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スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602〜1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。 数時間でしたが、天上的プリンセスは、 彼女が主の苦悶にあずかったのと同様に、今やその凱旋にも参与し、 彼女の神的御子と共に、神の本質を楽しみ続けました。 それから、それと似た度合いの喜びが、彼女を再び包み込みました。 彼女がこの幻視から現実界へと降って来ると。。。 至聖なる人間性の右腕によりかかっている自分に気がつきました。 彼女はまた、その神性の右の御手によっても、抱擁されていたのです。(cf.雅歌2.6) 彼女は主と共に、 主の受難と栄光の神秘に関して、 最も甘美な語らいのひと時を過ごされました。 彼女は再びこれらの会話において、愛の汲み尽くせぬ源泉から飲み、 愛といつくしみのぶどう酒に酔いしれました。 被造物に過ぎないものが受け取ることのできる全てが、 この出来事のうちに、祝福されたマリアに授けられました。 このような事柄を私たちが考えうる言葉で表現するならば。。 神的裁定は、かくも清らかで汚れない被造物が、 受難の悲嘆と苦悶の苦しみを経験した、 その痛手(私はこの言葉以外にそれを呼ぶものを見出せません)に報いるのを望まれた、ということです。 そのため〜以前何度か私が言及したように〜 彼女が、その御子と同じような苦痛を味わわれたように、 今や、その苦痛に比例する歓喜と恍惚と共に、 この神秘のうちに、すっかり満たされたのです。 女王であるマリアは仰せになります。 これらの賜物の各々は、主キリストに結ばれつつ、 成聖の恩寵の状態において果たされる、ほんの小さな働きにすら報われ、 増してゆくのです。 たとえそれが、1本のストローを動かしたりだとか、 神の愛に動かされて、1杯の水を差し出してあげる(cf,マテオ10.42)だとか、 そのような行いに過ぎないとしてもです。 最も取るに足りない働きであろうとも、それがなされる度ごとに、 被造物は、これらの賜物の増加を獲得してゆくこととなります。 輝きの賜物の増加については、 それらの働きによって、降り注ぐ日光の輝きをも凌ぐ輝きと共に、 さらなる幸いな状態へと加えられることとなります。 受苦不能性の賜物の増加については、 肉体の弱さや変わりやすさに由来する、それ自体を分解させる抵抗に対して、 造られた力や強さの全てをもってして、もたらしうる効果よりも、 さらに遠く、人間的、現世的腐敗から人を遠ざけることとなります。 精敏さの賜物については、 抵抗が生じであろう全てのものを越えて、前に進ませ、 さらに通り抜けるための新たな力を獲得させることとなります。 敏捷さの賜物については、 鳥や風や、その他の活動的被造物、 火やそれらの原動力となる要素、これらの活力の全てを、遥かに凌ぐこととなります。 あなたは、肉体の賜物のこの増加から、 良い働きによる功績がたてられたことや、霊魂の賜物の増加を、把握することでしょう。 肉体の賜物は、霊魂の賜物に由来し、それらに相当するからです。 至福直観において、各々の功徳は、 教会博士や照らしを受けた教会の成員の全てによって獲得されたものよりも、 より遥かに大いなる鮮明さ、神的属性への洞察、完全性をもって、確保させることとなります。 それと同様に、神的事柄の理解もしくはその所有の賜物も、 功徳と共に増加してゆくこととなります。 至高無限の善の所有の確保の尊さについて言えば、 その天上的楽しみがもたらす平静や憩いは、 仮に霊魂が、全被造物からもたらされる気品や富、魅力や価値の全てを獲得するよりも、 たとえ1度に、それら全てを掌握するとしても、 それらよりも遥かに尊重し、重視すべきものなのです。 霊魂の第3の賜物とも言うべき実りは、 人が、最も小さな行ないを、愛のために果たすことによってもたらされるものです。 その活動的愛の度合いは高められますが、 この現世における人々の最も大きな愛でさえ、 決してそれらと比べることができないほどに高められるでしょう。 また、それらによってもたらされる天上的歓喜については、 この死すべき生命がもたらしてきた歓喜の全てを合わせたとしても、 天上的歓喜の大きさとは比べることができないでしょう。 |
私的啓示(◕‿◕✿)
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この書庫において、カトリック教会の聖人・福者・尊者・神秘家・修道者たちに、私的に啓示されたメッセージを、少しずつ掲載していきます。
私的啓示の役割は、キリストの最終的啓示を改善するものではなく、補足するものでもなく、ただ、歴史のある時期において、キリストの啓示を、より十全に生きるのを助けることにあります。各々は、その信仰心において、これらの私的啓示の中に、教会に向けられたキリストあるいは聖人たちの真正な呼びかけを識別し、受け入れることができます(。ฺ◕‿◕ฺ。)ノ☆・゜:*
私的啓示の役割は、キリストの最終的啓示を改善するものではなく、補足するものでもなく、ただ、歴史のある時期において、キリストの啓示を、より十全に生きるのを助けることにあります。各々は、その信仰心において、これらの私的啓示の中に、教会に向けられたキリストあるいは聖人たちの真正な呼びかけを識別し、受け入れることができます(。ฺ◕‿◕ฺ。)ノ☆・゜:*
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スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602〜1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。 今や、救い主は、これらの栄光と天上の宝飾の全てを身にまとって、 その墓から立ち上がられます。 そして主は、聖人たちと太祖たちの全てに向かい、 彼ら自身の肉とからだから成る十全な人間としての復活を約束されました。 彼らも主の復活の効果により、主と同じような栄光化に浴することになります。 全てのものの復活の前表として、また保証として、 主は、多くの聖人たちの霊魂に向かって、 各々自分たちのからだに結ばれて、不死の生命に立ち上がるようお命じになりました。 すると、たちまちこの神的命令は遂行され、彼らは肉体をもって立ち上がりました。 この神秘については、聖マテオ(マテオ27.52)によって言及されています。 彼らの中には、聖女アンナ、聖ヨゼフ、聖ヨアキム、 その他、旧約の父祖や太祖たちも含まれています。 彼らはみな、主の受肉への信仰と希望において、 また主への大いなる熱心さを伴う望みと祈りにおいて、著名な方々です。 彼らの熱意の報いとして、 彼らのからだの復活と栄光は、今や、先取りされたのです。 これら全ての神秘について、偉大な天の女王は感じ取り、 高間にとどまりつつも、この神秘に参与しておられました。 キリストの至聖なる霊魂が、そのからだに生命を吹き返させるために入られた、その瞬間に、 聖母の汚れない霊魂の喜びが、 〜私が以前、言及を思いとどまりつつ差し控えたしたところの喜び〜 その汚れないからだの中に満ち溢れました。 この喜びの充満は、 悲嘆から歓喜へ、苦痛から感動へ、 落涙から言い尽くしえない感慨と憩いへと、 その極めて素晴らしい効果によって、聖母に変化をもたらしました。 ちょうどその時、たまたま福音記者ヨハネが聖母のもとを訪れましたが、 〜前の朝から、孤独に打ち震えているであろう聖母を慰問しようと考えていた彼〜 彼が知っていた以前の、悲しみで包まれた聖母とは、ほとんど見分けられないほどの、 輝きと栄光の真っ只中に、不意に居合わせることとなりました。 今や使徒は、驚きと深い敬意をもって聖母を見つめ、 彼の祝福された御母が、このような歓喜に変容したことから、 主が復活されたのではないかと思い至りました。 この新たな喜びと、聖母の超自然的幻視の神的影響力において、 偉大なる婦人は、間近に迫る主の御訪問に、心の準備をし始めました。 聖母は、讃歌と祈りのうちに、賛美の行為を引き出している間に、 まるで彼女が味わわれた受難における悲嘆と試練に、 不思議な方法で呼応するかのように、 たちまち、初めの喜びを遥かに超える、 新たな種類の歓喜と天上的感動を感じ始めました。 そして、この新たな恩寵は、 彼女のからだの中の霊魂から、自然と溢れ出る喜びとは異なり、 それよりも、さらに気高いものでした。 さらに彼女は、彼女自身のうちにある、より一層異なる第3の効果を知覚しました。 それは、新たな神的恩寵を示唆するものでした。 祝福されたマリアは、このように整えられ、 私たちの救い主キリストは、復活の栄光のうちに、 全ての聖人と太祖たちの群れと共に現れました。 生涯謙遜を貫き通した女王は、 地に平伏して、彼女の神的御子を礼拝しました。 主は、彼女を起こし、ご自分の方へ引き寄せました。 この接触においては、 マグダレナによって捜し求められた救い主の人間性と御傷との接触よりも、 より一層親密なものでした。 おとめである御母は、特殊な恩寵に参与されました。 それは、ただ彼女だけが、罪から免れていた功績によるものです。 ただ、彼女において、それはこの機会に達しえた最も偉大な恩寵ではありませんでした。 もし彼女が、天使たちによって、また主ご自身によって、あらかじめ強められなかったならば、 彼女の能力に欠けたところがなくとも、彼女はそれを受け取れていなかったでしょう。 この恩寵とは、 御子の栄光化された御体が、 彼の最も純粋な御母との親密な一致のうちに、 主が彼女に浸透し、彼女が主の中に浸透するかのように。。 それを例えるなら、まるで水晶玉が、太陽の光を浴びながら、 それ自体の内側から輝きわたり、 その光の輝きと美しさで、全てが充ち満ちている状態です。 このように、至聖なるマリアの御体は、 天上的抱擁のうちに、その神的御子の中へと入られました。 これはつまり、主の聖なる御霊魂と御体の栄光についての、 彼女における明確な知識の門、と言うべきものでした。 これらの恩寵の結果、処女である御母の霊は、 言い尽くしえない賜物の数々の、より一層高い段階を上がり、 隠されていた神秘の最も高尚で深遠な知識へと昇りつめました。 この神秘の中心において、彼女は、自身に語りかける声を聞きました。 『私の愛するものよ、より高く飛翔せよ!』 これら数語の力によって、彼女はすっかり変容し、 神性をはっきりと、直観的に仰ぎ見ました。 そこにおいて〜ごく一時的にでしたが〜彼女は、 彼女の全ての悲嘆と苦労の、完全な憩いと報いを見出しました。 ここでは、ただ沈黙こそが、適切でしょう。 と言うのも、理性的知覚や言語では、祝福されたマリアになされた事柄を、 理解することも、表現することも、全くもって不十分だからです。 この幸いな幻視の間中、彼女は、その至高の幸いを楽しんでいました。 感嘆と賛美のうちに、この復活の日を共に祝いましょう。 その時彼女が私たちのために獲得された功績のために、また彼女の称揚と歓喜のために、 孝愛と謙遜のうちに、祝詞と感謝をもって、共に祝いましょう。 |
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スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602〜1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。 私たちの主イエズス・キリストの埋葬の後、 聖母は、最後の晩餐が行われたあの高間に戻られました。 聖ヨハネ、他のマリアたち、ガリラヤの夫人たちも一緒にいました。 聖母は彼らに心からの感謝の意を涙ながらに表し、 彼らが主の御受難中に耐え忍んだことや、主の生前に献身したことの報いを約束しました。 それと同時に聖母が、皆の召使あるいは友として奉仕することを告げると、 皆、この大きな恩寵を感謝し、聖母の御手に接吻し、聖母の祝福を願いました。 皆は、何か召し上がり、少し休まれるよう、聖母をいたわると、 聖母は仰せになりました。 『私の憩いと慰めは、私の息子である主が、死者の中から復活するのを見る時です。 あなた達は早く食事をするなり、休憩するなりしてください。 私は息子と2人きりになります』 聖母は、御自分の部屋で、御子の御霊魂が今何をなされているかを心のうちで思い巡らします。 聖母が初めから知らされていたことは、 御子の御霊魂が、神性との一致のうちに結ばれつつ、古聖所に降り、 その牢獄から、聖なる太祖をみな解放するということでした。 主がここに訪れると、 この暗い洞穴は、あたかも天国のように変わり、まばゆい光輝に満たされ、 そこに留まっていた聖なる人々は神を仰ぎ見ました。 彼らの長い間抱き続けた希望は実現し、 神に感謝し、神を崇め、ほめ歌います。 『屠られた小羊に、権力、富、知恵が、 名誉、栄光、祝福がありますように! 主よ、あなたは御血によって、 あらゆる部族、異なる言語を話す人々、諸国民の中から、私たちを救ってくださいました。 あなたは私たちを神のための王国とし、司祭とし、地を支配させてくださいました。 権力、支配、栄光は、主よ、全てあなたのものです』 次に主は、天使たちに命じて、煉獄で清めを受けている霊魂をみな連れて来させます。 人類に救いが保証されていることの宣言として、 彼らの罪は赦され、残りの罰は免除され、 彼らは義人たちと共に、神を仰ぎ見て輝きます。 王である主が来られたこの日、 古聖所も煉獄もすっかり空になりました。 私たちの救い主イエズス・キリストは、 聖金曜日の午後3時半から、復活される日曜日の朝まで古聖所におられます。 そして、主は、御自身の墓へ、諸天使諸聖人の王として戻って来られます。 墓の中では、大勢の天使たちが警護に当たっていました。 聖母は、何位かの天使たちに命じて、 御子の流された御血、御体から飛び散った御肉の破片、 引き抜かれた頭髪の全てを集めさせました。 天使たちは、喜びに溢れつつ聖遺物を抱き、 聖なる太祖たちは、主の御死去の際の傷だらけの御体を目の当たりにし、 私たちの弱さや悲しみを引き受けられた、人としての『御言葉』を改めて宣言しました。 彼らは、主の救いの御業によって、自分たちが栄光に導き入れられることをかみしめ、 聖なるものとされた人々は、全能の神に、 聖なるもののうちでも、至聖なる御方に、再び賛美を捧げます。 諸聖人の目の前で、 天使たちによって集められたあらゆる聖遺物は主の御体に結びつけられ、 主の以前の御体へと変えられ、 その瞬間、主の御霊魂がその御体に合わさり、 御体に不死の生命と栄光が与えられました。 主の御体は、埋葬時の布と香料(cf.ヨハネ19.40)の代わりに、 栄光の4つの賜物で包まれています。 つまり、輝き・受苦不能性・敏捷さ・精敏さによって、包まれています。 これらの賜物は、主の御霊魂の無限の栄光から流れ出て、御体の隅々にまで及びます。 これらの賜物は、御霊魂と御体とが結ばれた御子の人間性全体と、神性との一致のゆえに、受肉の瞬間から、その栄光化による自然的相続と参与により、 御体に賦与されるべきものでしたが、 私たちが功徳を積んで、私たち自身に栄光がもたらされる余地を残すために、 これらの賜物は留保されていました。 復活においては、主の栄光化された御霊魂と神性との一致にふさわしく、 これらの賜物が現わされました。 私たちの救い主の御霊魂の栄光を、人が表現し尽くすことができないように、 賜物について、私たちの言葉で、また例えをもって、 主の神化された御体の素晴らしさを表現しようとしても、 あまりにも不完全な記述となることは避けられません。 輝きの賜物は、 その純度において、水晶などでは比較しきれません。 その光において、まるで日中が夜のようなものです。 主の御体から放たれ輝いている固有の光は、 他のあらゆる光を、遥かに凌駕しています。 多くの太陽の煌めきを1つに集めたとしても、それらを越えています。 そして、被造物の全ての美を合わせても、 主の美しさに比較するならば、造られた美が醜いものにすら見えるでしょう。 創造された全てのもののうち、その美しさに匹敵するものは他に何もありません。 この美しさは、主の変容の栄光を遥かに越えています。 変容の栄光は、特別な目的のための一時的なものでしたが、 この賜物の栄光は、永遠性を帯びているからです。 受苦不能性の賜物によって、主の御体は、全ての作られた力に対して無敵になりました。 故に、いかなる力も、主を動かしたり、変えたりすることは、決してできません。 精敏さの賜物によって、 主の自然的御体が純化され、いかなる物質であろうとも、 その中を、あたかも純粋な霊のように、通り抜けることができます。 墓の岩をも突き抜けたのは、 御誕生の際、聖母の御胎内から通り抜けられたのと同様です。 敏捷さの賜物によって、 主の御体は、物質ではない天使たちよりも、もっと速く動けます。 そのため、使徒たちの所へも素早く出現されたのです。 神聖な御傷〜主の御体の外観を損なったそれら〜は、 今や、主の御手と御足から、素晴らしい光が放たれ、 その光輝く御傷は、恍惚とさせる美しさと魅力の極みを添えるものとなりました。 |
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スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602〜1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。 悪魔たちはいくつかの部隊を編成し、 各部隊は、各々異なる悪徳を専門とし、 偶像崇拝を世界中に広めたり、分派や異端を作ることにしました。 ルチフェルは、神への信仰を破壊することで満足し、 この不信仰活動に尽力する悪魔たちを高い位につけました。 他の悪魔たちには、子供たちの妊娠時あるいは誕生時に邪悪さを植えつけさせるよう、 また、その両親が子供の養育や教育に無頓着になるよう、 そして、子供たちが親不孝になるよう、働きかけるよう命じました。 夫婦仲を悪化させ、 不倫させ、 貞節を無視させるよう、命じました。 不和、憎悪、復讐、傲慢、肉欲、富や名誉への執着心を植えつけるための種を蒔き、 キリストが教えた諸善徳に反する行為を受け入れるためのもっともらしい理由付けをし、 人々に主の御受難と御死去、救いに至るための手段、地獄の永遠の苦しみを忘れさせ、 これにより、人間の知力や能力を、現世的な事柄や感覚的喜びに繋ぎ止めて疲れさせ、 霊的な思考や自己の救いのための時間を極力減らさせることを企て、一致団結しました。 これらの提案にルチフェルは承認を与え、次のように告げました。 『救い主に従わない人々を誘惑するのは、いともたやすいが、 救い主の掟に従う人々をこそ徹底的に誘惑し、迫害しなければならない。 教会内に、野心、貪欲、官能、憎悪の種を蒔き散らし、これらの悪徳を盛んにし、 それによる悪意や忘恩を通じて、神の怒りを招き寄せ、 救い主の功徳による恩寵を受けれなくしてやろう。 彼らが救いの手立てを失えば、われわれは勝利を収めることができる。 彼らの信心を弱めてやろう。 そうすれば、彼らは秘蹟の効果を実感せず、 大罪の状態に陥ったり、 あるいは不熱心な状態で秘蹟にあずかるようになるだろう。 そして、霊的健康が弱まり、われわれの誘惑に抵抗できなくなるだろう。 彼らはわれわれの欺瞞を見抜けず、 救い主や聖母のことなど忘れ去り、恩寵を受けるに値しなくなり、 救い主を憤らせ、助けを受けることができなくなるだろう。 余は、お前たちみなに、命じた事柄を徹底してもらいたいと考えている』 悪魔たちの会合は、主の御死去の後、まる1年かけて行われました。 聖ヨハネは言います。 『地はわざわいである。悪魔が激怒して地上に来たからである』 悲しいかな、この真理ほど人々から敬遠され、忘れ去られたものはありません。 私たちがまどろみ、生温く、全くと言っていいほど警戒を怠っている一方で、 悪魔たちは常に目を光らせ、その残酷さをもって、私たちの心の隙を狙っているのです。 大勢の人々は、ルチフェルに耳を傾け、欺瞞でしかないものに賛成し、 ごく少数の人々しか、これに反対しないのです。 人々は、永遠の死のことをすっかり忘れてしまっています。 人々は、世界中に蔓延する悪徳の危険性や、 個人における道徳的悪の危険性を認識しなければなりません。 聖母は仰せになります。 『悪魔たちは、教会全体の破壊をもくろんでいます。 大勢の人々を教会から離れさせ、 教会内にとどまる人々に、教会を軽視させ、 救い主の御血と御死去の実りを結ばせまいとしています。 最大の不幸は、カトリック信者の多くが、この大きな損失に気付いていないこと、 主イエズスがイェルザレムの婦人たちにイェルザレムの滅亡を警告されたその時が、 今、来ていると気付いても、その打開策に真剣に取り組もうとしないことです。 |
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スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602〜1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。 第5の御言葉 『私は渇く』 これは、悪魔たちに対する勝利を確認するものです。 主は、人間への御自分の愛に満足できず、 満たされないこの渇きは、人間の救いを求めて永遠に続きます。 『大水も愛を消し去ることはできず、大河も愛を押し流せない』(雅歌8.7) 主は、人々を悪魔たちの暴虐や支配から救い出せるなら、 また、人々が悪魔の悪意や傲慢に対して戦うのを助けられるなら、 より一層苦しみたいのです。 第6の御言葉 『成し遂げられた』 これにより、受肉と世の贖いの神秘が、 今、まさに成就されたことを、悪魔たちは嫌と言うほど思い知らされました。 私たちの救い主が、永遠の御父にどれほど忠実であったかということを、 旧約時代の太祖たちに示された約束と預言が、主によって成し遂げられたことを、 主の謙遜と従順が、悪魔たちの傲慢と反逆を粉砕したことを、 悪魔たちは思い知らされました。 主は、永遠の御父の御旨に従って、天使と人類の審判者として立てられました。 第7の御言葉 『父よ、私の霊を御手に委ねます』 この御言葉が発せられた時、 主がルチフェルとその手下たちを地獄の最も深い所、永遠の炎の中に投げ込む、 という裁きが執行されました。 それと同時に、聖母もその裁きの執行に協力したのです。 悪魔たちの地獄への落下は、雷雲を貫く稲光よりも遥かに速く、 まさに、あっと言う間の出来事でした。 かつて悪魔たちは、天上からの駆逐という屈辱を経験していましたが、 以前のそれを遥かに凌ぐ恐ろしさを経験することとなりました。 聖ヨブが呼ぶように、地獄は暗く、死の陰に覆われ、 陰気な無秩序、悲惨、拷問、混乱が充満していますが、 今や、混乱や無秩序を極め、その1000倍にもなっています。 地獄にいる人々は、 獰猛な悪魔たちが怒り狂いながら突然押し寄せてきたため、 新たな恐怖に見舞われ、責め苛まれました。 地獄に堕ちた人々は、 各人の罪の重大さに応じて、神の裁定により処罰の場が定められているので、 悪魔たちが自分たちの都合に合わせて、処罰の場を移すことはできません。 ルチフェルは、驚愕と混乱から気を取り戻すと、高座に座り、 地獄の陣営を整えるべく、悪魔たちを召集し、 自分の考案した傲慢な計画を発表しました。 『余の復讐の命に長い間従ってきた者は、余があの神人にしてやられたことは知っていよう。 あの神人は、33年間も余を騙し、計画を明らかにしなかった。 あの神人を殺したことにより、今や、われわれは敗北を喫した。 かつてあの神人が人間になる以前、 余は彼を憎み、決して優れた者としては認めなかった。 この反逆により、余は、お前たちと共に天上から駆逐され、 余の偉大さにそぐわないこの恥ずべき状態に追いやられ、 神人とその母親に服従させられている自分を見なければならない屈辱に、 さらなる苦しみを味わうはめになっている。 余は、人祖が創造された日から、この2人を探し出しては殺そうと、休む暇も与えなかった。 もし、この2人を探し出せなかったなら、 せめて全人類を滅ぼし、あるいは神を崇めさせず、 少なくとも神の恩寵を受け取れなくしようと望んでいた。 この意図をもって、余は尽力してきた。 しかし、何ということか! この神人は、謙遜と清貧によって余を屈服させ、 忍耐によって余を押し潰し、 最後には、その受難と死によって、この世の統治権を余から剥奪していったのだ。 仮に、余が神人を御父の右の座から引き摺り下ろしたとしても、 全人類をこの地獄に叩き落したとしても、 この無念さを決して晴らすことができない。 余より、遥かに劣る人間性が、あらゆる被造物の上に高められることなどできようか? 人間性が愛され、恩寵を注がれ、 永遠の御言葉のペルソナである創造主に一致するとは、何ということか! この御業の前に、神は余と戦われたが、 この後では、余を混乱させた! 神は余の天敵だ。余は神が憎くてたまらない。 あぁ、神から恩寵を注がれ、賜物を受ける人間どもめ! お前たちに幸いを、いかに邪魔してやろうか? 余の不幸を、いかにして分けてやろうか? おぉ、余の部下よ、さて、何から取り掛かろうか? いかにして、人間どもを再び支配下に置くことができるだろうか? 再びわれわれのもとに服従させるには、いかになすべきか? 人間どもが狂わない限り、忘恩にならない限り、救い主を軽んじない限り、 救い主に従ってしまうだろうし、われわれの欺瞞にも耳を貸さないだろう。 われわれが密かに差し出す名誉を嫌うならば、 軽蔑されることを愛情をもって甘受するならば、 肉に属するものへの節制を求めるならば、 肉欲の楽しみを警戒するならば、 安逸に潜む危険を認識するならば、 富や宝を嫌うならば、 彼らの先生が推奨する清貧を愛するならば、 貪欲をそそる全てのものを、救い主が忌み嫌ったように、忌み嫌うならば、 われわれの王国は力を失うだろう。 そうなってしまえば、誰もここには来なくなる。 われわれが喪失した幸いを、彼らは手に入れることになってしまう。 彼らは自分たちを塵芥のようにみなして遜り、忍耐強く苦しむに違いない。 そうなってしまえば、余の怒りも誇りも、何の役にも立たないではないか。 なんという災い! 余が神人を荒れ野で試みた時、 神人はその機会を用いて、いかにして余を克服すべきかの善良な模範を示してしまった。 余がユダに神人を裏切らせたことが、 ユダヤ人に神人を十字架上で殺させたことが、 余の計画の粉砕と人類の救いにつながってしまった。 神である者が、自分をそこまで遜らせることができるのか? 悪人どもからのあれほどの仕打ちを忍耐できるのか? 余が神人の計画を促進させるはめになったとは、なんたることか! あぁ、この女!神の御母は何ゆえこのように強いのか? 人間性を神の御言葉に与えた御母は、神から力を授けられたに違いない。 神はこの女を通して、余を四六時中責め苛んでくる。 お前たち、どうすればよいか、お前たちも意見を出し合ってくれ』 悪魔たちはみな、 主キリストをもはや傷つけられないこと、 主の御功徳を減らすことができないこと、 秘蹟の効果をなくすことができないこと、 教義を変えることができないことなどを認めた上で、 もっと大きな欺瞞と誘惑を試みることにしました。 抜け目ない悪魔たちは、これらの他、 聖母の強力な取次ぎや弁護を認めた上で、 人間の肉的性質も情欲も以前と同じであると主張し合いました。 そのため、新たな娯楽を与え、情欲をそそり、 その他、善徳や道徳のことを忘れさせるよう、 人間たちに巧妙に説いて回ろうと結論づけました。 |

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