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両形態拝領における疑問
つい最近も、司祭が、両形態での信徒の聖体拝領の際
信徒に聖体を授けて
信徒自身に、祭壇脇のカリスの中の聖血に浸させていました
以前にも、その司祭に
その行為が禁じられていることを何度か告げましたが
一向に聴き入れてもらえず、今も、それをやめようとしません
また、自ら聖体を聖血に浸して拝領していた知り合いの信徒に
その行為が禁じられているのを認識しているかを尋ねたら
「ダメだとは知っているけれど、特別許可があるんじゃない?」
と答えていて、それをやめる気配が一向にありません
信徒自身に聖体をカリス内の聖血に浸させることについて
何か特別許可みたいなものがあるのでしょうか?
聖体の両形態拝領において
司祭は信徒自身に聖体を聖血に浸させてはならない
聴く耳をもたない人々のふるまい
ミサの聖体の両形態拝領において
信徒自身に聖体をカリス内の聖血に浸させることについて
特別許可というものはありません
それは、悪魔が蒔いた偽りの種のようなものです
それは次第に良心を麻痺させ
さらなる聖体への侮辱に道を開いてゆくものです
人は、自分が行なうことが
間違っている、もしくは、間違っているかもしれない
との認識を抱く際
2つの道のどちらかを選択します
1つは、素直に誤りを認めて、自らを矯正する道を選択します
もう1つは、自分の誤りを認めたくないとの意識のうちに
誤りの中に、逃げ場を探し出そうとして
理由にならない理由を創作し、それをつなぎ合わせて
なし崩しにして、誤りを継続する道を選択します
端的に言えば
謙遜か、傲慢か、の違いの表面化です
誤りの認識がありながら継続する人の傾向として
司祭の場合
誤りを指摘する人への不満から
(指摘されたことについて自らのプライドが邪魔をして)
聴き入れたくない意識がはたらいて
正しいことを告げられても、それに耳をふさいで
その禁止行為をやめようとしない
そのような傾向があるようです
信徒の場合
司祭がそうするように促しているから
みんなもしているから
といったように自分以外の人への責任転嫁でごまかそうとしたり
客観的事実を捻じ曲げて解釈しようとこころみ
自己保身という独自のフィルターにかけた上で
自ら創作した理由(「きっと特別許可みたいなのがあるんだわ」)を
機会があるごとに、自らの意識に刷り込み続け
それを発言することで、それを確信にすりかえて(記憶のすりかえ)
その禁止行為をやめようとしない
そのような傾向があるようです
聖体の両形態拝領において
司祭は信徒自身に聖体を聖血に浸させてはならない
聖体の両形態拝領において
司祭は、信徒自身に、聖体をカリス内の聖血に浸させてはなりません
信徒も、自ら、聖体をカリス内の聖血に浸してはなりません
このことはずいぶん前から公式に禁止され
幾度も教皇庁から公式通達が出されていました
2014年から日本で効力を発する聖体拝領の方法についての指針でも
日本全体で次の行為が禁止されています
『両形態による拝領の場合
司式者と共同司式者以外の者は、以下の方法で拝領することはできない。
⑴ 祭壇上に置かれたカリスを自分の手で取って御血を拝領すること。
⑵ カリスの中の御血に、自分で聖体を浸して拝領すること。
⑶ カリスから拝領した後、拝領者が次の拝領者にカリスを手渡すこと。』
これにより、日本国内で挙行される全てのミサにおいて
日本在住の全ての司祭(教区司祭、修道司祭)が、この規制を受けます
そのため、依然として信徒にセルフインティンクションを行わせる司祭は
司祭という自らの立場を濫用し
この禁止行為=違法行為を信徒に
ある意味で、強要させることになります
また、禁止された行為と知りながらそれを行う信徒は
全くの無知な信徒の場合と異なり
主の御前で、その違法行為について
より一層大きな責任を負うことになります
教皇庁が公式指針や公式通達でNGを出し
日本の司教協議会の公式指針でNGを出したにもかかわらず
あえて頑強に、この違法行為に自他を委ねる人は誰であれ
聖体の秘跡に対する甚だしい侮辱を犯すことになります
創世記において
神がNGを出したことについて
NGかどうかは私が決める、という振る舞いを選択した人祖のように
神がルールではなく、私がルールだと
言葉ではなく、行いによって、不従順を行動宣言するようなもので
神の権威を愚弄し、侮辱し、踏みにじることに等しい、と言えます
神は、人が、死に向かわないように指針を与えています
神は、理由なく、人に指針を与えていません
多くの人は、その指針を、「べつに大したことじゃない」と軽んじがちです
悪魔は、創世記における人祖に対してささやいたと同様に
「こんなことであなたは死なない。大丈夫だ。安心して、ほおばれ」
と現代の司祭や信徒の耳元でささやき続け
彼らの傲慢さにつけこんで
偽りの安心感であざむき
終わりに、突如、その霊魂を神からもぎ取り
人を永遠の死へと導こうとするのです
「正しくないことを行なって
真理を阻んでいる人々のあらゆる不信の心と
正しくないことに対する神の怒りが、天から現わされます」(ローマ1,18)
フランシスコ教皇聖下
現代のキリスト者の愚かなふるまい
愚かなふるまいとは
『聴き入れない』タイプのことで
いわばNescioと呼ばれるもので
「私は知りたくもない」「私は聴きたくもない」といった状態のことです
彼らは神の御言葉に耳を傾けることに無気力で
神の御言葉は、その中に入ってゆくことができません
聴こうとさえしていないがゆえに、それを内面にもたらせないのです
愚かな人は、聴く耳をもちません
その人自身は、自分が聞いていると信じていますが
しかし、実際のところ、聴いていないのです
常々その人自身が置く妨げによって、また、それが要因で
神の御言葉が、その人の心の中に入ることができないのです
そして、そこ(その人の心の中)に、愛のための居場所がないのです
また、仮に、そこに御言葉が入れたとしても
その人のうちで、その人に都合のいいように、それが蒸留され
その人にとっての現実味を帯びた独自解釈へと
すっかり変質させられてしまうのです
愚かな人々は
聴くすべを知ろうとしません
そして、この心の難聴は
心の堕落へと導いてゆきます
神の御言葉は、そこに入ることができません
そこには、愛のための居場所がなく
ついには、自由のための居場所がなくなってしまうのです
このようにして、彼らは奴隷化してしまいます
なぜなら、彼らは、神の真理を、自らの偽りにすり替えて
創造主のかわりに、被造物(自分自身)を礼拝してしまうからです
彼らは自由ではありません
聴く耳をもたないからです
この心の難聴は
愛のための部屋も、自由になるための部屋も持ちあわせず
常に、彼らを隷属へと導いてゆきます
私は神の御言葉に耳を傾けているでしょうか?
私はそれを自らのうちへともたらそうとしているでしょうか?
「実に、神の御言葉は生きていて、力があり
どんな両刃の剣よりも鋭く
魂と霊、関節と骨髄の分かれ目まで刺し通し
心の思いや考えを見分けることができます
神の御前に隠れた被造物は1つもなく
全てのものが、その眼には裸であり、あらわです
この神の御前で
私たちは総決算をしなければなりません」(ヘブライ4,12-13)
私は、神の御言葉を、私自身の中に迎え入れているでしょうか?
それとも、それに対して、耳をふさいでいるでしょうか?
私はそれを自己保身の外観へと変質させていないでしょうか?
私はそれを自己陶酔、偶像崇拝的傾向
あるいはイデオロギーへと変質させていないでしょうか?
依然として、そのように自己に都合よく変換させていれば
神の御言葉が、その人のうちに入ることはありません
これが、キリスト者における愚かなふるまいです
現代の愚かな人々のアイコンを見てみましょう
そこには、愚かなキリスト者たちが
さらには、愚かな司牧者たちさえ、そこにいます
聖アウグスティノは告げています
「司牧者たちの愚かなふるまいは、その群れを傷つける」
この愚かなふるまいのすぐそばで
彼らの心のドアをたたいて
いつも待ち続けておられる主を見ることができます
イエズスは、イエルザレムについて、憂いて
嘆きのうちに涙を流されました
「イエルザレム、イエルザレム
預言者を殺し、自分に遣わされた人を石で打ち殺す者よ
めんどりが翼の下にひなを集めるように
私は幾度あなたの子らを集めようとしたことだろう
しかし、あなたたちは、それに応じようとはしなかった」(ルカ13,34)
もし私たちが、この愚かなふるまいに堕ちていくならば
私たちは、主から離れ去ることになり
主を嘆かせることになります
イエズスの憂いは、私たちへの憂いです
主がお選びになられた民、主から愛された民
それでいて、自らの愚かさゆえに
自己保身の外観、偶像、イデオロギーを選択した民への憂いです
私たちは悪魔のステルスに警戒しなければならない
「誘惑に陥らないよう、目覚めて祈りなさい」(マタイ26,41)
主は、私たちが誘惑に陥らないよう
目覚めて祈りなさい、と仰せられました
悪魔は、静かに、私たちのところに入り込んできます
そのようにして、悪魔は、人々の人生の部分となり始めます
彼らのアイデア、インスピレーションによって
人々がより快適に生きるのを助けるかのようにして
人々の心や人生に入り込み
なんらのノイズもたてず、静かに、人々の思考を変え始めます
この悪魔の方法は
かつての強烈な悪魔的憑依とは異なっています
この現代における悪魔的憑依は
あたかも『リビングルーム』のような憑依であり
悪魔は、ゆっくりと、私たちの基準を変えさせて
私たちを世俗化へと導いてゆきます
それは、私たちの行動様式のカムフラージュであり
私たちが最も注意していなければならないことです
内的基準を変えられてしまった人は
悪魔から解放されたとしても
世俗の重荷をひきずる悪い人になってしまいます
それこそが、まさに悪魔の狙いです
世俗とは、惑わしです
というのも、悪魔が、惑わしの父であるからです
悪魔が私たちのうちに入り込もうとする時
甘い雰囲気や見栄え良さのうちに
私たちの思考を掌握しようとします
そして、私たちの価値観を
神への奉仕から、世俗化へと変質させてゆきます
そのようにして、私たちは
生ぬるいキリスト者、世俗化したキリスト者となり
まるでフルーツサラダのように
世俗的精神と神的精神をミックスさせてしまうのです
各々、十字架につけられたキリストの御前で自己を糾明すべき
「目覚めて」とは
私たちの心の方向性を見つめることを意味しています
それは、自分の生活のあり方を糾明するべく
立ちどまって内省することを意味しています
十字架につけられたキリストだけが
私たちを世俗化へといざなう魅力や惑わしから
私たちを救うことがおできになります
キリスト者は、いつも、十字架につけられたキリストを仰ぎ見て
自分自身について、祈りのうちに、良心の糾明をしなければなりません
私たちの日々の活動の合間にはさむべき
この良心の糾明は
悪魔と、他の7位の悪霊が、私たちのうちに形成しようとする
精神的世俗化や妥協を、打ち崩すものです
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奉納における疑問
たまに司祭がミサの奉納の際
「神よ、あなたは万物の造り主
ここに供えるパンとぶどう酒はあなたから頂いたもの
大地の恵み、労働の実り。わたしたちの命の糧となるものです」
というふうに
パンとカリスを一文で済ませるのを見受けるのですが
パンとカリスを一文で済ませても良いのでしょうか?
パンとぶどう酒の奉納の祈りは 定められたとおり個別に唱えられるべき
パンとぶどう酒の奉納の祈りは
ミサ典礼書に定められたとおり
個別に唱えられるべきです
それは主が
パンとぶどう酒を
それぞれ個別に
ご自分の御体
ご自分の御血に聖別されたことと調和対応させるためでもあります
パンとぶどう酒の奉納での祈りの内容は若干異なる
パンとぶどう酒の奉納での祈りの内容は
実際若干異なります
詳細は『ミサ聖祭の奉納における祈り』で確認してください
(2016/5/6書庫「ミサ聖祭について」)
通常形式でのパンの奉納では
『大地と人の手の働きの実り fructum terræ et operis manuum hominum 』
『私たちにとって生命のパン ex quo nobis fiet panis vitæ 』
であるのに対して
通常形式でのぶどう酒の奉納では
『ぶどうの樹と人の手の働きの実り fructum vitis et operis manuum hominum 』
『私たちにとって霊的な飲み物 ex quo nobis fiet potus spiritalis 』
と唱えるよう定められています
(ローマ規範版です。
日本語欠落翻訳版の
『大地の恵み、労働の実り、私たちのいのちの糧』ではありません)
日本語の誤った翻訳文では
あたかもパンとぶどう酒の奉納の祈り文が、同じ内容だからと考えて
「同じなら一緒に合わせて唱えちゃっていいんじゃない?」
みたいな短絡的な手抜きの判断を誘発させることになります
司祭はミサの時短に意を用いるべきではない
司祭は、ミサの奉納の時短に
意を用いるべきではありません
もし主が時短を許容されておられたなら
聖別の御言葉を
パンもぶどう酒も一緒にされて
『こちらは(パンを示しながら)、
あなたがたのために渡される私のからだであり、
こちらは(ぶどう酒を示しながら)、
私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、
罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。
これを私の記念として行いなさい』
と同時にまとめて聖別されたでしょうが
実際、主イエズスは
パンをご自分の御体に
ぶどう酒をご自分の御血に
それぞれ個別に聖別されたのですから
同じように
奉納においても
パンの奉納
ぶどう酒の奉納
それぞれ個別になすのが
ごくごく自然な調和のとれた対応であり
合理的な判断だと思います
そんなにミサ後の活動が気がかりで
奉納を短縮したい衝動にかられるなら
ミサの開始時間をもう少し早めたらよいと思います
ある司祭は
第4奉献文(他の奉献文より長めです)を唱える日は
15分早めにミサを開始するようにして
焦ることなくゆっくりと言葉をかみしめながら奉献文を唱えるなどして
前向きな工夫をほどこしたりしています
手抜きは、天来の恩寵の注ぎを減じるだけで
自他の霊的利益にはつながりません
食べ物と飲み物をどうしても一緒に混ぜたいならば
ミサ後の感謝の祈りを怠りなく捧げた後
(司祭は教会法に定められている通りミサ後に感謝を捧げなければならない)
コーンフレークとミルクを混ぜ混ぜして、思う存分ほおばってください
といった感じです
なお、どこかの典礼では
パンとぶどう酒を一緒に奉納する、というのはあるようです
(どこだったかド忘れしました)
司祭は、ローマ・ミサ典礼書を使用する以上
また、救い主ご自身による個別的聖別のしるしの観点からしても
教導教会が定めたとおり、祭儀の法に従って
パンとぶどう酒を、各々、個別に奉納しなければならない
司祭は、ローマ・ミサ典礼書を使用する以上
『定められた祈りを唱え』るべき(総則75)であって
(パンの奉納の動作やぶどう酒の奉納の動作等については総則141&142)
この典礼に固有の祈りを
恣意的に加工して唱えたり、省略して唱える権限は
司祭にも、司教にさえも与えられていません
なので、ローマの典礼法規上
また、救い主による個別的聖別のしるしの観点からしても
パンとぶどう酒の奉納は
それぞれ個別になすのが、ふさわしく正しいこと、と考えられます
なので、司祭は
ローマ・ミサ典礼書を使用する以上
特別形式ミサにおいても
通常形式ミサにおいても
さらにはハイブリッド形式ミサにおいても
パンとぶどう酒の奉納を
時短することなく
手抜きすることなく
各々個別になさなければなりません
Nobis quoque peccatoribus
おまけ
先日『典礼文の翻訳は十全かつ忠実な表現でなければならない』の記事の
『ミサにおいて胸を打とうとしない司牧者たち』の指摘の中で
日本語版のミサ典礼書の第1奉献文の箇所に
胸を打つ指示の赤色注記が翻訳されていなかったことを確認し
そのように翻訳欠落の指摘を記載していましたが
もしかしたら、100歩譲って
暫定版以前の日本語版ミサ典礼書の総則には
その胸を打つ指示が記載されていなかったのかな?と思い
日本語版のを本棚から引っ張り出して確認してみました
カトリック中央協議会発行の
2004年発行の『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』には
次のように記載されていました
『224. 「また、あなたの深いあわれみに頼るわたしたち罪びとを」
のことばで、共同司式司祭一同、胸を打つ。』
カトリック中央協議会発行の
1980年発行の『ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則』には
次のように記載されていました
『176. 「また、あなたの深いあわれみに頼るわたしたち罪びとを」
のことばで、共同司式司祭一同、胸を打つ。』
なんやねん、古い版にも、おもいっきり記載されとるやんけ
ということは。。。
やはり典礼文の本文中の単なる注記の欠落、翻訳ミスに過ぎないため
「本文中に胸を打つ指示の注記がないから
べつにその箇所で胸を打たなくてもかまわない」
などという判断は、誤りに過ぎないので
第1奉献文を使用する司教や司祭は
新しい日本語版のミサ典礼書が発行される以前に
現行の日本語版のミサ典礼書を使用するに際しても
『また、あなたの深いあわれみに頼るわたしたち罪びとを』の箇所で
胸を打たなければならない
という結論になります
このようなことは
本来、典礼挙行の専門家とも言うべき司祭自身が
奉献文を使用して自ら唱えている司祭自身が
第1奉献文中の注記の欠落を発見し
率先して、もっと早い段階で、改善策を講じておくべきことです
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福者コルンバ・マルミオン修道院長
霊的生活における生温さの危険性
罪から遠ざからなくても、神との一致は可能だと考えることほど
大きな錯覚はありません
しかし、このような錯覚は、意外にもしばしばであり
また、それだけに一層、危険をはらんでいます
悪い習慣と戦わない霊魂の内的生活は、至って平凡です
罪を避けることをしない霊魂の善徳の殿堂は、もろい砂上の楼閣です
司祭たちや修道者たちの恐るべき破戒の実例を
私たちはしばしば見せつけられることがあります
いったい何が、彼らをこのような破滅にまで導いたのでしょうか?
それは決して一朝一夕で潰れてしまったのではなく
その要因はずっと前の段階にまでさかのぼります
傲慢心、自愛心、神への畏敬の欠如、感覚的満足の追求
これらがずっと以前から、その建物の土台を蝕んでいたのです
霊魂が、遵守すべき霊的規範に対して
普段、知りながら、故意に、習慣的に、不忠実をおかして
それでいて、その心のうちで、なんら内省せず
呵責も感じようとせずに、聖霊の促しを無視して、平然としている時
この霊魂が、完徳に向かって、真実に、絶え間なく、進歩することは
絶対的に不可能です
私たちのうちで働きかけをなさる神の御手を
いわば麻痺させ、活動不能にするもの
それは、霊魂による、感覚的なものへの愛着、自愛心への愛着です
これこそが、そこから不忠実と、故意に犯す罪が
最も多く生まれてくる母胎となっているのです
神は、しきりに、ご自分を霊魂に与えようとなさっているのに
霊魂自身が、そこに障害物をおいて
神の御手に思う存分な力を発揮させず
従順、謙遜、愛に立ち帰るよう促す、神の積極的な招きに
「いいえ」をもって応えて、これに抵抗するのです
聖霊は、霊魂による意識的な抵抗によって
悲しまれ、ついに沈黙してしまわれます
この冷淡の状態は
それが傲慢や不従順などの精神的罪に関する時
とりわけ危険です
それは、神と霊魂との間に
越えることのできない壁を築いてしまうことになるからです
しかも、神は、私たちの完徳の第一要因であられますから
神の働きかけをしめだす霊魂は
自分の手で、永遠の生命への活路を断つようなものです
このような危険な状態から逃れる最良の方法は
悔い改めの精神を自らのうちに養うことです
痛悔の精神の欠如
いにしえの修道者は、その修道的環境において
現在の修道者に比べて、決して恵まれていたとは言えませんが
それでも、その内的生活においては、私たちよりも、ずっと早く
恒久性と堅実性との高い度合いに到達していました
これに反して、現代のキリスト信者の多くは
熱心な修道者たちでさえも
その内的生活においては、驚くほど不安定な状態にあります
彼らの内的生活は、外面とは裏腹に
頻繁に流転し、変動して、落ち着きがありません
神へと向かう内心の飛躍は
いつも妨げを受け、霊的生活の進歩も阻まれているのが現状です
いったい何が、この内心の変遷の原因なのでしょうか?
それは、痛悔の精神の欠如に起因しています
霊的生活を、堅固で、恒久不動のものにするための
最も確実な手段は、実に、痛悔の精神なのです
教会のセンスである心の痛悔
教導教会は、ミサの典礼において
心の痛悔の顕著な規範を示しています
被造物が、神に捧げることのできる最高の犠牲である
このミサ聖祭を挙行する際
司祭の心をみなぎらせるべき想いとは、いったい何でしょうか?
多くの人々のうちから彼を選んで
天使たちさえも、それにかなわなぬ永遠の司祭職に任命された
神の特別な恩寵への感謝の想いでしょうか?
実際のところ、司祭の唇をついて出るのは
痛悔の叫びです
「私は告白いたします。全能の神、幸いな終生おとめマリアに...
これは私の過ち、私の過ち、私の大いなる過ちです...」
ミサが進むにつれて痛悔の叫びは、ますます哀切を極めていきます
「主よ、私たちから、私たちの不義を遠ざけてくださるよう願い求めます
私たちが清められた心のうちに、至聖所に入ることができますように...」
「主よ、ここに聖遺物をおかれている、あなたの聖人たちの功徳によって
また、全ての聖人たちの功徳によって
私の全ての罪をお赦しくださいますように。アーメン」
「福音で語られた御言葉によって、私たちの過ちが赦されますように」
生きておられる真の神の御前に
汚れないオスツィアとカリスを捧げる際、司祭は唱えます
「聖なる父、全能永遠の神よ
私の数え尽くすことのできない罪と過ちと怠りのため
ここに集う全ての人のため
さらに、キリスト信者の生者と死者、全てのために
あなたの取るに足りないしもべである私が
私の生けるまことの神であるあなたにお捧げする
この汚れのないオスツィアをお受け入れください
こうして、このオスツィアが、私と彼らにとって
永遠の生命における救いに役立つものとなりますように。アーメン」
「主よ、私たちは、あなたのいつくしみを願い求めて
救いのカリスをあなたにお捧げいたします
こうして、このカリスが、私たちと全世界の救いのために
あなたの神的御稜威の御前に
ここちよい芳香と共に立ち昇りますように。アーメン」
「主よ、へりくだりの精神と痛悔の魂のうちに
私たちがあなたに受け入れられますように
今日、あなたの御前で、私たちのいけにえがふさわしくされて
神である主よ、あなたに喜ばれるものとなりますように」
さらに聖別後の奉献文中では
イエズスと同心同体となりながらも
罪人としての自覚のうちに、胸を打ちながら強調的に嘆願します
「また、私たちは罪人に過ぎませんが、あなたのしもべであり
あなたのはかりしれない憐れみに希望を抱く私たちをも
あなたの聖なる使徒たち、殉教者たちとの
関わりと交わりに連なることをお許しくださいますように...」
聖体拝領によって、まさに神であるいけにえと1つになろうとする際
深いへりくだりのうちに次のように祈ります
「主イエズス・キリスト、生きておられる神の御子よ...
このあなたの神聖な御体と御血によって
私の全ての罪と、あらゆる悪から、私を解放してください...
取るに足りない私が、あえていただくにあたり
これが私にとって、裁きと罰をもたらすことなく...」
「主よ、あなたを私の家にお迎えするには、私はふさわしくありません...」
なぜ教会は、このように定めたのでしょうか?
なぜ教会は、へりくだりのふるまいを幾度も繰り返させ
痛悔のうちに胸を打つことを定めたのでしょうか?
それは、痛悔の精神のないところに
キリスト教的生活の領域もありえない、ということをよく知っているからです
イエズスの犠牲は
いつでも、御父に喜んで受けおさめられます
しかしながら、それが
私たちを経て、御父に捧げられる時
御父からこころよく受けおさめていただくための条件は
私たち自身の、悔い改める心と、深いへりくだりの精神であることを
決して忘れてはならないのです
実際、心の痛悔は
私たちがあずかる秘蹟から
より一層、大きな霊的利益を引き出してくれるからであり
また、それこそが、まことの信心のしるしだからです |
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典礼文の翻訳は十全かつ忠実な表現でなければならない
フランシスコ教皇聖下
典礼的行為はキリストの聖心の継続的鼓動のうちに生かされている
私たちは、典礼刷新が、不可逆的であることを
教導権威のうちに確信的に肯定することができます
心の鼓動がなければ
人間の生命が存続しないのと同様に
キリストの聖心の鼓動がなければ
典礼的行為も存続しえません
現在の典礼書の祭儀と祈りのテキストは
教父たちによって伝えられ
カトリック教会のカテキズムによって復興された
教理教授に沿っている継続的なラインです
教会は、この現在の典礼書の祭儀とテキストの光のうちに
典礼、エウカリスツィア、他の諸秘蹟によって
神の民を牽引しています
それゆえ、各国での翻訳に際しては
各言語で保全された意味合いのうちにありつつも
ミサ典礼書規範版の原文の意味が
十全かつ忠実を尽くして表現されなければなりません
ベネの過去記事からの引用
2011年11月28日
地方教会の牧者は
神の民に対して、祭儀の法に基づき、
教皇庁が示すとおりのローマ・ミサ典礼の挙行を、
忠実に、省略することなく、実施する重い責任と義務があります
それは、神の民が当然受けるべき権利を侵害しないためでもあります
2015年4月14日
福者パウロ6世が求めた各国語ミサは
その忠実な翻訳による、ラテン語ミサの意味の再現性を
各国の信者の心に、豊かに実現させ、その理解を育み、育てていき
信者1人ひとりを、教会の祭儀の神秘に深く分け入れさせるためのものでした
典礼刷新によって始められた各国語ミサは
その本質において、典礼的美と秩序の比類ない表現の1つです
しかしながら、それが正しく理解されうるのは
その国語訳が、ラテン語原文に忠実に訳出しされている時に限られています
教皇との一致が保たれる限りにおいて
地方教会が、真に、『カトリック教会』であるように
ラテン語ミサの意味合いの一致が保たれる限りにおいて
各国語ミサが、真に、『カトリックのミサ』となります
従順は実りをもたらし
不従順は不毛をもたらすからです
教会が定めた公式の祈り文は
教会が抱いている信仰を表明するものであり
教会がなすべき儀式を、美しい規律のうちに表現するものです
それゆえ、教会の公式の祈り文が、各諸言語に翻訳されるに際し
忠実さ、繊細さ、正確さが要求されます
各地方教会は、各国語ミサにおいて
省略や恣意的変更などの不忠実で不従順な加工ではなく
教皇庁典礼秘跡省の指導に基づいて
ラテン語ミサを忠実に翻訳した、各国での口語ミサを
各国の信徒に提供すべき役割と『重い』責任があります
ベネのひとりごと
ミサにおいて胸を打とうとしない司牧者たち
典礼文の翻訳は
そのテキストと注記に至るまで
十全かつ忠実な表現でなければならないことは明らかです
胸を打つ外的行為は
心の痛悔とへりくだりの精神を示す内的行為に密接に結ばれています
Cor contritum et humiliatum, Deus, non despicies.
(痛悔し、へりくだる心を、神よ、あなたは軽んじられません)
神が、へりくだり、悔い改める心を軽んじられないのであれば
へりくだりのないところ
悔い改める心のないところに
神の寵愛は注がれない、と言えるでしょう
司牧者は、典礼挙行に際して
悔い改めを示すふるまい
すなわち、自身の胸を打つよう、みずから是正すべきでしょうし
祭儀にあずかる信徒たちに、内的痛悔の大切さを
身をもって明示すべきでしょう
ミサ導入部の告白の祈りで、自身で3度胸を打たない
信徒にも打たせない、ことについては
長くなるので、脇に置いておくとして
ここ数年、たま〜にですが
通常形式ミサにおいて
教区司教や教区司祭によって
第1奉献文が使用されるようになりました
その奉献文の日本語訳の云々は
脇に置いておくとして
これまで自分の目の錯覚だろうと思い
この記事を書くまで放置していましたが
ミサの第1奉献文の Nobis quoque peccatoribus の箇所で
教区司教はじめ教区司祭も
胸を打たない、打つそぶりも全くない
ということに薄々気づいていましたが
たぶん、うっかり忘れていたのだろう
と思うようにしていましたが。。。
そのようなことが、2度、3度にわたり続きに続き
4度目に、ようやく、うっかり胸を打つのを忘れた、などではなく
本当に、意識というか認識そのものがないんだ、と思い至りました
ローマ・ミサ典礼書の規範版には
特別形式ミサにおいても
通常形式ミサにおいても
該当する奉献文の使用に際して
Nobis quoque peccatoribus の箇所で
わざわざ真っ赤な文字で
Manu dextera percutit sibi pectus.(右手で自身の胸を打つ)
と指示されています
それにもかかわらず
日本の司牧者のだれも
典礼挙行の模範となるべき裁治権者である司教でさえ
ここの箇所について何も言わないこと
何も是正しようとしないことに
ただただ驚くばかり
なんでみんな胸を打たないんだ?と思いつつ
日本語版のミサ典礼書を確認すると
なんのことはない
この箇所についての注記が
全くもって翻訳されていなかった
はぁ(呆)
ちなみにローマ・ミサ典礼書の規範版Ordo Missae ミサ通常文の
第1奉献文の該当箇所は下記のとおりです(P.578)
96.Manu dextera percutit sibi pectus,dicens:
Nobis quoque peccatóribus fámulis tuis,
et extensis manibus prosequitur:
de multitúdine miseratiónum tuárum sperántibus
partem áliquam et societátem donáre dignéris
cum tuis sanctis Apóstolis et Martýribus
大雑把ですが、これを日本語に訳すと
『右手で自身の胸を打ちながら、唱える:
また、私たちは罪人に過ぎませんが、あなたのしもべであり
両手を広げて続ける:
あなたのはかりしれない憐れみに希望を抱く私たちをも
あなたの聖なる使徒たち、殉教者たちとの
関わりと交わりに連なることをお許しくださいますように』
といった感じになるでしょう
一方、日本語ミサ典礼書では
『両手を広げて続ける。
また、あなたの深い憐れみに頼るわたしたち罪びとを
使徒と殉教者の集いに受け入れてください』
といった感じになっていて、右手で胸を打つ指示が欠落しています
なお、特別形式ミサでは
Manu dextera percutit sibi pectus, elata aliquantulum voce dicens:
右手で自身の胸を打ちながら、 少し声を高くして唱える:
Nobis quoque peccatóribus
また、私たちは罪人に過ぎませんが
といったように
あなたの御前で、私たちは罪人に過ぎません、という現実を
より一層、強調して唱えるよう、指示しています
奉献文の結びの大合唱を是正しようとしない司牧者たち
Per ipsum, et cum ipso, et in ipso,
est tibi Deo Patri omnipoténti,
in unitáte Spíritus Sancti,
omnis honor et glória
per ómnia sǽcula sæculórum.
Populus acclamat:
会衆は応唱する:
Amen.
いまだに奉献文の結びも
相変わらず信徒たちの大合唱
司牧者たちは
それをわかっていても是正する気もほとんどないようです
それでいて
殉教者の列福式で
教皇庁から派遣された枢機卿たちが来日する際には
奉献文の結びを
信徒たちが大合唱しないような工夫をほどこしたりする
なんというズルさ!
はぁ(呆)
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キリストへの愛に、決して、何ものも優先させてはならない
聖ベネディクト
Nihil amori Christi præponere.
キリストへの愛に、決して、何ものも優先させてはならない
ロベルト・サラ枢機卿
神の優位性に心の内的行為を向き直すべき
典礼における神の地位、神の優位性は危機に瀕しています
『典礼の教皇』ベネディクト16世は、次のように強調しました
「典礼の真の刷新こそ、教会再生のための基本的な条件です」
私たちは教皇自発教令 Summorum Pontificum の教えを
典礼の深遠な意味のうちに実践することが必要です
私たちはそれを深く理解しているでしょうか?
ローマ典礼の2つの形式の間には、深い連続性と一致があります
そのため、この2つの形式は必然的に、お互いを照らし、豊かにします
2つの典礼形式は、同じ Lex Orandi の部分をなしています
カトリック教会における典礼刷新の誤解は
私たちの教育面、活動面、創造性の面を、最優先させたために
人間的行為に没頭するあまり、神の優位を忘れさせたことにあります
教会の存在は、典礼上の正しい挙行によって生かされています
しかし、現在、神の優位性がもはや典礼に現れず
教会が危険にさらされています
教会を揺るがした危機の、最も深刻な要因は
典礼における神の優先権を、不明瞭にしたことにあります
キリスト信者における信仰の重大な危機は、信徒の段階だけではありません
多くの司祭たち、さらには司教の間でさえ、特に、重大な危機が続いています
その危機は
ミサの祝祭において、特に目に見えるほどにあらわれています
多くのカトリック信者は、聖堂内での『神聖な沈黙』を無視し
至聖なる聖体の秘跡への敬意を示す『ひざまずき』を無視しています
神の優位性にからだの外的行為も向き直すべき
自分自身を神に向けることは
内的現実である私たちの霊魂を、神に向き直させ
外的現実である私たちのからだを、神に向き直させることです
今日、私は特別な提案をしたいと思います
その提案とは、美しさ、適切さを反映し、司牧的価値を有する1つの実践です
教会生活と伝統のうちに形成された実践とは
すなわち、ひざまずいて、舌で聖体を拝領することです
聖パウロが教えるように
天も地も地の下のもの全てのものが、イエズスの聖名の前にひざまずくなら
まして、私たちが、最も崇高な主との親密な交わりとなる聖体拝領において
主ご自身を私たちがいただきに向かう際には
私たちのひざをかがめなければならないはずです
まず、私たちは、私たちの主に向かうに際し
その聖体的現存を礼拝するためにひざまずかなければなりません
聖ヨハネ・パウロ2世教皇は
病気で悩まされていた時でさえ
その壊れたからだのまま
至聖なるエウカリスツィアの秘蹟の御前で
いつもひざまずいていました
聖人は、その最期の日に至るまで
聖体の秘跡への礼拝の偉大なあかしを
私たちにもたらそうと望まれたのです
至聖なるエウカリスツィアの礼拝をあらわす外的行為として
奉献文の初めから結びまで、両手を合わせつつ、ひざまずくこと
聖体拝領の際にひざまずくこと
舌によって聖体拝領すること
これらが挙げられます
コルコタの聖女テレジアは、沈黙のうちに主を観想していました
聖女は、聖体のイエズスの御前で、長い間ひざまずき、ひれ伏し
へりくだる幼子のように、聖体の主を舌で拝領していました
聖女は、信者たちが、彼らの手で、聖体の秘跡を受けているのを見て
深く悲しみ、心に痛みをおぼえていた、と言われています
また、ファティマでは
ひざまずいて、舌で聖体拝領するように、との天からの要請
神の明示的勧告が、私たちになされました
司祭は、自分の権威を濫用して
ひざまずいて舌で聖体拝領することを望む信者を拒絶したり
小馬鹿にするようなことをしてはなりません
舌による聖体拝領は
幼子のように、主ご自身を食べさせていただくことに
私たちがおまかせするふるまいです
幼子のようにへりくだりつつ
ひざまずいて、舌で、キリストの御体をいただきに向かいましょう
それは神が、ご自身、私たちに仰せられているとおりです
「Ego enim sum Dominus Deus tuus, dilata os tuum, et implebo illud.
私はあなたの神、主である。私が、あなたの広く開けた口を満たした」(Ps81,11)
アントニオ・カニザレス・ジョベラ枢機卿
ひざまずきと舌による聖体拝領
舌で聖体拝領することは、何を意味しているでしょうか?
至聖なる聖体の秘蹟の御前でひざまずくことは、何を意味しているでしょうか?
ミサの聖変化の間にひざまずくことは、何を意味しているでしょうか?
それが意味すること、それは礼拝です
それが意味すること
それは、エウカリスツィアにおけるイエズス・キリストの真の現存の認識です
それが意味すること
それは深い敬意であり、神の御前にひれふそうとする人の信仰の姿勢です
なぜなら、その人は
全てのものが神からもたらされることを知っているからであり
神の素晴らしさ、善良さ、その憐れみを前にして
圧倒され、言い尽くしがたい感動にとらえられるからです
そのためにこそ、この敬意に満ちた方法は
他の拝領方法、すなわち手に聖体をおくことと同じではありません
また、聖体をひざまずいて受けることは
立ったままで受けることと同じではありません
というのも、それら全ての外面に現れるしるしは
深遠な意味を示しているからです
ミサの本質部分に対する嘆かわしい軽視
残念なことに、あまりにも多くの司祭は
神の御言葉よりも、自分の言葉に重きを置いています
説教を45分ほどかけて
それに続くミサの本質部分を15分や20分に済ませることなど
全くもって受け入れられないことです
神に向かう典礼の精神を、私たちは再興させなければならない
私たちは、典礼の精神を再興しなければなりません
教皇の典礼祭儀に導入されたジェスチャーは、とても意義深いことです
すなわち、典礼挙行を東向きにすること
祭壇の中央に十字架を据えること
聖体拝領の際にひざまずくこと
グレゴリオ聖歌を歌うこと
沈黙のひと時を確保すること
神聖な芸術の美しさを示すことです
ベネのひとりごと
典礼上の敬神行為について誤断する人々はキリストの聖心を傷つける
自分が見えていない人ほど
他者の立ち振舞いに対して
過度な干渉をしがちになる傾向があります
その独自の思い込みと思い違いで
上から目線の発言のうちに
誤りに過ぎないことを
しばしば他者に強要しようとします
彼らは典礼上の違法行為を
正しいこと、義務である、とまで考え
典礼上なさなければならない行為や
典礼上尊重されなければならない行為を
過ち、矯正されるべきである、とまで考えています
その長いものに巻かれようとする
誤った日和見主義的行為は
遅かれ早かれ
その誤りの実りを自ら刈り取り
自身を傷つける負の報いとなるでしょう
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