よい告解をするには、
良心の糾明を注意深くしなければならないが、
過度の糾明も避けるべきである。
注意深く。。。
自分を調べるのは、何人にとっても好ましくないもので、努力がいるからである。
私たち人間は、自分のことより他人のことを好んで判断する。
しかし、これも常識に反することである。
他人について、彼が当人よりよく知るはずはないからである。
他人については、
なぜ、彼がそう行ったかを、つまり普通にその行いの意向を知らないから、
それにどの程度の責任があるかを理解できない。
これと違い、自分のことについては、
なぜ、自分がそう行うか、自分の行いにどんな意向と目的があるかをよく知っている。
良心は鏡のようなもので、
自分の本当の姿を正確に、少しもゆがめることなく映している。
しかし、自分の欠点や醜さまでありのままに映し出すので、
この鏡の前に立つのは決して好ましいことではない。
私たち人間には、他にも短所がある。
私たちに無益なお世辞を喜んで聞き、
ためになる叱責を避けようとすることである。
自分から逃げる、自分のことを見ないようにする。。。
『自分を忘れる』ことは、人間として卑怯な振る舞いである。
さて、自分を糾明すべきことが納得できたなら、
次に、どのように糾明すべきだろうか?
まず第1に、根本的なことを調べなければならない。
根本的なこととは、
正義、正直、愛徳、神の権利に対する尊敬などの善徳である。
クリスチャンだと自称するあまりにも多くの人々は、
祈りを怠ったことやミサ聖祭に遅れたことを、大変なことのように強調して告白するが、
取引先の相手や使用人に対して、不義や不正直を働いたことについては一言も触れない。
祈りやミサにあずかることは教会の掟であり、当然それに従わねばならないが、
しかし、神の掟〜十戒以上のものではない。
むしろ、神の掟こそ、他のあらゆる掟の根本と土台であり、
どんな場合にも、この掟と比較して判断すべきである。
つまり、キリストのいうとおり、
『先のをも無視することなく、あとのをこそ、行わねばならない』(マテオ23,23 ; ルカ11,42)
また以上述べた欠点とは逆に、ある信者は過度の糾明をする。
厳密に正確な糾明さえすれば、それで、全てを果たしたように思う。
だから、暴君的なこの計算に追い立てられ、
際限なく糾明して、心配を深めるようになる。
しかし、これは悪魔の作戦である。
糾明を、ごく細かい点まで、過度の正確さをもってしなければならないという心配を起こして、
まず、痛悔の信念を、次に、神の憐れみに『対する信頼の信念を押さえ込もうとする。
人によっては、心配のあまり体を損ねて病気になる。
このような人にとって告白は、真の拷問となる。
その結果、再び神に一致したことの心の平和と喜びをもたらすために設けられた、
罪の赦しのこの秘蹟は、全くその目的からはずれてしまう。
罪の赦しの秘蹟が制定されたのは、
それを汚したのではないかという病的な不安をもたらすためではなく、
再発見された愛の喜びをもたらすためである。
大切なのは、心からの痛悔の念と、罪を思い起こしてそれを忌み嫌うことである。
余計な、過度の糾明にのみ走る人は、
神の憐れみ、よい牧者のあたたかい手を忘れて、
罪の邪悪さと、罪を避ける適切な手段に訴えるのを怠り、
ただ、罪を言い立てることだけに心を労する。
小心な人よ、あなたは、罪の許しの秘蹟をいたずらにゆがめて、
それを単なる人間的な心細い計算、誤った嫌味のある述べ立てや、
取るに足らぬつまらぬものに、変えてしまう。
そしてあなたは、こんなつまらぬことのみに注意する。
もともと悔い改めの秘蹟は、そのものとして正確な並べ方にあるのではない。
あなたは、なんら隠そうとするのではないから、
思い出したことを率直に言い表した時、しいて心配してはならない。
何か言い落としたのではないかと心配するより、
犯した罪のために謙遜に『私の過ち!私の過ちである』と心を込めていうがよい。
神があなたに要求するのは、
あなたが何をいうべきかと心配することより、
何をすべきかと心配するほうである。
神にとって、心からの痛悔は、記憶力の行いよりも大切である。
自分の罪を思い起こすために、適切な配慮をしているなら、それ以上心配する必要はない。
たとえ、何か思い出さなかったとしても、それは、わざと隠そうとしたことではない。
無限に大切なのは痛悔の心である。
だから、それを起こすように努めよ。
告解についてのもう1つの誤りは、
それをする時、感覚的にも心の動揺を感じなければならないと思い込むことである。
たとえば、痛悔しても目から涙が流れないなら、真に痛悔していないと考える。
痛悔して涙を流すのはよいことであるが、
要求されているものでもなければ、また、真の痛悔から出るものともかぎらない。
ともあれ、真の痛悔からでる場合でさえ、
自然的なものというより、1つの賜物、いわゆる『涙の賜物』であり、
多くの聖人はこの賜物をいただいていた。
ここでことさら『多くの』聖人といったのは、全ての聖人がそれをいただいたのではないからである。
つまり、この賜物は、天からの例外的な賜物であり、
ある聖人の励ましと、彼を通じて私たちの励ましに与えられたものである。
しかし感激を覚えることが、それだけで功徳とはならない。
なぜならそれは、自分の自由意志というより他のいろいろなことによるからである。
人間のうちで最も不可思議なのは、
1個物のうちにある思想と有機体、霊魂と肉体との連関性である。
自由意志の決定によらない単に貧弱な行いにすぎない間隙は、
神経上の印象がそのおもな起因となっているものと考えられる。
とすると、感激するのは性質上のことにすぎない。
そこにまた、悪魔のたくらみがひそんでいる。
人によっては、告解してなんの感動も覚えないと、
告解そのものまで無益であると考えるようになる。
これは、悪魔のいざないである。
神は、罪の赦しを与えると約束したが、
感覚的な感激を与えるとは約束されなかった。
もし、時々この感激を神から与えられるなら、この無償の恵みに対して感謝しよう。
神がそれを与えられるのは、私たちの自由意志による痛悔の心を励ますためだからである。
しかし、どんな場合にも、これに代わるためではない。
真の痛悔の念は、大きな単純さの雰囲気のうちに行われる。
罪を忌み嫌い、以後、再び罪を犯すまいという覚悟があるなら、真の痛悔であるとわかる。
この2つの予想があるならば、痛悔は完全である。
神が、無限に私たちを愛し、
また、無限に愛でむくいられるにふさわしい愛そのものであると考えて、罪を忌み嫌うことになる。
御父の愛を考えることによって、その子供である私たちは、
自分の忘恩〜全ての罪は忘恩である〜を忌み嫌うようになる。
御父のこの愛のしるしを、私たちは数えることもできない。
神の御力がないなら、私たちの自然的生活を1秒も理解できず、
神の御独り子のいけにえによらない超自然的な功徳もありえない。
それなのに、なぜ、忘恩と謀反との表れである罪を攻撃し、忌み嫌うことができないのだろうか?
また、痛悔の心を起こすのが、なぜ、それほど難しいのだろうか?
真の痛悔であれば、犯した罪を忌み嫌うという第1の要素の次に、
その論理的結論である第2の要素〜決心〜に導く。
つまり、これから罪を犯すまいという決心である。
霊的指導者たちが、この決心をしばしば新たにせよと強調するのはなぜだろうか?
信者があまりにそれを忘れがちだからである。
たとえ、この決心を忘れることがあっても、思い出すたびそれを繰り返そう。
繰り返していれば、いつか忘れられなくなる。
かたい石に穴をうがつには、何億万の水のしたたりがいる。
この水滴が意思に穴をうがち出したのはいつからだろうか?
最初の1滴からである。
もちろん目にはなんの変化も認められないが、それは事実である。
たとえ、今までによい決心を立てて1度も守らなかったとしても、
決心を立てただけでもすでにプラスである。
なぜなら、それによってあなたの意志は善に傾いたからである。
そして、これこそすでに何かである!
告解をしてのち、また罪におちることがあっても、
それだけで、以前の告解がわるかったと考えてはならない。
病気から回復した人が、また病気になることもある。
使徒ペトロは最後の晩餐の時、イエズスの御手から、どれほど熱烈な聖体拝領をしたことだろう!
彼は、主のために命を投げ打って悔いない覚悟をもっていた!
イエズスが捕らわれようとした時、彼は剣を抜いて律法学士の兵士に立ち向かい、
1兵士の耳を切り落とした!
もし、主が彼を止めなかったら、ペトロは退かずに戦い、その場であっぱれな死を遂げたことだろう。
なぜなら、敵対者の数が多く、死力を尽くしても到底及ばなかったからである。
しかし、これほどの覚悟をもっていた彼も、
のちに、1下女のひやかしを含んだ言葉に負けて、主を裏切った。
生活とは、やりなおしの連続である。
肉体は、心臓の鼓動と呼吸のたびに、死に対して戦い、自分を守る。
この鼓動と呼吸の連なりは、生命の1つの連続をおこす。
何百万の小さな働き〜生まれて、発達し、消えてゆく小さな働き〜から成る1つの連続がある。
これらの数多い働きが相次ぐことによって存在がつづく。
物質界においてさえそうなら、どうして精神界において、そうであっていけないことがあろうか?
善徳を守りつづけること、善徳において進歩しようという望みにかぎり、
それが、幾度ものやり直しの連なりであっていけないことがあろうか?
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