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その場で拝領されずに
持ち去られる聖体の秘跡
(手による聖体拝領による弊害)
先日、移民のための教皇ミサ(2018年7月6日)において
手に聖体を受けた者が、その場で拝領せずに
聖体を持ち去る姿が見受けられました
①秘跡をその場で拝領せず持ち去ってゆく者
②その行動に対して自身で呼び止めもせず、
拝領案内者にも追いかけさせる等の指示を一向に出さない司祭
③間近にいながら拝領の有無についての注意義務を果たさない拝領案内者
今回はこの3点が重なったことにより
聖体の秘跡の持ち去りが
何らの注意を受けることもなく放置された事案と言えます
左側の席の方々の拝領が終わった頃
後方から1人の女性が進み出てゆきます
彼女は聖体の秘跡を手に受けると
その場で秘跡を拝領せずに、くるりとUターンして
手元が不自然な状態で、スタスタと後方に向かい
聖体の秘跡を手にしたまま
画面の外へ立ち去ってゆきました
それまで彼女をガン見していた司祭は
結局、彼女に注意しないまま祭壇に戻ってしまい
また、聖体拝領案内者は
そもそも彼女の行動に気づいていないかの様子で戻ってゆきます
その後、彼女が、聖体の秘跡をどのようにしたのかは不明です
いずれにせよ、最も崇高なエウカリスツィアの秘跡が
汚聖の危険にさらされる可能性や機会は与えられてはならず
直接秘跡を授ける司祭によって
細心の注意をもって防がれ護られるべきでしょう
聖体の秘跡の持ち去り等に係るカトリック教会の重要な規定
聖体を投げ捨てるか、または汚聖の目的で、それを持ち去るか、もしくは、それを保持する者は、使徒座に留保された伴事的破門制裁を受ける。
(教会法第1367条)
誰であれ、教会法の規定に背いて、至聖なる聖体を、自宅や、その他のどんなところへも持ち去ってゆくことはできません。聖変化後のパンを汚聖や放棄の目的で持ち去ったり、取っておいたりすることは、教会法に反する汚聖の大罪、 Graviora Delicta であり、その罪の赦しの権限は、教理省にあります。
(典礼秘跡省 指針『あがないの秘跡』132)
拝領者が聖体を手に持ったままでどこかへ行ってしまうことのないように、神聖なオスツィアは、聖役者の見ているところで確実に食されるよう注意しなければなりません。
(典礼秘跡省 指針『あがないの秘跡』92)
以前、『手による聖体拝領は いずれ廃止される(かもしれない)』の記事の中で
下記のような記述をなしましたが
『 手による聖体拝領による弊害の予見
⑥手による聖体拝領は拝領されずに持ち去られる弊害をもたらす
未信者か信者かは不明ですが
聖体拝領の列に並び
手で受けたのち拝領すると見せかけて
司祭が次の拝領者に気を取られている隙に
聖体を手に隠して持ち去り、投げ捨てたり、どこかに放置したり
あるいは黒ミサの冒瀆に用いるため売り飛ばしたり
そのような重大な侮辱や汚聖の弊害をもたらしやすくします』
今回、このような、手による拝領における
聖体の秘跡の持ち去りを、目の当たりにしてしまうと
『手による聖体拝領は いずれ廃止される(かもしれない)』
どころではなく
『手による聖体拝領は廃止されなければならない』
と言いたくなるのも無理はないでしょう
至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、
私の心の深みから、あなたを礼拝いたします。
エウカリスツィアの秘跡に対して犯される
あらゆる侮辱、汚聖、なおざりのための償いとして
全世界の全ての聖櫃のうちに現存しておられる
私たちの主イエズス・キリストの
最も貴い御体と御血、御霊魂と神性を、あなたにお捧げいたします。
イエズスの至聖なる聖心の限りない功徳によって、
また、マリアの汚れない御心の悲しみによって、
永遠の地獄に突き進もうとする惨めな罪人たちの回心を、
憐れみと赦しの神であるあなたに、
心からのへりくだりと涙のうちに、つつしんで願い求めます。
彼らをお赦しください、主よ、彼らをお赦しください。
彼らは自分が何をしているのかを、わかっていないからです。
人々からのはなはだしい忘恩、侮辱、冷淡、無関心にもかかわらず
私たちへの愛に燃えておられる聖体のイエズスの聖心よ、
人々があなたの愛を深く知り、あなたの愛をふさわしくたたえ、
あなたの愛に、愛をもって応えることができるようにしてください。アーメン。
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聖体拝領の方法✿ฺ
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手による聖体拝領は いずれ廃止される(かもしれない)
信者が、聖別されたパンを
自ら手に取ることは、許されない
(2002年ローマ・ミサ典礼書の総則160)
信徒が、聖別されたパンを
自ら手に取ることは、教会法に反する
(2004年あがないの秘跡94)
カトリック教会は、なぜこのような規定をもうけたのでしょうか?
それは、婉曲的に、司祭による聖体の分配の、信徒による否定を退けるため
また、いくつかの汚聖の危険性を回避するため
また、聖体に現存される主キリストへの直接的不敬を回避するためでした
現段階においては
手による聖体拝領は、条件付きで、認められてはいますが
あまりにもやまない濫用や不敬や弊害のゆえに
聖座によって、手による聖体拝領は、いずれ廃止されるかもしれません
聖体の秘跡へのふさわしい礼拝と敬意表明のために
聖座によって、舌による聖体拝領の義務づけが、なされるかもしれません
手による聖体拝領は
信徒自身が、聖別されたパンを、自ら手に取ることと
実質的に、なんら差異がない
手による聖体拝領は
信徒自身が、聖別されたパンを、自ら手に取ることと
実質的には、なんら差異がありません
というのも、実際のところ、手による聖体拝領は
パテナに見立てた、自身の左の掌の上に、乗せられた聖体の秘跡を
拝領者自身の右の指で、自ら手に取って、自分に与える、という
その動作そのものによって
信徒のクラリカゼーションを体現する象徴的行為だからです
聖別された司祭の手のほか聖別されたパンに触れられるのは許されない
聖トマス・アクイナス司祭教会博士
(cf ; Qu.82,art.3)
キリストの御体の分配は3つの理由から、司祭に属する
第1の理由として
司祭は、キリストになり代わって聖別をなし
キリストの御体を聖別するのと同様に
その分配も司祭に属するからである
第2の理由として
司祭は、神と民との間の仲介者として任命され
民の賜物を神に捧げることが司祭に属するのと同様に
神の聖別された賜物を民に与えることも司祭に属するからである
第3の理由として
聖別されたもの以外のいかなるものによっても触れられることのないように
という、この秘跡に対する崇敬の想いから
コルポラーレやカリスが聖別されるのと同様に
この秘跡に触れるための司祭の手も聖別されるからである
このことからすれば
聖別されたパンが地面に落ちた等の緊急必要な場合を除いて
他の誰も、それに触れることは許されない
手による聖体拝領による弊害の予見
①聖香油で特別に聖別された司祭の掌×そうでない信徒の掌
司祭は、叙階の秘跡を受ける際
聖なるもののうち最も聖なるものに触れるがゆえに
その掌に、司教から、聖香油を塗られて、特別に聖別されます
しかしながら、信徒は
聖なるもののうち最も聖なるものに触れるにあたり
その掌に、司教から、聖香油を塗られることなく
特別に聖別されていません
②洗われた司祭の掌と指×洗われない信徒の掌と指
司祭は、ミサ聖祭が進行する中で
自らの指で触れるオスツィアをキリストの御体に聖変化させる前に
その掌と指先を水で洗い清めて
ミサの本質部分にいよいよ入っていきます
しかしながら、信徒は、ミサ聖祭が進行する中で
自らの掌も、指先も、水で洗い清めることはしません
それにもかかわらず
(手による聖体拝領をする信徒は)
祭儀中、その掌や指先を水で洗うということもないままに
特別に聖香油で聖別されたわけでもない、その掌(おもに左手)に
聖なるもののうち最も聖なるものが、いったん、置かれ
自身の左の掌に置かれている『その聖別されたパンを
(おもに右手の指先で)自ら手に取ります』
話によれば、信徒の中には、ミサ直前にトイレを済ませた際
手を洗わずに、そのまま聖堂に赴いてミサに参加して
そのまま拝領に向かう者もいるそうです
相手のことを想っているかいないか
それはおのずと自らの振る舞いに表面化します
まして、相手は、どこかの国のお偉いさんどころではなく
私たちの救いのために人となられた神ご自身です
③聖別されたパテナ及びコルポラーレ×掌に直置き
司祭の手は
最も崇高なエウカリスツィアの秘跡に触れるにあたり
叙階の秘跡において聖香油で特別に聖別され
さらに、祭儀中、その指先まで丁寧に水で洗われ
祭壇上で聖別されたパンは、パテナの上に置かれ
さらに小片の落下を防ぐため、コルポラーレまで敷かれて
幾重にも慎重を期すほどに、聖体への敬意を表しています
しかしながら、手による聖体拝領において
小さな受け皿のように広げた、信徒の左の掌の上には、直置きです
④聖体の小片への繊細な扱い×はたきないし放置
司祭自身の指に付着した聖体の極小の小片から
パテナやチボリウム等に付着した聖体の極小の小片に至るまで
司祭は丁寧に集めてカリス内に入れ
そこに水を注いで、それらの小片も併せて飲み干すことで
慎重を期しつつ聖体への敬意を表しています
しかしながら、手による聖体拝領において
信徒は、自身の掌もしくは指先に
聖体の小片が付着しているかどうかの確認をすることもなく
また、そのことについて気にかけることもほとんどなく
いわば放置状態で
自席に戻ると、服の横で手をぬぐったり、手ではたいたり
(まるで掌についたスナック菓子の粉をはたきおとすかのように)
また、聖体拝領したばかりなのに、すぐお隣さんと話し込んだり
ティッシュを取り出し、「か〜〜〜〜〜っ ペっ」と、やらかしたり
そわそわと帰宅する準備を整え出したり
訪れてくださった主をないがしろ的に放置して、他事にかまけがちです
(客観的に実際そうなりがちな傾向が数多く見受けられる、というだけで
みながみな、そうしている、というわけではありませんが
実際のところ、閉祭ですぐさま聖堂を後にする人が大半を占めています)
そこには、聖体への敬意が弱められ薄められている感がいなめません
愛が、愛されていない感がいなめません
⑤手による拝領は、司祭のミスリードや信徒による違法行為の弊害をもたらす
舌による聖体拝領であれば
司祭から舌の上に聖体が乗せられるので
(奉仕者は、拝領者の顎下に拝領皿を保持しておかなければなりません)
両形態における信徒による違法行為
いわゆるセルフ・インティンクションは決して起こりえませんが
手による聖体拝領であれば
その掌の上に、一時的に、聖体が乗せられるので
司祭のミスリードで
カリス内の聖血に聖体を信徒自身で浸すよう促された際
良識的に判断できる信徒であれば思いとどまるでしょうが
実際は、ほとんどの信徒が
両形態における信徒による違法行為
いわゆるセルフ・インティンクションをやってのけてしまう
というのが現状です
この両形態における信徒による違法行為は
聖座が1980年に公文書で含蓄的表現のもとにNGを出し
さらに2004年に公文書で明示的表現のもとにNGを出したものであり
2014年には日本国内の教会の指針でNGとして明示されていますが
2017年の現在でさえ、それに背き続ける司祭たちや信徒たちがいる
というのが実態であり
手による聖体拝領を続けることは
両形態における違法行為に門戸を大きく開いてしまう
そのような弊害をもたらしやすくします
⑥手による聖体拝領は拝領されずに持ち去られる弊害をもたらす
未信者か信者かは不明ですが
聖体拝領の列に並び
手で受けたのち拝領すると見せかけて
司祭が次の拝領者に気を取られている隙に
聖体を手に隠して持ち去り、投げ捨てたり、どこかに放置したり
あるいは黒ミサの冒瀆に用いるため売り飛ばしたり
そのような重大な侮辱や汚聖の弊害をもたらしやすくします
ごくごく数年前、ある日本の教区において
教会前の人通りの多い歩道に
複数の聖別されたパンが、ばらまくようにして
地面に投げ捨てられていた
というショッキングな事件もありました
手による聖体拝領と、舌による聖体拝領の扱いは、教会法上異なる
手による聖体拝領は
その前提として、『拝領者が手に受けたければ』
それを、条件的に、許可する、といった類いのもので
その許可条件を満たせなくなった理由が明らかであれば
その許可を取り消し、禁じることができます
一方、舌による聖体拝領は
信徒の保護されるべき不可侵の『権利』として、すでに確立されていて
それを禁じることはできません
教会の聖人たちは、信徒に対して、舌での聖体拝領を促している
教会の聖人たちは
聖体拝領における信徒の取るべき態度として
舌による聖体拝領を実践するよう、明示的に促しています
その明示的な促しをなした聖人は
叙階の秘跡を受けていた2人
ピエトレルチーナの聖ピオ司祭であり
聖ヨハネ・パウロ2世教皇です
両聖人は、叙階の秘跡を受けていましたから
その聖別された手で、至聖なる聖体に触れ得るというのは
その聖職カラクテルからしても、ごくごく自然というべきですが
その聖なる司祭職、聖別された手を有していたにもかかわらず
ひとたび、自分たちが、ミサ挙行の司式者側でなく
拝領者側につくや
彼らは、自身の聖体拝領において
ひざまずき、舌で、至聖なる祭壇の秘跡を受けていました
それは、彼らが、手で受けることができない立場だったからではなく
信徒たちへの、聖体拝領のあるべき模範として
言葉よりも、むしろ行動によって、明示するためでした
天来の示しを受けていたであろう彼らは
ピエトレルチーナの聖ピオにおいては
手による聖体拝領が広まり始める前に
聖ヨハネ・パウロ2世においては
手による聖体拝領での種々の濫用が蔓延していた中で
司祭職にあった彼ら各々が、預言者的に
信徒たちへの強烈なメッセージとして示したものでした
なお、現名誉教皇ベネディクト16世も
枢機卿時代、その同じ模範を示されました
聖座は、ひざまずいて、舌で聖体拝領することを、信徒に促している
教皇庁教皇儀典室の儀典長グイド・マリーニ司祭
教会が定めた、ひざまずきつつ、舌で聖体を拝領することは
聖体の細かな小片の落下を、できる限り回避させるものであり
エウカリスツィアの秘蹟におけるキリストの真の現存への敬虔を
信徒たちのうちに増加させるものです
エウカリスツィアのキリストを拝領する際のひざまずきは
そこに現存されるキリストへの礼拝を示唆し、促すものです
私たちは聖体拝領に際して
そのような、最高の敬意と礼拝をもって、主に近づくべきです
教皇庁典礼秘蹟省の長官ロベルト・サラ枢機卿
司祭たちは、聖体拝領におけるひざまずきを否定してはならない
信徒たちには、可能な限り、ひざまずいて聖体拝領することを勧める
聖変化、特に聖体拝領におけるひざまずきは復興される必要がある
適応に関する典礼秘蹟省の書簡
(cf,Notitiae38 ; 582-584 ; 2002年7月1日)
各司教協議会の定めた適応に従って、立つ姿勢を規準とした地域においても
信者がひざまずくからという理由で、その信者に聖体拝領を拒むことは
キリスト信者の最も基本的な権利に対する重大な侵害である
そもそも適応の承認は
聖体拝領の際にひざまずくことを選択した信者たちが
その事だけによって聖体拝領を拒まれてはならない、ということが条件である
手による拝領の廃止および舌による拝領の義務づけ
現段階では、ひざまずいて、舌で聖体拝領することは
典礼秘跡省が聖座のWEB上で
明示的に推奨するにとどめていますが
あまりにもやまない典礼上の濫用や不敬や弊害のゆえに
また、聖体の秘跡へのふさわしい礼拝と敬意推進のために
いずれ公文書によって
手による聖体拝領が、廃止勧告され
舌による聖体拝領が、義務づけられるかもしれません |
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Die 5 septembris :
S. Teresiæ Calcuttensis, virginis
コルカタの聖女テレジア
記念日:9月5日
Collecta
集会祈願
Deus, qui beatam Teresiam, virginem, vocasti,
神よ、あなたは幸いなテレジアおとめをお呼びになり、
ut amori Filii tui in cruce sitientis
十字架上のあなたの御子の渇きに対して
eximia caritate in pauperrimos responderet,
最も貧しい人々における卓越した愛徳のうちに応えるようにしてくださいました。
da nobis, quaesumus, eius intercessione,
その取次によって、私たちに恩寵をお与えください。
in afflictis fratribus Christo ministrare.
苦しむ兄弟のうちにおけるキリストに、私たちも仕えることができますように。
Qui tecum vivit et regnat
御子は、あなたと共に生きておられ、支配しておられます。
in saecula saeculorum. Amen.
世々に至るまで。アーメン。
コルカタの聖女テレジアの叙唱
聖なる主、全能の父、永遠の神よ、
いつも、また、どこにおいても、あなたに感謝を捧げることは、
実に、ふさわしく、正しく、妥当であり、救いとなるものです。
あなたは幸いなテレジアを、
十字架上のキリストの渇きに結び合わせ、
うち棄てられた貧しい人々を受け入れる、愛徳の宣教者としてくださいました。
また、その同じ奉仕において、
あなたの憐れみの愛の光を、貧しい人々に注いでくださいました。
それゆえ、私たちは、天使、大天使と共に、
また、おびただしい聖人たちの集いと共に、
あなたへの賛美の賛歌をもって、
あなたを終わりなくほめたたえて歌います。 エウカリスツィアの秘蹟とコルカタの聖女テレジア
マザーテレサの列聖おめでとうございます
聖女はあらゆる階層の霊魂の収穫者ですね
今もなお、その霊的感化の影響力は素晴らしいですね
マザーテレサのふるまいを毎日目にしていた
とある年配シスターの文言です
マザーは、毎日、聖体の秘蹟をとても敬虔に拝領していました。
聖体へのマザーの深い深い敬意は、
パンとぶどう酒の外観に覆われた
イエズスの真の現存への深遠な信仰のしるしでした。
彼女の礼拝の態度、
ひざまずいて、両手を合わせて祈る姿勢、
聖体を 舌で受けること、
これら全てが、聖体への彼女の信仰を物語っていました。 コルカタの聖女テレジア
私にとってイエズスとは
イエズスは、肉となられた御言葉
イエズスは、生命のパン
イエズスは、十字架上で、私たちのために捧げられたいけにえ
イエズスは、世の罪と私たちの罪のためにミサで捧げられるいけにえ
イエズスは、語られるべき御言葉
イエズスは、告げ知らされるべき真理
イエズスは、歩まれるべき道
イエズスは、灯されるべき光
イエズスは、生きられるべき生命
イエズスは、愛されるべき愛
イエズスは、分かち合われるべき喜び
イエズスは、捧げられるべき犠牲
イエズスは、与えられるべき平和
イエズスは、食べられるべき生命のパン
イエズスは、養われるべき飢えた人
イエズスは、癒されるべき渇いた人
イエズスは、着せられるべき裸の人
イエズスは、招き入れられるべきホームレスの人
イエズスは、癒されるべき病人
イエズスは、愛されるべき孤独な人
イエズスは、求められるべき軽んじられた人
イエズスは、傷を洗うべき重い皮膚病の人
イエズスは、微笑みを与えるべき物乞いの人
イエズスは、耳を傾けてあげるべき泥酔者
イエズスは、保護すべき知的障害者
イエズスは、抱擁すべき小さな子供
イエズスは、手を取るべき視覚障害者
イエズスは、代わりに話してあげるべき聴覚障害者
イエズスは、共に歩むべき足の不自由な人
イエズスは、友になるべき薬物依存者
イエズスは、危険から遠ざけ、友となってあげるべき哀れな売春者
イエズスは、訪れるべき囚人
イエズスは、奉仕すべき高齢者
イエズスは、私の神
イエズスは、私の花婿
イエズスは、私の生命
イエズスは、私のかけがえのない愛
イエズスは、私の全てにおける全て
イエズスは、私のあらゆるもの
イエズスよ、私は、心を尽くして
私の存在の全てをあげて、あなたをお愛しいたします
私は全てを、私の罪さえも、イエズスにお捧げしました
イエズスは、私を、優しさと愛のうちに、ご自分の花嫁となさいました
今も、そして、生涯をとおして
私は、十字架につけられた御方の花嫁です。アーメン。
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日本の司牧者は
数年来 一部の弱い立場の信徒たちを
不当に虐げて傷つけてきた不法行為について
公式声明をもって 全教区に及ぶ 謝罪やお詫びを行なうべき
現在、「適応だ、適応だ」、と呼びかけている司牧者たちがなすべきことは
まず、これまで自分たちの身内である司牧者たちが、数年来にわたり
舌による拝領やひざまずきについて
一部の弱い立場の信徒たちを、不当に虐げて、傷つけてきた
という不法行為(違法行為)の加害事実について
公式声明をもって、全教区に及ぶ、謝罪やお詫びを行なうべきです
そのようにすることで、この特別聖年にあたり
司牧者自身の過去の過ちの清算をすべきです
ついで
適応において、舌での拝領やひざまずきが選択肢にあるという事実を
その選択権の尊重が、適応の認可の条件であったという事実を
各共同体に周知させた上で、その選択を、尊重し、受容すべきです
そのようにすることで
不当に傷つけられた人々の心の痛みを癒していくべきです
また、そのようにすることで
新たな加害を、未然に防いでいくべきです
それをしなければ
以前と同様に、傷つけた信徒をさらに傷つける
といった事態につながります
そのようにする重大な責任が
日本の司牧者にはあり、それを果たさなければなりません
前回の記事作成のきっかけ
『司祭の影響力についてのカトリックのことわざ』の記事のあと
しばらく記事は書かないつもりでしたけど
つい先日、関東に出かけた信徒さんから
『とある司祭から手による拝領を強要された
突発的だったので動揺してそうしてしまった』
といった情報をいただいたので
前回の『手による聖体拝領 および ひざまずきの排除は 悪魔に由来している』
という記事の作成の必要性を感じました
悪魔のパン種
外面に現れる物事の結果には、必ず内面の要因があります
なぜそのような『不法行為』が教会内で平然となされるのか?
なぜそのような『違法行為』が教会内で平然と生じるのか?
その内面に沸き起こる本源的要因は何なのか?
その司祭の内的『パン種』が、いったい何に由来するのか?
前回それを明らかにさせたいと思いました
その結論が、『悪魔のパン種』でした
償いをしない司牧者たち
癒しをもたらそうとしない司牧者たち
社会一般では弱者に対する虐げが明らかになれば
その加害者は、必要な謝罪なり賠償なり、なんらかの『償い』をするものです
今回の問題については、かなり以前から
日本の信徒たちを苦しみのうちに沈ませていました
しかしながら、教皇庁の指摘や勧告にもかかわらず
その不法行為、違法行為が
過ちを犯した司牧者側からも、また、それを知らされた裁治権者側からも
一切、何らの謝罪も、お詫びの声明もないままで
強い立場の司牧者が、弱い立場の信徒たちに
心の深い傷を負わせたまま、それを放置し
さらに、今回、適応の名のもとに、あたかも当然であるかのように
以前と同様な虐げ(手による拝領の強要やひざまずきの排除)を繰り返している
というのが現状です
教会は、司牧者による『児童への性的虐待』において
十分とは言えないにしても、謝罪や賠償を行ないました
しかし、当初、教会は、その不法行為の『膿』を明るみにせず隠蔽したがゆえに
その被害は拡大し、教会に請求された慰藉料も膨大な額にのぼりました
一方、この種の、教会内における典礼上の不法行為(違法行為)については
社会的関心がない部分なので、一般に明るみになりにくく
何らのケアもなされていませんが
異常な事態であることに変わりがないのです
本件の事案について
日本の司牧者はまるでサマリア人のたとえに登場する聖職者たちのようです
本来、信徒を大切にしてケアするはずの司牧者が
あたかも、サマリア人のたとえの中に登場する聖職者たちのように
傷つけられた信徒を、見て見ぬふりや放置をしたままで
何ら対処しない、その怠慢のゆえに
さらに事態を悪化させています
前回の記事の解説
問題提起
前回の記事の問題提起は
『舌の拝領をやめさせる行為』や『ひざまずきをやめさせる行為』
これらに対するもので
その排斥や強要が、何に由来するのかを
明確に打ち出しておく、という意図を含んでいます
つまり、
『適応の名のもとに、自分たちがするのはあなたたちの勝手ですが
適応の名のもとに、信徒の権利を侵害したり、阻害したり、強要してはならない』
という抗議の意味をこめた問題提起です
また、前回の記事は
舌の拝領を阻害されている信徒たち
ひざまずきを阻害されている信徒たちに向かい
励ましのエールを送るためのものであり
それと同時に
権利侵害を繰り返す司牧者たち
虐げや嫌がらせを繰り返す教区共同体の信徒たちに向かい
明確な『警告』を示すためのものでもあります
2つの対比
前回の記事の中で
2つの対比を見ることができると思います
一方は
ひざまずきを推進したい教皇庁
舌の拝領を推進したい教皇庁
ひざまずきを推進したい司牧者と信徒たち
舌の拝領を推進したい司牧者と信徒たち
それらに共通するのは
『信仰の神秘である聖体に現存される主への謙遜と礼拝』
『聖体の主への愛ゆえに、周囲の嫌がらせにさらされる際の忍耐と甘受』
『柔弱をしりぞける剛毅』です
まとめると
聖体に現存される主への義のために
迫害を、愛と赦しのうちに、傷つけられながらも耐え忍ぶグループです
もう一方は
ひざまずきをやめさせたい悪魔
舌の拝領をやめさせたい悪魔
ひざまずきをやめさせたいフリーメイソン
舌の拝領をやめさせたいフリーメイソン
ひざまずきをやめさせたい司牧者と信徒たち
舌の拝領をやめさせたい司牧者と信徒たち
それらに共通するのは
『高圧的言動』『強要』『嫌がらせ』です
まとめると
手による拝領を強要したいグループ
奉献文や拝領時に立つことを強要したいグループです
しかし、強要するグループは
耐え忍ぶグループが沈黙しているのをいいことに
図に乗って、『適応の名のもとに』、その強要をさらに推進しようとしています
一部の司牧者たちの酷いふるまい
以前、ある現職の日本人教区司祭は
とある青年会の集まりの際
ひざまずいて舌で聖体拝領する信徒さんたちについて
「彼らを見ていると、なんだか犬が舌を出して、ハァハァやってるみたいだ」
と言って、上目遣いでベロ〜ンと舌をだして、嘲笑しながら
青年たちの前で、からかう発言をしていました
青年たちはみな、その司祭の犬のマネ(拝領者のマネ)を見させられて
なんとも複雑な苦笑を浮かべていました
『先日、ひざまずいて秘跡を受けようとしていた信徒がいました
すると司祭は、ひざまずいたままの信徒に聖体の秘跡を授けず
信徒の横を通り過ぎて、その信徒に背を向けて
その信徒の後の信徒たちに次々に聖体の秘跡を授け出しました
その間、司祭に背を向けられた信徒は
ひざまずいた状態のまま、しばらく放置され続けていました
なんという酷い嫌がらせ
職権濫用もはなはだしい』(2018年5月24日付け記事からの引用) 先日、ある信徒さんからの話ですが
ある現職の日本人教区司祭が、要理勉強会の際
舌で拝領する人の侮辱的モノマネをされて
複数の信徒さんが悲しみ、ショックを受けられたそうです
その司祭は、背中をこっけいにまるめて
目を閉じて、「べ〜〜〜〜」と声を出しながら
極端なまでに、舌をベロ〜ンと出して、舌での拝領者をからかい
周囲はそれを見て、クスクス笑っていたそうです 本人には、ひざまずいて舌で拝領することをやめさせようとするケース
それ以外の人には、ひざまずいて舌で拝領する人々をからかうケース
『悪魔のパン種』は
ただ本人に『高圧的言動』や『強要』や『嫌がらせ』をするだけでなく
周囲にもその『遠回しな嫌がらせ』や『嘲笑』や『侮蔑』をまきちらしています
そして、その司牧者に追随して
共同体の信徒たちも、その嫌がらせに便乗するようになり
嫌がらせの連鎖、虐げの連鎖、排斥の連鎖を引き起こしてゆきます
どこから来て、どこに向かうものなのか
そのような一部の司牧者たちの酷いふるまい
それらが、どこから来て、どこに向かうのか
それらの由来を知ることが必要です
また、教皇庁や教会法や典礼指針や原則に、自ら『不従順』でありながら
配下の信徒たちには、自分たちの適応に、『従順』であるよう強要し
信徒の選択権を踏みにじり、全体主義的な画一化をはかろうとすること
それらの由来を知ることが必要です
その実りが、聖霊に由来するのか
その実りが、悪魔に由来するのか
主は仰せられます
「樹はその実によってわかる」
霊の識別において
樹はその実によって明らかです
善い樹は善い実を結び
悪い樹は悪い実を結びます
信徒の選択権の侵害行為は悪魔に由来する
立ち振舞いは適応のもとに選択肢はあるでしょう
しかし、その選択を阻害する行為
すなわち『舌の拝領をやめさせて手による拝領を強要すること』
『ひざまずきをやめさせて立つことを強要すること』
これは、ローマ教皇庁から幾度も指摘され、厳しく禁じられた違法行為だと
把握しておくべきです
信徒の選択権を侵害し、強要する行為が
どこに由来するのでしょうか?
それらの不法行為は
『地獄の悪魔に由来するもの』です
教会内での強要と排斥の横行
前回の記事は
信徒の選択を尊重する司牧者や教区に対するものではなく
信徒の選択を阻害して苦しめている司牧者や教区に対するものです
そもそも
禁じられていないのに、舌の拝領やひざまずきを禁じること
また、その選択権を尊重するようにと指摘されているのに、それを阻害すること
すなわち、『強要』という行為は、宗教を語る以前に『悪』です
また、カトリック教会においては
それが『違法行為』に該当する旨が、公文書にわざわざ明文化されています
それにもかかわらず
日本のカトリック教会内で司牧者たちによる『強要』や『排斥』が横行しています
そのような悪い実りは
悪魔に由来する『反福音的実り』であり
悪魔から出て悪魔に向かうところの『悪魔の業』であると
明確に識別することができます
フランシスコ教皇聖下は、受容と排斥に関するその説教において
ファリザイ的排斥について、幾度も痛烈に批判を繰り返しています
適応に関する典礼秘蹟省の書簡
(cf, Notitiae38 ; 582-584 ; 2002年7月1日)
各司教協議会の定めた適応に従って、立つ姿勢を規準とした地域においても
信者がひざまずくからという理由で、その信者に聖体拝領を拒むことは
キリスト信者の最も基本的な権利に対する重大な侵害である
そもそも適応の承認は
聖体拝領の際にひざまずくことを選択した信者たちが
その事だけによって聖体拝領を拒まれてはならない、ということが条件である
教皇庁教皇儀典室の儀典長グイド・マリーニ司祭
ひざまずきつつ、舌で聖体を拝領すること
私たちは聖体拝領に際して
そのような、最高の敬意と礼拝をもって、主に近づくべきです
教皇庁典礼秘蹟省の長官ロベルト・サラ枢機卿
司祭たちは、聖体拝領におけるひざまずきを否定してはならない
信徒たちには、可能な限り、ひざまずいて聖体拝領することを勧める
聖変化、特に聖体拝領におけるひざまずきは復興される必要がある 日本の司牧者は舌での拝領やひざまずきを 尊重し受容すべき
「適応だ、適応だ」と呼びかける日本の司牧者たちは
これ以上、信徒の選択権を侵害して踏みにじるのをやめなければなりません
日本の司牧者たちは
その条件づきの日本の適応において
一部の信徒たちによる、舌での拝領やひざまずきを、尊重し受容すべきであって
これ以上、それらの信徒たちの感受性を不当に傷つけてはなりません
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教皇庁教皇儀典室の儀典長 グイド・マリーニ司祭
Magister Pontificiarum Celebrationum Liturgicarum ;
Monsignore Guido Marini 教会が定めた、ひざまずきつつ、舌で聖体を拝領することは
聖体の細かな小片の落下を、できる限り回避させるものであり
エウカリスツィアの秘蹟におけるキリストの真の現存への敬虔を
信徒たちのうちに増加させるものです
エウカリスツィアのキリストを拝領する際のひざまずきは
そこに現存されるキリストへの礼拝を示唆し、促すものです
私たちは聖体拝領に際して
そのような、最高の敬意と礼拝をもって、主に近づくべきです
(ex, Liturgical Reflections of a Papal Master of Ceremonies)
手による聖体拝領 および ひざまずきの排除は悪魔に由来している
Signa autem eos, qui crediderint, haec sequentur :
in nomine meo daemonia eicient.
信じる人々には、このようなしるしが伴うだろう
彼らは、私の名によって、悪魔を追い祓うだろう
(マルコ16,17)
エクソシズム(悪魔祓い)は、祈りであり、教会の行為であり、準秘蹟であり、祈りに断食が加われば、さらに効果的なものとなります。
エクソシズムがなされるところ、そこは、エクソシストを介して、主イエズスや幸いなおとめマリアが介入される『場』であり、主導権は、主イエズス、聖母、教会権威であって、悪魔にはありません。
Domine, etiam daemonia subiciuntur nobis in nomine tuo !
主よ、あなたの御名によれば、悪魔さえも私たちに従います!
(ルカ10.17)
エクソシズムはまた、悪魔の策略が暴露される『場』でもあります。
もちろん彼ら悪魔が、自発的にエクソシストに従うことはなく、強いられて、嫌々ながらも従います。これが「悪魔さえも、私たちに従います」に該当します。
仮に、主イエズスの御名による厳命(「真実のみを言え」)にもかかわらず、悪魔が、その命令に反して、偽りを述べる、とするならば、つまり「従わない」ということになります。つまり、「主よ、あなたの御名によっても、悪魔は私たちに従いません。祈りに断食を加えても、悪魔は私たちに従いません」ということになってしまいます。嘘を述べるな、と命じられて、嘘を述べることは、従っていないことになり、彼らは「従わない」ということになります。
しかし、真理の御言葉が私たちに聞かせる響きはこうです。
すなわち、「主よ、あなたの御名によれば、悪魔さえも私たちに従います」。
悪魔の策略が明るみにされるのは、悪魔にとって、非常に不都合な真実ですが、主イエズスの御名によって厳命される時、悪魔は非常に抵抗しつつも、それを白状するはめになります。悪魔が真実の白状を嫌がるのは、自分たちが捕らえていた霊魂たちを手放さなければならなくなるためです。
これまで世界各地で行なわれた数々のエクソシズムにおいて、悪魔が白状させられた内容で、共通するものの1つに、『手による聖体拝領』というものがあります。それが、どこから来て、どこへ導くものなのか、その悪魔の告白をまとめると、次のような内容になります。
悪魔の告白
お前たち信徒は、聖体拝領の時
聖体を、手ではなく、口で受けなければならない
お前たち司祭は、聖体拝領において
それを信徒たちの手に授けてはならない
教皇自身、口に聖体を授けている
彼は手による聖体拝領を全く望んでいない
お前たちの中には、手による聖体拝領をする者が多くいるが
これは人間としての神への敬意から外れるものだ
手による聖体拝領は
私(イスカリオテのユダ)が中心的に働きかけてもたらしたものだ
我々は、とても長い期間、地獄で知恵を絞り出し
ついに現在行なわれている手による聖体拝領の導入実現に成功した
我々は、聖体拝領における変革について
つまり、手による聖体拝領の導入について、とても満足している
手による聖体拝領
これは、地獄にいる我々にとっては非常に好ましい
あぁ!こんなことまで言わされるとは!
キリストが最後の晩餐で聖体を制定された際
彼は、それを使徒たちの口の中へ、直接授けられた
キリストご自身が、それを使徒たちの口の中へ授けられ
幸いなおとめマリアも、ひざまずいて、それを口に受け、深く頭を垂れた
キリストは、ご自分の聖体が
手で受けられることを決して望まれなかった
また、最後の晩餐に列席した使徒たちも
他の弟子たちに、最も聖なる聖体を、彼らの口の中に授けた
そうだ、キリストは、手による拝領を決して望まれなかったのだ
神の聖なるからだを手で受けること。。
それは神への最大の冒涜となりえる、我々が現代の教会に仕掛けた罠である
人間どもに伝えるがいい
立って聖体を拝領しろ
しかも、手で聖体を受けろ
我々がお前たちに望むのは、ただそれだけだ
それは、我々地獄の利益のためになるからだ
しかし、実際のところ
手による聖体拝領は
神のみこころにかなうものではない
秘密結社イルミナティのグランドマスターからの典礼破壊のための指令書
1962年3月
第6指令
聖体拝領の際、ひざまずく行為をやめさせよ
第30指令
聖体拝領を、舌によってではなく
プロテスタントと同様、手でそれを受けさせよ
キリストもそのようにしたのだ、と吹聴せよ
そうすれば、聖体の一部を、我々の黒ミサのために確保できる
教皇庁典礼秘蹟省の長官ロベルト・サラ枢機卿
Praefectus Congregationis de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum ;
Cardinalis Robertus Sarah 私たち司教たちや司祭たちの責任は重大です
典礼の挙行における私たちの不注意や濫用は
どれほど教会とその聖なる典礼を損なうことでしょう!
典礼上の怠惰の誘惑に警戒しましょう
それは悪魔の誘惑にほかならないからです
さぁ、私たちはふたたび、主に向き直りましょう
教皇聖下や典礼秘蹟省の望みは
信徒がひざまずいて舌で聖体拝領することです
悪魔の告白によれば
立ったままの手による聖体拝領は
悪魔が入念な計画のもとに打ち立てたものとされています
フリーメイソン上層部イルミナティのグランドマスターからの
秘密工作員(Anti-Apostle)への指令書によれば
ひざまずきの排除や手による聖体拝領の導入が命じられています
仮に、司祭という、目上の立場から
強制的に立たされたり
手による聖体拝領を強要されたり
また、周囲の反発や圧力があって
どうすればよいか判断に迷う時には
誰が、なんと言おうと、たとえ、非難や侮辱を浴びせかけてきたとしても
規範的方法〜ひざまずいて舌で聖体を拝領する〜が無難です
公文書においても、個別的声明においても
規範的方法を望む信者の正当な権利は守られており
教皇聖下、教皇儀典室儀典長、典礼秘蹟省長官のお墨付きの方法だからです
なお、現職を含む、歴代の教皇庁典礼秘蹟庁長官は
ひざまずきの排除や手による聖体拝領について
「手による拝領は、良い兆候ではなく、いずれ修正しなければならない」
という主旨のことを語られた経緯があり
また、奉献文におけるひざまずきや拝領時の信徒のひざまずきについて
「司祭たちは、聖体拝領におけるひざまずきを否定してはならない」
「信徒たちには、可能な限り、ひざまずいて聖体拝領することを勧める」
「聖変化、特に聖体拝領におけるひざまずきは復興される必要がある」
という主旨のことを語られた経緯があります
これらの勧告は
特別形式ミサにおける、当然のひざまずきだけでなく
通常形式ミサにおいても、ひざまずきが大切であること
特に、ひざまずきが排除された地方教会の典礼において
ひざまずきをその典礼に取り戻さなければならない
といった再考を促すものといえますし
いまだかつて禁止されたことのない『ひざまずき』および『舌での聖体拝領』が
インカルチュレーションの適応の名のもとで
司牧者によって妨げられてはならない『信徒の権利』であることについて
再考を促すものと言えるでしょう
選択に迷うのは目的についてではなく、
目的に到達させる手段や方法についてだけである。
動機が正しいというだけでは全体が善とはならない。
直属の上司の命令が、自分の良心に反する場合には、
良心にこそ、従うべきである。
(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)
聖パウロは言います
「主キリストにおいて敬虔に生きようとする者は、迫害を受ける」
ひざまずきをさせないように強要している病んでいる教区では
司牧者や周囲の信徒たちから、種々の虐げや嫌がらせを受けることは必至です
他者を虐げたり嫌がらせをすること
それは悪魔に由来する『反福音的実り』『悪魔の業』であることを示すものです
しかしながら
私たちが、主キリストの復活の栄光に参与することを望むのであれば
この世において、主キリストの受難の神秘に参与する必要があります
冒頭に掲げた教皇庁教皇儀典室儀典長による奨励
歴代教皇聖下による実践的模範
歴代教皇庁典礼秘蹟省長官による勧告
数々の公文書による、ひざまずきや舌による拝領についての権利擁護
聖体のシノドスによる奉献文におけるひざまずきの重要性の確認
これらの把握は、聖体のうちにまことに現存される主イエズスへの礼拝と愛を
また、神のみこころへの真の従順を、私たちに力強く促しています
主イエズスは、御父への死に至るまでの従順を貫き通し
御母も御子に寄り添い
その十字架のいけにえに至るまでの信仰の従順を貫き通しました
犠牲的愛の痛み
痛むほどに神への愛を貫くこと
そこに真の愛があります
Tolle ergo crucem tuam et sequere Iesum :
et ibis in vitam aeternam.
それゆえ、あなたの十字架を取り、イエズスにつき従いなさい
そこにこそ、永遠の生命がある
Pone te ergo sicut bonus et fidelis servusChristi
ad portandam viriliter crucem Domini tui :
pro te ex amore crucifixi.
キリストの善良で忠実なしもべとして
あなたの主の十字架を勇ましく担う覚悟を決めなさい
主はあなたへの愛のために十字架につけられたのだ
Calicem Domini affectanter bibe :
si amicus eius esse et partem cum eo habere desideras.
もしあなたが、主の友となり、主と共にいたいと望むならば
愛をもって主のカリスを飲み干しなさい
Consolationes Deo committe :
faciat ipse cum talibus sicut magis placuerit.
ただ、慰めについては、神におまかせしなさい
そうすれば御旨のままに、より一層素晴らしいものを、ご自身で備えてくださる
(ex, De imitatione Christi)
表面上、周囲の圧力に流されて、偽りの平和を楽しむこともできるでしょう
たしかに、それはラクなことであり、十字架から手を引くことになります
しかしながら、それが、神のみこころでないと確信しているならば
私たちは、人の気に入ることではなく
神のお気に召すことを選び取ることが大切です
「あなたはひざまずいて、私と共に戦いなさい」
私たちの報いは、この地上ではなく、天上に備えられています
今、幅を利かせている不従順的傲慢は
いずれ、従順的謙遜によって、踏みにじられるでしょう
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