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救い主の復活の神秘に参与する人は幸い
主の受難にあずからない人は
主の復活にあずかることはできない
Surrexit Dominus vere, alleluia.
主は、まことに復活された アッレルーヤ
私たちの救い主イエズス・キリストは
私たちを愛し、私たちのためにご自分を死に渡し
その最も尊い御血によって、私たちを洗い清め
私たちをご自分の復活にあずかれるものとしてくださいました
実際に、その復活に私たちが参与するためにこそ
主は、私たち罪人に呼びかけられました
「悔い改めて、福音を信じなさい」
私たちはみな罪人です
悔い改めが必要ないほど
聖なるものとなっている人はどこにもいません
私たちは、神の御前において、みな罪人です
たしかに外面的には
表立った犯罪をおかす人は少ないかもしれません
しかし、日々の生活の中で
ある人は、思いの中で
人を傷つけ、人を殺し、人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い言葉を考え、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
また、ある人は、言葉によって
人の心や名誉を傷つけ、場合によっては人を自死に至らしめ
人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い言葉をまき散らして、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
また、ある人は、行ないによって
人を傷つけ、人を殺し、人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い行ないを示して、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
そのような振る舞いを続ける人は
たとえキリストの名を冠する『キリスト者』であったとしても
その実、悪魔の協力者であって
主イエズスの復活の参与者となることはできません
自由意志による選択
復活への歩み もしくは 腐敗への歩み
キリストの復活にあずかりたいと望む人は多いですが
その受難にあずかりたいと望む人は少ないのが現状です
人はみな、この人生の中で
思い、言葉、行ない、作為、不作為によって
自ら蒔いたものを、自らが刈り取ります
ある人は、復活への歩みを進めてゆき
また、ある人は、腐敗への歩みを進めてゆきます
人は、自らの人生の歩みのうちに
神の恩寵の助けに協力しながら、自身のうちに神の国を形造り
永遠の天国に入ってゆきます
そして、その生命の国は終わることなく
神の寵愛と祝福に包まれて、永遠の至福に参与するものとなります
また、人は、自らの人生の歩みのうちに
神の恩寵の助けを拒絶しながら、自身のうちに悪魔の国を形造り
永遠の地獄に入ってゆきます
そして、その死の国は終わることなく
悪魔の憎悪と呪いに縛られて、永遠の腐敗に参与するものとなります
人は必ず死を迎え
神の裁きの座の御前に
自らのありさま、自身の歴史的歩みの全てを、さらすことになります
また、最後の審判において
人は、各々のありさまで、自らをおおやけにさらすことになります
ある人は、祝福されたものとして、その栄光体の輝きと芳香のうちに
また、ある人は、呪われたものとして、その腐敗体の醜悪さと悪臭のうちに
悔い改めの業は 復活への小道
悪魔を喜ばせるものではなく
神を喜ばせるものとなりなさい
私たちは、悔い改めの業をとおして
神に立ち帰り、その復活に参与する機会が与えられています
しかしながら、悪魔を喜ばせる人は多く
神を喜ばせる人は少ない、というのが現状です
あなたは、傲慢、横柄、不敬、諸悪徳によって悪魔を喜ばせるものではなく
むしろ、謙遜、痛悔、敬虔、諸善徳によって神を喜ばせるものとなりなさい
悔い改める罪人
神の赦しに自らをさしだす人は
主キリストの過越の神秘によって
その復活の栄光にあずかることができます
悔い改めを先延ばしにする永遠のリスクを考慮するならば
人は、この世にあるうちに、神に立ち帰り
自らを悔い改めのうちに浸し
神の憐れみに自らを差し出し
あらゆる罪に死んで
自らのうちにある悪への傾きを矯正し
実質的な賠償を含む全ての償いを果たしてゆくほうが
永遠の死への歩みにとどまり
安逸の幻想のうちに、霊的無為のうちに過ごすよりも得策です
そして、思い、言葉、行ないを
神のお望みにそくしたものとしていくために
謙遜な祈りを捧げ
日々の犠牲を甘受し
誠実な償いを果たし
心からの愛徳や想いやりを実践し
この世に善を広げるものとなり
敬虔に秘蹟にあずかり、典礼を忠実に挙行し
神から与えられた、この人生の時間の中で
主キリストがもたらしてくださった成聖の恩寵を
より豊かなものとしてゆくことが必要不可欠です
そのようにすることにより
神の恩寵の助けによって、私たちのうちで
私たち自身の『古い人』から抜け出す Exodus が実現し
この世においては、霊的に、主の変容 Transfiguratio にあずかり
キリストの神秘体の生きる肢体
生きるエウカリスツィア Eucharistia となり
のちの世においては、栄光の肉体をおびて
主の復活 Resurrectio にあずかり
神秘体の御母、教会の御母である幸いなおとめマリアと共に
全ての天使、聖人、聖女と共に
終わりない至福のうちに、神の寵愛と祝福に包まれて
永遠に生き続けることができるでしょう
なぜなら、いつくしみ深い主の赦しの御腕は
罪人である私たち1人ひとりに向けて
常に、飽くことなく、惜しみなく、開かれているからであり
悔い改める私たちへの主の憐れみの全能は、永遠に及ぶからです
実際、主の復活の神秘は
私たちにもたらされた、神の憐れみと赦しの具現化そのものです
全能の主は
惨めなものを憐れまないことがおできになれません
その神化された人間性において
私たちの人間性を、死と罪の腐敗から引き出してくださった
主イエズス・キリストの言い尽くしがたい復活の神秘はたたえられますように
今も、いつも、世々に至るまで。アーメン
Confitemini Domino, quoniam bonus,
quoniam in saeculum misericordia eius.
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ちょっと(。◕‿◕。)ノ☆
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この書庫において、聖書の聖句、聖人・聖女・福者の言葉を、ほんのちょっぴり紹介します(。ฺ◕‿◕ฺ。)ノ☆・゜:*
♡ファン限定です♬(≧▽≦)ノ☆・゜
『ちょっと(。ฺ◕‿◕ฺ。)ノ☆』書庫内の現在の記事数:160✿ฺ
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Oratiovero quae solis labiis sit,
祈りが、単に口先だけのものであれば、
nonest ante Deum acceptabilis.
神の御前に受け入れられるものにはなりません。
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Oratio diabolum fugat,iram Dei placat,
nostram viam dirigit,et ad regnum Dei perducit.
Radulfus Ardens
祈りは、悪魔を敗走させ、神の怒りを和らげ、
私たちの歩みを正し、神の国に導き入れる。 ラドゥルフォ・アルデンスは
フランス、ポワトゥーのボーリューの貴族の家庭に生まれ
哲学、神学を学び、30歳前に神学博士となり、学校で教鞭をとり
著名な優れた説教者となり、神学や倫理を体系的に解説し
『Summa de vitiis et virtutibus』や『Speculum universale』を著し
1190年からイギリスのリカルド1世の宮廷司祭としての職務を果たし
1200年帰天した。
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Jean Daujat
愛のまなざしである祈り
もし私たちが、神に向かう愛のまなざしのうちにとどまらないならば、私たちの思い、言葉、行ないも、神への愛であることが不可能です。
この神に向かう愛のまなざしだけが、私たちが思い、話し、行なう全てのものの動機として、神への愛を与えることができるのです。
この神に向かう愛のまなざしは、祈りの基本と本質となるもので、私たちを神の愛の要求に注意深くさせ、警戒を行なわせます。
したがって祈りは、キリスト教的生活に主要な、根本的手段なのです。私たちがキリスト信者として生きるのは、祈りによって、ただ祈りによってのみです。
祈りは、神に向けられた認識と愛のまなざし以外の何ものでもありません。
それゆえキリスト教的生活においては、注意を最大限に要求する仕事をしている時でさえ、愛のまなざしを決して背けることのない最愛の人と共に生きるように、神と共に生きることです。
最愛のものと共に生き、そのもののために何かをしている時、それをよく行なうために、全ての心遣いを、その仕事に向ければ、その時、心の内的まなざしは、最愛のものから遠ざかるでしょうか?
決してそんなことはありません。なぜなら、最愛のもののためにしている仕事に、注意の全てを向けているのは、確かに、その人に対する愛によってだからです。したがって、その時、仕事にそれほど専念するのは、最愛のもののためであって、最愛のものに向かう愛の内的まなざしのうちにとどまりつつ、仕事に集中するのです。
ですから、キリスト教的生活は、私たちが何を行なうにしても、よく行なうように専念し、注意深いことを要求します。
もし、それを悪く、あるいは不注意のうちに行なうのであれば、それを行なう動機としての神への愛が、私たちに甚だ不足していることになるでしょう。
祈りの偉大な師である人々、聖ベネディクト、聖女ジェルトゥルーディス、聖ベルナルドは、祈りは全て教会の行為である、と教えています。
祈りは、この世では、信仰と希望のうちにあり、永遠の生命では、神の直観と所有のうちにあります。
したがって祈りは、神への認識と愛の内的生命であって、永遠の生命が、充分に開花させるであろうものの見習い、下ごしらえ、始まりとして考えられます。
私たちは祈りによって、信仰と希望の中で、すでに、永遠の生命となるであろうものを生きるのです。
祈りは、この世における私たちの生活の基礎であり、本質であり、また他の一切のものがそこからあふれ出る源ですから、この世にある他の何ものよりも、祈りを尊重し、愛さなければなりません。
私たちから、この世の一切のものが奪い去られても、何ものも私たちから引き離すことのできない祈りが残り、この祈りによって、私たちのうちに生きておられる神との愛の内的親密さのうちに、すでにこの世から生きるからです。
Ascendit fumus incensorum de orationibus sanctorum
de manu angeli coram Deo.
(Ap 8,4)
聖ベルナルドは、ある朝、香炉を手にした天使たちが、修道者たちの聖歌隊に赴くのを見ました。その天使たちは、修道者たちの祈りを、主に捧げる香として香炉の中に各々入れていました。そして、天使たちが香炉をくゆらせると、熱心な人々の心からは、とても甘美な芳香がただよっていました。しかし、怠惰で眠そうにしていた人々の心からは、不快で吐き気をもよおす悪臭がただよっていました。
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Eucharistic Devotion, the Fountain of the Catholic Faith
カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心 母の日ということで
聖母に感謝
いつもありがとうございます✿
あと、本日は世界召命祈願日です
5月ならファティマの聖母像じゃないか?と思われるでしょうけど
たまたま僕のところに、巡回の聖母像という形で訪れてくださったので
今回はRosa Mysticaの聖母の画像です。
僕に回してくださったショコラさん、ありがとうございます✿
Rosa Mystica としての聖母は、
福者となる予定の教皇パウロ6世聖下の出身地
ブレシア教区モンティキアリでご出現になり、
司祭や修道者の刷新を望まれ、祈りと犠牲と償いを呼びかけられました。
聖人たちは、イエズスによって聖化された、謙遜な罪人たちのことです。
教皇フランシスコ聖下のお話の抜粋
聖人たちとは、英雄たちではなく、
イエズスに従って、謙遜と十字架の道を通って、
イエズスによって聖化された罪人たちのことです。
なぜなら、誰であれ、
自分自身で聖化することができないからです。
聖性はイエズスの賜物です。
福音書には多くの聖人たちの模範が記載されています。
7位の悪魔を祓われたマリア・マグダレナが、
ローマへの徴税で人々から金銭をごまかしたマテオが、
またザケオや多くの罪人と称された人々が、
そして教会の迫害者であったサウロが、キリストに選ばれたことが、
そこに記載されています。
このように聖性の最初のルールが、全ての人に示されました。
聖性のルールとは、
私たち自身(我)をなくせばなくすほど、
キリストが力を発揮するようになる、ということです。
子供のようになって、イエズスに従うことです。
英雄たちと聖人たちとは異なります。
多くの聖人たちの生涯の終わりは、
偉大な聖人ほど、とても謙遜なものでした。
神の戦士たちの生涯の終わりは、
病に倒れたり、イエズスのようにへりくだることです。
これこそ偉大な聖性の道です。
日ごとの十字架を担うこと、
日常的な十字架、シンプルな十字架を担うことです。
私たちがこのような道を通らないならば、
私たちが聖人となることはできないのです。
なお、2014年10月19日に、教皇パウロ6世聖下が列福されるとのことです✿
第2ヴァティカン公会議を継続し、各憲章を公布して、現代教会の刷新を促し、
『神の民のクレド』を表明して、信仰の諸神秘を細部にわたり総括し、
典礼書のMISSALE ROMANUMやLITURGIA HORARUMを公布して、
教会の典礼の宝庫を、より多くの人々に開示する機会を増やし、
それまでの部分免償の年数上限を撤廃し、
部分免償の賦与をより一層豊かなものにし、
幸いなおとめマリアを『教会の御母』『福音宣教の星』と呼称し、
聖母信心、特に、家庭でのロザリオを推奨し、
世界召命祈願日を制定し、国際的規模での一致した召命の祈りを促進し、
「神の神殿にまでサタンの煙が入り込んできている」と公に述べて、
悪魔の働きかけが、教会内部にしのび込んできていることに注意喚起し、
多くの反発を受けながらも、
回勅『Humanae Vitae』をもって生命の尊厳の再考を促し、
無許可でジワジワ広まりつつあった手による拝領に対して、
教令『Memoriale Domini』をもって、
舌による伝統的方法が維持されなければならないと結論づけ、
いろいろな意味で、教会内外から『反対を受けるしるし』となられた教皇様です。
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