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病者の塗油の秘蹟
 
険な容態にある病気の信者の苦痛が和らげられ、救いが与えられるよう、教会が、苦しみを受けて栄光を受けられた主に、その人を委ねて祈る病者の塗油は、病者に油を塗布し、典礼書に規定された文言を唱えることによって授けられます。(教会法第998条)
 

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病者の塗油とは何ですか?
 
病者の塗油とは、病気や老衰によって
死の危険のあるキリスト信者を助け強める秘蹟です
 
病者の塗油は、それが霊魂の救いに益する時だけ
身体的健康をも回復させます
 
病者の塗油は罪を赦しますか?
 
病者の塗油は、前もって赦しの秘蹟にあずかることが不可能な時だけ
罪を赦します
 
誰が病者の塗油を受けるべきですか?
 
物心ついた信者で、病気や老衰のために死の危険がある人は
病者の塗油を受けるべきです
 
病者の塗油は何度も受けられますか?
 
病者の塗油は、危険を乗り越えた後に
再び危険な状態に陥れば、ふたたび受けることができます
 
病者の塗油を授けることができるのは誰ですか?
 
司祭だけが、病者の塗油を授けることができます
 
病者の塗油はどのようにして授けられますか?
 
病者の塗油は、秘蹟の言葉を唱えながら
病者の額と手に、聖別された油を塗ることによって授けます
 
病者の家族や看護をする人は何をなすべきですか?
 
病者の家族や看護をする人たちは
病者を驚かせるのではないかという誤った恐れをもつことなく
病者が十分な余裕をもって、この秘蹟を受けることができるよう
祈りのうちに必要な配慮をすべきです
 

叙階の秘蹟について



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叙階の秘蹟
 
の制定による叙階の秘蹟によって、キリスト信者の中のある者は、消えない霊印で刻印され、聖務者とされます。すなわちその者は、各々その叙階に応じて、新たな固有の資格で神の民に奉仕するよう聖別され任命されます。
叙階の秘跡による職階は、司教職、司祭職および助祭職です。
司教職または司祭職に叙階された者は、頭であるキリストの位格において働く使命と権限を受けます。助祭は、典礼と言葉と愛の奉仕によって神の民に仕える力を受けます。(教会法第1008条、第1009条)
 

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叙階とは何ですか?
 
叙階とは、それによって、ある信者が、聖なる奉仕者になる秘蹟です
 
なぜ叙階の秘蹟と言われますか?
 
叙階の秘蹟と言われるのは、「叙階」との言葉通り
この秘蹟の中に、いくつかの段階があるからです
 
叙階の秘蹟にはどのような段階がありますか?
 
叙階の秘蹟には
司教、司祭、助祭の3つの段階があります
 
司教と何ですか?
 
司教とは、叙階の中で最も高い段階で
完全な祭司職を受け、使徒の後継者となるものです
 
司祭とは何ですか?
 
司祭とは、叙階の1つの段階で、司教の協力者です
 
司祭のおもな役目は何ですか?
 
司祭のおもな役目は
ミサの犠牲を捧げることです
 
司祭の重要な役目として他にどのようなものがありますか?
 
司祭の他の重要な役目として
罪を赦すこと
他の秘蹟を授けること
典礼を忠実に挙行し、準備と感謝を怠らないこと
神の御言葉を宣べ伝えること
信者からの相談に想いやりをもって耳を傾けること
信仰に関する事柄において信者を導くこと等があります
 
司祭は教会にとって不可欠ですか?
 
司祭は教会にとって不可欠で
他の何者も、それにとって代われません
司祭がいなければ
イエズス・キリストがお建てになられた教会とは
異なる教会になってしまうからです
 
助祭とは何ですか?
 
助祭とは、司教と司祭を助けるために、叙階を受けた人です
 
助祭は司祭ですか?
 
助祭は司祭ではありません
しかし、教会の中で重要な役割を果たします
 
ではなぜ、日本ではミサの福音朗読の際
会衆が助祭に向かい「また司祭と共に」と応唱するのですか?
 
助祭に向けられた「また司祭と共に」の会衆の応唱は
日本における典礼文の誤訳に過ぎず、単にそれを継続しているだけで
その文言を発する会衆側も
それを聴く助祭側も違和感を感じているでしょうが
助祭はやはり助祭です

「また、あなたの霊と共に」が正しい翻訳であり
新しい日本語版ローマ・ミサ典礼書で、いずれ訂正されるはずです
それまでは違和感を抱き続けるでしょうが致し方ありません
 
女性は叙階の秘跡を受けることができますか?
 
いいえ、女性は叙階の秘跡を受けることができません
有効に叙階の秘跡を受けられるのは
洗礼を受けた男性だけです
 
なぜ女性は叙階の秘跡を受けられないのですか?
女性が叙階の秘跡を受けられないのは男女差別ではありませんか?
 
女性が叙階の秘跡を受けられないのは
イエズス・キリストが位階的祭司職である12使徒に男性しか選ばず
使徒たちも、男性にしか叙階を授けなかったからです
教会には、主の決定を変更する権能はありません
 
また、女性が叙階の秘跡を受けられないのは男女差別ではありません
というのも、叙階の秘跡を受けることは何らかの特権ではなく
教会に奉仕するためだからです
 
また、叙階は、聖性の高低を表わすものでもありません
教会の中で、最も高い聖性に至ったのは
女性である聖母マリアです
 
聖性の高低というのは
各自の身分に応じた義務を
どれほどの愛をもって果たしたかによって決まります
 
叙階の秘跡を授けるのは誰ですか?
 
叙階の秘跡を授けることができるのは司教だけです
 
叙階の秘跡はどのようにして授けますか?
 
叙階の秘跡は、司教が受階者の頭に按手しながら
聖別の言葉を唱えることによって授けられます
 


婚姻の秘蹟について

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婚姻の秘蹟
 
女が相互に全生涯にわたる生活共同体をつくるために行なう婚姻の誓約は、その本性上、夫婦の善益と子の出産および教育に向けられています。
受洗者間の婚姻の誓約は、主キリストによって、秘蹟の尊厳にまで高められました。それゆえ受洗者間における全ての有効な婚姻契約は、それ自体で秘蹟です。
婚姻は、契約当事者の一方が、住所または準住所を有する小教区で挙式されなければなりません。
婚姻の挙式に先立って、その挙式の有効性および適法性について何らの障害も存在しないことが確認されなければなりません。
婚姻は、これに立ち会う地区裁治権者もしくは主任司祭、または、この両者のいずれかから委任された司祭または助祭、ならびに2名の証人の面前で、明文規定に従って締結されるもののみが、有効です。(教会法第1055条、第1066条、第1108条、第1115条)
 

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婚姻の秘蹟とは何ですか?
 
婚姻の秘蹟とは、キリスト信者の男女の間に結ばれた
不解消の絆を聖化するもので
彼らが忠実に、夫婦として、また親としての義務を果たせるよう
恩寵を与えるものです
 
婚姻の本質的な特性は何ですか?
 
婚姻の本質的な特性は
単一性、不解消性、子供の出産に開かれていることです
 
単一性とは何ですか?
 
単一性とは、結婚が、1人の男性と、1人の女性の間で行なわれる
一夫一婦制のことです
 
結婚の単一性に反するものは何ですか?
 
結婚の単一性に反するものは、一夫多妻制です
これは、男女の平等にも反し
また夫婦間の真正の愛が
第三者の介入を拒否するという排他性にも反します
 
不解消性とは何ですか?
 
不解消性とは、結婚の絆がいかなる権力によっても
また、死以外のいかなる事情によっても解き得ないということです
 
結婚の不解消性に反するおもな悪習は何ですか?
 
結婚の不解消性に反するおもな悪習は、離婚です
これは、夫婦が一生涯助け合いながら暮らすということを尊重しないものです
 
教会で婚姻の秘蹟を受けたのち
民法上離婚し、民法上再婚し、その状態を継続する人は
赦しの秘蹟と聖体の秘蹟を受けることができますか?
 
いいえ、教会で婚姻の秘蹟を受けたのち
民法上、その配偶者と離婚し
民法上、別の人と再婚し、その状態を継続する人は
赦しの秘蹟を受けることができませんし
聖体の秘蹟も受けることができません
 
なぜなら、民法上離婚したとしても
教会法上、婚姻状態にあることに変わりはなく
民法上、別の人と再婚した状態は
教会法上、常時、公然の罪の状態にあるからであり
その状態は、神の法と客観的に矛盾するからです
 
夫婦は別居することができますか?
 
夫婦は共同生活する義務を負っています
しかし、例外的な状況の中では別居できます
 
別居した夫婦は、新たに結婚できますか?
 
夫婦は別居しても、有効な婚姻の絆が消えるわけではないので
別居した夫婦でも、それぞれ新たに結婚することはできません
 
教会が結婚の無効を宣言する時、夫婦の絆が消えるのですか?
 
教会が結婚の無効を宣言する時
夫婦の絆が消えるのではありません
それはただ、夫婦の絆が
現実には存在していなかったことを明らかに宣言するということです
 
いかなる理由で結婚の無効を宣言できるのですか?
 
結婚の無効が宣言できるのは
結婚の同意がなかった場合や
当時の結婚について将来に関する条件を付していた場合や
教会によって定められた方式に従ってなされていなかった場合や
あるいは無効の障害があった場合です
 
無効の障害とは何ですか?
また、典型的な無効障害にはどのようなものがありますか?
 
無効の障害とは、結婚を無効にする状況です
典型的な無効障害には
適切な年齢に達していないこと、近親関係、宗教の違い
婚姻前からの永久的な交接不能
聖なる職務の叙階者、貞潔の公的終生誓願者などがあります
 
結婚のために適切な年齢とは何歳頃からですか?
 
日本での結婚のための法定年齢は
今後の民法改正により、男子も女子も満18歳からとなりますが
各々結婚生活が負わせる種々の試金石に耐えうる心構えができていること
男子が親からの経済的自立ができていること
各々利己主義に傾いていないこと
子供の出産教育に向けて真摯な心構えができていること
少なくともこれらの心構えや状況が備わっていることが必要不可欠です

結婚のために必要な心構えや状況が備わらないままだとどうなりますか?

これらなしには時期尚早で不幸な結果をもたらしかねません
つまり、夫婦の崩壊的不和、子供への虐待やネグレクト、金銭問題
ドメスティック・バイオレンス、不倫、別居、最悪の事態を招きかねません

そのため、結婚のために必要な心構えや状況が備わらないうちは
つまり、霊的、精神的、経済的に、自己贈与に必要な愛が未熟なままでは
結婚の法定年齢をこえていても、結婚の段階に進むべきではありません
 
教会は、信者がカトリック以外の宗教の人と
結婚することを許可しますか?
 
教会は、条件付きで
信者がカトリック以外の宗教の人と結婚することを許可します
すなわち、信者の側が、自分の信仰の危険を避けること
生まれる子供に洗礼を授けてカトリックの宗教教育をすることを約束し
他方がその約束の実行を承知することです
 
挙式に必要な条件は何ですか?
 
挙式に必要な条件は
挙式が、主任司祭または適切に委任を受けた聖職者と
2人の証人の前で行なわれることです
 
なぜ結婚式が教会の定めた公の方式で
秘蹟として挙行されなければならないのですか?
 
結婚式が教会の定めた公の方式で
秘蹟として挙行されなければならないのは
結婚が教会的な出来事であり
結ばれる2人を公に認知する必要があるからです
 
カトリック信者の男女が、教会で挙式せず
役所に届け出をして入籍し、一緒に暮らすとどうなりますか?
 
カトリック信者同士の単なる民法上の婚姻は
合法的婚姻ではありません(cf,倫理神学概論)
 
カトリック信者の男女が、教会で挙式せず
役所に届け出をして入籍して、一緒に暮らしても
教会の定めた公の方式で秘蹟として挙行されない限り
教会において2人は夫婦ではありません
 
なぜなら、信者の間では
秘蹟でない結婚は、真の結婚とはなりえないからです
 
教会で式を挙げずに一緒に暮らしている信者の男女は
赦しの秘蹟や聖体の秘蹟を受けることができますか?
 
教会で式を挙げずに一緒に暮らしている信者の男女は
赦しの秘蹟も聖体の秘蹟も受けることができません
 
それは、2人が教会で式を挙げない限り
その男女の共同生活は同棲であり
その男女の性交渉は私通となり
教会において、絶えず公然の罪の状態を続けることになるからです
 
子供の出産に開かれているとは、どういう意味ですか?
 
子供の出産に開かれているとは
結婚生活が、子供を産み育てることに向けられているということです
子供は、結婚の最も素晴らしい賜物です
 
結婚の本質的な特性を変えることができますか?
 
男性と女性を夫婦として結びつける
結婚の本質的な特性(単一性、不解消性、子供の出産教育)を
変えることはできません

なぜなら、それらは結婚の本質自体に属するもので
創造主によって定められたものだからです

また、男女を夫婦として結びつける結婚の特質のゆえに
男性と男性、女性と女性の間になされる同性婚は
自然法の観点からしても、教会法の観点からしても
結婚として認められません
 
婚姻の秘蹟はどのようにして受けるべきですか?
 
婚姻の秘蹟は、恩寵の状態で受けなければなりません
それゆえ、結婚する男女は
相互理解を深めつつ婚姻の意味についてよく学び
赦しの秘蹟を受けて、聖体を拝領することが勧められます


未信者の夫婦が一緒に洗礼を受けた後
あらためて婚姻の秘蹟を受ける必要はありますか?
 
非受洗者間同士の婚姻は
夫婦が洗礼を受けた時に秘蹟となり
その時点で新たに結婚式を挙行する必要はありませんcf,倫理神学概論)
 
これは根本的補正 sanatioin radice による婚姻の有効化の1つであり
その法的効果として
『法定方式に従った同意の更新(単純有効化)の免除』
『無効な婚姻の有効化』
『教会法上の効果の遡及』があげられます
 
補正されるまでの期間に生まれた全ての子女は
教会法上有効な婚姻によって生まれた子女とみなされます
 
また、根本的補正は
『当事者が知らない補正』『双方の不知の補正』とも呼ばれ
当事者の一方あるいは当事者双方が知らなくても
教会権威によって法定方式に従った同意の更新が免除されるもので
当事者双方にはなんらの積極的行為は要求されません

 
昨今、洗礼式と同時に堅信式を同じミサで執り行うようになっていることから
すでに民法上入籍をしている未信者の夫婦が
のちに2人とも受洗してカトリック信者になる場合
同じミサの中で、洗礼式や堅信式に引き続いて
受洗者両者の各々の代親を婚姻の証人として
婚姻の合意の更新式(婚姻の単純有効化)を執り行えば
婚姻の秘跡の尊重の面からも、共同体における認知の面からも
適切ではないか、というニールさんからの個別的見解がありました

それは確かに合理的で素晴らしい見解であり
洗礼志願期に、7つの秘蹟の学びの際
特に、洗礼、堅信、婚姻について学びを深め
その間、代親となる信者と親交を深め、打ち合わせもしていけば
新たな神の養子の誕生、新たな戦士の誕生、新たな家族の誕生を
同じミサの神秘の中で
聖体の秘蹟に養われつつ
カナの聖母の取次ぎのうちに
水がぶどう酒に変えられたように
古い人が新しい人に、古い結びが新しい結びに昇華されて
教会人としての2人の新たな門出を、共同体のうちに共に祝えますし
天上的喜びと祝福の注ぎも、より一層深まり豊かになるものと思います

 
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Die 20 februarii
Beatæ Mariæ Virginis in Nuptiis Cana Galilææ
ガリレアのカナの婚宴における幸いなおとめマリア
記念日;2月20日
 
カナの婚宴で行なわれたことは、それを見た人々にとっては奇跡であり、それを理解する人々にとっては神秘です。その婚宴で水に起こったことにより、比喩的に、洗礼による再生が示されています。そこにおいて、あるものが、他のものになり、劣った被造物が、優れたものへとひそかに変えられる時、洗礼における再生を、神秘的に表象する出来事が実現します。カナの婚宴で、水がその場で変えられました。それは将来、人間たちが変えられるであろうことを啓示するためでした。
(リエのファウスト司教)
 
カナの婚宴において、救い主のすぐそばで、聖母マリアが、全ての恵みの仲介者として、いつくしみ深い母親としての務めを果たしておられるのを、私たちは見ています。イエズスの最初の奇跡であるカナの奇跡は、キリストの「時」を早めるほどに強力な、マリアの取次ぎによって行なわれたのです。救い主は「私の時は、まだ来ていません」と御母に答えられましたが、マリアは御子を信じきっていたので、それ以上、重ねて願わず、愛に満ちた信頼のうちに、召使いたちに言われました。「なんでも、あの人があなたたちに言われるとおりに、行ないなさい」。イエズスは、御母の謙遜、繊細な心遣い、信仰、信頼に満ちた委託に負けてしまわれ、また、御母が、どれほどご自分の聖心を動かす力をお持ちであるかを、私たちに明らかに示すために、その願いをお聞き入れになり、こうして奇跡は実現したのです。
(聖マリア・マグダレナのガブリエル司祭)
 
Núptiæ factæ sunt in Cana Galilææ,
ガリレアのカナで婚宴があり、
et  erat ibi Iesus cum María matre sua.
そこにイエズスが、その御母マリアと共におられた。
Deficiénte  vino, dicit Mater Iesus ministris :
ぶどう酒がきれたので、イエズスの御母は、下男たちに言われた。
Quodcumque  dixerit vobis, facite.
「なんでも、あの人があなたたちに言われるとおりに、行ないなさい」
Et iussit  Iesus impléri hydrias aqua,
そこでイエズスが、水を石がめに満たすようにと命じられると、
quæ  in vinum convérsum est.
その水は、ぶどう酒に変わった。
Hoc  fecit initium signorum Iesus in Cana Galilææ :
これが、ガリレアのカナにおいてなされたイエズスの最初のしるしであり、
et  manifestavit gloriam suam,
その栄光を現わされたので、
et  crediderunt in eum discipuli eius.
その弟子たちはイエズスを信じた。
V. Dirigátur, Dómine, orátio mea.
主よ、私の祈りをあなたに向けて導いてください。
R. Sicut incénsum in conspéctu tuo.
あなたの御前に立ち昇る香のように。
Oratio
Concede, quæsumus, Domine,
主よ、私たちはつつしんで願い求めます。
ut  Unigenitus tuus, qui in Cana Galilææ
ガリレアのカナで、あなたの御独り子が
aquam  in vinum mirabiliter transmutavit,
水をぶどう酒に奇跡的に変えられたように
huius  virtute mysterii corda nostra in se transformet.
この神秘の力によって、私たちの心も御子のうちに造り変えられますように。
Qui  tecum vivit et regnat in sæcula sæculorum. Amen.
御子はあなたと共に世々に生き、支配しておられます。アーメン。
 
 
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イエズスの聖心の福者マリア・セラフィナおとめ
 
記念日;3月24日
 
心の福者マリア・セラフィナは、1849年9月11日イタリア、トレントのイメルで生まれ、クロティルダ Clotilde Micheli と名づけられ、3歳の時、トレント司教から堅信を受け、1858年初聖体の際、奉献生活への強い憧れを抱き、しばしば長時間ひざまずいて聖体礼拝のうちに過ごすことが多くなり、幼い頃から神秘的な体験や私的啓示を受けていたが、その中で、1867年8月2日、小教区聖堂での聖体礼拝の際、天使たちに囲まれた幸いなおとめマリアが福者のもとを訪れ、至聖なる三位への特別な礼拝のための修道会発足の召命を促された。
友人と共にヴェネツィアに赴き、ドミニコ・アウグスティノ司祭(のちのヴェネツィア総大司教、枢機卿)に助言を求めた際、新しい修道会発足に向けた計画を進めるよう励まされ、修道会則の草案を促されたが、自分には困難で自分はその器ではないと怖れを抱き、1867年パドヴァに移るが、そこでも霊的指導者たちから新しい修道会の基盤作りを促された。
1878年両親が福者の知らぬ間に縁談を進めていたことがわかり、その縁談から逃れるため、ドイツのエプフェンドルフに移住し、聖エリザベト姉妹会が運営する診療所で看護師として働いたが、1885年両親の死を機に、自らの生き方を問うため、1887年5月、姪のジウディッタの協力を得て、徒歩でローマ巡礼を行ない、8月ローマの汚れない愛徳姉妹会に入り、『マリア・アンヌンツィアータ』という名前を選び、1888年アナーニ教区に属するズグルゴラ修道女院の院長を務めるが、フランシスコ・フスコ司祭の助言を受けて姉妹会を退会した。
1891年カゼルタへ赴き、そこでフィロメナ・スカリンジやその他の若い女性たちと共に共同生活をするための家を建て、カゼルタ司教エンリコ・デ・ロッシの支援を受けて、ノチェーラ・インフェリオーレ近郊で、1891年6月28日、天使たちの姉妹会を創立し、5名のおとめたちと共に修道誓願を立てて、修道名に『聖心のマリア・セラフィナ』を選び、フランシスコ・フスコ司祭を会の霊的指導者とし、至聖なる三位への礼拝の信心を推進し、見棄てられた孤児たちや貧しい病者たちの世話、青少年たちの霊的育成を推進し、天使たちにならう奉献生活に努めた。福者が院長を務める間に、修道女院を15箇所もうけ、現在その修道院は50箇所に広がり、イタリア、ブラジル、インドネシア、ベナン、フィリピンに及んでいる。
1895年頃から福者は病気に苦しむが、治療に意を用いることはせず、自身の奉仕職に努め続けた。ある日、ある神学生が福者に面会を求めてきたが、病気に伏していた福者を煩わせまいとして断った修道女たちに向けて、その神学生が獣のような遠吠えと共に怒号を浴びせだしたため〜その神学生は7位の悪魔に憑依されていた〜、福者は彼に(実際は悪魔に対して)静かにするよう命じて、十字架のしるしを通じて、憑依されていた神学生の悪魔祓いを行ない、その神学生を悪魔から解放させた。
1911年3月24日ベネヴェントのファイッキオで帰天した。2011年5月列福。
 
地獄の幻視
 
883年11月10日夕刻、ドイツ皇帝ウィルヘルム1世が主催したマルティン・ルター(1483.11/10-1546.2/18)誕生400周年の祝賀ムードでアイスレーベン(現在のルターシュタット・アイスレーベン)一帯は満たされていたが、福者はこの祝賀に興味はなく、その地域にある各教会を見つけては聖体礼拝をすることを常としていて、日も暮れて暗くなっていたが、この日もそのようにするため、ある教会を訪れた。しかしそこは扉が閉まっていたため、祈りのひと時をもつため、入り口の階段でひざまずいた。
福者は、そこが、カトリック教会ではなくプロテスタント教会であることに気づいていなかった。福者がひざまずいて祈りを捧げていると、守護の天使が目に見える姿で福者に現れて告げました。
「立ち上がりなさい。ここはプロテスタント教会です。マルティン・ルターは、その傲慢のゆえに処罰されました。それは致命的な大罪であり、カトリック教会に敵対して反乱を起こしたからです。彼がどこで処罰されているか、また、彼がその傲慢の罰として、どのような苦しみの痛みを受けているかを見なさい」。
すると、福者は、激しい怒りの渦のうちにある、おびただしい霊魂の痛々しい拷問を幻視しました。
その渦のような獄の穴の底に、悪魔に取り囲まれ、ひざまずかされているマルティン・ルターがいて、彼の頭は大きな釘のようなもので突き刺され、ハンマーのようなもので酷く打ち叩かれていました。
 
 
大勅書Exsurge Domineで指摘されたマルティン・ルターの誤謬

95箇条の命題におけるルターの誤謬のいくつか
(ex. デンツィンガー・シェーンメッツァー 『カトリック教会 文書資料集』)
 
告解には、痛悔、告白、償いの3つの部分があるというのは、聖書にも教父たちの教えにも基づいていない。
痛悔(良心の糾明を含む)によって、人は偽善者となり、もっと悪い罪人になる。
全ての大罪を思い出すことは不可能だから、全ての大罪を告白しようと考えてはならない。
告白をする人が痛悔していなくても、司祭が本気でなく冗談で赦したとしても、自分は赦されたと信じる人は、本当に赦されている。
免償は信者を迷わせるための信心深い詐欺であって、役に立たない。
自罪の罰の赦しのために、免償は何の役にも立たない。
免償が有益なもの、霊的に役立つもの、と信じる人はだまされている。
完全に行なわれた善業は、小罪である。
煉獄の存在は、正典に含まれる聖書から証明できない。
煉獄の霊魂は、罰を恐れている間は絶えず罪を犯している。
 
記のマルティン・ルターの主張は、カトリック教会の赦しの秘跡の否定、良心の糾明・痛悔・免償・善業・煉獄の否定、また、煉獄の霊魂への侮辱を含んでいます。
 
そのため、プロテスタントには、叙階の秘跡もなく、そのため、聖餐式はあっても、聖変化させる司祭がいないので、実質、聖体の秘跡もなく、また同じく、罪の赦しを与える司祭がいないので、赦しの秘跡もなく、そのため、信者は秘跡的赦免を受けられませんし、教会の有する霊的宝庫がプロテスタントには閉ざされてしまっている、というのが現状です。
 
カトリックのエキュメニズム
 
トリック教会のエキュメニズムとは、プロテスタント諸教会との兄弟的で友好的な対話を通じて、彼らのカトリックへの帰正を促すものであって、カトリック信者がプロテスタント諸派の教えに染まることを意図したものではありませんし、カトリックがプロテスタント化することでもありませんし、プロテスタント諸派に、「あなたたちはあなたたちのままとどまっていてイイんですよ。私たちと仲良くやっていきましょう」と見せかけの表面的な仲良しアピールの自己満に浸ることでもありません。
 
回心の必要のないプロテスタント信者はいません。
また、回心の必要のないカトリック信者もいません。
回心の必要のない人は、どこにもいません。
 
カトリックのエキュメニズムを誤解して、『カトリックの教えを裏切る行為』として、対話を促す教皇庁を否定するのもおかしな振る舞いであり、心の偏狭さを示しています。
というのも、自己開示的で抱擁的対話なしに、相互理解を介した、『真理への気づき』が、対話相手にもたらされないからです。
それは、放蕩息子の帰還を、いつくしみ深い抱擁のうちに祝宴を催した父親に対する、兄の心の狭さと同じ振る舞いです。
 
また、聖座の歩み寄りの意図を誤解して、地方教会の司牧者が、カトリックの教えをないがしろにしてプロテスタント諸派に迎合するのもおかしな振る舞いであり、霊魂の救いへの無関心を示しています。
というのも、真理の教えを明確に示さず、誤謬を誤謬のままに放置することは、『真の愛徳』にもとるからです。
それは、物質的に飢えた人に助けをもたらす一方で、霊的に飢えた人には、助けを与えずに放置するようなものであり、霊的慈善とは真逆の振る舞いです。
 
いずれも両極端な誤断に過ぎず、より多くの霊魂を救いの小道に立ち帰らせたいと望まれる、神のいつくしみを反映させるものとは異なる姿勢です。
 
カトリックのエキュメニズムは、兄弟的交わりや相互理解を深めることを通じて、真理の小道に人々を向かわせ、立ち帰らせるための、司牧者たちや信徒たちに向けた、聖霊の愛と想いやりの呼びかけです。


«Paenitemini et credite Evangelio»
 

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フランシスコ教皇聖下
 
良心の糾明は、心戦を戦い抜くために、必要不可欠である
 
イエズスは、私たちに回心を呼びかけておられます
 
そして、この回心とは
悪魔に対する戦いを意味していますし
また、自分自身の心に対する戦いをも意味しています
 
悪との苦闘は
あなたに快適さをもたらしませんが
しかし、あなたに真の内的平和をもたらします
 
イエズスが地上に放とうと望まれた炎は
自らを変えることへの呼びかけを示すものです
 
自らを変えること、それは回心です
それは、肉体、霊魂、全てを含む回心です
 
自らを変えることは
メイクアップのように表面的な変化をもたらすことではなく
聖霊がもたらす内的刷新です
 
自身のうちで聖霊が働きかけられるようにしなければなりません
それは、自分との闘いを意味していますし
実際、戦わなければなりません
 
安逸をむさぼるキリスト者は、戦おうとしません
そのような人々は、キリスト者ではありません
彼らは生温さを示しています
 
内的平和のためのピルなどありません
ただ聖霊だけが、霊魂の内的平和をもたらすことがおできになり
キリスト者に霊的強さをもたらすことがおできになります
 
日々の良心の糾明が、このことの助けとなりえます
敵の蒔いた病魔、世俗化という名の病魔と戦う助けとなりえます
 
悪魔に対して繰り広げられたイエズスの闘いは
遥か遠い昔の出来事のもの、いにしえの悪に対するものではなく
それは、今、現代の出来事のもの
全ての日々、こんにち現出している悪に対するものです
 
イエズスが、私たちの心の各々にもたらそうとされる炎をもって
私たちのうちに入ることがおできになるよう
私たちは、日ごとに自分自身に問いかけなければなりません
 
私は、世俗化から遠ざかるため、また、罪から遠ざかるため
恩寵に向けて、なんらかの努力をなしているだろうか?
 
私は、聖霊が、私のうちで働くことができるよう
聖霊のための場を、差し出しているだろうか?
 
私たちの生活上の種々の問題は
真理を押し黙らせることでは解決されません
 
真理は私たちに告げています
イエズス・キリストは私のうちに炎をもたらすために来られ、戦われる
それなのに私は何をしようとしているのだろうか?
 
自他に回心をもたらすためには、想いやる心、忠実な心が必要です

想いやりは、つねに愛に由来するものです
忠実さは、神の御言葉への忠実さのことです
 
 
 


 
手による聖体拝領は いずれ廃止される(かもしれない)
 
信者が、聖別されたパンを
自ら手に取ることは、許されない
2002年ローマ・ミサ典礼書の総則160
 
信徒が、聖別されたパンを
自ら手に取ることは、教会法に反する
2004年あがないの秘跡94
 
カトリック教会は、なぜこのような規定をもうけたのでしょうか?
 
それは、婉曲的に、司祭による聖体の分配の、信徒による否定を退けるため
また、いくつかの汚聖の危険性を回避するため
また、聖体に現存される主キリストへの直接的不敬を回避するためでした
 
現段階においては
手による聖体拝領は、条件付きで、認められてはいますが
 
あまりにもやまない濫用や不敬や弊害のゆえに
聖座によって、手による聖体拝領は、いずれ廃止されるかもしれません
 
聖体の秘跡へのふさわしい礼拝と敬意表明のために
聖座によって、舌による聖体拝領の義務づけが、なされるかもしれません
 
手による聖体拝領は
信徒自身が、聖別されたパンを、自ら手に取ることと
実質的に、なんら差異がない
 
手による聖体拝領は
信徒自身が、聖別されたパンを、自ら手に取ることと
実質的には、なんら差異がありません
 
というのも、実際のところ、手による聖体拝領は
パテナに見立てた、自身の左の掌の上に、乗せられた聖体の秘跡を
拝領者自身の右の指で、自ら手に取って、自分に与える、という
その動作そのものによって
信徒のクラリカゼーションを体現する象徴的行為だからです
 
 
聖別された司祭の手のほか聖別されたパンに触れられるのは許されない
聖トマス・アクイナス司祭教会博士
cf ; Qu.82,art.3
 
キリストの御体の分配は3つの理由から、司祭に属する
 
第1の理由として
司祭は、キリストになり代わって聖別をなし
キリストの御体を聖別するのと同様に
その分配も司祭に属するからである
 
第2の理由として
司祭は、神と民との間の仲介者として任命され
民の賜物を神に捧げることが司祭に属するのと同様に
神の聖別された賜物を民に与えることも司祭に属するからである
 
第3の理由として
聖別されたもの以外のいかなるものによっても触れられることのないように
という、この秘跡に対する崇敬の想いから
コルポラーレやカリスが聖別されるのと同様に
この秘跡に触れるための司祭の手も聖別されるからである
 
このことからすれば
聖別されたパンが地面に落ちた等の緊急必要な場合を除いて
他の誰も、それに触れることは許されない
 

イメージ 1

 
手による聖体拝領による弊害の予見


①聖香油で特別に聖別された司祭の掌×そうでない信徒の掌
 
司祭は、叙階の秘跡を受ける際
聖なるもののうち最も聖なるものに触れるがゆえに
その掌に、司教から、聖香油を塗られて、特別に聖別されます
 
しかしながら、信徒は
聖なるもののうち最も聖なるものに触れるにあたり
その掌に、司教から、聖香油を塗られることなく
特別に聖別されていません
 
②洗われた司祭の掌と指×洗われない信徒の掌と指
 
司祭は、ミサ聖祭が進行する中で
自らの指で触れるオスツィアをキリストの御体に聖変化させる前に
その掌と指先を水で洗い清めて
ミサの本質部分にいよいよ入っていきます
 
しかしながら、信徒は、ミサ聖祭が進行する中で
自らの掌も、指先も、水で洗い清めることはしません
 
それにもかかわらず
(手による聖体拝領をする信徒は)
祭儀中、その掌や指先を水で洗うということもないままに
特別に聖香油で聖別されたわけでもない、その掌(おもに左手)に
聖なるもののうち最も聖なるものが、いったん、置かれ
自身の左の掌に置かれている『その聖別されたパンを
(おもに右手の指先で)自ら手に取ります』
 
話によれば、信徒の中には、ミサ直前にトイレを済ませた際
手を洗わずに、そのまま聖堂に赴いてミサに参加して
そのまま拝領に向かう者もいるそうです
 
相手のことを想っているかいないか
それはおのずと自らの振る舞いに表面化します
 
まして、相手は、どこかの国のお偉いさんどころではなく
私たちの救いのために人となられた神ご自身です
 
③聖別されたパテナ及びコルポラーレ×掌に直置き
 
司祭の手は
最も崇高なエウカリスツィアの秘跡に触れるにあたり
叙階の秘跡において聖香油で特別に聖別され
さらに、祭儀中、その指先まで丁寧に水で洗われ
祭壇上で聖別されたパンは、パテナの上に置かれ
さらに小片の落下を防ぐため、コルポラーレまで敷かれて
幾重にも慎重を期すほどに、聖体への敬意を表しています
 
しかしながら、手による聖体拝領において
小さな受け皿のように広げた、信徒の左の掌の上には、直置きです
 
④聖体の小片への繊細な扱い×はたきないし放置
 
司祭自身の指に付着した聖体の極小の小片から
パテナやチボリウム等に付着した聖体の極小の小片に至るまで
司祭は丁寧に集めてカリス内に入れ
そこに水を注いで、それらの小片も併せて飲み干すことで
慎重を期しつつ聖体への敬意を表しています
 
しかしながら、手による聖体拝領において
信徒は、自身の掌もしくは指先に
聖体の小片が付着しているかどうかの確認をすることもなく
また、そのことについて気にかけることもほとんどなく
いわば放置状態で
自席に戻ると、服の横で手をぬぐったり、手ではたいたり
(まるで掌についたスナック菓子の粉をはたきおとすかのように)
また、聖体拝領したばかりなのに、すぐお隣さんと話し込んだり
ティッシュを取り出し、「か〜〜〜〜〜っ ペっ」と、やらかしたり
そわそわと帰宅する準備を整え出したり
訪れてくださった主をないがしろ的に放置して、他事にかまけがちです
(客観的に実際そうなりがちな傾向が数多く見受けられる、というだけで
 みながみな、そうしている、というわけではありませんが
 実際のところ、閉祭ですぐさま聖堂を後にする人が大半を占めています)
 
そこには、聖体への敬意が弱められ薄められている感がいなめません
愛が、愛されていない感がいなめません
 
⑤手による拝領は、司祭のミスリードや信徒による違法行為の弊害をもたらす
 
舌による聖体拝領であれば
司祭から舌の上に聖体が乗せられるので
(奉仕者は、拝領者の顎下に拝領皿を保持しておかなければなりません)
両形態における信徒による違法行為
いわゆるセルフ・インティンクションは決して起こりえませんが
 
手による聖体拝領であれば
その掌の上に、一時的に、聖体が乗せられるので
司祭のミスリードで
カリス内の聖血に聖体を信徒自身で浸すよう促された際
良識的に判断できる信徒であれば思いとどまるでしょうが
実際は、ほとんどの信徒が
両形態における信徒による違法行為
いわゆるセルフ・インティンクションをやってのけてしまう
というのが現状です
 
この両形態における信徒による違法行為は
聖座が1980年に公文書で含蓄的表現のもとにNGを出し
さらに2004年に公文書で明示的表現のもとにNGを出したものであり
2014年には日本国内の教会の指針でNGとして明示されていますが
2017年の現在でさえ、それに背き続ける司祭たちや信徒たちがいる
というのが実態であり
 
手による聖体拝領を続けることは
両形態における違法行為に門戸を大きく開いてしまう
そのような弊害をもたらしやすくします
 
⑥手による聖体拝領は拝領されずに持ち去られる弊害をもたらす
 
未信者か信者かは不明ですが
聖体拝領の列に並び
手で受けたのち拝領すると見せかけて
司祭が次の拝領者に気を取られている隙に
聖体を手に隠して持ち去り、投げ捨てたり、どこかに放置したり
あるいは黒ミサの冒瀆に用いるため売り飛ばしたり
そのような重大な侮辱や汚聖の弊害をもたらしやすくします
 
ごくごく数年前、ある日本の教区において
教会前の人通りの多い歩道に
複数の聖別されたパンが、ばらまくようにして
地面に投げ捨てられていた
というショッキングな事件もありました
 
 
手による聖体拝領と、舌による聖体拝領の扱いは、教会法上異なる
 
手による聖体拝領は
その前提として、『拝領者が手に受けたければ』
それを、条件的に、許可する、といった類いのもので
その許可条件を満たせなくなった理由が明らかであれば
その許可を取り消し、禁じることができます
 
一方、舌による聖体拝領は
信徒の保護されるべき不可侵の『権利』として、すでに確立されていて
それを禁じることはできません
 
 
教会の聖人たちは、信徒に対して、舌での聖体拝領を促している
 
教会の聖人たちは
聖体拝領における信徒の取るべき態度として
舌による聖体拝領を実践するよう、明示的に促しています
 
その明示的な促しをなした聖人は
叙階の秘跡を受けていた2人
ピエトレルチーナの聖ピオ司祭であり
聖ヨハネ・パウロ2世教皇です
 
両聖人は、叙階の秘跡を受けていましたから
その聖別された手で、至聖なる聖体に触れ得るというのは
その聖職カラクテルからしても、ごくごく自然というべきですが

その聖なる司祭職、聖別された手を有していたにもかかわらず
ひとたび、自分たちが、ミサ挙行の司式者側でなく
拝領者側につくや
彼らは、自身の聖体拝領において
ひざまずき、舌で、至聖なる祭壇の秘跡を受けていました
 
それは、彼らが、手で受けることができない立場だったからではなく
信徒たちへの、聖体拝領のあるべき模範として
言葉よりも、むしろ行動によって、明示するためでした
 
天来の示しを受けていたであろう彼らは
ピエトレルチーナの聖ピオにおいては
手による聖体拝領が広まり始める前に
聖ヨハネ・パウロ2世においては
手による聖体拝領での種々の濫用が蔓延していた中で
司祭職にあった彼ら各々が、預言者的に
信徒たちへの強烈なメッセージとして示したものでした
 
なお、現名誉教皇ベネディクト16世も
枢機卿時代、その同じ模範を示されました


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聖座は、ひざまずいて、舌で聖体拝領することを、信徒に促している
 
教皇庁教皇儀典室の儀典長グイド・マリーニ司祭
 
教会が定めた、ひざまずきつつ、舌で聖体を拝領することは
聖体の細かな小片の落下を、できる限り回避させるものであり
エウカリスツィアの秘蹟におけるキリストの真の現存への敬虔を
信徒たちのうちに増加させるものです
 
エウカリスツィアのキリストを拝領する際のひざまずきは
そこに現存されるキリストへの礼拝を示唆し、促すものです
 
私たちは聖体拝領に際して
そのような、最高の敬意と礼拝をもって、主に近づくべきです
 
教皇庁典礼秘蹟省の長官ロベルト・サラ枢機卿
 
司祭たちは、聖体拝領におけるひざまずきを否定してはならない
信徒たちには、可能な限り、ひざまずいて聖体拝領することを勧める
聖変化、特に聖体拝領におけるひざまずきは復興される必要がある
 
適応に関する典礼秘蹟省の書簡
cf,Notitiae38 ; 582-584 ; 200271日)
 
各司教協議会の定めた適応に従って、立つ姿勢を規準とした地域においても
信者がひざまずくからという理由で、その信者に聖体拝領を拒むことは
キリスト信者の最も基本的な権利に対する重大な侵害である
 
そもそも適応の承認は
聖体拝領の際にひざまずくことを選択した信者たちが
その事だけによって聖体拝領を拒まれてはならない、ということが条件である

 
手による拝領の廃止および舌による拝領の義務づけ
 
現段階では、ひざまずいて、舌で聖体拝領することは
典礼秘跡省が聖座のWEB上で
明示的に推奨するにとどめていますが
あまりにもやまない典礼上の濫用や不敬や弊害のゆえに
また、聖体の秘跡へのふさわしい礼拝と敬意推進のために
いずれ公文書によって
手による聖体拝領が、廃止勧告され
舌による聖体拝領が、義務づけられるかもしれません



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