|
Oratio diabolum fugat,iram Dei placat,
nostram viam dirigit,et ad regnum Dei perducit.
Radulfus Ardens
祈りは、悪魔を敗走させ、神の怒りを和らげ、
私たちの歩みを正し、神の国に導き入れる。 ラドゥルフォ・アルデンスは
フランス、ポワトゥーのボーリューの貴族の家庭に生まれ
哲学、神学を学び、30歳前に神学博士となり、学校で教鞭をとり
著名な優れた説教者となり、神学や倫理を体系的に解説し
『Summa de vitiis et virtutibus』や『Speculum universale』を著し
1190年からイギリスのリカルド1世の宮廷司祭としての職務を果たし
1200年帰天した。
|
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
2017年 教皇聖下の祈りの意向
(1月から6月まで)
フランシスコ教皇聖下は
2017年からの毎月の祈りの意向について
基本的に1つの祈りの意向を据えて
毎月第1主日に『当月の喫緊の意向』を追加表明する
そのような形に変更されました
1月 キリスト者の一致
全てのキリスト者が
教会的交わりの回復のために
祈りと兄弟愛のうちに努めることによって
また、人類が直面する取り組みに連携するために
協働することによって
主の教えに忠実なものとなることができますように
1月の喫緊の祈りの意向
これほどまでに冷え切った大寒波の日々に際して
私は、厳しい寒さや、しばしば無関心にさらされている
道端で生活する全ての人々に想いをよせるよう
みなさんを招きたいと思います
私たちは彼らのために、主に向かって祈りをお捧げいたします
彼らを支援するよう、人々に温かい心を、主がお与えくださいますように 2月 苦悩する人々のための慰め
苦悩する人々、特に、貧困者、難民、軽んじられた人々が
彼らを迎え入れてくれる居場所を見出すことができますように
また、私たちの共同体において、慰めを受けることができますように
2月の喫緊の祈りの意向
〜生命の神聖さ〜
使い捨ての文化の論理が横行する中にあって
共に生命の文化を推進させていきましょう
私たちは
妊娠中絶の危険のさなかにある
子供たちのために祈ります
それに加えて
人生の終わりを迎える人々のためにも祈ります
1人ひとりの生命は神聖なものです!
そのため
誰も遺棄されたりしてはなりませんし
また、愛によって、生命の重要性が擁護されなければなりません
3月 迫害されるキリスト者たちのためのサポート
迫害されるキリスト者たちが
全教会からの、祈りや実際的な支援によって
サポートを受けることができますように
3月の喫緊の祈りの意向
アリッチャにおける3月10日金曜日まで行なわれる
静修(黙想会)に参加する私と私の協力者たちのために祈りを捧げてください
4月 青少年たち
青少年たちが、彼らにおける種々の召命に
寛大に応えることができますように
また、司祭職、もしくは、奉献生活において
神に彼ら自身を捧げることについての真摯な熟考のうちに
寛大に応えることができますように
4月の喫緊の祈りの意向
コロンビアの土石流被災者たちのために
コンゴ民主共和国、ヴェネズエラ共和国、パラグアイ共和国の平和のために 5月 アフリカのキリスト者たち
アフリカのキリスト者たちが
憐れみ深いイエズスに倣い
和解、正義、平和のための預言的証し人として
自らを差し出すことができますように
6月 各国のリーダーたち
各国のリーダーたちが
多くの罪のない人々を犠牲にする武器の取引を終わらせるために
彼ら自身の確固とした約束を果たすことができますように
フランシスコ教皇聖下
神の優しさと、その愛のふるまい
主は、私たちを探すことを決しておやめになりません
神は、私たちを救うためなら、どんなことでもなさいます
主は、私たちを断罪するために来られたのではなく
私たちを救うために他なりません
主は、私たちを個別的に、その各々を愛しておられます
主は、私たちの名をご存知であり
私たちがどのようなものであろうとも、私たちを愛しておられます
失われた羊は、コンパスを持たず
病んだ心を持っています
失われた羊は、主から遠くに走り去り
その内なる暗闇を満たそうとします
主は、そのような状態の羊のこともご存知であり
その失われた羊を探し求めることを決して怠りません
ユダに対する主の忍耐強い姿勢は実にシンボリックです
福音において、ユダは完全に失われた羊であり
いつも他者のうちに何らかのあら探しをするような辛辣な心をもち
いつも主の意向から離れていました
彼は他者への優しさを知ろうともせず
不満に満ちていた人でした
ユダは、その心の暗闇のうちに
群衆への思いやりから、かけ離れていたからです
そのような暗闇は、往々にして
人を二重生活へと導きます
痛ましいことに
多くのキリスト者は
司祭でさえ、そして、司教でさえも
その同じ暗闇に導かれて、二重生活を送っています
ユダ自身、最初の司教たちの1人であったのです
プリモ・マッツォラーリ司祭は
(※聖ヨハネ23世から『聖霊のトランペット』と称された司祭)
失われた羊としてのユダについて、こう問いました
「兄弟ユダよ、おまえの心で何が起こっていたのか?」
私たちは、失われた羊のことを理解する必要があります
私たちも、各々が
失われた羊としての『何か』を、それぞれもっているからです
その『何か』とは、多くの過ちというよりも、むしろ心の病であり
私たちを迷える羊にさせるもの、悪魔が蝕むものです
それは、ちょうど、ユダが
その心のうちに分けられていったようなものです
最終的にユダは、彼自身の二重生活によって
共同体に危害を加えることとなりました
彼が自分で蒔いた悪を見た時
彼の心の暗闇のゆえに、そこから走り去りました
彼は光を探しましたが
主の光を探したのではなく
クリスマスデコレーションのような飾られた偽りの光に向かい
絶望の中に飛び込んでいったのです
主は善良な御方であり
彼は失われた羊を探すことを、決しておやめになりません
聖書は、そのように私たちに教えています
ユダは自分の裏切りを後悔して首を吊りました
主は、聖書における、この「後悔」という文言から
彼をそれ相応にあしらわれたと、私は信じています
そのような霊魂に対しても
神の愛は、その最期の瞬間に至るまで
回心のための働きかけをなされておられたのだと思います
これは、私たちへのメッセージであり
誠実に悔い改めようとする私たちに
再び喜びがもたらされるという良い知らせです
ですから私たちは
主のうちにこそ、慰めを見出すように努めるべきであって
その他の慰めに向かう逃避主義者になってはならないのです
イエズスが、失われた羊を見出された時
彼は、その羊に咎められるべきことが多いからといって
その羊を侮辱したりしません
イエズスは、オリーヴの園で
裏切りと卑怯なふるまいをなすユダに対してさえ
「友よ」と呼びかけられました
これは神の想いやりです
この主の想いやりを知ろうとしない人は
キリスト教の教義を知らないままです!
主の想いやりを受け入れようとしない人は
失われてしまいます!
私たちが見出すべき慰め
それは、神の優しさです
神の優しさ
それは、私たちを救い
その教会のふところに、私たちを立ち帰らせてくれます
主が、私たちに
私たち自身の罪を真摯に認めさせる恩寵をお与えくださいますように
そして、その優しさをもって
私たちに真の慰めをもたらしてくださいますように
|
|
回心の恩寵に抵抗してはならない
うわべの糾明でごまかさず 自分自身を直視する謙遜さが大切
主よ、あなたの力を奮い立たせ
偉大な善徳のうちに、私たちの助けに急いでください
こうして、私たちの罪のゆえに妨げられている回心が
あなたのいつくしみの恩寵のゆえに早められますように
私たちは各々の心の中に
神の恩寵に抵抗する妨げをもっています
その妨げには種々のタイプがあり
その1つには、善意の信仰心から生じる『明らかな障害』があります
それはサウルのケースのようなもので
彼がイエズスによって回心させられる以前に
「自分が神の意志を行なっているのだ」との確信のゆえに
実際のところ、彼は恩寵に抵抗していたのでした
ただ、この明らかな障害は
回心の恩寵に開かれうる、という点において
健全なものの部類です
しかし、最も危険な障害は
人々のうちに隠れている障害です
というのも、彼らはそれらを外面的に示すことがないからです
私たち各々は
恩寵に抵抗する私たちなりのものを有しています
しかしながら、私たちはそれを直視しなければなりませんし
私たちは、主が私たちを浄めるに任せなければなりません
その最も危険な障害のタイプは
ステファノが、律法学者を告発したものの部類です
律法学者たちは、神の栄光を求めて
その現れを待ち望んでいたにもかかわらず
その一方で、自分たちの中にある障害を隠し通そうとしていました
ステファノによる告発の言葉を聞いた人々は
心の中で激しく怒り、彼に向かって歯ぎしりし
彼に襲いかかり、石を投げつけました
ステファノは、彼らの隠れた障害を告発したことで
その生命を絶たれました
私たちはみな
隠れた障害をもっています
私たちは
私たち自身の性質を深く糾明しなければなりません
自分をごまかす人々は
自身の隠れた障害に触れようとせず
糾明をいつもうわべだけでやめてしまい
回心のプロセスを放棄してしまいます
そう、いつもです!
しかしながら、そのようなケースにおいて
自分を変えるプロセスが生じることについて
私たちは、恩寵に逆らわずに、静かに
自分を恩寵に明け渡さなければなりません
とある団体、あるいは、とある家族において
自分を変えるプロセスについて考える時
私は、あなたたちがこのように言うのを耳にします
「でも、そのためにはなかなか種々の妨げがあります」
その種の障害は
私たちを前に進ませようとされる主に
歯止めをかけようとするために
悪魔によって、そこに置かれたものです
隠れた障害には3つのタイプがあります
1つ目は
『中身を伴わない言葉』の障害です
これについては福音朗読の中に、それを垣間見ることができます
『私に向かい「主よ、主よ」という者がみな、天の国に入るわけではない』
また、ぶどう畑に働きに行くよう
父から促された2人の兄弟のたとえ話の中にも、それを見出します
当初、長男は、「イヤです」と突っぱねましたが
その後に思い直して、働きに行きました
その一方で、「イイですよ」と言っていたはずの次男は
結局、働きに行かないままでした
愛想よく、YES、YES、と言いながらも
実際は、NO、NO、NO、という振る舞いは
多くの無駄なYESです
YESと言いつつ
何かを変えようとしないことは
中身を伴わない言葉による反抗です
2つ目は
『正当化する言葉』の障害です
その障害は
自分のことを絶えず正当化しようとする人々に見受けられます
彼らはいつも
変化させることに反発するための理由を見つけ出します
あまりに多くの許容は
神の善いアロマの放散ではありません
それは、悪魔の悪臭を野放しにすることです
キリスト者は
自分自身を正当化する必要などありません
キリスト者は
神の御言葉によって義とされるからです
この種の反発は
自分の立場を正当化しようと企てて用いられる言葉の反発であり
主が示されたことに従おうとしない時に用いられます
3つ目は
『非難の言葉』の障害です
私たちが、他者を非難する時
自分自身を見ようとしていません
このようなケースにおいて
ファリザイ人と徴税人のたとえ話で示されたように
私たちは、回心と恩寵に抵抗しているのです
それらは、たとえばマジノ線や他の同様な出来事のような
単に抵抗の大きな歴史的行為のたとえにとどまりません
それらは毎日、私たちの心の内側で起こっている出来事なのです
恩寵への抵抗は、ある意味で、良いしるしでもあります
というのも、それは、主が
私たちのうちで働こうとなさっていることを示すしるしだからです
私たちが恩寵を受け入れるようにするため
障害となっているものを打ち崩すようにと
主は、私たちを招いておられます
主がおられるところ
そこには十字架があります
その十字架は
小さなものもあれば、大きなものもあります
最終的に贖いをもたらす十字架や主に対して
各々における抵抗はあるでしょう
そのような障害がある時に
私たちは恐れてはなりません
むしろ、主の助けを願い求めて
私たちがみな罪人に過ぎない事実を認めることが大切です
主よ、あなたは私に光を与えるともしび
私の闇を照らす神
私はあなたによって土塁に迫り
私の神によって城壁を乗り越える
主の教えは完全で、魂を生き返らせ
主の諭しは変わらず、私の精神に知恵を与える
主の定めは正しく、私の心を喜ばせ
主の戒めは清く、私の目を輝かせる
まことに、あなたのしもべは、これによって教えられ
これを守れば、大きな報いがある
誰が自分の過ちを悟ることができようか
隠れた罪から、私を清めてください
また、あなたのしもべを引き留めて
高ぶるものへ走らないようにし
彼らが私を支配しないようにしてください
そうすれば、私は汚れることなく
大きな咎を免れることができます
私は自分の罪をあなたに告げ
罪咎を隠しませんでした
私は言いました
「いと高き御方よ、ありのままに打ち明けます
主よ、私の咎を」
その時、あなたは私の罪の咎を赦してくださいました
私の口の言葉が、あなたの望みにかない
私の心の思いが、御旨にかないますように
私の岩、私の贖い主である神よ 栄光が、聖父と、聖子と、聖霊にありますように
初めのように、今も、いつも、世々に至るまで。アーメン
|
|
教皇聖下の祈りの意向
2016年12月
世界共通の意向: 「子ども兵士」の撲滅
「子ども兵士」という不正な実態が、一刻も早くこの世界からなくなりますように。
福音宣教の意向: ヨーロッパ
ヨーロッパの人々が、喜びと希望の日々をもたらす福音の美しさ、すばらしさ、真理を再発見することができますように。
最も洗練されたテクノロジーが発展したこの世界においてさえ
武器が売買され、それらが子供兵士たちの手に渡っている現状です
子供たちの尊厳が大切にされて
このような形の隷属を終わらせるために
私たちはできる限りのことを全て行なわなければなりません
あなたが誰であれ、もし私のようにあなたが駆り立てられるなら
私のこの祈りの意向にあなたも加わるようにしてください
このような子供兵士たちのスキャンダルが
この世界から取り除かれますように |
|
Lex orandi, lex credendi
公式祈願を排除するやり方は 不正以外の何物でもありません
おはおはです
URLのを読んでみました
『ローマ・ミサ典礼書の日本語決定版翻訳作業は完成しており、
バチカン典礼秘跡省の承認がとれたら、
折角作った試用版のものを使えなくなります』
とありましたけど、
そもそも、これまでの日本語版公式祈願も、
若干の意訳や翻訳欠落が散見されます
たとえば、待降節第1主日を挙げて見ると
ラテン語原文は
Da, quæsumus, omnípotens Deus,
全能の神よ、私たちはつつしんで願い求めます。
hanc tuis fidélibus voluntátem,
この、あなたを信じる人々の願いをかなえてください。
ut, Christo tuo veniénti iustis opéribus occurréntes,
私たちが、キリストの来臨を、正しい行ないのうちに迎えにあがり、
eius déxteræ sociáti,
その右の座に、共に結ばれる者となり、
regnum mereántur possidére cæléste.
天の国を所有するに至ることができますように。
Per Dom...
となっているところ
日本語訳の公式祈願は
「全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、
永遠の国を受け継ぐことができますように」
となっています
他を挙げればきりがないですが
この祈願文だけ見ても
iustis opéribus
正しい行ない
eius déxteræ sociáti,
その右の座に、共に結ばれる者
という2つの翻訳欠落を見出すことができます
もし、ラテン語の公式祈願に、
各年の朗読要素の解説の意味合いを付帯する形式の
日本語試用版を作成していたならば
もう後の祭りですが
公式祈願の本来の文言を省略していないことを条件に、
ローマに申請して承認を受けられた可能性があります
ただ、可能性であって、確実性はありません
今回の試用版の重大な問題点は
公式祈願の内容から全くかけ離れた
公式祈願文内の文言を排除した
独自の内容を作成してしまっている点にあります
ローマが試用版を認めてくれない
という点に問題があるのではありません
公式祈願は、ローマと全世界の教会の、
祈りの一致、信仰の一致を保証するためのもので、
『祈りの法は信仰の法』と教会で呼ばれているものに該当します
地方教会の司教や司祭の恣意的判断で
云々できるもの(招き文や選択祈願文)とは全く異なります
『祈りの法は信仰の法 Lexorandi, lex credendi 』
これをないがしろにして、
公式祈願を脇において、
内容の異なる独自の文を作成したところに
聖座の典礼総則や典礼秘蹟省指針の軽視
および祈りの一致から生じる
信徒が享受すべき真の霊的利益の軽視
が見受けられます
悪魔が悪魔のありのままの姿で訪れれば、
人々は恐怖と警戒心を抱くでしょうが
嘘つきの父である狡猾な悪魔は、光の天使を装い、
人々を徐々に、真の正しい小道からそらせようとしていきます
悪が私たちにもたらされる際
善の仮面をつけてもたらされます
「より良い」「より理解を深めるために」との大義で
公式祈願を排除するやり方は
不正以外の何物でもありません
独自の試用文は
実質的に3つの主要な公式祈願を
排除したり侵害するために使用するのではなく
『信徒の祈り Oratio Fidelium 』と呼ばれる
共同祈願の範囲内において
若干の祈願形式の修正を加えた上で
適宜、使用させるべきものでしょうね
折角作ったというなら
それを各年の共同祈願に盛り込めば
それらの労力も無駄になることはないでしょう
とりあえず
そんな感じです
いつもありがとうございます
公式祈願文を使用すべきことについて
典礼、ミサ聖祭に関しては特に、典礼書に従って、また、教会法およびその他の規定に従って、教会が求めている形式どおりに挙行される祭式にあずかることが、全ての信者の権利である。
教皇庁は、全教会の聖なる典礼を秩序づけ、典礼書を発行し、その国の言語への翻訳を承認し、典礼の秩序がいずこにおいても、忠実に、遵守されるよう、監督する権限を有する。
それゆえ、承認されていない典礼文や祭式の使用は、必然的に、祈りの法と信仰の法とのあいだにある、密接なつながりを、希薄にしてしまうか、喪失させてしまう結果を招くこととなる。
典礼は、誰の私的所有物でもない。神秘を祝う司式者のものでもなければ、そこで神秘が祝われる一共同体のものでもない。
そのようなこと(定められた形式に反する誤った司式、自由を履き違えた理解)がないように、教会権威者に対して、十分かつ効果的に、神聖な典礼の管理がなされるよう、信徒が求めるのは、至極当然なことである。
(教皇庁 典礼秘蹟省指針 『あがないの秘跡』 2004 cf,10-18)
フランシスコ教皇聖下
永遠の断罪における最大の苦しみは
拷問の場としての苦しみというよりも
むしろ神から永遠に離れたことについての苦しみである
天使が、悪魔である蛇をつかんで縛り上げ
深淵に突き落として鍵をかけて封印する描写を見てみましょう
蛇である悪魔は
「もうそれ以上、諸国の民を惑わさないよう」
深淵に突き落とされました
なぜなら、それは誘惑者だからです
悪魔である彼は、嘘つきであり
嘘つきの父以外の何者でもありません
彼は嘘を産み出すトリックスターです
彼はあなたに
このアップルを食べたならば
あなたは神のようになれるだろうと誘い
それをあなたに売り込み
あなたがそれを買い上げるようにと
あなたをだまし、あなたを欺き
ついに、あなたの人生に破滅をもたらします
「でも、パパさま
私たちはどのようにして
悪魔による欺きを避けられるでしょうか?」
それについてイエズスは私たちに教示しておられます
つまり、悪魔との語らいを決して受け入れてはなりません
イエズスは悪魔に対して、どのようにふるまいましたか?
主は、彼を遠くに突き放しました
主は、悪魔の名を明らかにするよう求めましたが
悪魔との会話を続けようとはなさいませんでした
イエズスが荒れ野で
ご自分の人間性を護るためになしたことは
神の御言葉、聖書の聖句を用いることによって
悪魔からの語りかけを封じようとしたことです
それゆえ、私たちは
私たちの破滅をもくろむ嘘つきでありトリックスター
このために深淵に突き落とされるであろう悪魔との語らいを
決して継続させるべきではありません
主は、最後の審判において
大きな者も小さな者も
各々の蒔いたものに従ってお裁きになり
破滅者は、火の池に投げ込まれます
これが『第2の死』です
永遠の断罪の苦しみは
拷問の場としての苦しみではありません
これは第2の死の描写です
それは、『死』そのものです
神の国を受け継がなかった人々
彼らがそのようになってしまったのは
彼らが神に心を閉じて
神が彼らを引き寄せようとされたのを自ら拒んだからです
これらの人々は
彼ら独自の人生行路の歩みをなした人々であり
彼ら自身が、主から離れてしまったのであり
主の御前を、意に介さず通り過ぎ
そのようにして、主から離れる歩みを、彼ら自身が選択したのです
永遠の断罪の苦しみは
神からの、自身の永続的な隔離にあります
それこそが、最大の痛みであり
決して満たされることのない心であり
神を見出すために創造された心が
自らの傲慢と過信により
自分自身を神から引き離してしまったのです
私たちに至福をもたらそうとされる神
私たちを愛してくださる神
この御方から、自ら離れること
それこそが、火であり、永遠の断罪への道となるものです
黙示録は、最終的なイメージとして
私たちに希望のヴィジョンを提示しています
もし、私たちが、神に心を開いて
へりくだる心を神に向けるならば
私たちが喜びと救いを受けることができるよう
イエズスによって、罪の赦しをいただくことができるでしょう
希望とは
イエズスとの出会いに向けて
私たちの心を開くことです
イエズスとの出会い
これこそ私たちが待ち望むべきことです
これは美しいこと
しかも、最も美しいことです
私はみなさんに、この事だけを求めます
すなわち、心からへりくだり、「主よ」と語りかけてください
この痛悔の言葉を唇にあふれさせるだけで十分です
主は、あなたに真の安らぎをもたらしてくださるでしょう
|





