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南北戦争時代の外輪式蒸気砲艦サセックス級が完成。
これで、1865年1月24に行われた南軍のジェームズ河戦隊と交戦した北軍の艦船はすべて完成しました。
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南北戦争の艦船
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この船は、民間のオールド・ドミニオン汽船会社が1859年にニューヨークで建造したブリガンティン型の帆船に蒸気機関を装備させた船で、ニューヨークとリッチモンドの間を就航していました。南北戦争の勃発後の1861年4月17日にヴァージニア州が脱退したことで、ジェームズ河に停泊していた彼女は、南部連合に接収され、連合の海軍に属することになります。もともとの艦名ヨークタウンでしたが、南部連合に船籍を移したことで、パトリック・ヘンリーと命名され、武装を施された彼女は、リッチモンドに通じるジェームズ河を防衛するための、ジェームズ河戦隊の一隻として組み込まれました。
パトリック・ヘンリーは戦争の初戦において、河川上からの砲撃任務などにあたりました。1862年3月8日のヴァージニアのデビュー戦で僚艦として参加しますが、損傷を受けて、後退し、その後は南軍の海軍士官教練のための練習艦となりました。1865年になって、北軍がリッチモンドの間近に迫ると、ヴァージニアIIを旗艦としたジェームズ河戦隊の一員としてジェームズ河を下って海戦を挑みますが、戦果はなく終わり、リッチモンドが1865年4月2日に陥落すると、翌3日に火を放たれ、消失しました。
このモデルは、今のところ、ハンプトン・ローズの海戦用に1863年まで使用された旗を取り付けていますが、将来的に、それ以降の旗に付け替える可能性が大です。
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南北戦争時代に建造された小型のスクリュー式蒸気船で、水雷といっても艦首の先に取り付けた竿の先に爆雷を付けて、それを敵船に接触させて爆発させるという代物です。この水雷は、不発や火薬の不足で敵船を沈めるまでにいたることはあまりなく、実際、今回製作したタイプの水雷艇は、4隻(ホーネット、スコーピオン、スキーヴ、ワスプ)作られてましたが、記録として残っている戦果を挙げた船は一隻だけでした。
この船は、メーカーで販売されていないため、私がフルスクラッチして製作しました。原型はケシゴムで作り、それを型どりして、量産したわけです。
実際の図面を見ると、砲は積んでいなかったようですが、ヤキント社の『Ironclads』の艦船データーカードを見ると12ポンド滑空砲を1門搭載していることになっているため、それに併せて1門取り付けました。
この船は1864年にリッチモンドの工廠で建造されましたが、先にも述べたように、歴史上に残る戦果は1864年4月7日に、スキーヴがUSSミネソタに損傷を与えたと言うことだけです。ちなみに、損傷を与えたスキーブは、その爆発に巻き込まれて沈没したといわれています。
ということで、USSミネソタとのツゥーショット↓を追加しました。ちなみに、ミネソタは動索も施してみました。
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この船は南北戦争が勃発した際に、北軍が実行した南部の港の封鎖作戦における、北大西洋封鎖艦隊の旗艦でした。南軍が奪取して改造を施してヴァージニアとなる前のメリマックの同型艦で、44門蒸気フリゲイト艦です。1861年8月27日におこなわれたハッテラス入江の攻略で主要な役割を果たすなど、アメリカ南北戦争の初戦で活躍しました。
1862年になって、北軍のマクレラン将軍率いる大部隊がジェイムズ半島の北岸に上陸し、縦走してリッチモンドを攻略する作戦(いわゆる半島戦役)にも護衛艦隊として参加します。そして、南北戦争時におこった有名な海戦としてしられる、ヴァージニアvsモニターの対決に参加することになります。
ミネソタは対決の前日(1862.3.8)、ヴァージニアがいとも容易く僚艦のカンバーランド(24門艦)を撃沈し、コングレス(44門艦)を大破させたのを目の当たりにして、翌日、味方の砲台の射程内に入ろうとして座礁してしまいます。ヴァージニアは、その座礁したミネソタを始末しようと出撃しますが、一日違いで北軍の装甲艦モニターが到着していました。こうして、モニターとヴァージニアの対決が行われることになりました。とまあ、海戦に参加したというよりは海戦を引き起こした艦と言えるかも知れません。
ということで、この船は、ヴァージニアvsモニターの海戦シナリオでは動くことなく鎮座し、南軍の勝利条件を満たすためのメインディッシュとして、参加することになります。
ミネソタはこの海戦以後も北大西洋封鎖艦隊の旗艦として活躍しますが、戦いとしては第一次フィッシャー要塞の攻撃(1864.12.24-25)と同要塞の第二次攻撃(1865.1.13-15)に参加したくらいとなります。戦後、1868年に砲術練習艦となりました。
(↑HMSヴェクトリーとのツゥーショット) |






