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赦しの秘蹟に向き合う心のあり方について
〜天来の恩寵の助けと人間の謙遜で誠実な協力の必要性〜
あなたの心を尽くし あなたの魂を尽くして
あなたの神である主に立ち帰りなさい
痛悔の涙に浸し切れていない罪
痛悔そのものがなされていなかった罪が
霊魂にもたらす弊害
赦しの秘蹟を介して告白した罪について
罪悪感を抱き続けてしまう人がいるとのことですが。。。
正しくふさわしく悔い改めている人は
あずかった秘蹟で完結して
その後に継続的な罪悪感に苛まれるということはないでしょうね
痛悔そのものが不十分な人や
赦しへの不信をいだく人は
罪悪感を持ち続ける傾向があるでしょうね
告白はするけれど
痛悔そのものをしないままに秘蹟にあずかる人(無効な告解)は
信徒の中で意外と多いかもしれません
本当に悔い改めていたら
罪悪感を持ち続けるということはなくなるはずですし
良心の呵責を感じ続けるということもないでしょうね
罪悪感を抱き続けることと
自分の惨めさについて神様の御前にへりくだることとは
全く異なる姿勢です
たまに赦しの秘蹟を受けたのに
同じ赦されたものを何度も別の司祭に受けにいく信徒がいるようですが
神様の赦しの全能をあまり信じていないのかもしれません
すでに祝福されたものを
何度も別の司祭に祝福をもらいにいくのに似てるかもです
悔悛者を先行的に抱擁する神の憐れみ深い赦し
赦しの秘蹟は
ふさわしく準備をしたものについては
とても人間的な表現ですが
神様はその罪をご自分の記憶から削除して
完全にお忘れになるほど憐れみと赦しに満ちておられます
赦されたものについて不安になって
同じ告白を何度も繰り返す人は
神様の赦しに信頼していないことを
自分で証明してしまうことになってしまうでしょう
完全な痛悔をする人に対して
神様は赦しの秘蹟を受けにくる前に
先行的に赦しを与えてしまうほど
悔悛者への憐れみに溢れておられる御方です
手抜きのないふさわしい準備の大切さ
全ての秘蹟に共通のことですが
ふさわしい準備をもって敬虔のうちに秘蹟にあずかれば
その実りは望外に豊かになります
逆にほとんど準備もなく
行き当たりばったり的に秘蹟にあずかれば
恩寵を穴のあいたザルに無駄に受けるかのように
その実りをほとんど受けられないままになってしまうでしょう
聖パウロは
『神の恩寵を無駄に受けることのないように』という言葉で
せっかくの恩寵を受ける機会を無駄にしてしまっている人々に対して
ふさわしい準備をもって臨むよう勧告しています
また『裁きを飲食する』という言葉で
おもに聖体の秘蹟について
ふさわしくない秘蹟の拝受が
恩寵をもたらすどころか
新たな断罪をもたらすことになると警告しているほどです
真摯で誠実な愛があるかないかで
同じ秘蹟にあずかるにしても
とてつもなく大きな差異が生じます
多く愛する人は
多くの赦しや寵愛を受けるでしょうし
愛することが少ない人は
受けるものもごくわずかでしょうね
秘蹟を尊重しているかそれとも軽んじているかは
それにあずかる準備や感謝のあり方に表面化してくる
秘蹟を尊重しているか
それとも軽んじているかは
それにあずかる準備や感謝のあり方に
如実に表面化してくるでしょうね
秘蹟のうちに
恩寵の与え主であるイエズスが隠れておられるので
秘蹟に対する接し方は
主イエズスへの接し方と同義になるので
秘蹟の主であるイエズスへの接し方において
御子をないがしろにするような人に対して
のちに永遠の御父は
それ相応の厳しい報いをもってのぞまれることになるでしょうし
秘蹟の主であるイエズスへの接し方において
御子にふさわしい敬意と謝意を示す人に対して
現段階においても、のちにおいても、永遠の御父は
豊かな寵愛をもって抱擁してくださるでしょう
憐れみ深い神様の恩寵の助けに
謙遜と誠実な愛のうちに協力する人は
時間においても永遠においても幸いです
長くなりましたが
正しくふさわしく悔い改めている人は
あずかった秘蹟で完結して
その後に継続的な罪悪感に苛まれるということはないでしょう
という話です
Quae enim secundum Deum tristitia,
実に、神のお望みにかなう悲しみは
paenitentiam in salutem stabilem operatur.
揺るぎない救いに至る悔い改めをもたらします
(2 Cor 7,10)
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