聖和

ほんとうの真理の背後には許しと愛と救いの心情があります

真の信仰とは

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真の信仰とは

信仰とは
(ここでは、R.M のみ言から真の信仰について考えていきたいと思います。日頃 流されやすい生活の中で、より皆さんの生活の目的が明確になりますよう。)
 
信仰生活をする人において、神との係を離れてはその生活が成立しません。言い換えれば、神がいらっしゃるとすれば、その神と私たち、または私がどれだけ密接な係をもっているのか、あるいは生活過程でその係をもつのはもちろん、その生活を通して一生という生涯路程をどのように連結していくかという問題が最も重要なのです

どれだけ天と共に生きようとしたか

 もし、圏内にいる人間を救おうとされる神がいらっしゃるとすれば、その神は、二十四時間ならば二十四時間、いつもこの地上に生きている人間にして無心ではいられないということを知らなければなりません。

 この地上の落した世界においても、愛する子女をもった父母がいるとすれば、その父母も子にしては二十四時間、自分が目を開けて意識がある限り、いつも思っているのです。子を思う以上に困難なことが生じればどうか分かりませんが、そうでない限り、いつも息子を思わざるを得ないのが、落した世界であっても父母の心情であることを私たちは知っています。

 このような心情から推測すると、落していない本然の世界の主体であられる神がいらっしゃるならば、その神が今日人類を御自身の子女として見つめている限り、その子女にして無心ではいられないということは言うまでもありません。これは然の事です。二十四時間、私たちを案じていらっしゃる天があります。それは言葉のみならず、事だということを感じる人がいるならば、その人は天から遠くにいるのではないという事を自ら感じるはずです。

 私が行くにしてもるにしても、いかなる行路に立っていても、あるいはいかなる環境に置かれていても、その場には私だけがいるのではなく、天が共にあり、私が見て感じるすべて、あるいは環境にあるすべてのものを認識するのは、私だけが認識するのではなく、私の見る視線を通して神が私に要求する、そのような同感の視線がここに添えられていて、私が差し出す手には天の同情の手が宿っている立場に立っている、ということを私たちは忘れがちなのです。見て感じて感するすべては、天と主体・対係において一体的な行動をしているということを際に感じる人がいるならば、その人は、なる立場に行こうとしても行くことができません。

 このような点から考えるとき、天は私たち人間にしてそのようにしているのにもかかわらず、私たち人間は天にして共にあろうとしたか、というのです。こういう問題を考えると、皆さんの生活を分析すれば分析するほど、「親不孝」と言わざるを得ないという結論を下すしかありません。72.6.25


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