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苦しみを『愛』に変容させる贖いの協力者となる
聖パードレピオが主の十字架を
共に担われている御像に見えます
そのとおりでございます
そもそもキリスト者とは
苦しみを『愛』に変容させる贖いの協力者のことをいいます
聖痕をその身に刻まれた聖ピオも、主の受難の協力者ですので
主と共に十字架を担う姿で表されています
聖パウロが、この世における苦しみの甘受について
『キリストの苦しみの欠けたところを、この身で補う』と表現したように
聖人たち聖女たち、キリストの神秘体の肢体である私たちも
同じように、その程度の差こそあれ
キリストの苦しみの欠けたところを補うものとして
主の十字架に自身の十字架を重ね合わせて担うことで
恩寵の助けのもとで
キリストの受難の協力者となることができます
おそらく、そのような模範的な意味合いもこめて
このような聖像で聖ピオが表現されているのだと思います
主の贖いの神秘における
全人類の協贖者 Co-Redemptrix totius humani generisである聖母は
主の受難の最も崇高な協力者であり
その力強い取次によって、私たちの至らなさを助けてくださいます
Deus, qui Fílio tuo in Cruce exaltáto
compatiéntem Matrem astáre voluísti,
da Ecclésiæ tuæ,
ut, Christi passiónis cumipsa consors effécta,
eiúsdem resurrectiónis párticeps esse mereátur.
Qui tecum vivit et regnat in sæcula sæculorum. Amen.
神よ、あなたは、あなたの御子が十字架にあげられた際、
共に苦しみを味わう御母が、そば立たれるのをお望みになりました。
あなたの教会に、恩寵を豊かにお与えください。
こうして私たちが、御母と共に、キリストの受難の協力者となり、
その同じ復活にもあずかるものとなることができますように。
御子は、あなたと共に、生きておられ、支配しておられます。
世々に至るまで。アーメン。
お祈りは悲しみの聖母の日の御ミサのお祈りですか?
私の頭痛は主の茨の冠への苦しみの協力なのかしら
そのとおりでございます
苦しみの神秘と、その実りを
この2002年版のラテン語集会祈願の内容において表現しています
もし、継続的な頭痛で重い症状が出ているなら、無理をせず
必ず、なるべく早めに医療機関で必要な治療を受けるようにしてくださいね
苦しみは、ただそれだけでは苦しみでしかありませんが
意向における意志の行為のうちに、主の受難に合わせることによって
その苦しみが、主の聖心の愛に変容されて
自他の救いに役立たせていただくようになります
なので、○○さんの頭痛の苦しみも
そのようにすることによって、救いに益するものとできますし
○○さん自身も「主の茨の冠への苦しみの協力」者となることができます
苦しみにおける人の内的外的行為は
主の茨の冠の御傷、御血、功徳によっておおわれる時
神の御前に言い尽くしがたい輝きを放つ『愛』としてみなされます
コルカタの聖女テレジアは
苦しみを、十字架のキリストからの愛の接吻として
こころよく迎え、微笑みのうちに甘受していました
そのようにして
主の神的配慮によって送られる苦しみを
感情的反発や忌避によって無駄にすることなく
自身の苦しみ、悩み、痛み、悲しみを
誰よりも私たちをご存知である主からもたらされる『愛のしるし』として
忍耐と愛の甘受の奉献のうちに
霊魂たちの救いに役立てる人は、幸いです
Verbum Domini
現在の苦しみは やがて 喜びに変えられる
女は、子を産む時
自分の時が来たので、苦しい思いをするが
子供が生まれると
1人の人間がこの世に生まれ出た、という喜びのために
もはや産みの苦しみを忘れてしまう
あなたたちも、今は悲しんでいるが
私は再びあなたたちに会う
そうすれば、あなたたちの心は喜び
その喜びは、誰からも取り去られることはない 今日は聖ロベルト・ベッラルミーノ、聖女イルデガルディス、その他、数名の聖人聖女の記念日ですが、記事のテーマにそくして、聖痕を受けた聖ピオで始めたように、聖痕を受けた聖フランシスコで結びたいと思います。
Die 17 septembris :
In Impressione Ss. stigmatum S. Francisci, religiosi
9月17日
アッシジの聖フランシスコの聖痕記念日
In monte Alverniæ, in Etruria,
commemoratio Impressionis sacrorum Stigmatum,
quibus sanctus Franciscus, Ordinis Minorum Institutor,
in suis manibus, pedibus etlatere, mirabili Dei gratia, impressus fuit.
アッシジの聖フランシスコは、1224年 ラヴェルナ山 Monte della Verna において、十字架のキリストへの愛で動かされ、より一層キリストに結ばれることを望んで、「私の主イエズス・キリストよ、あなたがこの最も過酷な受難において耐え忍ばれた苦しみを、私の霊魂と肉体に感じさせてください。あなたは私たち罪人のために、このような苦難をお受けになりました。神の御子である主を満たしておられた愛の豊かな溢れを、私の心に私の力のおよぶ限り感じさせてください」と祈りを捧げて、断食し、9月14日の朝、主イエズスの聖痕を受けた。その聖痕と痛みは、2年後の帰天に至るまで刻まれ続けていた。
Collecta
Indulgentia 300 dierum
Domine Iesu Christe, qui, frigescente mundo,
主イエズス・キリストよ、あなたは、この冷え切った世界にあって、
ad inflammandum corda nostra tui amoris igne,
あなたの愛の炎で、私たちの心を燃やすため、
in carne beatissimi Francisci
至福なるフランシスコの肉体において、
passionis tuæ sacra Stigmata renovasti :
あなたの受難の聖痕を新たに刻まれました。
concede propitius ;
私たちはつつしんで願い求めます。
ut eius meritis et precibus crucem iugiter feramus,
私たちが、聖人の功徳と祈りに支えられ、各々の十字架をたえず担い、
et dignos fructus pœnitentiæ faciamus :
悔い改めにふさわしい実りを結ぶことができますように。
Qui vivis et regnas in sæcula sæculorum. Amen .
あなたは生きておられ、支配しておられます。世々に至るまで。アーメン。
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キリスト者は どのようにして 地の塩 世の光たりえるのか
フランシスコ教皇聖下
祈りは キリスト者の重要な聖務
イエズスは、弟子たちに向かい仰せられました
「あなたたちは地の塩、世の光である」
キリスト者は、塩となり、光とならなければなりません
ただし、それは自分のためにではなく
他者に味わいをもたらす塩、他者を照らす光とならなければなりません
塩がなくなってしまわないために
また、ランプの光をともす油が底をついてしまわないために
キリスト者として、何をしなければならないでしょうか?
キリスト者が、光を生じさせるバッテリーとなるもの
それは、祈りです
多くの事柄をこなすことができても
多くの愛徳の働きをなすことができても
教会のために、カトリック大学、学校、病院のために
多くの偉大なことを成し遂げることができても
たとえ教会の功労者としてのモニュメントと共に褒賞されたとしても
もし、祈りがなおざりにされていたなら
それらの働きは、暗闇や薄暗いあかりでしかありません
祈りは、キリスト者としての生活を光り輝かせるものです
祈りは、してもしなくてもよい、という類いのものではなく
祈りは、キリスト者の重要な聖務です
父なる神への礼拝の祈り
至聖なる三位一体への賛美の祈り
感謝の祈り
神への嘆願の祈り
祈りは、単に口先ではなく
心から溢れ出るものでなければなりません
地の塩という点につき、キリスト者がそのように呼ばれうるのは
他者に塩気をもたらす際に、まさに地の塩となります
福音のメッセージと共に
他者の生活に、味わいをもたらすために
多くの事柄に、味わいをもたらすために
『自分自身を与えること』
これはキリスト者としての、あるべき態度です
塩は、用いられてこそ、有益であって
自分だけにおしとどめておくものではありません
それは、他者に与えるべきものです
これは興味深いことですが
塩についても、光についても
他者のためであって、自分のためではない、ということです
塩は、それ自身に味わいを与えません
光も、それ自身に照らしを与えません
もちろん、私たち自身を惜しみなく与え続けてしまえば
塩や光が尽きてしまうのではないだろうか、と心配になるでしょう
しかし、そこに神の力が注ぎ込まれるのです
キリスト者としての立場は
洗礼によって神から私たちに与えられた塩としての立場だからです
それは、決して尽きることのないギフトです
明るく輝く光を
自分たちだけにとどめようとする誘惑を退けてください
それは、『スピリチュアリティの鏡』であり
自分自身だけに、光を輝かせようとする『悪いうぬぼれ』です
他者を照らすことで、光であり続けてください
他者に味わいをもたらすことで、塩であり続けてください
あなたたちの光を、自分を与えることによって、人々の前で輝かせてください
そのようにするならば、彼らは、あなたたちの善良な働きを見て
天におられる、あなたたちの父に栄光を帰するようになるでしょう
無関心の文化を克服し、出会いの文化を築き上げる
イエズスはナインという町の門のところで
独り息子をなくしたやもめを見て
同情につき動かされ、「もう、泣かなくてよい」と仰せられて
棺に近づいて、手を触れて
死んでいた独り息子を生き返らせました
人々はしばしば、お互いに、彼ら自身、自分のことばかり考えていて
他者を見ては見ても、よく見ることもなく
聞き流すことはしても、耳を傾けることもありません
出会いとは、そんなものではありません
ナインでの出来事は、私たちに、出会いとは何かを問いかけています
神人と、ある婦人との出会い
生きておられる神の独り子と、死んでしまったある独り息子との出会い
そこに喜びの声が沸き上がりました
イエズスと、イエズスに従う人々と
町の門から出ようとする婦人に伴って泣いている人々との出会い
門を出ていく人々と、門から入る人々との出会い
羊たちの重なり
これは、お互いが影響を与え合う私たちの歩みにおける
私たちの出会いを反映している出来事です
イエズスは、同情につき動かされました
キリストが感じられた同情は
私たちがストリートで可哀想な誰かを目にした際に
すれ違いざまに「なんて悲惨なんだろう」と言うことと同じではありません
イエズスは、通り過ぎようとはなさいません
むしろ、同情につき動かされました
主は、真の出会いのために
その婦人に近づいていって、奇跡を起こされました
これこそ福音的な出会いです
この福音的な出会いにおいて
私たちは、イエズスの優しさを見るだけでなく
出会いの実りの豊かさを見ています
出会いの実りの豊かさは
悲しむ人々に喜びを取り戻させ
神をほめたたえさせるに至ります
ところが、私たちは
無関心の文化に慣れっこになっています
私たちは、神の子としての彼の尊厳、彼女の尊厳
生きている人格としての尊厳を
回復させるための出会いの文化を築き上げるよう努力し
実り豊かな出会いの文化をつくり上げる恩寵を求めるべきです
私たちは、この世界における災害を目の当たりにしても
私たちは、対岸の火事のように思い
無関心に慣れっこになっています
「なんて悲惨なんだろう、可哀想な人々、どんな感じで苦しんでいるんだろう」
そして、何事もなかったかのように普段の生活を続けます
出会いにおいて
私たちがよく見ようとしないなら
ただ軽く眺めるだけでは十分ではありません
そうではなく、よくよく見なければなりません
私たちが立ち止まらないなら
私たちがよく見ようとせず、触れようとせず、話しかけようしないなら
私たちが出会いの機会を逸することになり
出会いの文化の構築の助けとなることができません
私たちの家庭において
夕食のテーブルでの食事中に
TVを見ている人々もあれば
スマホの返信に夢中になっている人々もあります
各々が、真の出会いに無関心になっています
社会の心である家族でさえ
そこに真の出会いがないのです
イエズスがなさったように
出会いの文化のための努力を惜しまないようにしましょう
パッと見るだけでなく、よく見てください
ただ聞き流すだけでなく、よく耳を傾けてください
ただ会って、過ぎ行くだけでなく、立ちどまってください
単に「なんて悲惨なんだろう、可哀想な人々」と言うだけでなく
私たち自身が、同情につき動かされるがままにしてください
そして、近くに引き寄せ、触れて
その出会いのひとときに
親身になって、心のこもった言葉を語りかけてください
「もう、泣かないで」
そのようにして、人生の一滴の愛をもたらすようにしてください
コルカタの聖女テレジア
祈り、そして、与えなさい
なによりも、まず祈りなさい
祈ることは、愛することと同じだからです
注がれる神の愛に、心を開いてください
神は、あなたたちを優しく愛してくださいます
神からいただいたものは
錠をかけて、しまいこんでおくものではなく
人々と分かち合うためのものです
自分のうちに貯めこめば貯めこむほど
他者に与える機会を逸してしまいます
私たちは、与えることを学ばなければなりません
貧しい人々の惨めさ、物質的な貧しさだけでなく
その精神的な傷口にも、手当てをすることが必要です
私たちが、彼らに寄り添い
その悲しみを分かち合う時
私たちは、彼らの人生に神をもたらし
彼らもまた、神に近づいて、癒されるのです
イエズスは、私たちと出会いに来られます
私たちのほうからも、進んでイエズスをお迎えいたしましょう
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福音宣教のあり方 その意味するところ
フランシスコ教皇聖下
福音宣教は自慢するものでもなく暗唱する務めでもない
悲しむべきことに、今日のキリスト者の幾人かは
その奉仕職において
まるで職業司祭か職業信徒であるかのような生活を送り
自らの働きについて自慢しながらこう言います
「これは自慢話になるかもだけど、私は自分を誇りに思う」。
こうして彼らは、福音を単なる役割に過ぎないもの
あるいは自身の傲慢の要因にさえしてしまいます
「私は福音の説教に出向いていくんだ。
そして多くの人々を改宗させるために教会へ連れていくんだ」。
これは、あまりにも傲慢の要因でしかありません
福音宣教は、単に改宗させるためのものではありません
福音宣教は、流れ作業でもなければ
福音の暗唱作業に引き下げるものでもなければ
改宗を迫るようなものでもありません
このようなことは、真の福音宣教ではありません
聖パウロは福音宣教についてこう言います
「私が福音を宣教しても、私の誇りにはなりません。
それは私にとって必要な、委ねられた務めだからです。
私は空を打つような拳闘もしません。
私は自分の体を打ちのめし、それを奴隷のように引き回します。
他者に福音を告げ知らせておきながら
自分が失格者になってしまわないためです」。
キリスト者は1つの義務を有しています
それは、イエズスの聖名をもたらすために
心から溢れる必然性のような説得力を、自らのうちに持つということです
それでは、私たちが福音を宣べ伝えるに際して
どのようなスタンスを取らなければならないのでしょうか?
それは「全ての人に対して全てとなる」ことです
ですから、あなたたちも行って
他者の歩みを共有してください
彼らが、その固有の歩みにおいて信仰のうちに成長するよう
彼らの信仰の旅路の同伴者となるようにしてください
福音宣教は 証をもたらすものであって多くの言葉を必要としません
私たちは相手の立場に立って判断しなければなりません
もちろん、それは、相手の歩みに染まるという意味ではなく
その歩みのうちにある相手に寄り添うという意味です
クラクフのワールド・ユース・デイでの
青少年たちとの昼食の際
ある少年が私に問いかけました
「僕の親友は神を信じようとしない無神論者なんですが
彼に対してどのような言葉をかけてあげたらいいですか?」
それは良い質問です
私たちはみんな、人々が教会から離れてしまっていることを知っています
では、私たちは、彼らにどのように語りかけるべきでしょうか?
ごらんなさい
君がなすべきことは、君自身、質問の最後に言いました
それは、彼に何かを語りかけてあげることです!
そうすることを始めてください
そうすれば、彼は、君が日頃していることを見て
それについて、君に尋ねてくるでしょう
そして、彼が君に質問を投げかけてきた時に
彼にまた、そのことについて説明してあげてください
福音宣教とは、このような証をもたらすことです
「僕は、僕がなすべき歩みを、生きようとしているんだ
だって、僕は、イエズス・キリストを信じているからだよ」
そして、好奇心に満ちた目で
「でも、なんで君はそんなことをするんだい?」
と尋ねてきたら、こう答えてください
「だって、僕は、イエズス・キリストを信じて
イエズス・キリストを宣べ伝えているからそうするんだ
もちろん、言葉でも言い表す必要があるけれど
それは単に言葉じゃなくて、自分の生活によって言い表すんだ」
これこそ福音宣教です
私たちは福音を無償で受けたのですから
これを無償で行ないます
恩寵、救い
これらは購入するものでもなければ、販売するものでもないからです
それは無償です
私たちは、それを無償でもたらさなければなりません
キリストを宣言することは
信仰に生きることであり
神の愛を無償でもたらすことです
聖ペトロ・クラヴェールは
宣教師であり、福音の説教者でした
彼は、自分の将来を、説教のために捧げようと考えました
そのように考えていた時
彼は、アフリカから売り飛ばされて奴隷となった人々を目の当たりにしました
その時、主は、彼に問いかけました
「見棄てられた人々のそばに寄り添ってくれないか?」
この人は、彼が宣べ伝える福音に、まごつくことがありませんでした
彼は福音宣教を暗唱作業に引き下げることなく
改宗を迫ることさえしませんでした
彼は、彼自身の行動によってイエズス・キリストを宣言し
奴隷たちに親身になって語りかけ
彼らと生活を共にして、彼らのように生きました
教会には、彼のようにふるまう多くの人々がいます
彼らは自分のことよりも、イエズス・キリストを宣言することに身を費やします
兄弟姉妹たち
私たちもみな、この福音宣教の義務を有しています
もちろん、それは、お隣さんたちの家々をノックして回って
ドア越しに、「キリストは復活されましたよ!」と言って回ることを意味しません
それは、信仰生活のうちに生きることであり
優しさ、愛情をもって、会話をすることであり
論争で、勝ちにこだわることではなく
見返りを求めずに福音をもたらすことです
神が、私たちにお与えになられたように
何らの見返りも求めずに福音をもたらすこと
それこそ、福音宣教の意味するところです
ゲッセマニのルドヴィコ司祭
(Thomas Merton)
傲慢は私たちを偽物にし、謙遜は私たちを本物にする
この世で見出される罪、悪、暴力
これらと同じものが、私たちの心の中に隠されています
この世の汚れは
ある意味、汚れた私たち自身の心を写し出したものである、とも言えます
私たちはみな、何らかの形で
この世における戦争や紛争の責任を負っています
私たち各々の犯す罪や過ちが
悪魔の業に加担し、悪魔を力づけてしまうのです
ですから、まず、各々が
自らの大きな過ちを認めて、悔い改めるべきです
フランシスコ教皇聖下
疎外をもたらす悪魔の子としてではなく
平和をもたらす神の子として生きる
悪魔は、教会に打撃を与える2つの武器を所有しています
その主要な武器は、疎外であり、もう1つは金銭です
悪魔は、舌によって
疎外をもたらす誹謗中傷によって滅ぼそうとしています
誹謗中傷の傾向はテロリズムの傾向と同じです
他者の悪口を言いふれ回る人は
破滅をもたらすゴシップ爆弾を放り投げるテロリストです
この種の分裂と戦うよう願います
というのも、分裂は
悪魔が、地方教会や全教会を滅ぼすための武器だからです
祈りと悔い改めのうちに、神の恩寵に信頼して
困難の際に乗り越えるよう心がけてください
平和はギフトです
しかも、それは、私たち自身
それを毎日手がけなければならない築き上げるギフトです
それは小さなことのうちに築き上げるもの
日々の生活における些細なことの積み重ねです
たしかに、美しい言葉を並べて平和を語ることで
素晴らしい国際会議を取りまとめることもできるでしょう
しかし、それだけでは不十分です
もし、あなたの小さな事柄のうちに、平和を築き上げようとしないなら
あなたの心のうちに、平和がなかったとしたら
あなたの家族のうちに、平和がなかったとしたら
あなたと隣人との間のうちに、平和がなかったとしたら
あなたの職場のうちに、平和がなかったとしたら
あなたが世界を平和にすることなどできはしないでしょう 今日、あなたの心はどうでしたか?平和でしたか?
もし平和でないなら、平和について語る前に
あなた自身の心を、まず平和にしてください
今日、あなたの家族はどうでしたか?平和でしたか?
もしあなたの家族、教区、共同体に平和をもたらせなかったなら
どうして世界に十分な平和をもたらせるでしょうか
私たちのお互いの心はどうでしたか?平和でしたか?
私たち家族の各々はどうでしたか?平和でしたか?
私たち自身のうちに、まず平和を確立すること
それこそが、世界平和を実現させるためのものです Sanctissimi Nominis Mariæ.
マリアの至聖なる御名
記念日:9月12日
幸いなおとめマリアの仲介への感謝
聖ヨアキムと聖女アンナは大天使が彼らに告げられたとおりに生まれて20日目に、2人の愛娘をマリアと名づけた。
おとめの名をマリアと言いました。海の星maris stellaの意味に解され、おとめである聖母に実に合致するこの御名について話しましょう。彼女が星にたとえられるのはきわめてふさわしいのです。なぜなら、星が光を出しても、みずからの性質を変えないように、おとめも、みずからを傷つけることなく、御子を世に送り出されたからです。光線が星の輝きを損なうことがないように、御子もおとめの清さを傷つけることがないのです。
彼女は、ヤコブから出た、かの気高い星であり、その光は、全世界を照らし出すのです。その輝きは、高いところに至り、低いところに及びます。また、地上を照らし、肉体よりも精神をあたため、善徳を育てて、悪の力を挫くのです。実に彼女こそ、この広大な海原をあまねく照らす崇高な星であり、その功徳によって照らし、その模範によって輝くのです。
誘惑の嵐が吹きすさぶ時、苦しみの暗礁に乗り上げる時、星を仰ぎ、マリアを呼びなさい。傲慢、野心、中傷、嫉妬の波にのまれる時、星を仰ぎ、マリアを呼びなさい。短気、貪欲、肉欲が、心の舵を奪おうとする時、マリアにまなざしを注ぎなさい。罪の重さで心が震え、良心の叱責で圧される時、審判の恐ろしさにおののき、嘆きの深み、絶望の淵に呑まれる時、マリアに想いをよせなさい。危険に遭う時、困難を感じる時、疑念に悩まされる時、マリアに想いをよせて、マリアを呼びなさい。その御名を、口から絶やさず、心から離さないようにしなさい。
そうして、その祈りの助けを求めて、その生活の模範からそれないようにしなさい。彼女につき従えば迷うことなく、彼女に願えば失望することなく、彼女に想いをよせれば誤ることなく、彼女が支えるなら倒れることなく、彼女が守るなら恐れることなく、彼女が導くなら疲れることなく、彼女がいつくしみを注ぐなら救いの港に至るでしょう。 (聖ベルナルド修道院長教会博士)
あぁ、マリアよ、あなたの崇高で感嘆すべき御名は、神の宝庫から出されたものです。三位一体の神は、御子イエズスの御名に次いで、全ての名にまさるこの御名を、あなたにお授けになりました。さらに神は、この御名に、尊厳と力とを賦与なさり、天上においても、地上においても、地獄においても、全ての被造物が、この御名を聞いただけで、これを崇め敬い、その御前にひざまずくことをお求めになられたのです。
神の恩寵を見出したいと望む人は誰であれ、恩寵の発見者Inventrix gratiæであるマリアのもとに行きましょう。マリアは、ご自分が、神によって、憐れみの御母として立てられたことをお忘れになりません。
ところで、悲惨のないところに、憐れみの必要性があるでしょうか?この世の母親でさえ、らい病にかかった子供を、いやだからと言って、これを捨ておくことはしません。ましてマリアは、いかなる罪人であろうと、彼女に祈り求める者を、決して退けられないのです。
マリアの御名、それは、実に、難攻不落の天守閣のようなものです。罪人は、そこに避難しさえすれば、救われます。この天守閣は、全ての罪人を、たとえどれほど大きな罪人であろうと、たとえどのような罪を犯した者であろうとも、永遠の死から、これを防ぎ、守るのです。
(聖ラウレンツィオのリカルド神学者)
Oratio.
Concede, quæsumus, omnipotens Deus,
ut cunctis gloriosum beatæ Mariæ Virginis
nomen celebrantibus,
misericordiæ tuæ beneficia ipsa procuret.
Per Christum Dominum nostrum. Amen. 全能の神よ、私たちはつつしんで願い求めます。
栄光に満ちた幸いなおとめマリアの御名を喜び祝う全ての人が、
あなたの憐れみの顕現であるマリアご自身の配慮に委ねられますように。
私たちの主キリストによって。アーメン。
主の祈り(1回) アヴェ・マリア(10回) 栄唱(1回) ファティマの祈願(1回)
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Omnis scriba doctus in regno cælorum
similis est homini patri familias,
qui profert de thesauro suo nova et vetera.
天の国についての教えを書き記す全ての人は
新しいものと古いものを、その宝庫からもたらす
家族における家父のような人である
(Mt,13,52)
ブログ 『カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心』
僕のいたらなさにもかかわらず
このカトリック系ブログの立ち上げを促し
これを天来の祝福と恩寵のうちに保護していてくださることについて
幸いなおとめマリアの悲しみの汚れない御心のうちに
エウカリスツィアのイエズスの聖心の愛に感謝しています
また、このブログの継続のために
目に見えない祈りや目に見えるコメや応援ポチによって
このブログを継続的に支えてくださる
献身的で敬虔な善意の人々に感謝しています
主が、その人々の細やかな愛と連帯の行為に
豊かに報いてくださいますよう、個別的な祝福と寵愛を祈り続けます
そして、今後も、このブログの記事が
神の御名の栄光と賛美のために
また救いを求める霊魂たちの回心と謙遜と愛、敬虔と聖性と救霊のために
ほんの少しでも役に立つものとなりますように
あらためて、聖母の悲しみの汚れない御心のご保護のもとに
このささやかなブログ活動を委ねます
2016年9月8日 ブログ開設記念日に
エウカリスツィアのベネディクト・マルコ
ご自身を与え尽くされた主イエズスの寵愛への感謝の祈り
2013年10月1日に作成した祈りです
主が、私の救いのために成し遂げてくださったことで、
果たさなかったこと、不完全、手抜きがあったでしょうか?
私を救うために、これ以上ないほどに、極みまで愛され、
徹底してご自身を与え尽くされた主イエズスよ、
あなたのお望みに応えきれていない私を憐れんでください。
あなたは私に全てを与え尽くされました。
ご自身の聖体、聖心、御傷、御血、涙、
労苦、受難の全て、十字架、功徳、愛、
これらをみな、取るに足りない私に与え、
あなたご自身で、私の義、成聖、贖罪、智恵となられました。
私はそれらを、あなたへの感謝のため、
御父の栄光のため、聖霊の愛の息吹のうちに、
あなたにお捧げし、永遠の御父にお捧げいたします。
私の足らなさの全てを、
あなたご自身の愛でおぎない、
私の惨めな生涯を、
あなたの聖性に満ちたご生涯で、聖なるものにしてください。
私の神よ、私の愛よ、
私の全てを、例外なく、あなたのものとしてください。
私の意志の座に、あなたが君臨し、私の全てを統治してください。
あなたは私の霊魂、肉体、精神において、たたえられますように。
今も、いつも、世々に至るまで。
アーメン。
Canticum Beatæ Virginis Mariæ.
幸いなおとめマリアのカンティクム
Exsultatio animæ in Domino
Indulgentia3 annorum (Indulgentia 5 annorum ; sabbat )
Magníficat * ánima mea Dóminum,
私の霊魂は主を崇め、
et exsultávit spíritus meus * in Deo salvatóre meo,
私の精神は、私の救い主である神のうちに、喜び踊ります。
quia respéxit humilitátem ancíllæ suæ.*
なぜなら、ご自分の卑しいはしためをかえりみてくださったからです。
Ecce enim ex hoc
ごらんなさい、今から後、
beátam me dicent omnes generatiónes,
全ての時代の人々は、私を幸いな者と呼ぶでしょう。
quia fecit mihi magna, qui potens est,*
私に偉大な業を行われたのは、力ある御方であり、
et sanctum nomen eius,
その御名は聖そのものであり、
et misericórdia eius in progénies etprogénies *
その憐れみは、 世代に次ぐ世代にわたり、
timéntibus eum.
主を畏れる者たちに及ぶからです。
Fecit poténtiam in bráchio suo,*
主は、その御腕のうちに力強さを示され、
dispérsit supérbos mente cordis sui;
思いあがる者たちの、その心を、粉砕し、
depósuit poténtes de sede *
権力をふりかざす者たちを、その座から取り除いて、
et exaltávit húmiles;
へりくだる者たちを抜擢し、
esuriéntes implévit bonis *
飢えている者たちを善いもので満たし、
et dívites dimísit inánes.
贅沢にひたる者たちを手ぶらで追い払われました。
Suscépit Israel púerum suum,*
主は、そのしもべ、イスラエルを受け入れてくださいました。
recordátus misericórdiæ,
憐れみの想起のうちに、
sicut locútus est ad patres nostros,*
私たちの父祖たちに語りかけられたように、
Abraham et sémini eius in sæcula.
アブラハムとその子孫に、世々に至るまで。
Gloria Patri, et Filio,et Spiritui Sancto.
栄光が、聖父と、聖子と、聖霊にありますように。
Gloria quoque Reginæ cælorum
また、栄光が、天の女王にもありますように。
cum omni multitudinecælestis Hierarchiæ
天上のおびただしい全てのヒエラルキアと共に
in sæcula sæculorum. Amen.
世々に至るまで。アーメン。
聖女ジェルトゥルーディスの聖母への祈り
Ave, candidum lilium fulgidæ
アヴェ、光り輝く白百合よ、
semperque tranquillæ Trinitatis.
絶え間ない平安に満ちた三位一体の白百合よ、
Ave, rosa fulgida cælicæ amœnitatis,
アヴェ、光り輝く天上の優美な薔薇よ、
de qua nasci,
天上の王は、あなたから生まれ、
et de cuius lacte pasci Rex cælorum voluit,
あなたの乳によって養われることを望まれました。
divinis influxibus animam meam pasce ;
神的溢れからの流れのうちに、私の霊魂を養い育て、
et adsis mihi misero peccatori
哀れな罪人である私を、支えてくださいますように。
nunc et in hora mortis meæ. Amen.
今も、私が死を迎える時も。アーメン。
Nativitas beatæ Mariæ Virginis
幸いなおとめマリアの誕生
この日に聖母マリアの誕生を祝う習慣は、イェルザレムで始められ、5世紀に建てられた聖マリア誕生の大聖堂では、祝日として祝われた。ビザンチン典礼やローマ典礼では、7世紀になってから、この日を幸いなおとめマリアの誕生日として記念するようになる。正義の太陽である主キリストを告げる『暁』のようなおとめマリアは、永遠から予定され、ダヴィド王家に生まれ、天と地を結ぶ架け橋となった。救い主の御母として選ばれた、無原罪のマリアの誕生は、全ての人にとって希望であり、救いの夜明けである。
汚れないおとめマリアは、天上と地上の歓喜のうちに、
ナザレトのダヴィド家の両親からお生まれになられた。
「ヤコブから1つの星が出て、
イスラエルから1つの笏が立ち上がる」(民数記24,17)
「娘よ、あなたは地上の全ての女のうちで、
いと高き神に祝福された者だ。
あなたはユダの全ての天幕で、
また、あらゆる民の間で、祝福されますように」(ユディト記13;14)
「マリアの誕生は、イエズス誕生のプレリュードです。
マリアこそ、人類救済のため、神の御子が肉となられるという
偉大な神秘の実現の発端だからです。
マリアの誕生は、私たちの贖いのあけぼのです。
完全な清さ、恩寵の充満であるマリアによって、
三位の神は、ついに地上に歓喜と充足のまなざしを注がれます。
なぜなら、神の無限の美を反映させる被造物を、
この地上でようやく見出されたからです」
(聖マリア・マグダレナのガブリエル司祭)
Fámulis tuis, quæsumus, Dómine,
cæléstis grátiæ munus impertíre,
ut, quibus beátæ Vírginis partus
éxstitit salútis exórdium,
Nativitátis eius festívitas pacis tríbuat increméntum.
Per Christum Dóminum nostrum. Amen.
主よ、私たちはつつしんで願い求めます。
あなたのしもべである私たちに、天上の恩寵の賜物を分け与えてください。
幸いなおとめの誕生に、私たちの救いの始まりがあらわれました。
その誕生の祝祭に集う私たちに、心の平和が増し加えられますように。
私たちの主キリストによって。アーメン。
主の祈り(1回) アヴェ・マリア(10回) 栄唱(1回) ファティマの祈願(1回)
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Die 5 septembris :
S. Teresiæ Calcuttensis, virginis
コルカタの聖女テレジア
記念日:9月5日
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集会祈願
Deus, qui beatam Teresiam, virginem, vocasti,
神よ、あなたは幸いなテレジアおとめをお呼びになり、
ut amori Filii tui in cruce sitientis
十字架上のあなたの御子の渇きに対して
eximia caritate in pauperrimos responderet,
最も貧しい人々における卓越した愛徳のうちに応えるようにしてくださいました。
da nobis, quaesumus, eius intercessione,
その取次によって、私たちに恩寵をお与えください。
in afflictis fratribus Christo ministrare.
苦しむ兄弟のうちにおけるキリストに、私たちも仕えることができますように。
Qui tecum vivit et regnat
御子は、あなたと共に生きておられ、支配しておられます。
in saecula saeculorum. Amen.
世々に至るまで。アーメン。
コルカタの聖女テレジアの叙唱
聖なる主、全能の父、永遠の神よ、
いつも、また、どこにおいても、あなたに感謝を捧げることは、
実に、ふさわしく、正しく、妥当であり、救いとなるものです。
あなたは幸いなテレジアを、
十字架上のキリストの渇きに結び合わせ、
うち棄てられた貧しい人々を受け入れる、愛徳の宣教者としてくださいました。
また、その同じ奉仕において、
あなたの憐れみの愛の光を、貧しい人々に注いでくださいました。
それゆえ、私たちは、天使、大天使と共に、
また、おびただしい聖人たちの集いと共に、
あなたへの賛美の賛歌をもって、
あなたを終わりなくほめたたえて歌います。 エウカリスツィアの秘蹟とコルカタの聖女テレジア
マザーテレサの列聖おめでとうございます
聖女はあらゆる階層の霊魂の収穫者ですね
今もなお、その霊的感化の影響力は素晴らしいですね
マザーテレサのふるまいを毎日目にしていた
とある年配シスターの文言です
マザーは、毎日、聖体の秘蹟をとても敬虔に拝領していました。
聖体へのマザーの深い深い敬意は、
パンとぶどう酒の外観に覆われた
イエズスの真の現存への深遠な信仰のしるしでした。
彼女の礼拝の態度、
ひざまずいて、両手を合わせて祈る姿勢、
聖体を 舌で受けること、
これら全てが、聖体への彼女の信仰を物語っていました。 コルカタの聖女テレジア
私にとってイエズスとは
イエズスは、肉となられた御言葉
イエズスは、生命のパン
イエズスは、十字架上で、私たちのために捧げられたいけにえ
イエズスは、世の罪と私たちの罪のためにミサで捧げられるいけにえ
イエズスは、語られるべき御言葉
イエズスは、告げ知らされるべき真理
イエズスは、歩まれるべき道
イエズスは、灯されるべき光
イエズスは、生きられるべき生命
イエズスは、愛されるべき愛
イエズスは、分かち合われるべき喜び
イエズスは、捧げられるべき犠牲
イエズスは、与えられるべき平和
イエズスは、食べられるべき生命のパン
イエズスは、養われるべき飢えた人
イエズスは、癒されるべき渇いた人
イエズスは、着せられるべき裸の人
イエズスは、招き入れられるべきホームレスの人
イエズスは、癒されるべき病人
イエズスは、愛されるべき孤独な人
イエズスは、求められるべき軽んじられた人
イエズスは、傷を洗うべき重い皮膚病の人
イエズスは、微笑みを与えるべき物乞いの人
イエズスは、耳を傾けてあげるべき泥酔者
イエズスは、保護すべき知的障害者
イエズスは、抱擁すべき小さな子供
イエズスは、手を取るべき視覚障害者
イエズスは、代わりに話してあげるべき聴覚障害者
イエズスは、共に歩むべき足の不自由な人
イエズスは、友になるべき薬物依存者
イエズスは、危険から遠ざけ、友となってあげるべき哀れな売春者
イエズスは、訪れるべき囚人
イエズスは、奉仕すべき高齢者
イエズスは、私の神
イエズスは、私の花婿
イエズスは、私の生命
イエズスは、私のかけがえのない愛
イエズスは、私の全てにおける全て
イエズスは、私のあらゆるもの
イエズスよ、私は、心を尽くして
私の存在の全てをあげて、あなたをお愛しいたします
私は全てを、私の罪さえも、イエズスにお捧げしました
イエズスは、私を、優しさと愛のうちに、ご自分の花嫁となさいました
今も、そして、生涯をとおして
私は、十字架につけられた御方の花嫁です。アーメン。
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