法と罪と赦し(◕‿◕✿)

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 この書庫において、カトリック教会における「自由・法・罪・回心・神の憐れみ・告白・罪の赦免・償い」についての解説を掲載します(。ฺ◕‿◕ฺ。)ノ☆・゜:*
                ♡ファン限定です♬(≧▽≦)ノ☆・゜
『 La Loi, la Faute, le Pardon 』      Jean MICHEL

Cure de Saint−Pierre de Chaillot (Paris)




『法と罪と赦し(◕ฺ‿ฺ◕ฺ✿ฺ)』書庫内の記事数:73✿ฺ
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第4章 告白

6.最後の祈り



主イエズスよ、あなたは、私たちの過去の恥を全てご自分の上に負われ、
その贖いによって、これを永遠の光栄にかえられる。
単に、正義によって私たちを贖うだけでは満足されず、
あなたは、それ以上のことをなさった。
つまり、あなたの御父の聖心のうちに入れるほど限りなく私たちを高められた御父は、
私たちのうちに、ご自分の御独り子であるあなたの御業を満足してごらんになる。
主イエズスよ、あなたのおかげで、あなたの御父は、『私たちの父』、
つまり、あなたと私たちの御父となられた。


私たちは、あなたの勝利の器となる無上の名誉をいただいた。
このあなたの勝利は、実に感嘆すべきもの、限りなく感嘆すべきものである。
あなたがこの勝利をえたのは、武器にも、黄金にも、名誉にも、人間的な作戦にもよらず、
ただ、あなたご自身の完全ないけにえによってである。
神であるあなたには、この勝利に無限の価値がある。
私たちに何か勝ちがあるのも、みな、あなたからいただいた価値である。
罪を犯してその値打ちを失っていた私たちの生活に、
あなたの神的生活がしみ込み、私たちの生活は無限の価値となった。


あなたは、私たちにとって全てである。
なぜなら、あなたがいないと、私たちは無に等しいからである。
だから、私たちの生涯を尽くしてあなたに一致すること以外、あなたの愛に応える道はない!



あぁ、主よ、御母聖マリアのうちにあなたが生きられたように、
私たちのうちにも生きてください。
私たちが恐れるべき災いはただ1つ、あなたから離れることである。
私は、私のために、ご自分の全てを与えた御方に日毎一致するように努力しよう。
このイエズスとの一致のまことの値打ちを、今はっきりと知ることはできないが、
いつかこの一致の美しさが確実に現れるだろう。
このいつかが、地上での生活が進むにつれ1秒ごとに近づいてくる。
日毎に私はあなたに近づき、毎時その距離を縮める。
いつか〜あなたが定められるその日〜私の心臓が止まり、
二の腕が力なくたれる時、私の愛する人々は泣き悲しむだろう。


しかし、その時こそ、私にとって大きな喜びが始まるだろう。
その喜びは、地上に残る人々の目には見えないが、
私は今からそれを受けるだろうと確信している。
なぜなら、私は決してあなたを離れることを望まないからである。


その時、私は、自由に、美しくなった魂の目をあげて、
あなたの愛の美しさを眺め、
永遠に、私の感嘆と感謝とを尽くしてたたえるだろう。



あぁ、主イエズスよ、あなたこそ私の死を、永遠の生命にかえられた愛の神である。



                                            FIN




第4章 告白

5.最後のことばは信頼にある


このささやかな文章の終わりにあたって、おのずと次の結論に導かれる。。。
神に信頼しよう。

それは、神にとって失望的な状態はありえないからである。
人間の力には限りがあるが、神の力には限りがない。
人間の愛には限りがあるが、神の愛には限りがない。

限りのない力と愛。。。
罪人の心の罪を洗い清めるのに、
必要以上に豊かに限りない力と愛。


罪人は、神の御憐れみにより頼めば、それで充分である。
自分に信頼せず、木の枝が幹についているように、彼も神につくなら、
神的生命の樹液は、彼のうちにも流れ込むに違いない。

自分に対する信頼を減らせば減らすほど、神に対する信頼を増すことになる。
自分の至らなさと弱さを御父に打ち明けるなら、
御父は、離れたこの我が子を御胸に引き寄せるために慈愛の水を注がれるだろう。

こう考える時、私たちは、どれほど大きな喜びを感じることだろう。
神の愛が私を見守っているのを感じる時、
私は、明るく喜びをもって生活することができる。
この安堵の気持ちが、無活躍な楽観主義を招くことはもちろんない。
むしろ、正反対である。
なぜなら、悪魔が私たちを神から引き離そうとする時、
神と共にとどまるために努力しなければならないからである。

その時私たちは、力尽きた遭難者のように、
『神よ、助けてください!もう最後です!』と叫ぼう。
そうすれば、『信仰薄いものよ、なぜ、疑うのか?』という神の御声があって、
その御手は、逆巻く波から私たちを救いあげられるだろう。
溺れかかった私たちを救い上げ、死にかかった私たちをよみがえらすであろう。

しかしその時、次の過ちを避けるよう注意しなければならない。
それは、この成功を私たち自身のてがらに帰す、傲慢である。
傲慢は、心の戸を閉ざして神を拒むが、
謙遜は、神を迎え入れるために心を開放する。


神に対する私たちの信頼こそ、
神の偉大さを認める、最も貴重な尊敬と礼拝のしるしである。
しかし、自分の弱さを心から真実に認めないかぎり、まことの信頼はありえない。

聖フィリッポ・ネリが繰り返していたかの祈りは、
どれほど信頼に溢れた、人間らしい祈りだったろう。
彼は、しばしば次のように祈っていた。
『主よ、フィリッポを信頼しないでください。
  彼は弱く、いつもあなたを必要としています!』


しかし信頼は信仰なしにはありえない。
信仰がいるからこそ、今、明らかにわからないことがいろいろとある。
もしそうでないなら、単なる知的な認識にすぎず、功徳も愛もありえない。

ある人の振る舞いを自分の目で確かめることができない隔たった地にいても、
その人の行動に疑いをもたないなら、そこに信頼がある。
『あの人はよい人だと私は知っている。
 だから、安心してこれこれのことを任せることが出来る』と考えるのと同じである。

なぜ、こんな信頼をおくことができるのだろうか?
それは、他の多くのことによって、この信頼が裏付けられているからである。


『労苦する人、重荷を負う人はみな、私のもとに来るがよい』(マテオ11.12)
と言われた神ほど、私たちの信頼に値するものがあろうか?


教会の歴史全体も、神の確固たる忠実さの能力の証明である。
それは、死をもたらす要因から絶えず襲われているにもかかわらず、
神の力によって続くからである。

私たちの個人的な歴史も、神のこの忠実さを示している。
罪から立ち上がり、善徳に進み、悪に逆らい、善を行うために、
彼は数多くの恵みを与える。


聖母マリアの取り次ぎ、天のこと、
天にゆくための道を思い起こさせる聖母マリアの全ての出現は、
私たちに対する神の忠実さを示している。
私たちが何か良いことを考えたり行ったりするのは、
全て、神の能力によって引き起こされたこと、
神の愛により芽生えさせられたことである。


花が太陽に向かうと、
色と香りを増して開花を促される。

私たちも霊的生活に香りと進歩が与えられるように、
いつも神に向かおう。



第4章 告白

4.地獄〜赦しの拒絶〜



罪人の頑なな心だけが、神の憐れみを妨げる。

ご自分の無限であるべき憐れみが妨げられるのを見て、
神が憤られるのは当然である。
『富む者は災いである』(ルカ6.24)と神に言わせたのは、
富む者の貪欲である。
神なるキリストの手に鞭を握らせたのは、
神の家=神殿を汚す商人である。
ファリザイ人たちの悪事をつき、彼らを、白く塗った墓にたとえるよう神を刺激したのは、
ファリザイ人の偽善である。
貪欲な者、不正な者、偽善者はみな、自分にかかる呪いを自ら招いたのである。
その罪として地獄がある。


地獄とは、
人間によって拒まれた神の憐れみに対する罰である。


神の憐れみを拒むこと。。。これより恐ろしい忘恩はない。
なぜなら、人間は永遠の救いをえるために、
常に多くの好都合を与えられているからである。


神が人間を創り、贖われたのは、
人間に、『生命を、豊かな生命を与えるため』(ヨハネ10.10)である。

創り主が、救い主である神の到来を世界の歴史の中心においたのは、
神のこの御旨が中心、かつ根本的なものだということを理解させるためである。
神は、全てを人間の救いのためにはからわれた。
『罪が増したところには、それ以上に恩寵が豊かになった』(ローマ5.20)。
つまり、神の力は、罪に対して勝利をえた。
神なるキリストは死なれたが、
それは、私たちを救おうとどれほど望まれたかを示している!
これ以上の愛と憐れみがありうるだろうか?


しかし、神の子供である人間は自由であった。
そうでないなら、神の子供とはいえない。
自由がなかったなら、人間は神の数多い被造物のうちで、
単なる受動的な要素に過ぎなかっただろう。
つまり、大自然の法則に逆らうこともなく従う物質や、
本能によって支配される動物のようなものに過ぎなかっただろう。

しかし、最高の王である神の子供として、人間も王であり、命令をくだすことができる。
しかし命令をくだすためには、自由の身であり、
人格的に『はい』という能力がなければならない。


地獄とは、
認識し、承知しながら、神に対して『否』という人間の状態である。
つまり、神の愛を拒絶することである。
もちろんこれは、全ての不幸のうちで最大の不幸であり、
際限ない苦しみと悩みとを生み出すのである。


全ての苦しみは、
罪〜源の罪とそれに続く他の全ての罪〜から生じてくる。
地獄は、その泉である罪にさかのぼる苦しみであり、
当然あるところに置かれた苦しみである。


罪のないキリストに苦しみをもたらしたのが罪であるなら、
まして、罪がそれを犯した人々の苦しみとなるのは当然である。

キリストの苦しみは、
罪人の永遠に受けるべき苦しみの代わりとなって、
それを罪人にまぬがれさせることができたが、
罪人は、この憐れみに承諾するのを拒んだ。
神が彼の罪の贖いとなって苦しむことを、
神による贖いを、
彼は拒絶した。
彼は、罪の報いとして当然受けるべき苦しみを苦しまねばならない。

神から離れた状態におちるという苦しみ。。。
しかしそれは、自分の御父の愛にあずかるのを拒んだ罰としての苦しみであり、
この苦しみは永遠に続くのである。

放蕩息子の苦しみ。。。
聖福音書のたとえに登場する放蕩息子と違い、
彼は、容易に父の家に帰ることが出来たのに、傲慢に狂い、
豚の糞汁の中に足を踏み入れたまま飢え死にするのを選んだ。

火の苦しみ。。。
これは、邪欲の楽しみにふけった当然の復讐である。
これらの邪欲の楽しみは、忌み嫌うべきものだと知っていながら、
頑なにそれを拒まなかったからである。
何を行っているかをよく知っていながら、神の光に真っ向から逆らったために、
彼の受ける苦しみも、それに相応して激しいものだろう。


愛によって創られ、贖われ、
その生涯の各瞬間を最も力ある、知恵に富んだ、温かい愛に支えられながら、
これに、愛をもって応えるのを拒んだ人に対して、地獄の罰は正当なものである。

救いをえるために取るべき正しい道を知りながら、
意識して堕落の道を選んだ人にとって、
地獄は正当な罰である。
彼が堕落したのなら、この罰を、あえて不審がる理由もない。

地獄は、
人間によって作り出された失望的な状態である。
神は、そんな状態を一度ももたらさないからである。


聖アウグスティヌスが言うとおり、神のうちに、『愛は憎みよりも強い』。
地獄は、
自分の楽しみを、神の愛よりも強いものにしようとした人々の罰である。
つまり神が、幾度も憐れみを示そうとしたのに、
頑なにそれを拒んだ人々の罰である。
なぜなら、主なる神が、
種々の方法をもって、その恵みを提供されなかったといえる人は、ひとりもいないからである。


神から『呪われた者』(マテオ25.11)が落ちるべき、
この『ゲヘンナの火』(マテオ5.22;18.9)、
『外の暗闇』(マテオ8.12;22.13;25.30)、
『永遠の火』(マテオ3.12;18.8;25.41)こそ、
危険を知らせる神の愛の絶えざる警告である。

つまり、天においでになる私たちの御父は、無限の愛そのものでありながら、
私たちの救いを望まれるあまり、これほどの脅かしまでされるのである。
神の子供である人間が、頑なで、忘恩で、反逆に傾いているために、
神は、この手段にまで訴えねばならなかった。

しかし、それでも充分ではなかった。
愛によって創られ、豊かな愛で贖われたことも、充分ではなかった。
罪人を救うために、神の御独り子は十字架に釘付けにされ、
醜い、卑しい、恐ろしい状態にまでなった。
しかし、十字架につけられたこの神の御前に立っても、罪人は頑なである。
御母マリアの涙を見ても、心を打たれない。


神の憐れみが、尽きることのない流れのように、彼に近づいている。
手を伸ばしさえすれば、豊かに汲み取ることができるが、
彼は頑なに拒絶する。
神は、彼の心を動かそうと、
勧め、感激、良心の呵責、苦しみ、悩みとあらゆる手段に訴えるが効き目がない。

では、この石のような固い心に何が残るだろうか?
最後の感激〜最も好ましくない、利己的で計算ずくな感激〜のみが残る。
それは恐れ〜わが身に起こるであろう不幸に対する恐れ〜である。

人間の心を失った強盗殺人犯も、
相手の切なる願いに耳をかさず、あどけない幼子を無感動に殺した極悪非道な殺人犯も、
死刑台の前に立つ時、わが身の震えを抑えることができない。
他のどんな感激も覚えなかった者にとっては、
恐れだけが、最後の感激となって残っている。


その窮みに至るまで愛を尽くした神、
正義と真理の名によって、ただ愛のみによる自発的な従順を受けるべき神は、
人間をまことの生命の道に立ち帰らせるために、
永遠の死である地獄の罰をもって、やむなく脅かさねばならなかった。
地獄の恐れにおののいて、
人間が少しでも愛を起こすであろうと神は希望されたのである。


あぁ、私の主、私の神よ、
あなたの全ての羊、最も心頑なな羊にとっても、
常に理想的な羊飼いであるキリストよ、
あなたが地獄について話される時、
私はどれほど注意深く聞き、記憶にとどめねばならないことだろう。
そして、他の全ての理由が私を動かさない時の、最後の理由、
避難所としての理由として保たねばならない。
この恐れは、私を震えおののかせるが、
私を救いに導くもので、
これこそあなたの、私に対する愛の最後の作戦であると私は認めねばならない。



第4章 告白

3.告解の特長と欠点(前回の続き)


 次に、よい告解をするための実用的なことについて2,3述べよう。


 私は、数十年の間、信者の霊的指導にあたり、多くの告解をきいた経験から、
 多くの信者がよい意向をもちながら、正しい告解の仕方を知らない事実に気付いた。




 告解の時には、まず第1に、自分の犯した罪を言い表さねばならない。
 しかし、その罪の詳しい歴史を述べる必要はない。
 自分が犯した罪につながる全ての事柄を、何人が言い尽くすことができよう?

 そこで、カトリック要理もよく教えるとおり、
 『真実に告白するとは、
  大罪をその数とおもな事情と共に、
  思い出したとおり、
  増し減らしなく、正直に言い表すことです』。


 ここでいう、告白すべき罪の事情とは、
 小罪が大罪となったり、
 1つの悪事が、いくつかの掟に背くために、
 大罪の上にさらに他の大罪が重なったりするような場合をさすのであり、
 従って、それと無関係な他の全ての事情は、言う必要がないばかりか言ってはならない。




 第2に、注意すべきことは、
 罪になるのは、意識して知りながら何か悪いことを行ったり望んだりした場合に限ることである。

 従って、自分が意識せずに何かしたり、自分の意志に反して何かあっても、
 それは罪でも、告白すべきことでもない。
 なぜなら、自分が意識して承諾しないかぎり、罪にはならないからである。

 また、『金曜日の小斎を忘れて肉を食べた』という告白もおかしい。
 実際に忘れたのなら、なんの小さな罪にもならない。
 これからよく注意すれば、それで十分である。

 あるいは主日に、ミサにあずからなかったとする。
 そしてそれは、あなたの健康状態がわるく、医師から外出を禁じられたためであり、
 または、付き添いを必要とする病人の世話があって外出できなかったためである。
 この場合は、小罪にもならないから、告白すべき必要もない。




 第3に、いざないにかかってもそれだけで罪ではない。
 いざないとは、提示された罪であり、承諾をかうための魅力ある罪の提示である。
 だから、いざないの時、罪への魅力、あるいはなんらかの楽しみを感じるのは当然なことで、
 それだけでは、まだ罪にはならない。
 つまり、いざないを感じるだけでは罪ではない。
 感じてそれを承諾する時、はじめて罪となる。
 従って、自分が承諾しなかったことを、あえて感じたと告白する必要もない。
 感じてもそれに承諾を与えなかったのなら、罪とならないばかりか、
 承諾しなかったことにより、かえって善徳となる。




 第4に、以上のことをよくわきまえて告白の場に臨み、罪を明白に言い表すことである。
 明白にとは、聴罪司祭がよく理解できるように、
 そして質問する必要がないように、
 はっきりとそれを言い表すことである。

 だから、『私は悪かった』、『私は弱かった』、
 『私は多くの罪を犯した』などというのは、なんの役にも立たない。

 そんなことは、わかりきったことである。

 どんな罪も、幾度犯したかをはっきりと言う必要がある。
 つまり、告白するということは、自分の振る舞いをよくわきまえることである。




 第5に、罪の告白を言い終えて、司祭がいましめの言葉を言う時、
 ある信者は、落ち着くことができず、
 まだ他に罪を犯したのではないかと不安げに糾明する。
 そして、司祭のいましめを聞き損ねる。
 これは間違った態度である。

 告白すべき時もあれば、聞くべき時もある。
 両方の行いは同時にできない。





 最後に、告白の秘蹟は、〜キリスト教では、その他のこともみなそうであるが〜
 人の心を乱すためではなく、安心させるためである。
 私たちは人間であるために、どの面からみても完全なことはできない。
 神は、このことを私たち以上によく理解される。
 そして、決して無理なことを要求されず、
 私たちにできる範囲内のことで、
 たとえ、それが不完全であっても満足される。



 聖福音書のあの百夫長は、キリストに願い出た時、
 最初、しもべを癒してほしいという自分の利益だけを考えていた。
 しかし彼は、ひと言、『私は値打ちのない人間です』(マテオ8,8)とへりくだった。
 すると、憐れみ深い神であるキリストは、
 この振る舞いをすぐれたものと考えて感心するほどであった。

 つまり、神の聖心が感激する根本的なことは、
 『自分はふさわしくない者』と告白することにある。

 心からのこの真実な告白こそ、
 平和を、唯一のまことの平和である『主の平和』をもたらすのである。



第4章 告白

3.告解の特長と欠点


 よい告解をするには、
 良心の糾明を注意深くしなければならないが、
 過度の糾明も避けるべきである。


 注意深く。。。
 自分を調べるのは、何人にとっても好ましくないもので、努力がいるからである。

 私たち人間は、自分のことより他人のことを好んで判断する。
 しかし、これも常識に反することである。
 他人について、彼が当人よりよく知るはずはないからである。

 他人については、
 なぜ、彼がそう行ったかを、つまり普通にその行いの意向を知らないから、
 それにどの程度の責任があるかを理解できない。
 これと違い、自分のことについては、
 なぜ、自分がそう行うか、自分の行いにどんな意向と目的があるかをよく知っている。


 良心は鏡のようなもので、
 自分の本当の姿を正確に、少しもゆがめることなく映している。
 しかし、自分の欠点や醜さまでありのままに映し出すので、
 この鏡の前に立つのは決して好ましいことではない。


 私たち人間には、他にも短所がある。
 私たちに無益なお世辞を喜んで聞き、
 ためになる叱責を避けようとすることである。

 自分から逃げる、自分のことを見ないようにする。。。
 『自分を忘れる』ことは、人間として卑怯な振る舞いである。

 さて、自分を糾明すべきことが納得できたなら、
 次に、どのように糾明すべきだろうか?

 まず第1に、根本的なことを調べなければならない。
 根本的なこととは、
 正義、正直、愛徳、神の権利に対する尊敬などの善徳である。

 クリスチャンだと自称するあまりにも多くの人々は、
 祈りを怠ったことやミサ聖祭に遅れたことを、大変なことのように強調して告白するが、
 取引先の相手や使用人に対して、不義や不正直を働いたことについては一言も触れない。

 祈りやミサにあずかることは教会の掟であり、当然それに従わねばならないが、
 しかし、神の掟〜十戒以上のものではない。
 むしろ、神の掟こそ、他のあらゆる掟の根本と土台であり、
 どんな場合にも、この掟と比較して判断すべきである。

 つまり、キリストのいうとおり、
 『先のをも無視することなく、あとのをこそ、行わねばならない』(マテオ23,23 ; ルカ11,42)

 また以上述べた欠点とは逆に、ある信者は過度の糾明をする。

 厳密に正確な糾明さえすれば、それで、全てを果たしたように思う。
 だから、暴君的なこの計算に追い立てられ、
 際限なく糾明して、心配を深めるようになる。

 しかし、これは悪魔の作戦である。
 糾明を、ごく細かい点まで、過度の正確さをもってしなければならないという心配を起こして、
 まず、痛悔の信念を、次に、神の憐れみに『対する信頼の信念を押さえ込もうとする。

 人によっては、心配のあまり体を損ねて病気になる。
 このような人にとって告白は、真の拷問となる。
 その結果、再び神に一致したことの心の平和と喜びをもたらすために設けられた、
 罪の赦しのこの秘蹟は、全くその目的からはずれてしまう。

 罪の赦しの秘蹟が制定されたのは、
 それを汚したのではないかという病的な不安をもたらすためではなく、
 再発見された愛の喜びをもたらすためである。


 大切なのは、心からの痛悔の念と、罪を思い起こしてそれを忌み嫌うことである。
 余計な、過度の糾明にのみ走る人は、
 神の憐れみ、よい牧者のあたたかい手を忘れて、
 罪の邪悪さと、罪を避ける適切な手段に訴えるのを怠り、
 ただ、罪を言い立てることだけに心を労する。


 小心な人よ、あなたは、罪の許しの秘蹟をいたずらにゆがめて、
 それを単なる人間的な心細い計算、誤った嫌味のある述べ立てや、
 取るに足らぬつまらぬものに、変えてしまう。
 そしてあなたは、こんなつまらぬことのみに注意する。


 もともと悔い改めの秘蹟は、そのものとして正確な並べ方にあるのではない。
 あなたは、なんら隠そうとするのではないから、
 思い出したことを率直に言い表した時、しいて心配してはならない。

 何か言い落としたのではないかと心配するより、
 犯した罪のために謙遜に『私の過ち!私の過ちである』と心を込めていうがよい。


 神があなたに要求するのは、
 あなたが何をいうべきかと心配することより、
 何をすべきかと心配するほうである。

 神にとって、心からの痛悔は、記憶力の行いよりも大切である。
 自分の罪を思い起こすために、適切な配慮をしているなら、それ以上心配する必要はない。
 たとえ、何か思い出さなかったとしても、それは、わざと隠そうとしたことではない。
 無限に大切なのは痛悔の心である。
 だから、それを起こすように努めよ。

 告解についてのもう1つの誤りは、
 それをする時、感覚的にも心の動揺を感じなければならないと思い込むことである。

 たとえば、痛悔しても目から涙が流れないなら、真に痛悔していないと考える。
 痛悔して涙を流すのはよいことであるが、
 要求されているものでもなければ、また、真の痛悔から出るものともかぎらない。

 ともあれ、真の痛悔からでる場合でさえ、
 自然的なものというより、1つの賜物、いわゆる『涙の賜物』であり、
 多くの聖人はこの賜物をいただいていた。
 ここでことさら『多くの』聖人といったのは、全ての聖人がそれをいただいたのではないからである。
 つまり、この賜物は、天からの例外的な賜物であり、
 ある聖人の励ましと、彼を通じて私たちの励ましに与えられたものである。

 しかし感激を覚えることが、それだけで功徳とはならない。
 なぜならそれは、自分の自由意志というより他のいろいろなことによるからである。



 人間のうちで最も不可思議なのは、
 1個物のうちにある思想と有機体、霊魂と肉体との連関性である。

 自由意志の決定によらない単に貧弱な行いにすぎない間隙は、
 神経上の印象がそのおもな起因となっているものと考えられる。
 とすると、感激するのは性質上のことにすぎない。

 そこにまた、悪魔のたくらみがひそんでいる。
 人によっては、告解してなんの感動も覚えないと、
 告解そのものまで無益であると考えるようになる。
 これは、悪魔のいざないである。


 神は、罪の赦しを与えると約束したが、
 感覚的な感激を与えるとは約束されなかった。

 もし、時々この感激を神から与えられるなら、この無償の恵みに対して感謝しよう。
 神がそれを与えられるのは、私たちの自由意志による痛悔の心を励ますためだからである。
 しかし、どんな場合にも、これに代わるためではない。



 真の痛悔の念は、大きな単純さの雰囲気のうちに行われる。
 罪を忌み嫌い、以後、再び罪を犯すまいという覚悟があるなら、真の痛悔であるとわかる。
 この2つの予想があるならば、痛悔は完全である。
 神が、無限に私たちを愛し、
 また、無限に愛でむくいられるにふさわしい愛そのものであると考えて、罪を忌み嫌うことになる。

 御父の愛を考えることによって、その子供である私たちは、
 自分の忘恩〜全ての罪は忘恩である〜を忌み嫌うようになる。

 御父のこの愛のしるしを、私たちは数えることもできない。
 神の御力がないなら、私たちの自然的生活を1秒も理解できず、
 神の御独り子のいけにえによらない超自然的な功徳もありえない。
 それなのに、なぜ、忘恩と謀反との表れである罪を攻撃し、忌み嫌うことができないのだろうか?
 また、痛悔の心を起こすのが、なぜ、それほど難しいのだろうか?




 真の痛悔であれば、犯した罪を忌み嫌うという第1の要素の次に、
 その論理的結論である第2の要素〜決心〜に導く。
 つまり、これから罪を犯すまいという決心である。


 霊的指導者たちが、この決心をしばしば新たにせよと強調するのはなぜだろうか?
 信者があまりにそれを忘れがちだからである。
 たとえ、この決心を忘れることがあっても、思い出すたびそれを繰り返そう。
 繰り返していれば、いつか忘れられなくなる。


 かたい石に穴をうがつには、何億万の水のしたたりがいる。
 この水滴が意思に穴をうがち出したのはいつからだろうか?
 最初の1滴からである。
 もちろん目にはなんの変化も認められないが、それは事実である。

 たとえ、今までによい決心を立てて1度も守らなかったとしても、
 決心を立てただけでもすでにプラスである。
 なぜなら、それによってあなたの意志は善に傾いたからである。
 そして、これこそすでに何かである!

 告解をしてのち、また罪におちることがあっても、
 それだけで、以前の告解がわるかったと考えてはならない。
 病気から回復した人が、また病気になることもある。



 使徒ペトロは最後の晩餐の時、イエズスの御手から、どれほど熱烈な聖体拝領をしたことだろう!
 彼は、主のために命を投げ打って悔いない覚悟をもっていた!
 イエズスが捕らわれようとした時、彼は剣を抜いて律法学士の兵士に立ち向かい、
 1兵士の耳を切り落とした!
 もし、主が彼を止めなかったら、ペトロは退かずに戦い、その場であっぱれな死を遂げたことだろう。
 なぜなら、敵対者の数が多く、死力を尽くしても到底及ばなかったからである。

 しかし、これほどの覚悟をもっていた彼も、
 のちに、1下女のひやかしを含んだ言葉に負けて、主を裏切った。





 生活とは、やりなおしの連続である。
 肉体は、心臓の鼓動と呼吸のたびに、死に対して戦い、自分を守る。
 この鼓動と呼吸の連なりは、生命の1つの連続をおこす。
 何百万の小さな働き〜生まれて、発達し、消えてゆく小さな働き〜から成る1つの連続がある。
 これらの数多い働きが相次ぐことによって存在がつづく。


 物質界においてさえそうなら、どうして精神界において、そうであっていけないことがあろうか?
 善徳を守りつづけること、善徳において進歩しようという望みにかぎり、
 それが、幾度ものやり直しの連なりであっていけないことがあろうか?



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