真理の輝き(◕‿◕✿)

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         CATECHISMUS CATHOLICAE ECCLESIAE


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キリストは地獄に降られた
CHRISTUS DESCENDIT AD INFEROS

キリストは、死んで死者たちの住まいに降られました。
聖書はそこを、地獄(陰府)、シェオル、ハデスと呼んでいます。
そこにいる人々は、神を見ることができないからです。

悪い人であれ正しい人であれ、
全ての死者は、贖い主を待っていて、この状態にあったのです。

とはいえ、悪い人と正しい人のありさまは、同じではありませんでした。
イエズスが、『アブラハムのふところ』に迎え入れられた
貧しい人ラザロのたとえで示されたとおりです。

イエズス・キリストが、
死者のもとに降られた時、お救いになった霊魂は、
まさに、アブラハムのふところにいる人のような、
解放者を待っていた聖なる霊魂たちです。

イエズスが、地獄(陰府)に降られたのは、
断罪者たち(damnatos)を、そこから救い出すためではありません。
断罪者たちの地獄を破壊するためでもありません。

ご自分に先んじた正しい人々を解放するためでした。

こうして、死んだ者にも、聖福音が告げ知らされました。
イエズスは、全ての人間と同じく死を体験し、
その霊魂は、死者のもとに滞在して、彼らと一緒になられました。
キリストは、救い主として、捕らわれていた霊魂たちに、
救いの良い知らせをもたらしたのです。

ex, Catechismus Catholicae Ecclesiae


旧約聖書 ホゼア 5.1,2 


Venite, et revertamur ad Dominum,
quia ipse laceravit et sanabit nos,
percussit et curabit nos.
Vivificabit nos post duos dies,
in die tertia suscitabit nos,
et vivemus in conspectu eius.


おいで、主に立ち帰ろう。
主は引き裂かれたが、私たちを癒してくださる。
主は打ち叩かれたが、私たちを介抱してくださる。
2日ののち、私たちを生きるものとしてくださり、
3日目には、立ち上がらせてくださる。
こうして私たちは、その御前で生きるのである。



この信条は、4世紀後半にまでさかのぼる信仰宣言であり、
40カ条からなる、聖三位一体と主の受肉についての信仰箇条で、
ギリシア4大教会博士であり、『科学的神学の父』、『教会の柱石』、
『正統信仰の教父』と呼ばれる大聖アタナシウス司教(296〜373年)の作
と言われています。

この信条は、ローマ聖務日課書(Breviarium Romanum)において、
聖三位一体の主日や公現の祭日に唱えられ、

ローマ儀式書(Rituale Romanum)によれば、
悪魔憑きに対するエクソシズム(悪魔祓い)にも唱えられます。

Quicumque vult salvus esse, ante omnia opus est,
ut teneat catholicam fidem:
救われたいと望む者は誰でも、まずカトリック信仰をもたなければならない。

Quam nisi quisque integram inviolatamque servaverit,
absque dubio in aeternam peribit.
誰でも、この信仰を傷なく汚れなく守らなければ、
疑う余地なく永遠に滅びるだろう。

Fides autem catholica haec est:
ut unum Deum in Trinitate, et Trinitatem in unitate veneremur.
Neque confundentes personas, neque substantiam seperantes.
カトリック信仰とは、
そのペルソナを混同することなく、またその本質を分かつことなく、
唯一の神を三位において、また三位を一体において礼拝すること、これである。

Alia est enim persona Patris alia Filii, alia Spiritus Sancti:
Sed Patris, et Fili, et Spiritus Sancti una est divinitas,
aequalis gloria, coeterna maiestas.
Qualis Pater, talis Filius, talis Spiritus Sanctus.
そのペルソナは、聖父であり、聖子であり、聖霊である。
しかし聖父と聖子と聖霊は神性において唯一であり、
その栄光は等しく、その威光も共に永遠である。
聖父がそうであるように、聖子にも、聖霊にもそうである。

Increatus Pater, increatus Filius, increatus Spiritus Sanctus.
Immensus Pater, immensus Filius, immensus Spiritus Sanctus.
Aeternus Pater, aeternus Filius, aeternus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres aeterni, sed unus aeternus.
Sicut non tres increati, nec tres immensi,
sed unus increatus, et unus immensus.
創られない聖父であり、創られない聖子であり、創られない聖霊である。
無限の聖父であり、無限の聖子であり、無限の聖霊である。
永遠の聖父であり、永遠の聖子であり、永遠の聖霊である。
しかしながら三つの永遠者ではなく、唯一の永遠者である。
三つの創られない者、無限者のようではなく、
唯一の創られない者、唯一の無限者である。

Similiter omnipotens Pater, omnipotens Filius, omnipotens Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres omnipotentes, sed unus omnipotens.
Ita Deus Pater, Deus Filius, Deus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres Dii, sed unus est Deus.
同様に全能の聖父であり、全能の聖子であり、全能の聖霊である。
しかしながら三つの全能者たちではなく、唯一の全能者である。
聖父が神であるように、聖子も神であり、聖霊も神である。
しかしながら三者の神々ではなく、唯一の神である。

Ita Dominus Pater, Dominus Filius, Dominus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres Domini, sed unus est Dominus.
Quia, sicut singillatim unamquamque personam
Deum ac Dominum confiteri christiana veritate compelimur:
ita tres Deos aut Dominos dicere catholica religione prohibemur.
聖父が主であるように、聖子も主であり、聖霊も主である。
しかしながら三者の主々ではなく、唯一の主である。
なぜならキリスト教の真理は、
各ペルソナを個別に神および主であると告白することを強いると共に、
三者の神々とか主々と言うことを、カトリックの宗教は禁じるからである。

Pater a nullo est factus: nec creatus, nec genitus.
Filius a Patre solo est: non factus, nec creatus, sed genitus.
Spiritus Sanctus a Patre et Filio:
non factus, nec creatus, nec genitus, sed procedens.
聖父は何ものよりも成らず、創られず、生まれない。
聖子は、聖父からのみ、成らず、創られず、生まれるのである。
聖霊は、聖父と聖子から、成らず、創られず、生まれず、発出するのである。

Unus ergo Pater, non tres Patres:
unus Filius, non tres Filii:
unus Spiritus Sanctus, non tres Spiritus Sancti.
それ故、聖父は唯一であって、三者の聖父たちではない。
聖子も唯一であって、三者の聖子たちではない。
聖霊も唯一であって、三者の聖霊たちではない。

Et in hac Trinitate nihil prius aut posterius, nihil maius aut minus:
sed totae tres personae coaeternae sibi sunt et coaequales.
Ita ut per omnia, sicut iam supra dictum est,
et unitas in Trinitate, et Trinitas in unitate veneranda sit.
またこの三位において優劣はなく、大小もなく、
三つのペルソナは皆互いに同じく永遠で等しい。
前述の通り、全てにおいて、三位における一体を、
また一体における三位を礼拝するのである。


。。。アタナシウス信条2(主の受肉の部)に続く。




Qui vult ergo salvus esse, ita de Trinitate sentiat.
Sed necessarium est ad aeternam salutem,
ut incarnationem quoque Domini nostri Iesu Christi fideliter credat.
救われたいと望む者は、三位についてこのように信じなさい。
しかし永遠の救いのためには、
私たちの主イエズス・キリストの受肉を忠実に信じることが必要である。

Est ergo fides recta ut credamus et confiteamur,
quia Dominus noster Iesus Christus, Dei Filius, Deus et homo est.
Deus est ex substantia Patris ante saecula genitus:
et homo est ex substantia matris in saeculo natus.
それ故、正しい信仰は、私たちの主イエズス・キリストが、
神の御子であり、神であり人間であると、私たちは信じ、宣言する。
神としては、世々の前に聖父の本質から生まれ、
人間としては、時間において御母の本質から生まれた。

Perfectus Deus, perfectus homo:
ex anima rationali et humana carne subsistens.
Aequalis Patri secundum divinitatem:
minor Patre secundum humanitatem.
Qui licet Deus sit et homo,
non duo tamen, sed unus est Christus.
完全な神であり、理性的霊魂と人間性の肉体を実体的に有する、完全な人間である。
神性によれば、聖父と等しく、人間性によれば聖父に劣る。
神であり人間であっても、二者ではなく唯一のキリストである。

Unus autem non conversione divinitatis in carnem,
sed assumptione humanitatis in Deum.
Unus omnino, non confusione substantiae, sed unitate personae.
Nam sicut anima rationalis et caro unus est homo:
ita Deus et homo unus est Christus.
神性が肉に変わることなく、人間性が神のうちに取られたが故に唯一である。
実体の混同はなく、唯一のペルソナにより、全て唯一である。
理性的霊魂と肉体が唯一の人間であるように、
神としても人間としても、唯一のキリストである。

Qui passus est pro salute nostra:
descendit ad inferos: tertia die resurrexit a mortuis.
Ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Dei Patris omnipotentis:
inde venturus est iudicare vivos et mortuos.
主は、私たちの救いのために苦しみを受け、
陰府に降り、三日目に死者のうちから復活された。
天に昇り全能の神である聖父の右に座し、
生者と死者を裁くために来られる。

Ad cuius adventum omnes homines resurgere habent cum corporibus suis:
et reddituri sunt de factis propriis rationem.
Et qui bona egerunt, ibunt in vitam aeternam:
qui vero mala, in ignem aeternum.
その来臨にあたり、全ての人は自分の肉体を持って復活し、
各々の業に応じて報いを得る。
善業を果たした者は、永遠の生命に入り、反対に悪者は、永遠の火に入る。

Haec est fides catholica,
quam nisi quisque fideliter firmiterque crediderit, salvus esse non poterit.
これこそ、カトリックの信仰である。
誰であれ、これを忠実に堅く信じることなしに、救われることはない。

Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto,
sicut erat in principio et nunc et semper et in saecula saeculorum. Amen.
栄光が聖父と聖子と聖霊にあれ。
初めのように、今も、いつも、世々に至るまで。アーメン。




教会は使徒時代の当初から、固有の信仰を、
簡潔に、規準となる一定の言葉で表明し、伝えてきました。
信仰のこのまとめは、人間の憶測によるものではなく、
聖書全体の最重要点を厳選し、要略したものです。
このわずかな言葉のうちに、旧約新約両聖書中の真の敬神の知識が含まれています。

信仰のまとめは、『信仰宣言』(Credo)、『信仰のシンボル(信経)』と呼ばれます。

Credoは、
まず、神の第1のペルソナ(御父)と創造の感嘆すべき御業について述べられ、
続いて、神の第2のペルソナ(御子)と人間の贖いの神秘について述べられ、
最後に、神の第3のペルソナ(聖霊)、私たちの聖化の源泉である御方について述べられます。

信仰宣言には、主に次の3つが挙げられます。

1)使徒信条(Symbolum Apostolorum)。。。

使徒たちの信仰の忠実なまとめ、ローマ教会の古来の洗礼信条であり、
この権威は、キリストから、使徒たちの頭として立てられた、
聖ペトロの座がある、ローマ教会が守る信条であることに由来しています。

2)二ケア・コンスタンチノープル信条(Symbolum Nicaeno-Constantinopolitanum)。。。

この権威は、最初の2つの公会議(325年、381年)に由来しています。
この信条は、東方、西方の全ての主要な教会で、今もなお共通のものとなっています。

3)アタナシウス信条(クイクムクエ信条 Quicumque vult)。。。

この信条は、4世紀後半にまでさかのぼる信仰宣言であり、
40カ条からなる、聖三位一体と主の受肉についての信仰箇条で、
ギリシア4大教会博士であり、『科学的神学の父』、『教会の柱石』、
『正統信仰の教父』と呼ばれる大聖アタナシウス司教(296〜373年)の作
と言われています。
クイクムクエ信条とも呼ばれるのは、
この信条の最初の語句Quicumque(〜する者は誰であれ)に由来しています。
この信条は、ローマ聖務日課書(Breviarium Romanum)において、
聖三位一体の主日や公現の祭日に唱えられ、
ローマ儀式書(Rituale Romanum)によれば、
悪魔憑きに対するエクソシズム(悪魔祓い)にも唱えられます。


1)使徒信条(Symbolum Apostolorum)

 天地の創造主、全能の父である神を信じます。

 父のひとり子、わたしたちの主イエズス・キリストを信じます。

 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、

 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、

 三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、

 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。

 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、

 永遠のいのちを信じます。アーメン。


2)二ケア・コンスタンチノープル信条(Symbolum Nicaeno-Constantinopolitanum)

 わたしは信じます。唯一の神、全能の父、

 天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。

 わたしは信じます。唯一の主イエズス・キリストを。

 主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、

 神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、

 造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。

 主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、

 聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。

 ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、

 聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。

 主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。

 その国は終わることがありません。

 わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。

 聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。

 わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。

 罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン。



3)アタナシウス信条(クイクムクエ信条 Quicumque vult)
  次回の記事に掲載します。。

4.信仰

1.信仰による従順


 目に見えない神は、啓示によって、
 大きな愛のうちに、あたかも友に対するように人間に話しかけられました。
 それは、人間をご自分との交わりに招き、これにあずからせるためでした。
 この神の招きに対するふさわしい回答が、信仰です。

 人間は、信仰によって、
 その知性と意志を神に従わせ、ご自分を啓示する神に、心の底から同意します。

 聖書は、啓示する神への人間の応答を、
 『信仰による従順』と呼んでいます。


 『信じる』とは、
 実際に目で見ることのできるものよりも、
 もっと深い確信をもって信じることを意味します。

 なぜなら、『信じる』とは、
 誤ることも、人を誤りに導くこともあり得ない神が、教会に啓示され、
 教会を通して私たちに与えられた事柄を受け入れることだからです。


 『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです』(聖パウロ)


 信仰によって聞き従うことは、
 聞いた言葉に、自由に、自分を委ねることにはかなりません。
 その真理が、真理そのものである神によって保証されているからです。

 聖書における『信仰による従順』の模範は、
 特に、アブラハムとおとめマリアです。

 アブラハム〜信じる全ての人の父〜は、
 信仰によって、神からの召し出しに服従し、行き先も知らずに出発し、
 信仰によって、約束の地で、寄留人・旅人として暮らし、
 信仰によって、サラの懐胎が実現し、
 信仰によって、1人息子を犠牲として捧げました。

 おとめマリアは、『信仰による従順』を最も完全に具現しました。
 幸いなおとめマリアは、
 信仰によって、天使ガブリエルによるお告げと約束を受諾しました。
 『神にできないことは何一つない』(ルカ1.37)という言葉を信じ、
 『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』と同意しました。

 エリザベトはマリアに、
 『主が仰せになられたことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう』
 と挨拶しました。(ルカ1.45)


 マリアの信仰は、その生涯にわたり、
 ご自分の御子イエズスが、十字架上で死ぬという最後の試練に遭った時ですら、
 揺らぐことがありませんでした。

 マリアは、神の御言葉の成就を、いつも信じていました。
 それ故教会は、
 マリアを、信仰を最も純粋に生きた御方として敬うのです。

 教会は、
 唯一の神、聖父と聖子と聖霊への信仰を、いつも公言します。


 キリスト者の信仰はまず、神への人間の人格的な帰依であり、
 それと同時に、神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意を伴います。

 なので、誰か1人の人間を信じることとは異なります。
 神でないものをこのように信じることは虚しく、誤っています。


 キリスト者にとって、神を信じることには、
 必ず、神が遣わされた御方、
 神のみこころにかなう『愛する御子』を信じることが伴います。

 私たちがイエズス・キリストを信じることができるのは、
 この御方ご自身が神であり、
 人となられた神の御言葉だからです。

 御父を見ておられる御子だけが、
 神を知らせ、神を示すことができるのです。


 また、イエズスの霊を受けることなしに、
 イエズス・キリストを信じることはできません。
 イエズスとは、どのような御方であるのかを人間に知らせるのは、聖霊です。


 『聖霊によらなければ、誰も「イエズスは主である」とは言えない』(聖パウロ)


 神だけが、神の全てをご存知です。
 私たちが聖霊を信じるには、
 聖霊が神であるからです。


2.信仰の特徴

 信仰は恩寵です。


 聖ペトロが、イエズスが生きる神の御子キリストであると公言した際、
 イエズスは、このことを表わしたのは人間ではなく、天の父であると言明されました。


 信仰は、神のたまものであり、神から授けられた超自然的徳です。

 このような信仰を起こすには、
 神の先行的かつ援助的恩寵と、聖霊の内的助力が必要です。

 聖霊は、人の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、
 全ての者に、真理を受け入れることを、
 そして、信じることの甘美さを味わわせます。

 信じることは、人間的な行為です。

 神に信頼し、神から啓示された真理に同意することは、
 人間の自由にも知性にも反することではなく、尊厳に背くことでもありません。

 人間関係の場合でも、
 相手が話してくれるその人自身のことやその考えなどを信じたり、
 その約束に信頼したりすることが、
 自由や知性に反することでも、尊厳に背くことでもないのと同様です。
 ただ、人間の場合は、誤りやすく、約束も守れないことがしばしばです。


 信仰においては、
 人間の知性と意志は、神の恩寵に協力します。

 『信じるとは、
  恩寵によって、神に動かされた意志の命じるままに、
  神の真理に同意する知性の行為です』(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)

 啓示された真理が、私たちにとって真実であり理解できるということが、
 信じる動機とはなりません。

 私たちが信じるのは、
 欺くことも欺かれることもない、啓示する神の権威のためです。

 信仰者が、信じる神をもっとよく知り、
 啓示されたことをもっとよく理解したいと望むことは、
 信仰に付きものです。
 聖霊は、啓示についてのりかいがますます深くなるように、
 不断にその賜物をもって信仰を完全なものにします。


 『信じるために理解し、理解するために信じる』(聖アウグスティヌス司教教会博士)


 信仰は確実です。
 しかも、あらゆる人間の認識よりも確実なものです。
 それは、偽ることのできない神の御言葉そのものに基づいているからです。

 確かに、啓示された真理は、
 人間の『理性や経験』にとっては、定かではないように思えることがあるでしょう。
 しかしながら、
 『神的光が与える確実性は、
  自然理性の光が与える確実性よりも強いのです』(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)
 たとえ直ちに理解できないことが無数にあっても、
 そのことが信仰の確実さを疑わせることにはなりません。


 神に対する人間の信仰による応答は、
 自由意志によるものでなければなりません。


 何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるように強制されてはなりません。
 実際、信仰行為は、その性質上自由意志によるものです。
 人間は良心において束縛されてはいますが、強制されてはいません。

 キリストは信仰と回心を促しはしましたが、
 決して強制はなさいませんでした。
 真理に証明は与えても、
 反対者に力づくで押し付けることはしませんでした。
 実際、神の国は、十字架につけられたキリストが、
 人間をご自分にひきつける愛によって発展します。

 イエズス・キリストを信じ、
 また、イエズスを私たちの救いのために遣わしてくださった神を信じることは、
 救いを得るために必要です。
 信仰がなければ、神に喜ばれることはできず、
 神の子らとしての身分にあずかることもできません。
 信仰なしには誰も義とされることができず、
 最後まで信仰を保たない限り、永遠の生命を得ることはないでしょう。


 信仰は、神が人間に与えてくださった無償のたまものです。


 私たちには、このはかりしれない恵みを失うことがありうるのです。
 信仰に生き、信仰において成長し、最後まで信仰を貫くために、
 私たちは神の御言葉によって信仰を養わなければなりません。
 信仰を強めてくださるよう、主に願わなければなりません。
 信仰は、愛の実践を伴い、希望に支えられ、
 教会の信仰の中に根を下ろさなければなりません。


 『教会を母として持たない者は、
  だれも神を父として持つことはできません』(聖チプリアノ)


 『信じる』とは、教会の行為です。

 まず、教会の信仰があり、
 これが私たちの信仰を生み、支え、養います。
 教会は、信じる全ての者の母です。


 信仰は、地上の歩みが目指す至福直観の喜びと光を、
 いわば前もって味わわせます。
 その日、私たちは神を『顔と顔とをあわせて』ありのままに見るでしょう。
 したがって信仰は、
 すでに、この永遠の生命の始まりです。



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