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Vade Retro Satana,
サタンよ、向こうへ退け
Numquam Suade Mihi Vana.
虚しいものをもって私にささやくな
Sunt Mala Quae Libas;
お前の与えるものは悪に過ぎない
Ipse Venena Bibas.
お前がみずから、その毒を飲むがいい
フランシスコ教皇聖下
悪魔は強大な力をもって自らを現わします。
彼はあなたに種々のギフトをもたらすでしょう。
しかし、あなたは、その内にあるものが何であるかをわかっていないのです。
私は、10月の全ての日々に、ロザリオの祈りの結びに
『私たちはあなたの防御のもとへ』のアンティフォナを捧げるよう、
また、教会を分裂させることを望む悪魔の攻撃を撃退すべく、
大天使聖ミカエルへの祈りを捧げるよう、全ての人を、ふたたび招きます。
Sub tuum praesidium confugimus
あなたの防御のもとへ私たちは逃れる
Sub tuum praesidium confugimus は
250年エジプトのパピルスのうちに見出された
ギリシア語の聖母への祈りをラテン語にしたものです
イメージ的には、聖母のマントの防御 praesidium のもとに
特に、あらゆる試練や逆境の際に
私たちの避難所として、そこに逃れて
聖母にかくまっていただく、といった感じの祈り文になります
現在、時課の典礼(聖務日課;教会の祈り)の終課の
結びの聖母賛歌のアンティフォナとして
他のアンティフォナ(Alma Redemptoris Mater, etc.)と共に
時課の典礼書に掲載され
任意選択で用いられています
また、聖母の連祷に付加して唱えられたり
日本では、以前『終業の祈り』として文語で唱えられたりしていました
(長崎教区では今も用いられているようです)
Sub tuum praesidium confugimus,
あなたの防御のもとへ、私たちは逃れます。
Sancta Dei Genetrix.
聖なる神の御母よ、
Nostras deprecationes ne despicias in necessitatibus,
逆境における、私たちの願いを軽んじることなく、
sed a periculis cunctis libera nos semper,
むしろ全ての試練から、私たちをいつも解放してください。
Virgo gloriosa et benedicta.
栄光に満ち、祝福されたおとめよ。
あなたの防御のもとへ、私たちは逃れます。
聖なる神の御母よ、
逆境における、私たちの願いを軽んじることなく、
むしろ全ての試練から、私たちをいつも解放してください。
栄光に満ち、祝福されたおとめよ。
聖ヨハネ・パウロ2世
悪魔のいざないを退けるために神の助力を求めるべきこと
(1986年8月20日)
神から善いものとして創られたのに、自ら選んで神に背き
悪いもの、暗闇の王となった悪い堕天使がいることを知る私たちは
そのいざないにかからないように警戒しなければなりません
そのためキリスト者は、次のように願い求めるべきです
『私たちがいざないに負けることをお許しにならないでください。
私たちを、悪から、そして、悪魔から解放してください。
主よ、はじめから不忠実だったものが、
私たちをも不忠実なものとなるよう、いざないをかけています。
どうか、私たちが不忠実になるのをお許しにならないでください』。
霊戦は、その終わりに近づけば近づくほど、ますます激しさを増します
純粋な霊である悪魔は、強い力をもつ存在ですが
ただの被造物に過ぎず、その能力は無限ではなく
被造物としての限界があり、神の御旨と支配権に従属しています
私たちは、勝利をもたらす救い主キリストが
力強く守ってくださることを、確信しています
それは、私たちも勝利者となるためです
この勝利を獲得できるよう
神の愛の使者である善い天使たちは
力強く私たちを助けてくださいます
大天使聖ミカエルへの祈り
大天使聖ミカエルよ、霊戦において、私たちをお護りください。
悪魔がもたらす、あらゆる不道徳や罠に対する防御となられてください。
神が悪魔を咎めてくださるよう、私たちはつつしんで願い求めます。
そして、天軍のプリンスであるあなたが、
霊魂たちの破滅のために、この世を徘徊している
サタンや、その他の邪悪な霊たちを、
神的力によって、地獄に突き落としてくださいますように。アーメン。
教会の保護者聖ヨゼフへの祈り
これは大天使聖ミカエルへの祈り同様、レオ13世教皇ご自身が作成された祈り文で、1889年8月15日レオ13世教皇は、回勅 Quamquam pluries によって、10月中のロザリオの祈りに、この教会の保護者聖ヨゼフへの祈りを唱えて、大いなる困難の渦中にあるカトリック教会のために、聖ヨゼフの取次ぎを求めるよう命じられました。
また、この祈りは部分免償が賦与されていて、1935年12月13日及び1941年3月10日付けで、通常3年の部分免償、毎水曜日には7年の部分免償、10月のロザリオの祈りの後に付加する場合も、7年の部分免償が付与されました。
(字数制限にかかるため、ラテン語原文は割愛しました)
幸いなヨゼフよ、私たちの苦難において、あなたによりたのみます。私たちは、あなたの最も聖なる妻の助けを求めるだけでなく、また、あなたの御保護をも、信頼して願い求めます。
私たちは、汚れないおとめ、神の御母と結ばれた、あなたの愛徳の故に、また、幼いイエズスを抱擁された、あなたの父としての愛情の故に、つつしんでお願いいたします。
イエズス・キリストが、その御血によって獲得された、遺産である私たちを、いつくしみ深く顧みてください。私たちの逆境に際し、あなたの力と働きによって、すみやかに助けられますように。
あぁ、神の家族の最も摂理的な守護者よ、イエズス・キリストの選ばれた子らを、見守っていてください。愛に満ち溢れた父よ、私たちのために、全ての誤謬と腐敗の伝染を防いでください。
私たちの最も力強い救援者よ、この暗闇の勢力との闘いにおいて、いつくしみ深く天上から、私たちに加勢してください。そして、かつて幼いイエズスを、生命の危機の極みから救い出されたように、今も、神の聖なる教会を、敵の偽りと、全ての災いからお護りください。
また一生涯の全ての日々、あなたの御守護のもとに私たちをかくまってください。こうして、あなたの模範と働きに支えられ、私たちが聖なる生活、敬虔な死を経て、天における永遠の至福にたどりつくことができますように。アーメン。
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教皇聖下の声✿
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大天使聖ミカエルへの祈り
フランシスコ教皇聖下は、10月のロザリオの月において、ロザリオ後の聖母の連祷の結びに、大天使聖ミカエルの祈りを唱えるよう全教会に呼びかけられました。
この大天使聖ミカエルへの祈り文は、1884年10月13日レオ13世教皇が、朝ミサ挙行後に、教会とサタンとの間に繰り広げられる戦慄すべき霊戦を幻視し、作成されたもので、おもに、ミサ後に、これをひざまずいて唱えるよう定められました。
この祈りは、1886年から1964年に至るまで、ミサ後に唱えられるよう義務づけられていました。
勘違いする人も多いようですが、義務が解かれただけであって、唱えること自体が禁止されたわけではありません。
むしろ、ベネディクト16世名誉教皇や聖ヨハネ・パウロ2世教皇によって、この祈りをミサ後に唱えるよう推奨されてきました。
これを受けて、複数の大司教区や司教区において、ミサ後に、この祈りを唱えることが再導入されています。
なので、今は、義務ではありませんが、ミサ後に、各自任意で、唱えられることが勧められています。
もはや禁止された、などという誤情報を垂れ流す人は誰であれ、教会の想いを全く理解していないことを自ら露呈するものであり、霊戦において、悪魔側につく、偽りの扇動者になりさがっているということを認識し、その誤りをただすべきです。
なお、この祈りには、1932年11月12日付けで、3年の部分免償が付与されています。
Sancte Michael Archangele, defende nos in proelio,
contra nequitiam et insidias diaboli esto praesidium.
Imperet illi Deus, supplices deprecamur:
tuque, Princeps militiae caelestis,
Satanam aliosque spiritus malignos,
qui ad perditionem animarum pervagantur in mundo,
divina virtute, in infernum detrude. Amen.
大天使聖ミカエルよ、
霊戦において、私たちをお護りください。
悪魔がもたらす、あらゆる不道徳や罠に対する防御となられてください。
神が悪魔を咎めてくださるよう、
私たちはつつしんで願い求めます。
そして、天軍のプリンスであるあなたが、
霊魂たちの破滅のために、この世を徘徊している
サタンや、その他の邪悪な霊たちを、
神的力によって、地獄に突き落としてくださいますように。
アーメン。
ご存知の方も多いでしょうが、カトリック中央協議会では、『教皇は「ロザリオの祈り」の最後に、古来の聖母への祈り「Sub tuum praesidium」と、悪との闘いでの保護と助けを願って「大天使聖ミカエルに向う祈り」を唱えるよう勧めています。』と記載しつつ、上記とは別の聖ミカエルの祈りを掲載しています。
祈り文が異なる、この誤った情報を掲載している中央協議会に対して、先日、ある外国人司祭が、クレームを入れたところ、『そちらの(教皇が要請した祈り文のほう)は、日本では浸透していないから。その大天使への祈りをする人は少ないでしょうから。』といったような理由から、協議会のサイトでは、教皇聖下が要請した祈り文とは異なる、別の祈り文を掲載している、とのことです。
「浸透していない」、「その祈りをする人は少ないだろうから」、本来の祈り文を載せないことにした、ということですが、そもそも掲載しなければ、信者の人々の間に、その祈り文について浸透しようがないし、掲載されていなければ祈りようがないでしょう
多くの小教区では、中央協議会のサイトに掲載したものを、プリントアウトして、自教区の信者さんたちに配布するでしょうから、ますます、本来の祈り文が忘れ去られ、浸透しなくなってしまうんじゃないでしょうか
むしろ、浸透させるために、また、その祈り文を祈る人を増やすために、本来の祈り文を、WEB上で掲載して、日本の信者さん一般に、周知させることが、カトリック中央協議会サイトの果たすべき役割なんじゃないでしょうか
現状、『教皇が唱えるよう勧めている』、としながら、教皇が勧めている祈り文を掲載せずに、教皇が勧めていない別の祈り文を掲載していることは、一般的に言えば、嘘情報だと揶揄されてもいたしかたないのかもしれません。。。
2018年10月11日追記
本記事のコメント欄に記載しているとおり
カトリック中央協議会サイトは
2018年10月10日付けで、口語訳の Sub tuum と
口語訳の本来教皇聖下が要請された大天使聖ミカエルへの祈りを
併せて掲載してくれるようになりました
WEB上で声をあげないよりも、声を上げたほうが
良い結果をもたらすんだな、ということをあらためて感じました✥
ちなみに Sub tuum に関しては
『神の御母よ、わたしたちはご保護を仰ぎます。
いつ、どこでもわたしたちの祈りを聴き入れ、
御助けをもってすべての危険から守ってください。アーメン。』
を掲載してしまっていますが
その祈り文だと、ざっくりとした意訳のような雰囲気の文章ですし
Virgo gloriosa et benedicta という聖母への結びの呼びかけも
欠落してしまっているので
(非難ではなく、原文と比した現実的指摘です)
それを掲載するなら、むしろ中央協議会自身の教皇ツイートの口語訳
『@chuokyo_pope
神の母聖マリア、あなたの保護のもとにわたしたちは逃れます。
わたしたちが助けを必要とするとき、その願いを退けず、
すべての危機より、いつもわたしたちをお救いください。
栄光に満ち、祝福されたおとめよ 2018年10月2日』
を掲載したほうが
ラテン語原文の意味を、省略なしにあらわす忠実な内容なので
とても良いんですけどね〜
前回は『文語の枠』にこだわって
今回は『引用掲載の枠』にこだわってしまったのでしょうか?
『祈りの友』からの引用掲載を優先し過ぎて
せっかくの、自前の、忠実で、素晴らしい翻訳ツイート文があるのに
それを本文で紹介掲載しないまま
スクロールしまくらなければ見えないような
すみっこのすみっこに放り出したままにしてしまうなんて
詰めが甘いというかなんというか
ん〜〜〜なんだかもったいない感じです✥ 聖パウロ6世
悪魔について
現代の教会にとって、第1に必要なものとは何でしょうか?それは、悪魔と呼ばれている悪から護られることであり、これこそ第1に必要なものです。
何よりも道徳上の悪がこれほどはびこり、様々な手段を用いて、人と神を攻撃しているのに、それでもなお楽観的でいられるでしょうか?
私たち自身のうちにも、私たちの世界にも、暗闇に包まれた敵意をもつ扇動者である悪魔がいて、罪は、この悪魔の干渉によって始まり、完成されています。
悪魔は、れっきとした実在であり、霊的で、堕落した存在者、他のものさえ堕落へと導く、生きている存在、恐るべき現実、恐怖を巻き起こす現実です。
もし、この現実を認めない人がいるとすれば、その人は、聖書の教えからも、教会の教えからも、離れてしまっているのです。
また、この霊的存在者を、抽象的な悪の人格化に過ぎない、などと考える人もまた、聖書と教会の教えから離れてしまっているのです。
私たちの敵の最たるもの、最大級の誘惑者、これが悪魔の正体です。
もちろん、全ての罪が、悪魔の直接的ないざないとは限りません。とはいえ、いつも、精神的努力によって自分自身を警戒しない人は、悪魔のなすがままに、身をまかせて、救いを危うくしてしまうのです。
では、どのようにして悪魔から護られるのか?悪魔の活動を妨げるには、どのようにすればよいか?それは、罪から私たち自身を守ること、それ自体が、見えない敵から私たちを護ることです。
従って、決定的な防衛力は、神の恩寵以外には何もないのです。それゆえキリスト信者は、武装する戦士、しかも警戒を怠らない強い戦士でなければなりません。
そのため、悪魔の、ある種の攻撃を防ぐための戦法として、イエズスご自身が仰せられたように、祈りと共に断食も必要になります。
(1972年11月15日)
「この種のものは、祈りと断食によらなければ、追い出すことができない」
(マルコ 9,29)
聖ヨハネ・パウロ2世
大天使聖ミカエルの祈り文について
こんにち、この聖ミカエルの祈りは、エウカリスツィアの祭儀の結びに、もはや唱えられなくなってしまっていますが、どうか、この祈りを忘れてしまわないようにしてください。暗闇の力に対抗するため、また、この世の霊に対抗するため、霊戦における助けを得るために、この祈りを唱えるよう、私は全ての人を招きます。
(1994年4月24日)
大天使聖ミカエルよ、
霊戦において、私たちをお護りください。
悪魔がもたらす、あらゆる不道徳や罠に対する防御となられてください。
神が悪魔を咎めてくださるよう、
私たちはつつしんで願い求めます。
そして、天軍のプリンスであるあなたが、
霊魂たちの破滅のために、この世を徘徊している
サタンや、その他の邪悪な霊たちを、
神的力によって、地獄に突き落としてくださいますように。
アーメン。
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イエズスの聖心の福者マリア・セラフィナおとめ
記念日;3月24日
聖心の福者マリア・セラフィナは、1849年9月11日イタリア、トレントのイメルで生まれ、クロティルダ Clotilde Micheli と名づけられ、3歳の時、トレント司教から堅信を受け、1858年初聖体の際、奉献生活への強い憧れを抱き、しばしば長時間ひざまずいて聖体礼拝のうちに過ごすことが多くなり、幼い頃から神秘的な体験や私的啓示を受けていたが、その中で、1867年8月2日、小教区聖堂での聖体礼拝の際、天使たちに囲まれた幸いなおとめマリアが福者のもとを訪れ、至聖なる三位への特別な礼拝のための修道会発足の召命を促された。
友人と共にヴェネツィアに赴き、ドミニコ・アウグスティノ司祭(のちのヴェネツィア総大司教、枢機卿)に助言を求めた際、新しい修道会発足に向けた計画を進めるよう励まされ、修道会則の草案を促されたが、自分には困難で自分はその器ではないと怖れを抱き、1867年パドヴァに移るが、そこでも霊的指導者たちから新しい修道会の基盤作りを促された。
1878年両親が福者の知らぬ間に縁談を進めていたことがわかり、その縁談から逃れるため、ドイツのエプフェンドルフに移住し、聖エリザベト姉妹会が運営する診療所で看護師として働いたが、1885年両親の死を機に、自らの生き方を問うため、1887年5月、姪のジウディッタの協力を得て、徒歩でローマ巡礼を行ない、8月ローマの汚れない愛徳姉妹会に入り、『マリア・アンヌンツィアータ』という名前を選び、1888年アナーニ教区に属するズグルゴラ修道女院の院長を務めるが、フランシスコ・フスコ司祭の助言を受けて姉妹会を退会した。
1891年カゼルタへ赴き、そこでフィロメナ・スカリンジやその他の若い女性たちと共に共同生活をするための家を建て、カゼルタ司教エンリコ・デ・ロッシの支援を受けて、ノチェーラ・インフェリオーレ近郊で、1891年6月28日、天使たちの姉妹会を創立し、5名のおとめたちと共に修道誓願を立てて、修道名に『聖心のマリア・セラフィナ』を選び、フランシスコ・フスコ司祭を会の霊的指導者とし、至聖なる三位への礼拝の信心を推進し、見棄てられた孤児たちや貧しい病者たちの世話、青少年たちの霊的育成を推進し、天使たちにならう奉献生活に努めた。福者が院長を務める間に、修道女院を15箇所もうけ、現在その修道院は50箇所に広がり、イタリア、ブラジル、インドネシア、ベナン、フィリピンに及んでいる。
1895年頃から福者は病気に苦しむが、治療に意を用いることはせず、自身の奉仕職に努め続けた。ある日、ある神学生が福者に面会を求めてきたが、病気に伏していた福者を煩わせまいとして断った修道女たちに向けて、その神学生が獣のような遠吠えと共に怒号を浴びせだしたため〜その神学生は7位の悪魔に憑依されていた〜、福者は彼に(実際は悪魔に対して)静かにするよう命じて、十字架のしるしを通じて、憑依されていた神学生の悪魔祓いを行ない、その神学生を悪魔から解放させた。
1911年3月24日ベネヴェントのファイッキオで帰天した。2011年5月列福。
地獄の幻視
1883年11月10日夕刻、ドイツ皇帝ウィルヘルム1世が主催したマルティン・ルター(1483.11/10-1546.2/18)誕生400周年の祝賀ムードでアイスレーベン(現在のルターシュタット・アイスレーベン)一帯は満たされていたが、福者はこの祝賀に興味はなく、その地域にある各教会を見つけては聖体礼拝をすることを常としていて、日も暮れて暗くなっていたが、この日もそのようにするため、ある教会を訪れた。しかしそこは扉が閉まっていたため、祈りのひと時をもつため、入り口の階段でひざまずいた。
福者は、そこが、カトリック教会ではなくプロテスタント教会であることに気づいていなかった。福者がひざまずいて祈りを捧げていると、守護の天使が目に見える姿で福者に現れて告げました。
「立ち上がりなさい。ここはプロテスタント教会です。マルティン・ルターは、その傲慢のゆえに処罰されました。それは致命的な大罪であり、カトリック教会に敵対して反乱を起こしたからです。彼がどこで処罰されているか、また、彼がその傲慢の罰として、どのような苦しみの痛みを受けているかを見なさい」。
すると、福者は、激しい怒りの渦のうちにある、おびただしい霊魂の痛々しい拷問を幻視しました。
その渦のような獄の穴の底に、悪魔に取り囲まれ、ひざまずかされているマルティン・ルターがいて、彼の頭は大きな釘のようなもので突き刺され、ハンマーのようなもので酷く打ち叩かれていました。
大勅書Exsurge Domineで指摘されたマルティン・ルターの誤謬
95箇条の命題におけるルターの誤謬のいくつか
(ex. デンツィンガー・シェーンメッツァー 『カトリック教会 文書資料集』)
告解には、痛悔、告白、償いの3つの部分があるというのは、聖書にも教父たちの教えにも基づいていない。
痛悔(良心の糾明を含む)によって、人は偽善者となり、もっと悪い罪人になる。
全ての大罪を思い出すことは不可能だから、全ての大罪を告白しようと考えてはならない。
告白をする人が痛悔していなくても、司祭が本気でなく冗談で赦したとしても、自分は赦されたと信じる人は、本当に赦されている。
免償は信者を迷わせるための信心深い詐欺であって、役に立たない。
自罪の罰の赦しのために、免償は何の役にも立たない。
免償が有益なもの、霊的に役立つもの、と信じる人はだまされている。
完全に行なわれた善業は、小罪である。
煉獄の存在は、正典に含まれる聖書から証明できない。
煉獄の霊魂は、罰を恐れている間は絶えず罪を犯している。
上記のマルティン・ルターの主張は、カトリック教会の赦しの秘跡の否定、良心の糾明・痛悔・免償・善業・煉獄の否定、また、煉獄の霊魂への侮辱を含んでいます。
そのため、プロテスタントには、叙階の秘跡もなく、そのため、聖餐式はあっても、聖変化させる司祭がいないので、実質、聖体の秘跡もなく、また同じく、罪の赦しを与える司祭がいないので、赦しの秘跡もなく、そのため、信者は秘跡的赦免を受けられませんし、教会の有する霊的宝庫がプロテスタントには閉ざされてしまっている、というのが現状です。
カトリックのエキュメニズム
カトリック教会のエキュメニズムとは、プロテスタント諸教会との兄弟的で友好的な対話を通じて、彼らのカトリックへの帰正を促すものであって、カトリック信者がプロテスタント諸派の教えに染まることを意図したものではありませんし、カトリックがプロテスタント化することでもありませんし、プロテスタント諸派に、「あなたたちはあなたたちのままとどまっていてイイんですよ。私たちと仲良くやっていきましょう」と見せかけの表面的な仲良しアピールの自己満に浸ることでもありません。
回心の必要のないプロテスタント信者はいません。
また、回心の必要のないカトリック信者もいません。
回心の必要のない人は、どこにもいません。
カトリックのエキュメニズムを誤解して、『カトリックの教えを裏切る行為』として、対話を促す教皇庁を否定するのもおかしな振る舞いであり、心の偏狭さを示しています。
というのも、自己開示的で抱擁的対話なしに、相互理解を介した、『真理への気づき』が、対話相手にもたらされないからです。
それは、放蕩息子の帰還を、いつくしみ深い抱擁のうちに祝宴を催した父親に対する、兄の心の狭さと同じ振る舞いです。
また、聖座の歩み寄りの意図を誤解して、地方教会の司牧者が、カトリックの教えをないがしろにしてプロテスタント諸派に迎合するのもおかしな振る舞いであり、霊魂の救いへの無関心を示しています。
というのも、真理の教えを明確に示さず、誤謬を誤謬のままに放置することは、『真の愛徳』にもとるからです。
それは、物質的に飢えた人に助けをもたらす一方で、霊的に飢えた人には、助けを与えずに放置するようなものであり、霊的慈善とは真逆の振る舞いです。
いずれも両極端な誤断に過ぎず、より多くの霊魂を救いの小道に立ち帰らせたいと望まれる、神のいつくしみを反映させるものとは異なる姿勢です。
カトリックのエキュメニズムは、兄弟的交わりや相互理解を深めることを通じて、真理の小道に人々を向かわせ、立ち帰らせるための、司牧者たちや信徒たちに向けた、聖霊の愛と想いやりの呼びかけです。
«Paenitemini et credite Evangelio»
フランシスコ教皇聖下
良心の糾明は、心戦を戦い抜くために、必要不可欠である
イエズスは、私たちに回心を呼びかけておられます
そして、この回心とは
悪魔に対する戦いを意味していますし
また、自分自身の心に対する戦いをも意味しています
悪との苦闘は
あなたに快適さをもたらしませんが
しかし、あなたに真の内的平和をもたらします
イエズスが地上に放とうと望まれた炎は
自らを変えることへの呼びかけを示すものです
自らを変えること、それは回心です
それは、肉体、霊魂、全てを含む回心です
自らを変えることは
メイクアップのように表面的な変化をもたらすことではなく
聖霊がもたらす内的刷新です
自身のうちで聖霊が働きかけられるようにしなければなりません
それは、自分との闘いを意味していますし
実際、戦わなければなりません
安逸をむさぼるキリスト者は、戦おうとしません
そのような人々は、キリスト者ではありません
彼らは生温さを示しています
内的平和のためのピルなどありません
ただ聖霊だけが、霊魂の内的平和をもたらすことがおできになり
キリスト者に霊的強さをもたらすことがおできになります
日々の良心の糾明が、このことの助けとなりえます
敵の蒔いた病魔、世俗化という名の病魔と戦う助けとなりえます
悪魔に対して繰り広げられたイエズスの闘いは
遥か遠い昔の出来事のもの、いにしえの悪に対するものではなく
それは、今、現代の出来事のもの
全ての日々、こんにち現出している悪に対するものです
イエズスが、私たちの心の各々にもたらそうとされる炎をもって
私たちのうちに入ることがおできになるよう
私たちは、日ごとに自分自身に問いかけなければなりません
私は、世俗化から遠ざかるため、また、罪から遠ざかるため
恩寵に向けて、なんらかの努力をなしているだろうか?
私は、聖霊が、私のうちで働くことができるよう
聖霊のための場を、差し出しているだろうか?
私たちの生活上の種々の問題は
真理を押し黙らせることでは解決されません
真理は私たちに告げています
イエズス・キリストは私のうちに炎をもたらすために来られ、戦われる
それなのに私は何をしようとしているのだろうか?
自他に回心をもたらすためには、想いやる心、忠実な心が必要です
想いやりは、つねに愛に由来するものです
忠実さは、神の御言葉への忠実さのことです
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愛を注ぐべき人、愛を必要とする人に対して
あなたの想いやりを拒んではならない
フランシスコ教皇聖下
あなたたたちの心を開きなさい
掟の厳格さのうちに逃げてしうまうことのないように
神は、この世界を創造されました
なぜ神はこの世界を創造されたのでしょうか?
それは、愛のため
それは、神の善の充満を、他のものに、与え、分かつためでした
人類の再生のために
神は、その御独り子を送り、事物を正そうとなさいました
醜悪を美麗へと、誤謬を真理へと、罪人を義人へと
御子において、全てを刷新しようとなさいました
38年間、病に伏す人を、イエズスは、安息日に奇跡的に癒されました
「私の父はいつも働いておられ、私もまた、いつも働く」
イエズスがこのように仰せられた際
律法学士たちはイエズスにつまずき
このために彼を殺そうと望みました
なぜでしょうか?
なぜなら、賜物としての神の働きかけを
彼らは受け入れることができなかったからです
彼らはただ単に、神のうちに正義のみを見ようとしていました
「これは『掟』なのだから」
彼らはいくつか、より多くの取り決めを設けていました
彼らは神の賜物に向けて心を開くかわりに
500あるいはそれ以上に、彼らが設けた『掟』の厳格さのうちに
逃げ場をもとめて隠れようとしました
彼らは賜物を受け入れるすべを知ろうとしませんでした
その賜物は自由のうちにのみ受け入れられるものでした
彼らの厳格さの性質は
神が私たちに与えてくださる自由への不安によるものです
キリスト者は、愛の奴隷であって、義務の奴隷ではない
聖福音は私たちに伝えています
「このため、彼らはイエズスを殺してしまおうと望んだ」
あえて安息日に癒しの奇跡を示された意図は
父が、賜物としてのこの奇跡を起こされたのだから
父の賜物は受け入れられるべきである
ということでした
私たちはこのために、今日、父なる神に向かい賛美を捧げます
「主よ、あなたは偉大な御方です
私はあなたをとても愛しています
あなたがお与えくださったこの賜物のゆえに感謝しています
あなたは私を造り、私を救い、私を新たにしてくださいました」
これは、賛美の祈り、歓喜の祈りであり
私たちがキリスト教的生活の喜びを受けた祈りです
それは排他的でもなく、悲壮的でもなく
賜物を受け入れるすべを
決して知ろうとしないような人の祈りでもありません
そのような人々は
賜物がもたらされる際の自由を恐れています
そのような人々は
単に義務を遂行するすべのみを知ろうとするばかりで
しかも、それは閉鎖的な義務にすぎません
そのような人々は
義務の奴隷であって、愛の奴隷ではありません
あなたが愛の囚われ人になる時、あなたは自由なものになります
それは、実に、美しい束縛です
しかし、そのような人々は
そのことを理解しようとしないのです
どのようにして神の贖いと赦しの賜物を受け入れるべきかを自問してください
この場所、その時
主の2つの奇跡があります
それは、創造の奇跡、贖罪と再創造の奇跡です
どのようにして私はこの賜物
神が私にお与えになるこの賜物を受け入れたらよいのでしょう?
もし私がそれを神の賜物として受け入れるならば
どのようにして私は、被造物を愛し
被造界の秩序のために心配りをすればよいのでしょう?
「あなたが神の賜物のことを知っていたならば」
どのようにして私は
神が私にお与えになる贖いと赦しを受け入れて
御独り子と共なる子として
私が形成されるにまかせればよいのでしょう?
それは、自由に伴う優しさや想いやりでしょうか?
それとも、閉鎖的掟の厳格さに隠れてしまうことでしょうか?
その掟は、条文の強調によって
より一層『安全』なものとして提示されがちです
しかしながら、そのようなことは喜びをもたらしません
なぜなら、彼らは、あなたを自由にはしないからです
私たち1人ひとり
ベテスダで彼が経験した2つの奇跡について考えてみましょう
創造の奇跡
そして、より一層偉大な再創造の奇跡について
主が、この偉大な出来事について
私たちに理解させてくださいますように
そして、世界を創造される前に
主が、それを行なおうとされた理由を
私たちに理解させてくださいますように
主が、愛されたのです
私たちへの主の愛を、理解するように努めて、言いましょう
「主よ、あなたは偉大な御方です。
ありがとうございます。ありがとうございます!」
このようにして、主に向かい、前に進んで行きましょう
神による再創造
〜奔放から悔悛へ 誤った自由から真の自由へ〜
コルトナの聖女マルガリータ 悔悛女
Die 22 februarii :
S. Margaritæ de Cortona, pœnitentis
コルトナの聖女マルガリータは、1247年イタリア、トスカナのラヴィアーノの農家に生まれ、7歳で母をなくし、モンテプルチアーノの貴族の若者と駆け落ちし、18歳から27歳までの9年間誤った愛人生活を送り続けた。
1274年愛人が殺されて、その無残な屍を見て改心し、息子と共にモンテプルチアーノを離れ、悔悛者として父の家に戻ろうとしたが拒絶され、コルトナに赴いた。
聖女はいまだ肉の誘惑を克服するために困難を感じていたが、ある日曜、ラヴィアーノに戻り、ミサ中聖女の過去のつまずきを公に謝罪し、介護で生計を立て、『憐れみの家』Poverelleと呼ばれる貧しい病者のための病院を建て、フランシスコ会第3会員となり、憐れみの聖母の共同体をつくる。
息子は数年後にフランシスコ会に入り、聖女は聖体の神秘と主の受難と聖心への特別な信心をもち、みずからに厳しい償いを課した。
聖女に対して疑いと中傷がなされたが、人々への指導と和睦と平和のために尽力し、29年にわたる悔悛の業の実行に励み、1297年2月22日帰天した。1728年列聖。
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Deus,qui famulam tuam Margarítam
de perditionis via ad salutis tramitem
misericorditer deduxisti :
eadem nobis miseratione concede ;
ut,quam prius errantem sectari non erubúimus,
mox pœnitentem impigre sequi gloriemur.
Per Christum Dominum nostrum. Amen.
神よ、あなたは、あなたのはしためマルガリータを、
破滅の道から救いの小道へと、憐れみのうちに導き入れられました。
その同じ憐れみのうちに、私たちに恩寵をお与えください。
かつて恥じ入ることなく迷いの道に足を踏み入れていた私たちが
のちに悔悛の道に努めて歩むことを誇りとすることができますように。
私たちの主キリストによって。アーメン。
Vel :
Deus, qui non vis mortem peccatoris,
sedut magis convertatur et vivat :
concede propitius ; ut, sicut beatam Margaritam
ad tibi devote serviendum
a peccatorum laqueis eripuisti ;
ita nos illius precibus et imitatione,
culparum vinculis liberati,
pura mente tibi servire valeamus.
Per Christum Dominum nostrum. Amen.
神よ、あなたは罪人たちの死を望まず
むしろ、回心して、生きることを、より一層望まれます。
いつくしみ深く私たちにお与えください。
幸いなマルガリータが、罪の罠から解放されて
あなたに献身的に仕えていったように
その祈りと模範によって、私たちも過ちの鎖から解放され
清められた想いのうちに、あなたに仕えることができますように。
私たちの主キリストによって。アーメン。
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フランシスコ教皇聖下
キリスト教的生活とは
サタン、世俗、肉の衝動に対して
絶え間ないバトルを繰り広げるようなもの
悪魔は現実に存在しており
私たちは真理の武具のうちに
悪魔に対して戦いを挑まなければなりません
キリスト教的生活は
サタンの誘惑に対して防がなければなりませんし
強さと勇気を要求するものです
それはキリスト教的生活の3つの主要な敵
悪魔、世俗、肉の衝動に対する継続的な霊戦です
私は、自分自身を誰から護らなければならないのでしょうか?
私は何をしなければならないのでしょうか?
聖パウロは私たちに教えてくれています
「神の武具を身につけなさい」
それが意味するところは
防御としての神の働きであり
サタンの誘惑に対抗するための助けを受けることです
これは確かなことでしょうか?
誘惑に対抗することなしに
私たちに強さをもたらし、私たちを守る神の武具を身につけることなしに
霊的生活はありえませんし
キリスト教的生活もありえません
聖パウロは強調しています
私たちのバトルは、小さな事柄ではなく
むしろ、この世の支配的な権勢と能力に対する事柄であり
換言すれば、悪魔とそのフォロワーたちに対する事柄です
今の世代は、実に多くの人々が
悪魔が単なる作り話、象徴、概念、悪の概念に過ぎないと考えています
しかしながら、悪魔は現実に存在するものであり
私たちは、悪魔と戦わなければならないのです
聖パウロは私たちにこのことを教えています
単に私が言っていることではありません!
神の御言葉が、私たちにこのことを教えているのです
しかし、私たちはこのことを十分に確信していません
聖パウロは偉大な神の武具について
いくつかの異なる表現を用いて言及しています
「真理のうちに立ち続けるために
あなたたちの腰帯を引き締めなさい」
真理こそ、神の武具です
それとは対照的に
悪魔は、嘘つきであり、嘘つきたちの父です
そのため私たちは
真理を私たちの味方として、彼と戦わなければなりません
聖パウロは
神のうちに常に信仰を保つ重要性を強調し続けます
それは悪魔との霊戦を戦う際に
私たちにとっての盾のようなものです
悪魔は、私たちに花々を放つのではなく
その代わりに燃え立つ矢を放っています
人生は、軍事的努力を要するものです
キリスト教的生活は、戦闘です
しかも、美しい戦闘です
なぜなら、私たちの人生のあらゆる段階において
神が勝利者として現れてくださる時
私たちに喜びを、偉大な幸いを与えてくださるからです
その喜びとは
主が、救いという主の無償の賜物のうちに
私たちにおいて勝利者となられる喜びのことです
しかし、私たちはみな
このことにいささか愚鈍な状態です
そうですよね?
私たちは、この霊戦において
私たちの衝動や、さまざまなタイプの誘惑を
自らに入り込むことを許し
それに流されるままになってしまっています
それは、私たちが罪人だからです
私たちはみな罪人たちです!
しかし、落胆しないでください
勇気と強さを抱いてください
なぜなら、主が、私たちと共におられ
私たちのうちで私たち自身の勝利に力添えをしてくださるからです
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