聖パウロ(◕‿◕✿)

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パウロ年 the Pauline Year
「私は、使徒パウロの生誕2000年に当たり、2008年6月28日から2009年6月29日まで、特別聖年を使徒パウロに捧げます。歴史家はパウロの生誕を西暦7年から10年の間としているからです」
(教皇ベネディクト16世聖下)

..とゆぅことで、この書庫では、聖パウロに関するものを少しずつ掲載していきま〜っす♪(。ฺ◕‿◕ฺ。)ノ☆・゜:*


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ローマ人への手紙からの抜粋


Gloriamur in tribulationibus,.
scientes quod tribulatio patientiam operatur,
patientia autem probationem,
probatio vero spem;

spes autem non confundit,
quia caritas Dei diffusa est in cordibus nostris
per Spiritum Sanctum, qui datus est nobis.

Adhuc enim Christus, cum adhuc infirmi essemus,
secundum tempus pro impiis mortuus est.
Commendat autem suam caritatem Deus in nos,
quoniam, cum adhuc peccatores essemus,
Christus pro nobis mortuus est.

Multo igitur magis iustificati nunc in sanguine ipsius,
salvi erimus ab ira per ipsum!
Si enim, cum inimici essemus, reconciliati sumus Deo per mortem Filii eius,
multo magis reconciliati salvi erimus in vita ipsius;
non solum autem, sed et gloriamur in Deo
per Dominum nostrum Iesum Christum,
per quem nunc reconciliationem accepimus.

私たちは艱難においても誇る。

艱難が根気強さを生み、
根気強さが鍛錬された徳を生み、
鍛錬された徳が希望を生むことを知っているからである。

希望はあざむかない。

私たちに与えられた聖霊によって、
私たちのココロに、神の愛徳が注がれているからである。

実に、私たちが病んでいた時、
キリストは定められた時に、悪人のために死なれた。

私たちがまだ罪人であった時、
キリストが私たちのために死なれたことによって、
神は、ご自分の愛徳を私たちに示された。

今、ご自身の御血によって義とされた私たちは、
なおさらご自身によって、神の怒りから救われるのである!

もし、私たちが敵であったのに、
その御子の死によって、神との和睦がもたらされたのなら、
まして、和睦がもたらされた後であれば、
ご自身の生命において、なおさら救われるはずである。

私たちはそればかりか、
和睦をもたらされた今、
私たちの主イエズス・キリストによって、
神において誇るのである。


ここでは「天国への希望」が主眼とされていて、
永遠の栄光〜最終の救い〜へのキリスト者の希望が、
人々に対する神の愛に確固として基づいていることを教えます。
この神の愛は、私たちがまだ罪人、敵対と怒りの子であったにもかかわらず、
神の御子が自らの生命と引き換えに、
私たちのために死んで、神と和睦させてくださった
という事実によって啓示されたような愛です。

私たちへの神の愛は、
私たちの中に現存する実在(聖霊)であると教えられています。
聖霊は、私たちへのギフトとして描かれ、
神の能動的現存による愛の証人です。
これは三位一体の神の生命への参与、
神的生命、成聖の恩寵が与えられていることを教えています。

ここでいう「定められた時」は、
人類が、神に依存していることに気づいた時、
自然の能力では、超自然の運命のためには
何も貢献できないことを悟った時、を意味するとされています。

ここでいう「神の怒り」は、
主の日の最後まで、悔い改めようとしない者への
神の態度を示すものです。

ここでいう「誇り」は、
恩寵の助けによって自身の救いを全うする私たちが、
最後の審判の日に救われることだけでなく、
この全ての苦難のある今でさえも、
私たちへの神の愛に喜び、
イエズス・キリストによって神において誇ること、
とされています。



信仰の父アブラハム

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ローマ人への手紙からの抜粋

“ Credidit autem Abraham Deo, et reputatum est illi ad iustitiam ”.
credit in eum, qui iustificat impium, reputatur fides eius ad iustitiam,
sicut et David dicit beatitudinem hominis, cui Deus reputat iustitiam sine operibus:
“ Beati, quorum remissae sunt iniquitates, et quorum tecta sunt peccata.
Beatus vir, cui non imputabit Dominus peccatum ”.
Non enim per legem promissio Abrahae aut semini eius,
ut heres esset mundi, sed per iustitiam fidei;
Qui est pater omnium nostrum, sicut scriptum est:
“ Patrem multarum gentium posui te ”
qui contra spem in spe credidit, ut fieret pater multarum gentium,
Et non infirmatus fide consideravit corpus suum iam emortuum,
cum fere centum annorum esset, et emortuam vulvam Sarae;
in repromissione autem Dei non haesitavit diffidentia,
sed confortatus est fide, dans gloriam Deo,
et plenissime sciens quia, quod promisit, potens est et facere.
Ideo et reputatum est illi ad iustitiam.
Non est autem scriptum tantum propter ipsum: reputatum est illi,
sed et propter nos, quibus reputabitur, credentibus in eum,
qui suscitavit Iesum Dominum nostrum a mortuis,
qui traditus est propter delicta nostra
et suscitatus est propter iustificationem nostram.
Iustificati igitur ex fide, pacem habemus ad Deum
per Dominum nostrum Iesum Christum.

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「アブラハムは神を信じた。それは彼の義とされた」

ダヴィドが、行ないなしに神から義とされた人は幸いである、と言うように、
悪人をも義とすることがおできになる御方を信じる人は、
その信仰によって義とされる。
「犯した悪が赦され、その罪が覆われた人は、幸いである」
「主から、罪の責任を咎められない人は、幸いである」

この世の世継ぎとなる、というアブラハムとその子孫になされた約束は、
律法によるのではなく、信仰の義によってである。
(信仰において)彼は、私たちみなの父である。
このように書かれている通りである。
「あなたをおびただしい民の父に定めた」(創世記17.5)

(多くの子孫を約束されながらも老齢の)彼は、
望みのない時にもなお望みをかけて(子孫が与えられると)信じて、
おびただしい民の父となった。

彼の体はもはや100歳で、あたかも死んだもののようであり、
(老齢である彼の妻)サラも、その胎はもはや死んだような状態にありながらも、
(おびただしい多くの子孫を与えるとの神への)信仰は、弱まることがなかった。

不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、
信仰に強められて神に栄光を帰し、
(神は)その約束されたことを成し遂げることがおできになる、
と確信していたからである。
それゆえ、彼は義とされたのである。

義とされた、と記されているのは、ただ彼自身のためばかりではない。
それはつまり、私たちの主、死者の中から復活されたイエズスを、
信じる私たちのためでもある。

信仰によって義とされた私たちは、
私たちの主イエズス・キリストによって、神と和解している。


アブラハムの信仰の土台は、死者をも生かす神であり、
キリスト信者の信仰の土台は、イエズスを復活させた神です。



信仰による人間の義化

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ローマ人への手紙からの抜粋

Ex operibus legis non iustificabitur omnis caro coram Deo,
per legem enim cognitio peccati.

Nunc autem sine lege iustitia Dei manifestata est,
testificata a Lege et Prophetis,

iustitia autem Dei per fidem Iesu Christi, in omnes, qui credunt.
Non enim est distinctio:

omnes enim peccaverunt et egent gloria Dei,
iustificati gratis per gratiam ipsius per redemptionem, quae est in Christo Iesu;

quem proposuit Deus propitiatorium
per fidem in sanguine ipsius ad ostensionem iustitiae suae,
cum praetermisisset praecedentia delicta in sustentatione Dei,
ad ostensionem iustitiae eius in hoc tempore,
ut sit ipse iustus et iustificans eum, qui ex fide est Iesu.

Arbitramur enim iustificari hominem per fidem sine operibus legis.
Legem ergo destruimus per fidem? Absit, sed legem statuimus.



神の御前には、肉をもつすべての人のうち、
誰も、律法を行なうことにより義とされるものはいない。
実際、律法によって、罪を深く知るだけである。

しかし今や、律法なしに、神の義が現れた。
これを証明するものは、律法であり、預言者である。

イエズス・キリストへの信仰による神の義は、
信じるすべての人々にもたらされる。
それについて人種の差別はない。

全ての人は、罪を犯して、神の栄光を奪い去られた。
しかし、キリスト・イエズスにおける贖いによって、
その恵みによって、無償で義とされうる。

神は、なだめの供え物と定められたが、
それは、神の義を示されるため、キリストの御血における信仰によるものである。
神は、忍耐をもって、キリスト以前の人類の罪を耐え忍ばれたが、
この時にあたり、その義を示された。
こうして、神そのものが義であり、イエズスを信じるものを義とされるのである。

私たちはこう考えている。
人は、律法の行ないによらず、
信仰によって、義とされる。

では、私たちは信仰によって、
律法をなきものにしようとしているのか?
決してそうではない。
むしろ、律法を擁立するのである。



ここでパウロは、
キリストへの信仰によって、
ユダヤ人も異邦人も差別なく義とされることを宣言しています。

キリストの御血のいけにえによる人類の贖罪、これを信じるもの、
過去の自分の過ちを悔い改めて、神の生命に生きることを望むものに、
信仰による義が、神の秘蹟によってもたらされます。

「なだめの供え物」に関して。。
「カポレット」と呼ばれる、契約の櫃の蓋となっていた黄金の板に、
毎年1度キップルの日に、大祭司が、
いけにえの血を、その板に注ぐ儀式がありました。

神はその昔、人々の罪を処罰されていましたが、
神の正義を満たすものではありませんでした。
ただ、キリストだけが、完全な贖罪となりました。

パウロは、信仰を理由に律法を排斥したのではなく、
信仰が律法を完成させるものであることを強調しました。
そのため、人々が誤解しないよう言葉を添えています。

恩寵が自然を破壊しないように、
信仰も律法を破壊するものではなく、
むしろ、完成させるものである、と宣言しているのです。






                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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ローマ人への手紙からの抜粋

Quicumque enim sine lege peccaverunt, sine lege et peribunt;
et, quicumque in lege peccaverunt, per legem iudicabuntur.

Non enim auditores legis iusti sunt apud Deum,
sed factores legis iustificabuntur.

Cum enim gentes, quae legem non habent, naturaliter, quae legis sunt, faciunt,
eiusmodi legem non habentes ipsi sibi sunt lex;

qui ostendunt opus legis scriptum in cordibus suis,
testimonium simul reddente illis conscientia ipsorum.


律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅びる。
律法のもとに罪を犯した者は、律法によって裁かれる。

単に律法を聞く者が、神の御前に義とされるのではない。
律法を守り行なう者こそ、義とされるのである。

律法をもたない異邦人が、自然と、律法を守り行なうならば、
律法をもたなくとも、自分自身、律法となる。

彼らの善い業は、そのココロの中に律法が書き記されていることを示している。
そのことを同じように証明するのは、彼らの良心である。



律法のおきてによって、裁かれる人もいれば、
律法を知らなくても、自然法のおきてによって裁かれる人もいます。
それは神が、人々のココロに、自然法を刻み付けられているからです。





                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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ローマ人への手紙からの抜粋



Deus reddet unicuique secundum opera eius:

his quidem, qui secundum patientiam boni operis
gloriam et honorem et incorruptionem quaerunt, vitam aeternam;
his autem, qui ex contentione et non oboediunt veritati,
oboediunt autem iniquitati, ira et indignatio.

Tribulatio et angustia in omnem animam hominis operantis malum,
gloria autem et honor et pax omni operanti bonum.


神は、各々の業に従って報いられる。

根気よく善業を行なって、光栄と名誉と不滅を求める人々には、
永遠の生命を報いてくださる。
しかし、真理に従わず不義に従う反逆者のためには、
怒りと憤りを返される。

悪を行なう者には全て、艱難と苦悶があり、
善を行なう者には全て、光栄と名誉と平和がある。







                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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