命を危険にさらす、紛争地域における医療従事者たちと彼らの人道的協力者たちのために。
 
5月 アフリカの教会
 
アフリカの教会が、そのメンバーたちの責任ある関わりを通じて、アフリカの人々の間における一致のパン種となり、アフリカ大陸における希望のしるしとなることができますように。
 
6月 司祭たち
 
司祭たちが、彼らの生活上のつつましさとへりくだりによって、最も貧しい人々との連帯を、彼ら自身が積極的に深めていくことができますように。
 
7月 正義
 
正義を遂行すべき立場の人々が、誠実さをもって働くことができますように。そして、世界にはびこる不正が、決定権をもつことができなくなりますように。
 
8月 家庭
 
家庭が、祈りと愛の生活を通して、常に、より明確に、『人としての成長の真の学び舎』となることができますように。
 
9月 政治家たち、科学者たち、経済学者たち
 
政治家たち、科学者たち、経済学者たちが、世界の海洋環境保全のために、協力して働きかけていくことができますように。
 
10月 聖霊
 
聖霊の息吹が、教会内に新たな宣教的『春』をもたらしてくださいますように。
 
11月 コミュニケーションと和解
 
異なる宗教的コミュニティが、その生活を共に支え合う近東において、対話、出会い、和解の精神が、彼らの間で沸き上がりますように。
 
12月 幼い子供たち
 
全ての国が、幼い子供たちの未来について、特に苦しんでいる幼い子供たちのことを最優先に考えて、必要な措置を講じるための決定をなしていくことができますように。
 

 
 
Oratio Dominica
ex. Nova Vulgata
 
Pater noster, qui es in cælis,
におられる私たちの父よ、
sanctificetur nomen tuum,
あなたの御名が聖とされますように。
adveniat regnum tuum,
あなたの御国が来ますように。
fiat voluntas tua, sicut in cælo, et in terra.
あなたの御望みが天に行われるとおり、地にも行われますように。
Panem nostrum supersubstantialem
私たちの生命を保つために必要なパンを、
da nobis hodie;
今日、私たちにお与えください。
et dimitte nobis debita nostra,
あなたに負い目のある私たちを、どうぞお赦しください。
sicut et nos dimittimus debitoribus nostris;
私たちに負い目のある人々を、私たちが赦すのと同様に、
et ne inducas nos in tentationem,
私たちが誘惑におちいるのをおゆるしにならず、
sed libera nos a Malo.
むしろ私たちを悪魔から解放してください。
Amen.
アーメン。
  
 
天におられる私たちの父よ、
あなたの御名が聖とされますように。
あなたの御国が来ますように。
あなたの御望みが天に行われるとおり、地にも行われますように。
私たちの生命を保つために必要なパンを、
今日、私たちにお与えください。
私たちに負い目のある人々を、私たちが赦すのと同様に、
あなたに負い目のある私たちを、どうぞお赦しください。
私たちが誘惑におちいるのをおゆるしにならず、
むしろ私たちを悪魔から解放してください。
アーメン。





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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40
 
 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
6.罪人の死
 
③神は、罪人が悪い死を遂げるであろう、と警告される
 
神は、罪を犯し続ける者が悪い死を遂げるであろう、と警告してやまない
 
主は仰せられる
「その時、彼らは私を呼び求めるが、私は答えない
彼らは私を探し求めるが、私を見出すことができない」(箴言1,28
 
「災いが彼の上に臨んだ時
  神はその叫びを聞かれるだろうか」(ヨブ27,9
 
「天に座す方は笑い、主は彼らをあざける」(詩編2,4
 
聖グレゴリオは言います
「神があざける、とは、憐れみを注ぐのをおやめになることを示します」
 
「復讐も報復も私のもの
彼らに備えられた時は速やかに訪れる」(申命記32,35
 
神は他にも多くの箇所で同じ警告を発しておられます
それなのに罪人は
死の時に、神が赦しと天国を与える
という明白な契約を結んでいるかのように
平然と、心配もなく、罪の生活に埋没しています
 
神は、罪人が、いつ改心しても
これを赦す、と約束されています
 
しかし神は、1度も
罪人に死の際に回心する恵みを与える、とは約束されていません
 
その反対に、罪の中に生活し続ける人が
罪のうちに死ぬべきことを、しばしば予告しておられます
 
主はしばしば仰せられています
「おまえたちは罪のうちに死ぬだろう」
 
また、神は、ご自分を探すことを
死の時まで放棄し続ける人には
ご自分を見出すことができないであろう、と言明しておられます
 
それゆえ可能な間に、神を探さなければなりません
「主を求めなさい。見出すことができるうちに
呼びかけなさい。近くにおられるうちに」(イザヤ55,6
 
そうです。どんなに探しても
見出すことのできない時が来るにちがいないのです
 
あぁ、哀れな盲目者たちよ
あなたたちは改心を、死の時まで延ばしていますが
その時では、もはや改心できる時ではないのです
 
オレアステルは言います
「善をなす時間がなくなってはじめて
  善をなし始めようと考える人がいる」
 
神は全ての人を救おうと望んでおられます
しかし、頑迷に罪にとどまる人を処罰されるのです
 
罪の状態にある不幸な人が
脳溢血におちいり意識を失った場合
そばにいた人々は、この人が秘跡を受けず
悔悛のしるしも示さないで死ぬのを見て
どれほど悲嘆することでしょうか
 
しかし、もし、この人が、意識を回復して
赦しを求め、痛悔の祈りを唱え始めるのを見るならば
みなはどれほど喜びに包まれることでしょう
 
実際、神と和解する時間を与えられていながら
頑迷にも、罪の中に生き続けることほど愚かなことはありません
 
しかも、罪に罪を重ね、突然の死に見舞われ
悔悛することができないままに死ぬ危険をおかすのです
 
ところが、このような悲しむべき死に襲われ
罪の中に世を去る危険をおかすものが、どれほど多くいることでしょう
 
「精確な秤と目盛りは主のもの」(箴言16,11
 
私たちは、神が与えてくださる恩寵を数えようとしません
しかし神は、これをはかり、これを正確に計算されます
 
そして、もしも恩寵を軽蔑して、そのはかりを超過するならば
その罪人を遺棄され、これを罪の中に死なせるのです
それゆえ改心を死の時まで延ばす者は不幸です
 
聖アウグスティヌスは言います
「病人の悔悛は、病的な悔悛である」
 
聖イエロニムスは言います
「罪の中で生活し
罪から抜け出るのを死の時まで先送りにした10万人のうちで
実際に、神の憐れみに浴して救霊を全うした者は
辛うじて1人あるかないかである」
 
聖ヴィンチェンツィオ・フェッレールは言います
「悪い生活を送り続けて後に、善い死を遂げることは
死者が復活するよりも、大きな奇跡を必要とする」
 
そもそも死の時まで罪に愛着していた者が
どうして罪を痛悔することができるでしょうか
 
聖ロベルト・ベッラルミーノは次の出来事を証言しています
 
聖人は、ある日、臨終の病人のもとに呼ばれたので
その病床で痛悔の行為をなすよう勧めました
 
すると、この人は「痛悔というのがわからない」と答えました
そこで聖人は、これを丁寧に説明し始めました
 
しかし病人は聖人の説明を遮って、こう言いました
「神父さん、あなたが何を言っているのか私にはよくわかりませんし
 そういったことも、私のためにはなるとは考えていません
 もうけっこうですから」
 
敬虔な枢機卿である聖人は、この話に次のように付言しました
「その人は、そのまま、あまりにも明白な滅びのしるしを残して
  死の門をくぐってゆきました」
 
聖アウグスティヌスは言います
「罪人は生涯の間、神を想うことを故意に怠っていたのですから
その臨終に際して、自分自身についての永遠を考えることはできないでしょう」
 
使徒聖パウロは言います
「思い違いをしてはいけません
  神は人から愚弄されることはないのです
  人は、自分の蒔いたものを刈り取ります
  自分の肉という畑に種を蒔くものは、肉から滅びを刈り取り
  霊という畑に種を蒔くものは、霊から永遠の生命を刈り取るのです」
 
実際、生涯の間、神の掟を軽蔑しておきながら
永遠の幸いの報いと栄光をわがものにしようと考えるのは
あまりにも神を馬鹿にした態度です
 
神は馬鹿にされることはなく
その人が、この世で蒔いたものを、来世で刈り取らせになるのです
そして、肉の恥ずべき快楽を蒔いたものは
いつか、腐敗、惨めさ、第2の死を、永遠に刈り取るに違いないのです
 
キリスト信者よ、兄弟姉妹よ
他の人々にとって真実なことは
私たちにとっても、また真実なことです
 
よくよく考えてみなさい
もしも、あなたが今、医師に見放され
意識もおぼろになり、死の苦しみに襲われ、まさに死のうとしているなら
自分の良心を整理するために、もう1か月、もう1週間、もう1日と
時間や猶予を神に祈り求めることになるでしょう
 
ところが神は、その時間や猶予を
まさに、この今、あなたに与えておられるのです
 
だから神に感謝をしてください
そして、すみやかに、過去の隠れた罪や過ちを悔い改めて
誠実に告白し、真摯に償いを果たし
恩寵の状態で、あなた自身の死を迎えることができるよう
あらゆる手段を講じてほしい
 
なぜなら、あなたに死が訪れる時には
おそらく、もはや時間も猶予も手段もないに違いないからです
 



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