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『最高永遠の司祭キリスト』の祝日が聖座により制定されています
 
2012年ベネディクト16世教皇聖下(現名誉教皇)は
『最高永遠の司祭である私たちの主イエズス・キリスト』の祝日を
聖霊降臨後の木曜日(今年は5月24日)に祝われるよう
典礼秘跡省の教令をもって定められました
 
日本では ほぼ無視状態の祝日
 
ここ日本では、『聖体の続唱』がほぼ無視されているのと同様に
この祝日(ヨーロッパでは祭日)自体、ほとんど話題にもされていませんが
 
聖霊降臨後の木曜日に全教会で祝われる
『最高永遠の司祭である私たちの主イエズス・キリスト』の祝日には
固有のミサ各祈願、A年・B年・C年の指定朗読、固有の叙唱
時課の典礼、ローマ殉教録および指定朗読が用いられ
司祭でありいけにえである主キリストの神秘を深めるよう
聖座により命じられています
 
Martyrologium Romanum
11. Feria V post Pentecosten
Festum Dómini nostri Iesu Christi, Summi et Ætérni Sacerdótis, secúndum órdinem Melchísedech, in quo ab inscrutábili ævo Pater complácuit, qui Mediátor Dei et hóminum, patérnam voluntátem adímplens, in ara crucis seípsum Hóstiam toti mundo salutárem semel immolávit. Formam sacrifíciis perénnis sic instítuens, inter fílios Adæ fratérna éligit bonitáte hómines sacerdótio augéndos quátenus ex sacrifício incessánter in Ecclésia renováto flúmina virtútis divínæ manárent, quibus novum cælum nováque terra efficeréntur, et in universórum latitúdine complerétur quod óculus non vidit nec áuris audívit nec in cor hóminis ascéndit.
 
Feria V post Pentecosten
DOMINI NOSTRI IESU CHRISTI
SUMMI ET ÆTERNI SACERDOTIS
 
最高永遠の司祭である私たちの主イエズス・キリストの集会祈願
Oratio.
Deus, qui ad maiestátis tuæ glóriam
et géneris humáni salútem, Unigénitum tuum
Summum atque Ætérnum constituísti Sacerdótem,
præsta, ut, Spíritu Sancto largiénte, quos minístros
et mysteriórum suórum dispensatóres elégit,
in accépto ministério adimpléndo fidéles inveniántur.
Per Christum Dominum nostrum. Amen.
 
神よ、あなたは、あなたの威光の栄光と人類の救いのために、御独り子を最高永遠の司祭としてお立てになりました。私たちはつつしんで願い求めます。聖霊によって司祭職を授けられ、奉仕者、主の神秘の分配者として選ばれた人々が、受けた奉仕の務めにおいて、忠実な遂行者として見出されるものとなりますように。私たちの主キリストによって。アーメン。
 
 
尊者ピオ12世
司祭でありいけにえであるキリスト
 
たしかにキリストは『司祭』です。
しかし、それはご自分のためではなく、私たちのための司祭です。
キリストは全人類の名によって、
祈りと恭順の心を永遠の御父に捧げるからです。

また、それと同様に、キリストは『いけにえ』です。
しかし、それは私たちのためのいけにえであり、
罪に傾く人類のために、ご自分を身代わりとしてくださいました。

「あなたたちはキリスト・イエズスのような心構えを抱きなさい」
まさにこのような使徒の勧めは
全てのキリスト者が、自らの力の及ぶ限り、
神的贖い主がご自分を捧げられた時の、かの心構えを、
自分自身の心に再現することを命じているのです。

それは、心からのへりくだり、
神の最高の威光への深い礼拝、栄誉、賛美、感謝の心構えです。

私たちはいわば、いけにえの状態に自分を置いて、
福音の命じるところに従い、自分を捨てて、
自発的に悔い改めの業を行ない、
罪を忌み嫌い、罪を償わなければなりません。

つまり、私たちはみな、キリストと共に、十字架上で神秘的に、自我に死んで、
パウロが述べたように、同じように言えるようにならなくてはならないのです。
「私はキリストと共に十字架につけられています」
 
 
典礼秘跡省の教令は下記のとおり
 
CONGREGATIO DE CULTO DIVINO
ET DISCIPLINA SACRAMENTORUM
DECRETUM
Quo efficacius gratia anni sacerdotalis super populum Dei perseveret in tempore, Summus Pontifex Benedictus XVI formularia liturgica pro celebratione Domini nostri Iesu Christi Summo et Æterno Sacerdote benigne disposuit apparandos, ut ad usum singularum Conferentiarum Episcoporum, quæ petent, præberentur.
Hæc porro Congregatio de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum, vigore peculiarium facultatum ab eodem Summo Pontifice ad hoc tributarum, textum latinum Missæ, Liturgiæ Horarum et Martyrologii Romani de Domino nostro Iesu Christo Summo et Æterno Sacerdote, prout in adiecto exstat exemplari, libenter probat et typicum esse declarat. Contrariis quibuslibet minime obstantibus.
 
Ex ædibus Congregationis de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum,
die 23mensis Iulii anno 2012.
Antonius Card. Cañizares Llovera
Præfectus
 
 
司祭によるパワー・ハラスメント
 
先日、聖霊降臨の祭日に
オブレート会のある外国人司祭は英語ミサにおいて
ひざまずいて聖体拝領を望む信徒たちに対し
執拗に「Stand up!」と要求し続けていました
 
その司祭は、ひざまずいて聖体を拝領しようとする私に対して
「立ちなさい。なんだそれは?立ちなさい」
と立って拝領するよう繰り返し要求してきました
 
その間、およそ20秒ほど
私も立つ気配を一向に見せないので
司祭もなかなか秘跡を授けようとしませんでした
 
「これは私に対するハラスメントです」
と英語で言おうかとも考えましたが
英語で何と言ったらいいのかはっきりわからなかったので
 
ひざまずいたままの私は彼に告げました
Give me.
 
眉間にシワをよせたままの彼は
しぶしぶというか嫌々ゆっくり私の舌に聖体を授けました
 
秘跡を受けて立ち上がり
自席に戻って、聖体拝領の感謝を捧げていると
 
しばらくして
Stand up ! Stand up !」の連呼が聞こえてきたので
ふと拝領の列を見ると、その司祭の前で、(正確には聖体の前で)
ひざまずいて秘跡を受けようとしていた信徒がいました
 
その信徒との司祭のやりとりは
私の時よりも長く、その信徒は英語で司祭に語りかけていたようでした
 
立ちなさい、立ちなさい......立ちません
そのままでは授けない.......(大きく首をかしげて)WHY
といったようなやりとりをしているように傍から見えました
 
すると司祭は
ひざまずいたままの信徒に聖体の秘跡を授けず
信徒の横を通り過ぎて、その信徒に背を向けて
その信徒の後の信徒たちに次々に聖体の秘跡を授け出しました
 
その間、司祭に背を向けられた信徒は
ひざまずいた状態のまま、しばらく放置され続けていました
 
なんという酷い嫌がらせ
職権濫用もはなはだしい
ひざまずく信徒を公的祭儀の場で
公開処刑的に放置して辱める
 
残念ながらスマホをその時もっていなかったので
証拠写真を撮ることができませんでした
 
10人ぐらいの拝領ののち
その信徒はひざまずいて秘跡を拝領するのをあきらめたのか
立ち上がって、司祭の横に移動して、秘跡を求めたようで
司祭はその信徒のほうに向きなおって
立った状態の信徒に秘跡を授け、信徒は自席に戻りました
 
別の司祭によるセカンド・ハラスメント
 
ミサ後、私はその信徒に慰めをもたらそうと考え
その信徒のもとに向かい、今回のハラスメント事案を申告するよう促し
その教会の主任司祭のもとに、他の目撃者も連れて申告させました
 
が、その主任司祭もひざまずきをこころよく思わない人だったので
慰めを受けるどころか、新たな軋轢が、その信徒と司祭の間に生じ
お話にならない、といった感じで、主任司祭との話を打ち切って
その信徒はその場をあとにしてしまいました
 
なんだかセカンド・ハラスメント状態で
傷口に塩を塗りたくられたような感じになり
なんとも後味の悪い申告相談となりました
 
そもそも
 
最初の司祭に関して言えば
無駄に20秒も30秒もかけて押し問答するぐらいなら
ひざまずいて秘跡を求める信徒に対して
素直に秘跡を授ければよかった話である
 
そのようにせず
パワー・ハラスメントを行ない
信徒のひざまずく権利を否定して侵害し
さらに、秘跡を授けず、放置して
公開処刑のように公然と侮辱し続けたことは
神の御前で咎められるべき違法行為、不法行為であろうし
おそらく、その守護の天使は悲しみ
御父もひどく怒っておられるだろう
 
次の司祭に関して言えば
目撃者2名を伴って相談申告に訪れた被害者に対して
ひざまずきに対する否定的な主張を繰り返して
傷ついた信徒の傷口に塩を塗りたくるような言動をするぐらいなら
いったん受けとめて
「うちの教会での司祭の対応で
あなたに不快な思いをさせてしまって申し訳ないでしたね
この申告を受けて、私のほうでも司祭を問いただしてみます」
といった想いやりといたわりをこめた言葉を
素直にかけてあげればよかった話である
 
そのようにせず
セカンド・ハラスメントを行ない
『司教団の取り決め』の持論を長々と展開し
信徒のひざまずく権利をほぼほぼないがしろに扱い
再発防止を講じる気配も全く見せず
被害者に慰めを与えず、むしろ失望を与えて、傷口を広げたことは
いつくしみとは真逆の行為であろうし
おそらく、その守護の天使もなかば呆れて
御子も頭をかかえてしまっているだろう
 
Fructus autem Spiritus est caritas,
  しかし、 聖霊の結ぶ実とは、    愛徳であり
gaudium, pax, longanimitas, benignitas,
    喜び、   平安、    寛容、       親切であり
bonitas, fides, mansuetudo, continentia.
   善意、   誠実、    柔和、        節制です
 
 
『いつくしみ』をスローガンにしながら
それとは真逆の
『いつくしみ』とは全くかけ離れたふるまいを
平然とやってのける司祭や信徒は多いもので
実に閉鎖的で病んでいるとしか言いようがない


『あなたたちによく言っておく。
これらの私の兄弟、しかも最も小さな者の1人にしたことは、
私にしたのと同じことであり、
これらの私の兄弟、しかも最も小さな者の1人にしなかったことは、
私にしなかったのと同じことである』

Think about it.


司祭の御母でありキリスト信者の助けである幸いなおとめマリアが
教会内に巣食うハラスメント体質を根絶やしにし
他者への想いやりやいつくしみが
司祭、信者各々の心に植えつけられ育まれるよう
最愛の御子イエズスに取り次いでくださいますように

 
フランシスコ教皇聖下
『司牧者たちによって引き起こされる害悪について』の記事
↓↓↓



Omnipotens et misericors Deus,
全能の憐れみ深い神よ、
qui ad defensionem populi christiani
あなたは、キリスト信者の民を護るべく、                  
in beatissima Virgine Maria
最も幸いなおとめマリアにおいて、
perpetuum auxilium mirabiliter constituisti:
絶え間ない驚くべき助けをもたらすことをお定めになりました。
concede propitius ;
私たちは願い求めます。
ut, tali præsidio muniti certantes in vita,
生涯にわたる霊戦において、聖母を通じて、最も強靭な保護が与えられ、
victoriam de hoste maligno
邪悪な敵に対する十全な勝利を
consequi valeamus in morte.
死において、いただくことができますように。
Per Christum  Dóminum nostrum. Amen.
私たちの主キリストによって。アーメン。




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救い主の復活の神秘に参与する人は幸い
 
主の受難にあずからない人は
主の復活にあずかることはできない
 
Surrexit Dominus vere, alleluia.
主は、まことに復活された アッレルーヤ
 
たちの救い主イエズス・キリストは
私たちを愛し、私たちのためにご自分を死に渡し
その最も尊い御血によって、私たちを洗い清め
私たちをご自分の復活にあずかれるものとしてくださいました
 
実際に、その復活に私たちが参与するためにこそ
主は、私たち罪人に呼びかけられました
 
「悔い改めて、福音を信じなさい」
 
私たちはみな罪人です
悔い改めが必要ないほど
聖なるものとなっている人はどこにもいません
私たちは、神の御前において、みな罪人です
 
たしかに外面的には
表立った犯罪をおかす人は少ないかもしれません
 
しかし、日々の生活の中で
ある人は、思いの中で
人を傷つけ、人を殺し、人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い言葉を考え、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
 
また、ある人は、言葉によって
人の心や名誉を傷つけ、場合によっては人を自死に至らしめ
人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い言葉をまき散らして、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
 
また、ある人は、行ないによって
人を傷つけ、人を殺し、人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い行ないを示して、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
 
そのような振る舞いを続ける人は
たとえキリストの名を冠する『キリスト者』であったとしても
その実、悪魔の協力者であって
主イエズスの復活の参与者となることはできません

 
自由意志による選択

復活への歩み もしくは 腐敗への歩み
 

リストの復活にあずかりたいと望む人は多いですが
その受難にあずかりたいと望む人は少ないのが現状です
 
人はみな、この人生の中で
思い、言葉、行ない、作為、不作為によって
自ら蒔いたものを、自らが刈り取ります

ある人は、復活への歩みを進めてゆき
また、ある人は、腐敗への歩みを進めてゆきます
 
人は、自らの人生の歩みのうちに
神の恩寵の助けに協力しながら、自身のうちに神の国を形造り
永遠の天国に入ってゆきます
 
そして、その生命の国は終わることなく
神の寵愛と祝福に包まれて、永遠の至福に参与するものとなります
 
また、人は、自らの人生の歩みのうちに
神の恩寵の助けを拒絶しながら、自身のうちに悪魔の国を形造り
永遠の地獄に入ってゆきます
 
そして、その死の国は終わることなく
悪魔の憎悪と呪いに縛られて、永遠の腐敗に参与するものとなります
 
人は必ず死を迎え
神の裁きの座の御前に
自らのありさま、自身の歴史的歩みの全てを、さらすことになります

また、最後の審判において
人は、各々のありさまで、自らをおおやけにさらすことになります

ある人は、祝福されたものとして、その栄光体の輝きと芳香のうちに
また、ある人は、呪われたものとして、その腐敗体の醜悪さと悪臭のうちに

 

悔い改めの業は 復活への小道

悪魔を喜ばせるものではなく
神を喜ばせるものとなりなさい
 

たちは、悔い改めの業をとおして
神に立ち帰り、その復活に参与する機会が与えられています

しかしながら、悪魔を喜ばせる人は多く
神を喜ばせる人は少ない、というのが現状です

あなたは、傲慢、横柄、不敬、諸悪徳によって悪魔を喜ばせるものではなく
むしろ、謙遜、痛悔、敬虔、諸善徳によって神を喜ばせるものとなりなさい
 
悔い改める罪人
神の赦しに自らをさしだす人は
主キリストの過越の神秘によって
その復活の栄光にあずかることができます
 
悔い改めを先延ばしにする永遠のリスクを考慮するならば
人は、この世にあるうちに、神に立ち帰り
自らを悔い改めのうちに浸し
神の憐れみに自らを差し出し
あらゆる罪に死んで
自らのうちにある悪への傾きを矯正し
実質的な賠償を含む全ての償いを果たしてゆくほうが
永遠の死への歩みにとどまり
安逸の幻想のうちに、霊的無為のうちに過ごすよりも得策です
 
そして、思い、言葉、行ないを
神のお望みにそくしたものとしていくために
謙遜な祈りを捧げ
日々の犠牲を甘受し
誠実な償いを果たし
心からの愛徳や想いやりを実践し
この世に善を広げるものとなり
敬虔に秘蹟にあずかり、典礼を忠実に挙行し
神から与えられた、この人生の時間の中で
主キリストがもたらしてくださった成聖の恩寵を
より豊かなものとしてゆくことが必要不可欠です
 
そのようにすることにより
神の恩寵の助けによって、私たちのうちで
私たち自身の『古い人』から抜け出す Exodus が実現し
この世においては、霊的に、主の変容 Transfiguratio にあずかり
キリストの神秘体の生きる肢体
生きるエウカリスツィア Eucharistia となり
 
のちの世においては、栄光の肉体をおびて
主の復活 Resurrectio にあずかり
神秘体の御母、教会の御母である幸いなおとめマリアと共に
全ての天使、聖人、聖女と共に
終わりない至福のうちに、神の寵愛と祝福に包まれて
永遠に生き続けることができるでしょう
 
なぜなら、いつくしみ深い主の赦しの御腕は
罪人である私たち1人ひとりに向けて
常に、飽くことなく、惜しみなく、開かれているからであり
悔い改める私たちへの主の憐れみの全能は、永遠に及ぶからです
 
実際、主の復活の神秘は
私たちにもたらされた、神の憐れみと赦しの具現化そのものです

全能の主は
惨めなものを憐れまないことがおできになれません
 
その神化された人間性において
私たちの人間性を、死と罪の腐敗から引き出してくださった
主イエズス・キリストの言い尽くしがたい復活の神秘はたたえられますように
今も、いつも、世々に至るまで。アーメン
 

Confitemini Domino, quoniam bonus,
quoniam in saeculum misericordia eius.
 

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『教会の御母』の記念日が聖座により制定されました
 
フランシスコ教皇聖下は
2018年2月11日ルルドの聖母出現160周年にあたり
幸いなおとめマリアの称号 『教会の御母』 の義務記念日を
一般ローマ暦に入れるよう命じられ
聖霊降臨後の月曜日に祝われるよう定められました
 
De beata Maria Virgine, Ecclesiæ Matre
教会の御母である幸いなおとめマリアについて
 
天使のお告げを聞いて、心とからだで神の御言葉を受け、全世界に生命をもたらしたおとめマリアは、アダムの子孫として、救われるべき全ての人と結ばれています。  


マリアは、キリストの構成員、キリストの神秘体のまことの御母です。
なぜなら、マリアは、教会の『かしら』の構成員である信者が、教会の中に生まれるように愛をもって協力したからです。
それ故カトリック教会は、聖霊に教えられて、マリアを最愛の御母として、孝愛の心をもって慕います。
 
アダムの娘であるマリアは、神の御言葉に心からの同意をもって、イエズスの母親となり、その御心において、いかなる罪にも引きとめられることなしに、救いを望まれる神のご意思を受諾し、御子のもとで、御子と共に、全能の神の恩寵によって、贖いの神秘に奉仕すべく、主のはしためとして、御子とその働きに完全に自己の全てを捧げ尽くしました。
このため、古代の教父たちは、エヴァと比較して、マリアを『生きる者たちの御母』と呼び、『エヴァによって死が、マリアによって生命が』としばしば述べています。
 
マリアは、神的配慮によって、十字架のもとに立ち、御子と共に、深く悲しみ、母親の心をもって、このいけにえに自分自身を一致させることを通じて、自分から生まれた御子のいけにえの奉献に、心を込めて同意しました。
そして、十字架上で、今まさに死のうとしているキリスト・イエズスによって、『婦人よ、ごらんなさい。これがあなたの子です』との遺言をもって、マリアは、母親として、弟子に与えられました。
 
使徒たちが聖霊降臨の日の前に、『婦人たちと、イエズスの母マリアと、その兄弟たちと共に、みな心を合わせて、祈り続けていた』ことを、私たちは知っています。
 
マリアは、キリストを懐胎し、生み、育て、神殿で御父に奉献し、十字架上で死を迎えた御子と共に苦しむことによって、従順、信仰、希望、燃える愛のうちに、人類の超自然的生命を回復するために、救い主の御業に、全く独自な方法で協力しました。
このためマリアは、恩寵の世界において、私たちにとって母親となられました。
 
恩寵の計画におけるマリアの母親としてのこの役割は、天使のお告げの時に、忠実なマリアに与えられ、そして十字架のもとでためらうことなく堅持した同意に始まり、選ばれた全ての者の、永遠の完成に至るまで、絶え間なく続いてゆきます。
 
マリアは天にあげられた後も、この救いをもたらす務めを放棄せず、むしろ数々の取次ぎによって、私たちに永遠の救いの賜物を得させるために続けておられます。
マリアは、その母性愛から、自分の御子の兄弟たち、この地上でまだ旅を続け、危険や困難の中にある兄弟たちが、幸福な祖国に到達するまで配慮し続けてくださいます。
真の信仰は、神の御母の卓越性を認めるよう、私たちを導き、私たちの御母を、子供としての孝愛で敬愛し、御母の善徳を模倣するよう、私たちを励ましてくれています。
(cf. 第2ヴァティカン公会議 教会憲章)
 
 
教会の御母マリアの集会祈願
Oratio.
Deus, misericordiárum Pater,
神よ、憐れみ深い御父よ、
cuius  Unigénitus, Cruci affíxus,
あなたは、御独り子が十字架にかけられ、
beátam  Maríam Vírginem, Genetrícem suam,
その御母、幸いなおとめマリアが、
Matrem  quoque nostram constítuit,
私たちの御母となるよう、お定めになりました。
concéde,  quæsumus, ut, eius cooperánte caritáte,
私たちはつつしんで願い求めます。その母性的愛徳の協力を通じて、
Ecclésia  tua, in dies fecúndior,
あなたの教会が、日ごとに豊かな実りを結び、
prolis  sanctitáte exsúltet
子らの聖性に喜びおどり、
et in  grémium suum cunctas
全ての民々を
áttrahat  famílias populórum.
神の家族に加えるべく、そのふところに、引き寄せることができますように。
Per Christum  Dóminum nostrum. Amen.
私たちの主キリストによって。アーメン。
 
 
典礼秘跡省の教令は下記のとおり
 
CONGREGATIO DE CULTO DIVINO ET DISCIPLINA SACRAMENTORUM
DECRETUM
de  celebratione  Beatæ Mariæ Virginis Ecclesiæ Matris
in  Calendario Romano Generali
 
Lætitiæ plena veneratio erga Dei Genetricem  in Ecclesia horum temporum, cum de Christi mysterio et de sua natura  recogitaret, ignorare non poterat Mulierem illam (cf. Gal 4, 4), Virginem  scilicet Mariam, quae insimul Christi Mater et Mater Ecclesiæ est.
Quod iam in Ecclesiæ sensu quodammodo aderat  præeuntibus verbis sancti Augustini et sancti Leonis Magni. Primus enim dicit  Mariam esse matrem membrorum Christi, cum cooperata sit caritate sua, utfideles in Ecclesia nascerentur; alter vero, cum dicit nativitatem Capitis esse  etiam nativitatem Corporis, indicat Mariam simul esse matrem Christi, Filii  Dei, et matrem membrorum mystici corporis, id est Ecclesiæ. Hæ considerationes  ex Mariæ divina maternitate et ex eiusdem coniunctione in opere Redemptoris,  quod in hora crucis culmen attingit, defluunt.
Mater etenim, iuxta crucem stans (cf. Io 19,25), Filii sui caritatis testamentum accepit quo universos homines, discipulodilecto personificatos, ad divinam vitam regenerandos in filios assumpsit,tenera nutrix Ecclesiæ, quam Christus, tradens Spiritum in cruce peperit. Et  vicissim in discipulo dilecto Christus omnes alios sui amoris erga Matrem  subrogavit vicarios, quibus eam commendavit ut filiali dilectione colerent.
Solatrix et magistra exorientis Ecclesiæ,Maria igitur suscepit munera sua materna in cænaculo, orando cum Apostolis qui  adventum Spiritus Sancti exspectabant (cf. Act 1, 14). Hoc in sensu christiana  pietas, procedentibus sæculis, Mariam titulis variis honoravit tamquam Matremdiscipulorum, fidelium, credentium, omnium in Christo renascentium, quodammodo  æquivalentibus, sed etiam titulo “Matris Ecclesiæ” qui in textibus sive  scriptorum spiritualium sive magisterii Benedicti XIV et Leonis XIII adhibetur.
Ex hoc plane constat fundamentum quo Beatus  Paulus papa VI, Beatam Virginem Mariam, die 21 Novembris 1964, cum expleretur  tertia Sessio Concilii Vaticani II, declaravit «Matrem Ecclesiæ, hoc est totiuspopuli christiani, tam fidelium quam Pastorum, qui eam Matrem amantissimamappellant», atque statuit ut «suavissimo hoc nomine iam nunc universus  christianus populus magis adhuc honorem Deiparæ» tribueret.
Apostolica Sedes igitur, occurrente AnnoSancto Reconciliationis (1975), missam votivam de Beata Maria Ecclesiæ Matreproposuit, quæ deinde in Missale Romano inserta est; facultatem etiamincludendi invocationem sub illo titulo in Litanias Lauretanas concessit (1980)et alia publici iuris formularia in Collectione missarum de Beata Maria Virgine  exaravit (1986); quibusdam nationibus, diœcesibus et familiis religiosis idpetentibus, quoque indulsit ut hæc celebratio in Calendario particulari  inscriberetur.
Summus autem Pontifex Franciscus, cum  perpendisset quantum hæc fovenda devotio ad Pastorum, religiosorum,  christifidelium Ecclesiæ sensum maternum ac genuinam marialem pietatem, adhuc  proficere possit, decrevit ut memoriam B. Mariæ Virginis, Ecclesiæ Matris, in  Calendarium Romanum inscribendam esse Feria II post Pentecosten et quotannis  celebrandam.
Hæc celebratio nos adiuvabit ad hocmeditandum, id est quod vita christiana, ut augescere valeat, in mysterio  Crucis, Christi oblatione in convivio eucharistico, Virgine offerenti, Matre  Redemptoris redemptorumque, fundari debet.
Nova igitur memoria cunctis Calendariis  Librisque liturgicis pro Missæ et Liturgiæ Horarum celebratione erit inserenda;textus liturgici adhibendi hoc decreto adnexi, cura Cœtuum Episcoporum  vertendi, approbandi et post huius Dicasterii confirmationem edendi sunt.
Ubi vero celebratio B. Mariæ Virginis,  Ecclesiæ Matris, ad normam iuris particularis rite approbati, die diverso,gradu superiori celebratur, et in posterum eodem modo celebrari potest.
Contrariisquibuslibet minime obstantibus.
 
Ex  ædibus Congregationis de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum,
die  11 mensis Februarii 2018, memoria Beatæ Mariæ Virginis de Lourdes.


Robertus  Card. Sarah
Praefectus


+Arturus Roche
Archiepiscopus  a Secretis
.

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赦しの秘蹟に向き合う心のあり方について
〜天来の恩寵の助けと人間の謙遜で誠実な協力の必要性〜
 
あなたの心を尽くし あなたの魂を尽くして
あなたの神である主に立ち帰りなさい
 
痛悔の涙に浸し切れていない罪
痛悔そのものがなされていなかった罪が
霊魂にもたらす弊害
 
 
赦しの秘蹟を介して告白した罪について
罪悪感を抱き続けてしまう人がいるとのことですが。。。
 
正しくふさわしく悔い改めている人は
あずかった秘蹟で完結して
その後に継続的な罪悪感に苛まれるということはないでしょうね
 
痛悔そのものが不十分な人や
赦しへの不信をいだく人は
罪悪感を持ち続ける傾向があるでしょうね
 
告白はするけれど
痛悔そのものをしないままに秘蹟にあずかる人(無効な告解)
信徒の中で意外と多いかもしれません
 
本当に悔い改めていたら
罪悪感を持ち続けるということはなくなるはずですし
良心の呵責を感じ続けるということもないでしょうね
 
罪悪感を抱き続けることと
自分の惨めさについて神様の御前にへりくだることとは
全く異なる姿勢です
 
たまに赦しの秘蹟を受けたのに
同じ赦されたものを何度も別の司祭に受けにいく信徒がいるようですが
神様の赦しの全能をあまり信じていないのかもしれません
 
すでに祝福されたものを
何度も別の司祭に祝福をもらいにいくのに似てるかもです
 
悔悛者を先行的に抱擁する神の憐れみ深い赦し
 
赦しの秘蹟は
ふさわしく準備をしたものについては
とても人間的な表現ですが
神様はその罪をご自分の記憶から削除して
完全にお忘れになるほど憐れみと赦しに満ちておられます
 
赦されたものについて不安になって
同じ告白を何度も繰り返す人は
神様の赦しに信頼していないことを
自分で証明してしまうことになってしまうでしょう
 
完全な痛悔をする人に対して
神様は赦しの秘蹟を受けにくる前に
先行的に赦しを与えてしまうほど
悔悛者への憐れみに溢れておられる御方です
 
手抜きのないふさわしい準備の大切さ
 
全ての秘蹟に共通のことですが
ふさわしい準備をもって敬虔のうちに秘蹟にあずかれば
その実りは望外に豊かになります
 
逆にほとんど準備もなく
行き当たりばったり的に秘蹟にあずかれば
恩寵を穴のあいたザルに無駄に受けるかのように
その実りをほとんど受けられないままになってしまうでしょう
 
聖パウロは
『神の恩寵を無駄に受けることのないように』という言葉で
せっかくの恩寵を受ける機会を無駄にしてしまっている人々に対して
ふさわしい準備をもって臨むよう勧告しています
 
また『裁きを飲食する』という言葉で
おもに聖体の秘蹟について
ふさわしくない秘蹟の拝受が
恩寵をもたらすどころか
新たな断罪をもたらすことになると警告しているほどです
 
真摯で誠実な愛があるかないかで
同じ秘蹟にあずかるにしても
とてつもなく大きな差異が生じます
 
多く愛する人は
多くの赦しや寵愛を受けるでしょうし
愛することが少ない人は
受けるものもごくわずかでしょうね


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秘蹟を尊重しているかそれとも軽んじているかは
それにあずかる準備や感謝のあり方に表面化してくる
 
秘蹟を尊重しているか
それとも軽んじているかは
それにあずかる準備や感謝のあり方に
如実に表面化してくるでしょうね
 
秘蹟のうちに
恩寵の与え主であるイエズスが隠れておられるので
秘蹟に対する接し方は
主イエズスへの接し方と同義になるので
 
秘蹟の主であるイエズスへの接し方において
御子をないがしろにするような人に対して
のちに永遠の御父は
それ相応の厳しい報いをもってのぞまれることになるでしょうし
 
秘蹟の主であるイエズスへの接し方において
御子にふさわしい敬意と謝意を示す人に対して
現段階においても、のちにおいても、永遠の御父は
豊かな寵愛をもって抱擁してくださるでしょう
 
憐れみ深い神様の恩寵の助けに
謙遜と誠実な愛のうちに協力する人は
時間においても永遠においても幸いです
 
長くなりましたが
正しくふさわしく悔い改めている人は
あずかった秘蹟で完結して
その後に継続的な罪悪感に苛まれるということはないでしょう
という話です

Quae enim secundum Deum tristitia,
実に、神のお望みにかなう悲しみは
paenitentiam in salutem stabilem operatur.
揺るぎない救いに至る悔い改めをもたらします
2 Cor 7,10
 
 

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2018年 教皇聖下の祈りの意向
(1月から6月まで)
 
これらの毎月の祈りの意向に
『当月の喫緊の意向』が追加表明される場合もあります
 
 


1月 アジアにおける宗教的少数派の人々
 
アジア諸国におけるキリスト者たちや、その他の宗教的少数派の人々が、完全な自由のうちに、彼らの信仰上の敬神行為を果たすことができますように。
 



2月 腐敗に対して『ノー』と言えるように
 
物質的、政治的、霊的権力を有する人々が、腐敗のいかなる魅惑に対しても抵抗することができますように。

 


3月 霊の識別の形成
 
教会が、個人的段階においても共同体的段階においても、霊の識別の速やかな形成の必要性を、正しく把握することができますように。
 



4月 経済的諸問題に責任を負う人々のために
 
エコノミストたちが、いかなる排他的な経済論理をも拒絶するための勇気を抱き、新たな方策開拓への取り組みを把握することができますように。

 


5月 信徒の使命
 
信徒たちが、現代世界の抱える諸問題に、独創性をもって応えることにより、彼ら特有の使命を遂行することができますように。

 


6月 ソーシャル・ネットワーク
 
ソーシャル・ネットワークが、他者との相違を認め合い、他者への尊敬を促す包括性に向けて、歩みを進めるものとなりますように。
 
 

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フランシスコ教皇聖下
 
神の優しさ
 
神の優しさは、全ての被造物の上に注がれます
 
父親がその子供に語るように
神は私たちに語りかけてくださいます
 
あたかも私たちに子守唄を歌い聴かせるかのように
その抱擁のうちに私たちの不安を取り除こうとなさいます
「恐れてはならない。私があなたを助けてあげよう」
 
神の優しさとは、このようなものです
神は、私たちにとって、父親であり母親でもあります
 
幾度となく神は私たちに語りかけます
「たとえ母親がその子を忘れたとしても、私はあなたを決して忘れたりしない」
 
神はご自分のふところに、私たちを抱きかかえてくださいます
 
神は、このような語らいのうちに、私たちも理解できるようにと
ご自分を小さなものとして、私たちに差し出されます
 
私たちが神に信頼することができるようにと
「アッバ、父よ」と私たちが呼びかけることができるようにしてくださいます
 
父でいてくださること
それが、神の優しさです
 
時に、神が、拳で私たちを打つことも真実です
実際、神は、威厳に満ちた御方です
しかし、その優しさのうちに私たちに寄り添い、私たちをお救いになります
 
このことは1つの神秘であり
最も美しい事柄の1つです
 
神は威厳に満ちた御方でありながら
ご自分を小さなものとして私たちに差し出されます
その小ささにありながらも
その偉大さをおやめになることはありません
 
ご自分を小さなものとする偉大さ
それは、偉大な小ささです
 
クリスマスは、このことの理解について、私たちを助けてくれる機会です
そのまぐさ桶に、小さな神がおられます
 
神的とは何でしょうか?
最も神的なこととは何でしょうか?
最大のものに限定されず、最小のものの中にも含まれることです
 
大きな事柄を恐れないでください
しかし、小さな事柄をも心にとめるようにしてください
 
このどちらもが、神的なことです
 
神は私たちを助けてくださるだけではありません
神は私たちに喜びの約束を交わしてくださいます
それは偉大な収穫であり
それに向けて歩めるよう私たちを支えてくださいます
 
神は、義の父であるだけでなく、パパでもあります
 
私が主についてこのように話すことができるでしょうか?
それとも、そのように話すことを恐れるべきでしょうか?
 
ある人々は問いかけます
「神の優しさの神学的な位置づけとはどんなものですか?」
「神の優しさというものを、どこで見出すことができますか?」
「神の優しさが最も顕著な場とは、いったい何ですか?」
 
それは、傷です
それは、私たちの傷であり
それは、神人キリストに刻まれた御傷です
 
私の傷においても、あなたの痛みにおいても
あなたが主の御傷のうちに、自分の傷を見出す時
神の優しさを見出すことができます
 
私たちは、その御傷によって癒されました
 
善いサマリア人のことを想いかえしてみましょう
強盗に襲われ、誰からも見棄てられた人を哀れに想って近寄り
傷口に油とぶどう酒を注いで手当てをして
宿屋に連れて行き、介抱のための費用を払い、その人を助けました
 
ここに、神の優しさの神学的な位置づけがあります
 
私たちの傷
そこに神の優しさが注がれる最も顕著な場があります
 
主はご自分の優しさのうちに浸されるよう
私たちを招いておられます
 
『さぁ、私のもとにおいで。
あなたの傷を私に見せなさい。
私が、それらを癒してあげたいのだ』



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