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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40)
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
6.罪人の死
②臨終の罪人の苦悩
あぁ、臨終の床にある哀れな罪人の苦悩は
いったいどれほど強烈で深刻なものでしょうか
まず、地獄の悪魔に悩まされるに違いありません
この恐るべき敵である悪魔は
死の時、すなわち霊魂が地上を去ろうとする時
これを滅ぼそうとして、全力をあげて努力します
なぜなら、この霊魂を我ものにするには
わずかの時しか残っておらず
この時を逃したならば、永久に失わなければならないからです
『自分にはわずかな時しか残されていないのを知り
激しい怒りをもって
お前たちのところにくだって行ったからである』(黙示録12,12)
しかも、臨終者の霊魂を滅ぼすために
誘惑に来る悪魔は、1位ではなく、大挙して押し寄せるのです
『そこには荒れ野の獣が伏し
家々にはみみずくが溢れ
駝鳥が宿り、雄山羊の姿をした悪魔がそこで踊る』(イザヤ13,21)
ある悪魔はこう言うでしょう
「心配はいらない、きっと治るだろう」
すると、もう1位の悪魔はこう脅すでしょう
「おまえは長きにわたり、神の声を聞こうとしなかったではないか
今さら泣きついて憐れみを受けられるとでも思うのか」
第3の悪魔はこうなじるでしょう
「おまえは機会を見つけては他人の財産や名誉を損ない尽くしてきた
それらをどうやって償うつもりなんだ」
第4の悪魔はこう叫ぶでしょう
「おまえがなしてきた告白は無効であり汚聖ではないか
まことの痛悔もなく、遷善の決心もなく
あの罪もこの罪も隠してきたではないか
今になって騒いでもだめなんだよ
救いはあきらめろ」
次に臨終者は、それらの罪に取り囲まれるでしょう
悪は、邪悪な人を、その死にあたり、捕らえて放そうとしないでしょう
聖ベルナルドは言います
「そうです、彼らの罪は、武具をつけた捕縛者のように叫んでいます
『我々をつくり出したのは、おまえなのだから、おまえを離れはしない
我々はあの世までおまえにつき従い
おまえと一緒に、至高の審判者の前に引き出されるのだ』」
哀れな罪人は、これらの敵から逃れようと焦るでしょう
けれども、そのためには、これらを憎まなければなりません
心を尽くして神に立ち帰らなければなりません
しかし、その精神はかすみ、心は頑なになっているのです
『主は、滅びゆく民に、憐れみを示されなかった
彼らは自らの罪のゆえに全滅した
これら全てのことは、主が頑なな心の諸国の民に対してなされたことで
多くの聖なる人々によって心を動かされるということもなかった」(シラ16,9)
聖ベルナルドの語るところによれば
生涯の間、悪になじんでいた罪人は
死の間際に滅びの状態から出ようと努めても、成功せず
その嘆かわしい状態のまま自身の悪に押しつぶされて死ぬことになる
最後の時に至るまで罪を愛した罪人は
最後の時まで滅びの危険を愛したのだから
神が、この不幸な人の危険な状態のまま放置して生き永らえさせたことは
正義のあしらいでもある、ということです
聖アウグスティヌスも言います
「罪を去る前に、罪から去られる人があります
罪に親しむ人が、死に際して、真剣に罪を憎むことは極めて困難です
というのも、その時その人は、自発的に行動するのではなく
いわば強いられて行動するようなものだからです」
ゆえに、頑強に悪に執着し続け
神の御声に逆らい続ける罪人は、不幸です
『その心臓は石のように硬く、臼の下石のように硬い』(ヨブ41,16)
忘恩者!
彼らは神の招きを聴こうとせず
その御声に心を動かされるかわりに
生涯の間、鉄砧が金槌で叩かれて硬くなるように
その心はますます頑なになったのです
そのため正義の罰によって
その生命の終わりになっても
片足を永遠の世界に踏み入れていながらも
心を改めようとしないのです
そうです、頑なな心は
最後の時に至るまで、取り拉がれるのです
あぁ、罪人は、死の際、神に向かって叫ぶでしょう
けれども神は、これに対して突き放されるでしょう
「あなたは私をうち棄てて被造物を愛したではないか
なにゆえ今となって私に依り頼もうとするのか
あなたの悩みの時が来たからといって
私が立ち上がり、あなたをかばう義理がどこにあるのか
あなたは被造物に向かって叫ぶがよい
被造物に助けを求めるがよい
それらこそ、あなたが祀り上げてきた神々ではないのか
それならば、それらの神々が立ち上がって、あなたを救うべきだろう」
主が、このように語られるのは
彼らが主に依り頼んだとしても
まごころから回心する気が実際にはないからです
聖イエロニムスは言います
「私は長年の経験によって
一生の間、悪い生活を送り続けた人は
決して善い死を遂げることがない、と確信しています」
福音を信じる人は多いが
悔い改める人は少ない
心からの悔い改めをもってこそ
はじめて福音を真の意味で信じるものとなれます
神のうちに永遠に生きることを望むものは
今、罪をうち棄てて、神に立ち帰り
神の恩寵に協力して、善良な生活を送るよう努めなければなりません
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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40)
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
6.罪人の死
①罪人は突然死ぬ。突然死でなくとも、改心は極めて困難である
現在、罪人は、死の追憶、死の想いを遠ざけ
放逸な生活の中に、わずかな平和を味わおうと努めています
けれども、決して、この平和を味わうことができません
まして、死の苦悶に襲われ、永遠の世界に入ろうとしている時は
罪深い良心の呵責を免れることはできないのです
臨終の苦悶のさなかで平和を求めるが
しかし、平和をもつことができない
そうです。彼らは平和を求めるでしょう
しかし、罪に満ち、この蝮のような罪に責め苛まれる霊魂が
どうして平和を見出すことができるでしょうか
それまで、イエズス・キリストの掟や愛を軽蔑してきた霊魂が
いざ、イエズス・キリストの裁きの御前に出頭しなければならない時になって
どうして平和を見出すことができるでしょうか
そうです。煩悶に煩悶を重ねるよりほかにないのです
死が近いことを告げられると
この世の全ての事物を棄て去らなければならないことを考えて
良心の呵責に襲われて
自分が時間を空費したことや
自分の時間もやがて終わりを迎えることや
神の審判の厳しさや
悪人に課せられる永遠の不幸など
これら全ての考えが、あたかも、その精神を打ちひしぎ
苦悩の中に沈みこませる恐るべき嵐のように
臨終の罪人の上に押し寄せるに違いないのです
このようにして罪人は
全く、落ち着きを失い、希望を失い、この世を去るのです
アブラハムは、神の約束を信じて
人間的には全く希望を奪われていながらも、神に希望し続けました
これは、アブラハムの大いなる功徳です
「アブラハムは、望みのない時、望みを抱いて、信じました」(ローマ4,18)
これに反して、盲目な罪人は
希望にさからって希望するばかりでなく
信仰にさからって希望します
なぜなら、神が、頑迷な者に対してなさった脅しを、軽蔑するからです
彼らは、悪い最期を遂げることを恐れます
けれども、悪い生涯を送ることを恐れません
そんな彼らが、突如、雷に打たれたり、事故にまきこまれたり
あるいは、喀血したり、あるいは、卒倒したり、急死しないと
誰が保障することができるでしょうか
たとえ死に際して、改心の時間があるとしても
それを用いて、彼らが実際に回心すると、誰が保障できるでしょうか
聖アウグスティヌスは、自分の悪習を棄て去るのに
12年間もかけて、それと戦わなければなりませんでした
いつも良心の促しを拒絶していた罪人が
臨終の時、激しい苦しみ、頭痛、最後のあがきのさなかにあって
容易に、真実に、神に立ち帰ることができるでしょうか
私は、ここで「真実に」と言います
というのも、ただ口先だけの言葉や約束では足りないのであって
心の底から発する悔い改めの言葉と約束が必要だからです
あぁ、それまで、自分の霊魂について配慮しなかった気の毒な病人は
審判と地獄と永遠の苦しみとを想い
罪に覆い尽くされた自分の真実の姿を眺める時
いったいどれほどの恐怖と苦悩に襲われることでしょうか
次第に頭がぼんやりとなり、意識がかすみ
全身が死の苦しみに悶えている時
このようなことを思い浮かべて
いったいどれほどの煩悶に陥ることでしょうか
外面的に告白し、いろいろな約束をして
泣き叫び、神の憐れみを祈り求めるでしょうが
実際のところ、自分が何をしているのかさえ、わからないのです
しかも、このような煩悶と良心の呵責、苦悩と恐怖のうちに
彼らはこの世を去るのです
ある著述家は言いました
「臨終の罪人の祈り、嘆き、約束は
敵の手に捕らえられ首をしめられて
殺されかけている人がするような嘆願や約束に似ています」
神の恩寵を喪失している時、最後の病気にかかり
そのまま、永遠の世界に移る人々は
まことに不幸なものであるとしか言いようがありません
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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40)
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
5.死の時は不確実である
③死の時は不確実であるがゆえに その準備をのばすのは危険である
「あなたたちも準備しておきなさい」
主は、私たちの死が近づいた時に
準備するよう命じられたのではありません
いつも準備しておくようにと、私たちに命じられたのです
人は実際、自分に死が訪れた際に混乱を極めている時
自身の複雑な良心を整理することは、不可能に近いのです
このことは、理性が私たちに教えているところのものであり
この臨終時の混乱は、準備しなかったことへの罰でもあります
神は、その時、赦しを与えるためではなく
私たちが主の恩寵に対してなしてきた侮辱を復讐すべく
来られるのです
主は仰せられます
「復讐するのは私であり、各々に私が報復する」
聖アウグスティヌスも叫びます
「救霊を全うすることができたにもかかわらず
これを望んでこなかった人は
その日その時、望もうとしてもできない
これは、正義の罰にほかならない」
ある人は考えるかもしれません
「その時になったとしても、改心して霊魂の救いを得られるかもしれない」
しかし、答えてほしい
あなたは「この中に飛び込んでも死なないで助かるかもしれない」
などと根拠なく放言して、深い井戸の中に、身を投じるだろうか?
罪の結果とは、実に奇怪なもので
精神を盲目にしてしまい、理性を失わせてしまうのです
人間は、肉体に関しては、利口に推理します
ところが、霊魂に関しては、馬鹿になるのです
兄弟姉妹よ、あなたが読んでいるこの黙想は
あなたにとって、神の最後の警告であるかもしれないのです
急ごう
自分の死に向き合い、その準備を整えよう
準備していない状態で
不意に死に襲われてはならないのです
主が私たちに、死の時を隠されたのは
私たちに、毎日、死を準備させるためなのです
聖アウグスティヌスは言います
「私たちが、自分の死を知らないのは、私たちの毎日を聖化するためです」
聖パウロは
「恐れおののきつつ」私たちが救霊を全うするよう忠告しています
聖アントニーノの語るところによれば
シチリアのある王は、その臣下の1人に
自分が王位にありながら悩まされている恐怖をわからせようと思って
その臣下を、自分の食卓に座らせました
ところが、この臣下の頭上には
細い紐で吊るされた剣がぶらさがっていました
そのため臣下は
わずかな食物しか口にすることができませんでした
私たちはみな
同じ危険にあっています
なぜなら、死は、いつでも、その剣を私たちの上に落とすことができ
私たちの永遠の運命を決すべき一撃を与えることができるからです
この事は、永遠に関する重大事です
「木は南に倒れても北に倒れても
倒れたところに、そのまま横たわる」(コヘレト11,3)
もし、神の恩寵に浴している時、死を迎えることができるならば
私たちの喜びは、どれほど大きいものとなるでしょう
その時、私たちはこのように言えるでしょう
「あぁ、これでもはや神を失うことはなく、私は永遠の至福へと過ぎ越すのだ」
しかし、もし、罪の状態にある時、死に襲われるならば
私たちの絶望は、どれほど恐ろしいものとなるでしょう
その時、私たちの霊魂は、絶望のうちに叫ぶに違いないでしょう
「Ergo erravimus ! 私たちは間違いを犯した!
あぁ、この間違いは、もはや償うことができない!
私たちは永遠に滅びなければならないのだ。永遠に!」
スペインの使徒、アヴィラの聖ヨハネは
この事を考えて、震えおののきました
彼は自分の死が近いことを告げられた時
「あぁ、私にはもう少し準備する時間が必要です」と叫んだそうです
また、アガトン修道院長も、長年の苦業生活を送ったのち
「私はどうなるのだろう。誰が神の審判を知ることができようか」
と言いつつ死んでいきました
聖アルセーヌも、死が近づいた時、震えおののき
弟子たちがそのわけを尋ねると、次のように答えました
「子らよ、私は今日はじめて、この恐れを感じているのではありません
私は生涯の間、一時も、この恐れを感じないことはありませんでした」
特に、聖ヨブは、死を想い、おののき恐れました
「神が(裁きに)立ち上がられる時、私はどうすればよいのだろうか
神がお調べになる時、私は何と申し開きすればよいのだろうか」(ヨブ31,14)
あぁ、私の神よ
あなたほど、私を愛してくださったかたがあるでしょうか
それなのに
あなたほど、私から軽蔑され、侮辱されたものがあるでしょうか
あぁ、イエズスの御血よ、御傷よ、私の希望よ
私に赦しをもたらしてください
永遠の御父よ、私の罪をごらんにならず
イエズス・キリストの御傷をごらんになり
私の救いのために苦しみの極みを味わい
ご自分を死に渡された御方のゆえに、私を憐れんでください
あなたに背いたことを心を尽くして悔やみ
私は犯した罪を、いかなる悪にもまして忌み憎みます
あなたを愛させるために私を創造された御方よ
私の大きな過ちを赦し、あなたを愛するものとして
あなたの最愛の御子の贖いの御血のうちに、私を新たにしてください
私の贖い主イエズスよ
私があなたの愛のうちにいつもとどまることができるよう
あなたの御傷の中に私を隠し
あなたから引き離すあらゆる悪から、私をお護りください
マリアよ、私の御母、私の信頼よ
あなたによりたのむ全ての人のための避難所よ
私のために、イエズスに取り次いでくださいますように |
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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40)
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
5.死の時は不確実である
②死の時は不確実であるがゆえに準備を怠ってはならない
主は、私たちが滅びることをお望みになりません
主は、私たちに生活を改めるよう絶えず勧め
時に、処罰をもって恐れを抱かせられます
「もし人が悔い改めないならば
神は剣を研ぎ澄まされる」(詩編7,13)
悔い改めようとせず、少しも死のことを考えず
まだまだ何年も生きながらえると思いこみ
すっかり安心しきっていた時に
突如として死に襲われた人々が、どれほど多くいるでしょうか
「人々が、平和だ安全だと言っている、まさにそのような時に
あたかも妊婦に陣痛が始まる時のように
彼らに破滅が突然襲いかかり
誰もそれから逃れられない」(1テサロニケ5,3)
「あなたたちも悔い改めなければ
みな同じように滅びるだろう」(ルカ13,5)
神の御言葉は、なぜこのように脅されるのでしょうか
それは、私たちに悪い行ないを改めさせ
それによって、悪い死を回避させるために他なりません
聖アウグスティヌスは言います
「あなたたちに向かい、用心せよ、用心せよ、と叫ぶ人は
あなたたちの生命を殺害しようと考えていないことは確かである」
それゆえ、あなたの人生の総決算の日が訪れる前に
良心の咎めを整理する必要があります
キリスト信者よ、兄弟よ
もしあなたが今日死ななければならず
あなたの永遠の運命が
今宵を待たないで決定されなければならないとしたら
あなたは決算書を提出する用意ができているでしょうか
もしできていないなら
全てをなげうってでも
1年、1か月、あるいは、わずか1日だけでも
猶予を願いはしないでしょうか
神は、今、この猶予を与えてくださっているのです
あなたはなぜ、これを活用して、良心の糾明を入念にしないのでしょうか
この日があなたにとって
実際に最後の日となる、ということはありえないでしょうか
「主に立ち帰るのを遅らせてはならない
1日、また1日と、先送りにしてはならない
さもなければ、主の怒りは突如として臨み
報復の時に、あなたは滅ぼされてしまうだろうから」(シラ5,7)
兄弟姉妹よ、霊魂の救いを得るためには
あなたは罪から遠ざからなければなりません
私たちは、いつか、罪と別れなければならないのですから
なぜ、たった今、これと決別しようとしないのでしょうか
聖アウグスティヌスは言いました
「遅かれ早かれ、そうならなければならないのに
なぜ、たった今、そうならないのだろうか」
死の時まで待とうと考えているかもしれませんが
頑迷な者にとっては
死の時は赦しの時ではなく
むしろ裁きの時となってしまうのです
最後まで不悔悛な者には
主は、報復の時、厳正な裁きをくだされます
もしも誰かに大金を貸している場合には
必ず証文を取るにちがいありません
そのわけは、どんなことが起こるかわからないからです
ところで、あなたの霊魂には
莫大な利子(罪の負債)がついているのです
それなのに、どうして同じように用心しないのでしょうか
どうして、あなたの霊魂についても
どんなことが起こるかわからない、と言わないのでしょうか
あの金を失ったとしても、まだいくらかあるでしょう
たとえ全財産を失ったとしても
これを立て直す希望は残っているでしょう
しかし、罪を痛悔せず、償いさえ眼中にない状態のまま
死を迎えて、自分の霊魂を滅びるままにしてしまうなら
その時、あなたは全てを失うのであり
しかも、これを取り戻す希望は、永遠に、全く失ってしまうのです
あなたは、所有する全財産について、詳しく調べ上げています
思いがけない時に死んだとしても
相続や墓の心配をしないよう備えています
しかしながら、もし、あなたが恩寵を失ったまま放置していて
重大な罪の負債をかかえこんだまま、突然、死に襲われたなら
地上的な財の備えが、あなたの永遠にとって何の価値があるでしょう
あなたの霊魂の永遠の運命は、もはや取返しもつかないものとなり
永遠の生命を台無しにしてしまうことになってしまうのです
つまり、あなたは永遠の死を
地獄の悪魔や悪霊たちの醜悪と消えることのない炎と蛆と共に
深い苦しみと歯ぎしりのうちに、世々に味わわねばならなくなるのです
死後ただちに行われる神の裁きの座の御前にあって
次の宣告を耳にすることほど恐るべきものはありません
「呪われたものよ、私から離れ去り
悪魔と、その使いたちのために用意されている永遠の炎の中に入れ!」
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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40)
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
5.死の時は不確実である
①死の時は不確実であり、死はほとんどいつも不意に訪れる
私たちはみな、死ななければなりません
これは絶対に確かなことです
それでは、いつ死ななければならないでしょうか
私たちはそれを知らないのです
イディオタは言いました
「死ほど確かなものはない。けれども死の時ほど不確実なものはない」
兄弟よ、あなたと私がこの世を去って
永遠の世界に入るべき、年、月、日、時間、瞬間は
既に決まっているのです
しかし、私たちは、それについて何も知りません
そのため、イエズス・キリストは
私たちに、いつも準備しておくように求めておられるのです
聖パウロは
死が、こっそり来るべきことを告げられました
「主の日は、夜の盗人のようにやって来る」(1テサロニケ 5,2)
イエズス・キリストは、私たちの思いがけない時に訪れて
私たちをお裁きになることから
つねに目覚めているよう命じられました
『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』(ルカ 12,40)
聖グレゴリオの言うところによれば
神が私たちに、死の時を隠されたのは、私たちのためです
「神が私たちを、この不確実の中に残されたことにより
いつも、死に備えさせようとお望みになられたからです」
このように死は、いつ、いかなるところで
私たちの生命を奪い去るかしれないのですから
私たちは、いつも、どこにおいても
死を待っていなければなりません
聖ベルナルドは言いました
「死は、いたるところで、あなたを待っています
それゆえあなたも、いたるところで死を待たなければなりません」
私たちは、死ななければならないことをよく知っています
しかし不幸なことに、大部分の人は
死を遥か遠くに押しやって
これを見ないようにするのです
どんなに老いぼれた人も
どんな重病にかかっている人も
まだ、3年4年は生きられるだろうと思っています
しかし、今日、今この瞬間にも
どれだけ多くの人が、不意に、死を迎えていることでしょうか
ある者は、静かに座ったまま
ある者は、歩きながら
ある者は、眠りながら
死の門をくぐっているのです
これらの人々のうち、誰一人として
このような不意の死を遂げるなどと思ってもみなかったでしょうし
また、彼らが死んだ日に、まさか死ぬなどとは考えもしなかったでしょう
今年、この世を去った人々のうち、1人も、今年死ぬことを
こんなにも早く命の終わりを迎えることを想像したものはいなかったでしょう
実際、ほとんどみな
思いがけなく死を迎えたのです
兄弟姉妹であるキリスト信者よ
悪魔があなたに向かって
「明日、告白すればよいではないか」と言いながら
罪を犯すよう、あなたをそそのかす時
あなたは悪魔に向かい
「今日のこの日が、私の一生の最後の日であるかもしれないではないか」
と答えてやりなさい
もしも実際に、自分が神を裏切ろうとしているこの時が
自分の一生の最後の時であったとしたら
あなたにはこの世で償いをなす時はないことになります
そうなれば、永遠の世界において
あなたの運命は、いったいどうなるでしょうか
どれほど多くの罪人たちが
有毒な快楽を味わっている時、死に見舞われて
永遠の地獄へと堕ちていったことでしょう
「誰も自分の時がいつ来るかを知らない
魚が不運な網にかかり
小鳥が罠にかかるように
人の子らもまた、災いの時が突然襲うと
それにかかってしまう」(コヘレト9,12)
「災いの時」とは
罪人が神に背いている時と解釈すべきです
悪魔は言うでしょう
「大丈夫だ。あなたはそのような不幸に陥ることは決してない
神は憐れみなのだから、安心して、今は罪を楽しむがよい」
しかしあなたは自問しなければなりません
「もし、私が、神の憐れみを濫用した上で、罪を犯し
不意に死に見舞われる不幸に陥れば
私の永遠の運命はいったいどうなることだろうか
不意に悔い改めないまま死んでしまえば
私の住まいは永遠に地獄ではないか。永遠に!」
生ける神の御手に落ちることは恐ろしいことである
(ヘブライ10,31)
もっと悪いことが、あなたに起こらないように
もう罪を犯してはいけない
(ヨハネ5,14)
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