悔い改め

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マルコによる聖福音 1,14


          Impletum est tempus, et approquinquavit regnum Dei ;
                    paenitemini et credite evangelio.

                      時が満ちて、神の国が近づいた。
                      悔い改めて、福音を信じなさい。


 私の神よ、私は心を尽くして、私が犯した全ての罪を悔やみます。ただあなたの正義による罰を恐れてそうするのではなく、あなたが最高の善であるがゆえに、全てに超えて愛されるべきあなたに背いたがゆえに、私は心から罪を悔やみます。
 あなたの御子イエズス・キリストが私の全ての罪の贖いのために十字架上で流された貴い御血によって、私の犯した罪をお赦しください。
 。。。(十字架の前でひれ伏し赦しを願います)。。。
 あなたの恵みの助けによって、これからは罪を犯さないと決心し、罪の機会となることがらも避け、もはやあなたの愛に背くことがないようにと固く決心いたします。
アーメン。

罪人の避難所である聖母マリア、罪人である私のために、今も死を迎える時もお祈りください。
アーメン。


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ココロの痛悔について

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福者コルンバ・マルミオン修道院長

心の痛悔を獲得する方法〜祈ること、キリストのご受難を黙想すること〜

ひとりの罪人が悔い改めて、罪の赦しを受ける時、
天使たちは躍り上がり、神の憐れみをほめたたえます。

「神のいつくしみは、
 とこしえに絶えることがないからである」(詩編135)


「マグダラのマリアに赦免を与え
 盗賊の願いを聞き入れられた御方は
 私にもまた、希望を与えてくださいました。」(死者の続唱『Dies irae』)


これらのことを想う時、
信頼の念が、胸中に溢れてきます。

イエズスは、マグダラのマリアの罪をお赦しになりました。
その上、格別な恩寵をもって、彼女を飾られました。

かつては女性陣の恥さらしでしかなかった者を、
そののち、最も貞淑な聖女に変えてくださったのです。

罪女であったマグダラのマリアにおいて、おできになったことは、
同じく、最大の罪人においても、立派におできになるはずです。

キリストにとって、
どんなに大きな罪人でも、
これを浄化して、聖徳の高みにまで到達させることは、
至ってたやすいのです。
これは、ひとり神の全能のみが、成しうる御業です。

「誰が、汚れた者のうちから、清い者を出すことができましょう。
 それは、あなたの他、ひとりもありません」(ヨブ14.4)

キリストは神です。
そして、ただ神だけが、
罪深い被造物を清めて、
その霊魂を一新することがおできになります。


霊魂の清め。。
これこそ、イエズスの御血の勝利に他なりません。

しかし、この霊の復活にあずかるためには、
どうしても、1つ条件があります。

それは、この罪女の抱いた、
愛に満ちた痛悔のココロをまねることです。


実際、マグダラのマリアこそ、
完全な痛悔の模範です。

ごらんなさい、彼女は招かれてもいないのに、シモンの家に入り、
「泣きながら、イエズスのうしろで、その足許のそばに立ち、
 涙で、その足を濡らしはじめ、髪の毛で拭い、
 足に接吻して、香油を塗るのです」(ルカ7.38)

今までは、自分の肉体の誇りであり、
男性陣を誘惑する際の豪華なエサとしていた髪の毛です。
香油は、彼女の痛悔の愛の流露です。

あとには、勇敢にも、カルヴァリオに至るまで、
イエズスの御跡を慕うのです。


愛こそ、彼女を駆り立て、
イエズスの苦しみと辱めの受難にあずからせたのです。

愛こそ、彼女を駆り立て、
復活の朝、誰よりも真っ先に、
イエズスの墓に駆けつけさせたのです。

イエズスは親しみを込めて、
「マリアよ!」と、彼女の名をお呼びになり、
その燃える愛に、豊かにお報いになり、
ご自分の『復活の使徒』として、
弟子たちのもとにお遣わしになりました。

ですから私たちも、
マグダラの聖女マリアと共に、
十字架のもとにとどまりましょう。

罪の赦し(懺悔)の秘蹟によって、
イエズスの功徳にあずかり、
ミサ聖祭を拝聴して、
カルヴァリオの犠牲にあずかるなら、
必ずや、痛悔の精神が、私たちの霊魂に浸透して、
そこにある罪を滅ぼし、
罪の危険に対しては、これを予防してくれるでしょう。


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ココロの痛悔について

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福者コルンバ・マルミオン修道院長

心の痛悔を獲得する方法〜祈ること、キリストのご受難を黙想すること〜

ココロの痛悔は、
大いなる愛と信頼を伴います。

霊魂は、罪を思い起こしても、
決して失望しません。

イエズスは豊かに、
私たちの贖罪をお果たしになったからです。

「主の御許には、いつくしみがあり、
 豊かな贖いがあるからです」(詩編129.7)

イエズスの苦しみを回想する時、
ココロには痛悔の悲しみと共に、
イエズスの贖罪の限りない価値への、ゆるぎない希望を抱くようになり、
こうして霊魂は、これまで犯した罪の痛ましい思い出から、
一躍、言い尽くしえない平安の境地へと、引き入れられるのです。

「ごらん、私が大いなる悲しみに遭ったのは、
 私のココロの平安のためであったのだ」(イザヤ38.17)

私は過去に犯した罪の数々を思う時、
ココロは暗い考えに閉ざされがちになるでしょう。

しかし、そんな時には、
イエズスの次の御言葉を思い出しましょう。

「私がこの世に来たのは、義人を招くためではなく、
 むしろ罪人を招いて、これを回心させるためである」(マテオ9.13)

「ひとりの罪人が回心するなら、
 回心の必要のない99人の義人にまさる喜びが、
 天に沸き起こるのである」(ルカ15.7)


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ココロの痛悔について

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福者コルンバ・マルミオン修道院長

心の痛悔を獲得する方法〜祈ること、キリストのご受難を黙想すること〜

ごらんなさい。
敬虔な霊魂は、キリストの苦しみを想い、
愛でココロを突き刺され、
みずからへりくだるのです。

ご受難の夜、
哀れなペトロは、下女の詰問に恐れをなして、
主キリストを3度も否みました。

その瞬間、
敵の手におちて鮮血にまみれたキリストのまなざしが、
ペトロのそれと、パッタリ出会ったのです。

ペトロは、全てを了解し、
そして、「外に出て、激しく泣いた」(マテオ26.75)のです。

篤い信仰と深い敬虔をもって、
キリストの苦しみを黙想する霊魂の内奥にも、
この同じ現象が起きるのです。

彼もまた、
ご受難の夜のペトロのように、
キリストのあとについていくのです。

彼もまた、
十字架につけられているキリストの
憐れみのまなざしに出会うのです。

そして、これこそ、
彼にとって、大きな恵みなのです。

「十字架の道行き」をしながら、
しばしば、ご受難のキリストの足跡をたどりましょう。

キリストはその時、
私たちのココロに語りかけられるでしょう。

「私があなたのために、
 どれほどの苦しみを耐え忍んだか、
 想いめぐらしなさい。

 園で3時間にわたり、死の苦悶をしのぎ、
 使徒たちには逃げ去られ、
 悪人たちからは顔に唾を吐きかけられ、
 ヘロデからは狂人のように愚弄され、
 偽証人たちからは讒言され、
 ピラトからは不法な宣告をされ、
 十字架の重さには耐え切れず地に倒れ、
 丸裸にされては十字架に釘付けにされ、
 共に天をいただかない敵対者から、散々に嘲られ、
 渇いては、酢や苦いキモを飲まされ、
 特に耐え難いのは、御父からさえも見捨てられたのである。
 
 何のために私は、これら全ての苦しみを耐え忍んだのか。
 それは、ただ、あなたのためにこそ、あなたを愛すればこそ、
 あなたの罪科を償うためにこそ、あなたを救うためにこそ、
 自分の血を流し尽くして、全てを支払ったのである。

 あなたに、御父の憐れみを注いでいただくため、
 私は戦慄すべき正義の鞭に、私の身を委ねたのである。。」

嘆き訴えるイエズスの御言葉に、
誰が無感覚でいられましょう。

十字架につけられておられるイエズスのまなざしは、
霊魂の深奥にまで達して、
激しい痛悔の念をもって、
これを刺し貫くのです。

私たちの犯す罪こそが、
キリストの全ての苦しみの原因だったことを悟らせるからです。

その時、私たちのココロは、
愛すべき救い主に、
ご受難の苦しみを実際におかけした事を想い、
悲しみのために粉々に砕けるのです。

このように、
神が、ある霊魂に、
黙想の間、天上の光によってお触れになる時、
どれほど貴重な恩寵であろうと、
おしげもなくお与えになるのです。







ココロの痛悔について

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福者コルンバ・マルミオン修道院長

心の痛悔を獲得する方法〜祈ること、キリストのご受難を黙想すること〜

祈りに加えて、
痛悔の心情を起こさせる、
何らかの方法をもってしなければなりません。

最も有力な手段は、
救世主イエズス・キリストのご受難を、
しばしば黙想することです。

もし私たちが、
篤い信仰と深い敬虔をもって、
キリストの苦しみを黙想するなら、
必ず、神の愛と正義に関して、
これまで知らなかった素晴らしい啓示を賜わるでしょう。

こうして、一切の人間的考察に越えて、
罪の凶悪さを、身にしみて悟るでしょう。

ご受難の黙想は、準秘蹟のようなもので、
霊魂を、悲しみ悩めるイエズスのご心情の中に投げ入れます。

ゲッセマニの園でのご心痛に。
御父への畏敬と愛熱と、
その御旨への聖なる委託のご心情に。

イエズスは、御父の聖心を限りなく喜ばせる、
その最愛の御独り子であられます。

それにもかかわらず、ごらんなさい、
「私は悲しみのあまり、死にそうだ」と仰せになります。

大いなる叫びが、
キリストのはらわたをついてほとばしり出ます。
涙は滝のように流れ落ちます。

どうしてキリストは、
これほどまでに悲しみ、
叫び、涙を流されるのでしょうか。

全世界の全ての罪を、
ご一身に引き受けられたからです。

天の御父が、
私たち全人類の全ての不義を、
彼の上に置かれたからです。(cf,イザヤ5.7)

彼はまことに、
世の罪でおおいかぶせられた、贖罪の羊なのです。

もちろん彼は「痛悔者」ではありませんでした。
私たちが定義したような「痛悔」の心情は、
お持ちにならなかったでしょう。
イエズスのご霊魂は、聖であり、汚れなく、
「罪を犯す」ということをご存知ではありませんから。

イエズスが支払わなければならなかったのは、
人類の罪の負債、
ご自分のものではなく、
実に私たち自身の負債だったのです。

「彼は私たちの罪のために傷つけられ、
 私たちの不義のために打ち砕かれた。
 彼は自分の上に懲らしめを受けて、
 私たちに平安を与え、
 そのうたれた傷によって、
 私たちは癒されたのです。」(イザヤ53.5)

イエズスは、私たちの身代わりとなられたので、
私たちの霊魂が、罪に直面して旋律する時の悲しみを、
ご自分でも実感しようとお望みになりました。

さらに、罪によって踏みにじられた神の、
正義と愛の報復の鞭に、
ご自分の身をさらそうとお望みになったのです。

「彼を砕くことは主の御旨であり、
 主は、彼を悩まされた。」(イザヤ53.10)


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ある日、私たちの主は、
フォリニョの聖女アンジェラに向かって、
このようにおおせられました。

「私があなたを愛したのは、笑い事ではなかった」

聖女はその時の感想を、
次のように記録しています。

「この御言葉に、私の霊魂は、
 今にも死にそうなほどのショックを受けました。

 その時はじめて、私は眼が開いて、
 天からの光のもとに、この御言葉が、
 どれほど真実であるかを、悟ることができたからです。

 私の主が、私を愛してくださったこの愛の、
 現実の業と、その驚くべき成果を見て、
 また、この愛が、
 神の御独り子をどこまで駆り立てたかを見たからです。

 私の主が、その一生の間、
 特にご受難、ご死去の時、
 私への愛のために、
 その聖心の中に燃え盛る永遠の愛の力によって、
 耐え忍んでくださった全ての苦しみを、
 その時、私は見たのです。

 いいえ、いいえ、私の主は、
 決して笑い半分に、私をお愛しになられたのではありません。
 私の主の愛は、その心臓の中で、
 驚くほど真剣で、真実で、深刻に、燃え盛っていたのでした。。」


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この愛の観想から、
聖女はどのような成果を収めたのでしょうか。

それは、深い、
とても深い痛悔の精神です。


「その時、イエズス様に対する私の愛情は、
 ちょうど、悪ふざけのように、
 恐ろしい嘘のように思われてなりませんでした。
 
 私のイエズス様への愛は、
 冗談で、虚構で、見せかけでしかなかったのです。

 主よ、私があなたに近づいたのは、
 あなたが私のために耐え忍んでくださったご労苦を、
 自分も分けていただきたい、との真心からではなかったのです。

 私の主への奉仕は、
 真実なものでもなく、
 完全なものでもなかったのです。

 そぅです。怠けとふたごころをもっての
 奉仕でしかなかったのです。。」(『幻視』33章)


フォリニョの聖女アンジェラは、1248年、イタリア、フォリニョの良家に生まれ、
結婚生活において世俗的であったけれども、フランシスコ会第3会員になり、生活を改めました。
夫と子供の死後、悔い改めの生活に身を捧げて、のちに第3会の指導者となりました。
しばしば主キリストの私的啓示をいただく恵みも受けました。
本記事の聖画や聖堂に安置された聖遺体は聖女アンジェラです。

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ちなみに。。フォリニョの聖女アンジェラ(1248〜1309年)記念日:1月4日

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ココロの痛悔について

福者コルンバ・マルミオン修道院長

どのように誘惑に抵抗すべきか

イエズスは仰せられます。

「私は、まことのぶどうの木であり、
 私の父は、農夫である。
 私の枝で、実を結ぶものはみな、
 もっと多くの実を結ぶために、
 父が刈り込んでくださる」(ヨハネ15,1&2)

天の御父が刈り込みをなさる時、
つまり、試練や誘惑の時は、
私たちも使徒たちのように、イエズスに救いを求めましょう。

「主よ、助けてください。
 私たちは滅びそうです」(マテオ8.25)

もし、誘惑に遭う度ごとに、
ただちに、このようにしてイエズスの御許に駆け寄っていくなら、
もし、私たちの霊魂が、いつも痛悔の念にひたっているなら、
悪魔は、私たちに対して、何の力もないでしょう。

誘惑は、ただ、私たちの忠実さを練り鍛え、
愛を熱烈なものとし、
このようにして、御父のお望みにかなう者とならせるばかりです。



心の痛悔を獲得する方法〜祈ること、キリストのご受難を黙想すること〜

それでは、痛悔の精神を、
どこから汲み取るべきでしょうか?

まず、切実な祈りによって、
それを神にお願いすることです。

この「涙の賜物」は、至って貴重なもので、
それは、全ての良い贈り物、全ての完全な賜物の与え主、
光の御父から来るのです。

ミサ典礼書には、
「涙の賜物を求めるため」の祈りが掲載されています。

いにしえの修道者は、
しばしば、この祈りを唱えたものです。

「全能にしてもっとも柔和な神よ、
 あなたは、渇いた民のために、
 岩から生ける泉を湧き出させてくださいました。
 私たちが自分の犯した罪を嘆き、
 あなたの赦しと憐れみをいただくことができますよう、
 私たちの頑ななココロから、
 痛悔の涙を引き出し、溢れさせてくださいますように。
 私たちの主キリストによって。アーメン。」

聖書には、
ダヴィド王の美しい痛悔の詩編が掲載されています。

姦通、殺人の2重の大罪を犯したダヴィド王は、
預言者ナタンのいさめによって、
胸を打ちながら、「私は罪を犯しました」と言って、
神におわびするのでした。

彼のココロからの痛悔は、
神の赦しを呼びくだし、
みずから痛悔としんらいに満ちた、聖なる詩を作るのでした。

「私を憐れんでください、神よ、あなたの憐れみによって。
 あなたの豊かな憐れみによって、私の不義を消してください。
 幾度も、私の不義を洗い、私を犯した罪から清めてください。
 私の不義を、私は認めます。
 私の罪は、いつも私の前にあります。
 あなたに、そぅ、ただあなたに罪を犯し、御前で悪を行ないました
 あなたが宣告される時には正義が、あなたが裁かれる時には公平が見出されます。
 ごらんください、実に私は不義のうちに生まれ、私の母は罪のうちに私を宿しました。
 ごらんください、実にあなたは心の真実を愛され、隠れた智恵を私に示される。
 ヒソプをもって私に注ぎかけてください、そうすれば清められるでしょう。
 私を洗ってください。そうすれば雪よりも白くなるでしょう。」

痛悔の心情が、
行間ににじみ出ています。

次に信頼の情を、神に披瀝します。

「私に喜びと楽しみを聞かせてください。
 そうすれば砕かれた骨も、喜び踊るでしょう。
 あなたの御前から、私の罪を取り除き、
 私の全ての不義を消してください。
 私のうちに清いココロをお造りください、神よ、
 私のからだの深みに、堅固な霊を新たにしてください。
 あなたの御前から私を遠ざけないでください。
 私からあなたの聖なる霊を取り去らないでください。
 あなたの救いの喜びを私に戻し、
 最も快活な霊で、私を堅固にしてください。
 私はあなたの道を悪人たちに教えましょう。
 そうすれば罪人も、あなたに立ち帰るでしょう。
 私を流血から解放してください、神よ、私の救いの神よ、
 私の舌に、あなたの正義を喜びたたえさせてください。
 主よ、私の唇を開いてください。
 そうすれば、私の口も、あなたの賛美を告げるでしょう。
 実にあなたはいけにえを喜ばれません。
 燔祭を捧げたとしても、あなたは満たされません。
 神のいけにえ、それは打ち砕かれた霊、
 痛悔し、へりくだるココロを、神よ、あなたは軽んじられません。」

このような哀切を極めたココロの調べは、
神の聖心を揺り動かさずにはおきません。

「神よ、あなたは私の涙を、御目の前におかれました」(詩編55.9)

イエズスは、
「泣く者は、幸いである」(マテオ5.4)と仰せになりました。

「そぅです。
  実に、罪のために泣く人は、幸いなのです。

 世の中に泣く人は多いですが、
 神から慰めていただける者は、
 ただ、自分の罪のために泣く人だけなのです。
 
 1つの不幸を泣くことは、
 それに、他の不幸を加えることに等しくなります。

 泣いてなくなる不幸、
 それは、罪に他なりません。

 罪の赦しは、
 清らかな懺悔の、涙の結晶なのです」(ボスエ『福音書の黙想』)







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