ここから本文です

書庫全体表示

イメージ 2
五百羅漢寺に向かう途中(山手通り・羅漢寺信号付近)にあった松雲羅漢像…『天恩山五百羅漢寺の開基松雲禅師は、元禄年中、5代将軍綱吉公の生母桂昌院をはじめ江戸中の人びとから寄せられた浄財をもとに536体の羅漢像を彫刻し、本所五ツ目に五百羅漢寺を築いた傑僧である。明治42年、下目黒に移転してきたのち寺は荒廃の一途を辿っていたが、多くのかたがたのご協力により、昭和56年、由緒ある五百羅漢寺を再建することができた。この再興を記念し、彫刻家佐山道知氏に製作依頼して松雲禅師像を建立し、これを松雲羅漢と名づけて禅師の徳を讃えるものである。昭和61年2月吉日 天恩山五百羅漢寺 貫主日高宗敏識』
イメージ 3
天恩山羅漢寺(通称天恩山五百羅漢寺)。本尊釈迦牟尼仏。
イメージ 4
最初に言っておきます。羅漢堂や本堂内は撮影禁止でございます。是非現地でご覧になってください。見応えあります!
イメージ 5
縁起(パンフレットより)…『天恩山五百羅漢寺は、元禄8年(1695)に江戸の本所に建立された由緒ある名刹で、徳川五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り「本所のらかんさん」として江戸の人々から親しまれてきました。当山の五百羅漢像などの諸仏像(現存305体)は、松雲元慶禅師の手によって十数年(貞享〜元禄)の辛苦の末に彫造された大群像(536体)で、江戸期を代表する木彫として東京都重要文化財に指定されています。しかし明治維新以来、寺運は衰退し、明治41年に目黒に移ってからも大正・昭和と、羅漢像はやっと雨露をしのぐほどの状態が続きました。そして昭和54年、由緒ある羅漢さんを救うべく日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、多くの苦難をのりこえて、昭和56年、現在の近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」として甦ったのです。』
イメージ 6
イメージ 7
写真はパンフレットのものです。実物は全然迫力が違います。すべて寄木造、大多数が彫眼、漆箔。本尊の釈迦如来は高さ356cm、五百羅漢像は高さ78-90cm。1体1体に名前と説明がありました。
イメージ 8
イメージ 9
天恩山五百羅漢寺の歴史。内容が被っているので省略。
イメージ 10
都重宝(木造釈迦如来坐像及び五百羅漢等像・昭和45年8月3日指定)…『目黒の五百羅漢として著名なこれら仏像群は現在305体を数える。作者は松雲元慶で元禄時代の製作である。元慶(1648-1710)は京都に生まれ豊前耶馬渓の羅漢寺石造五百羅漢像に触発され貞享年間(1684-88)江戸浅草寺の支院に身を寄せて彫刻をはじめた。十有余年を経て本尊釈迦如来像をはじめ五百余体を完成、師 鉄眼を開山に天恩山羅漢寺を大島村(現江東区)に建立した。のち本所緑町(現墨田区)に転じ明治42年さらに目黒の現在地に移転した。昭和56年5月5日再興され、歴史的遺産が保存されることになった。昭和56年8月6日建設。東京都教育委員会』
イメージ 11
五百羅羅漢寺…『天恩山五百羅漢寺は、元禄8年(1695)鉄眼禅師を開山として江戸本所(現江東区大島)に創建された黄檗宗の寺でした。当時、境内には「さざい堂(三匝堂)」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一堂に諸仏像を拝観できると人気を博しました。明治41年(1908)ここ下目黒の地へ移り、現在は浄土系単立の寺です。本堂および回廊に安置されている五百羅漢像等はそのほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十余年かけて自ら彫刻したものです。木造釈迦三尊及び五百羅漢等像の305体の像(都指定文化財)は、それぞれ姿の違った人間像として巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目すべき貴重なものです。書院屋上にある梵鐘は安永3年(1774)田中丹波守藤原重行作で、他にあまり類例のない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。平成21年3月目黒区教育委員会』
イメージ 12
不退法尊者像。
イメージ 13
「苦しさに負けずいつも心あかるく最善を盡す」
イメージ 14
青面金剛像(享保5年)。
イメージ 15
庚申塔…『庚申の日には、眠っている人の体から三尸(三種類の虫)が脱け出し、その人の悪事を天帝に告げ、その人の命を縮められるという思想があり、その日は眠らずに一夜を明かす風習がありました。庚申塔は、この三尸の害を防ぐために造られました。この塔には、憤怒の相をした青面金剛が、邪鬼を両足で踏みつけた図と、台座には三猿が刻まれています。青面金剛は、身は青色、眼は赤色、六臂に武器を持った金剛童子で、これを祈念すると、病魔、悪鬼、悪霊を退散できるといわれています。』
イメージ 16
手水舎。
イメージ 17
本堂。
イメージ 1
堂内では本尊釈迦如来と羅漢さんに囲まれながら説法を聞くことができます。雰囲気があって飽きません。五百羅漢の見学も含めて、結構時間に余裕を持った方がいいかも。
イメージ 18
再起地蔵尊像。再起への希望の灯。失意の人の再起の願いを叶えてくれるお地蔵さま。身丈3.5m。おだやかな顔でお参りの人に気力と勇気を与えてくれます。
イメージ 19
水子供養堂。
イメージ 20
子育地蔵尊。
イメージ 21
子育て地蔵…『地蔵菩薩は、迷い苦しむ人々を救うまでは如来にならないと願を立て、私たちの苦しみや悲しみをやわらげ、願い事を聞いてくださる菩薩として、信仰を集めてきました。子育て地蔵は、子どもたちに慈愛の手を差し伸べ、強い力を与えてくださいます。家族、社会の宝として立派に成長するよう、一心にお祀りしてください。また、不幸にして失われた幼い生命が、永遠の安らかなまどろみにつけるよう、子育て地蔵にお願して、供養なさってください。』
イメージ 22
庖魂の碑。
イメージ 23
庖魂の碑…『日本料理業組合と調理師協会の年中行事である「魚鳥供養」が、当寺で行われます。魚の形をした自然石の碑は、昭和47年9月、魚鳥供養のため協和調理師会有志一同により建立されたものです。碑の内部には調理界の元老・原勇蔵氏が愛用していた包丁が納められています。料理業や調理関係者の参拝が絶えません。』
イメージ 24
高浜虚子の句碑。
イメージ 25
高浜虚子の句碑…『「盂蘭盆会 遠きゆかりと 伏し拝む」。俳句界の巨匠・高浜虚子(1874-1959)は、安藤妙照禅尼(お鯉さん)と親交があり、しばしば当寺に足を運びました。「遠きゆかり」とは、妙照禅尼が「お鯉」のころ、虚子の実兄・池内伸嘉の舞台で「羽衣」を舞った際、虚子の打った太鼓の掛け声に、思わず間を誤って踏み外したというエピソードのことです。この句碑は、妙照の七回忌に贈られたものです。』
イメージ 26
平山蘆江の歌碑。
イメージ 27
平山蘆江の歌碑…『「このあたり いつも二人で歩いたところ 思ひ出しては まはりみち」。平山蘆江(1882-1953)は、「都新聞」「読売新聞」の記者をしながら「西南戦争」「熊本籠城」「煩悩道中記」など、小説・随筆家として活躍しました。書画・小唄など、趣味が広い人でした。この歌碑は改祖二代住持・小久江慈雲としぐれ吟社によって建立され、蘆江の分骨が納められています。』
イメージ 28
原爆殉難碑。
イメージ 29
原爆殉難碑…『昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が広島に投下された。巡業中だった新劇の名優丸山定夫の主宰する移動劇団さくら隊が被爆し、団員9名が悲惨な最期を遂げました。この碑は、旧友たちの死を哀悼し、原爆という非人道的な武器を発明した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、昭和27年、徳川夢声によって建てられました。碑の文字は徳川夢声、台座には、亡くなった9名の名前が刻まれ、裏面には、柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれています。「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」。毎年8月6日には、この碑の前で追悼法要が営まれます。』
イメージ 30
お鯉観音。
イメージ 31
お鯉観音…『昭和13年、羅漢寺の住職となった「安藤妙照」は、かつて「お鯉さん」と呼ばれた美貌の名物芸者でした。数々の文化人・政治家とも親交をもち、羅漢寺の再興に尽力しました。その華麗で波乱万丈な経歴と人徳から、「お鯉観音」と慕われ、「縁むすび」「芸能大成」を願い、特に女性のお詣りが絶えません。』
イメージ 32
興安友愛の碑。
イメージ 33
興安友愛の碑…『民族協和・楽土建設のため中国北境の興安蒙古で働き続けた数万の同胞が、第二次世界大戦の終末の混乱に巻き込まれ、現地やソ連で、多くの生命を失いました。その精霊を慰めるため改祖二代・慈雲と興安会関係者の尽力によって、昭和33年に建立されました。この碑の中心部に二千余柱の遺骨及び遺髪、遺品等が納められており、毎年11月3日に慰霊祭が行われています。』
イメージ 34
天恩供養塔。
イメージ 35
天恩供養塔…『人間は「人生」という旅が終わると、肉体は天地の間にもどり、魂は生命の故郷に帰ります。この宝篋塔は、当寺の檀信徒各家の先亡の方々のご分骨をお納めしてお守りする供養塔です。天地の恩を心に刻み、亡き御霊のやすらぎをお祈りするために、当寺の山号にちなんで「天恩供養塔」と名付けられました。亡き人のご冥福を祈り、ご功徳をお積み下さい。』
イメージ 36
こちらは説明なし。境内社。神明造。
イメージ 37
御腰掛け石。
イメージ 38
御腰掛け石…『八代将軍・徳川吉宗は、四代住持・栄朝浄陽のとき、寺地として三千坪を寄進したり、桃や桜の木、藤棚を植えて境内の美観を整えるなど、羅漢寺の隆盛に尽力しました。しばしば当寺を訪れ、境内に御茶屋を作り、遊猟の際の御膳所に定めました。御腰掛け石は、大雄殿(本堂)の右前に、享保20年(1735)に造られたもので、吉宗が法問・聴聞するときには、御台石という標が立てられました。』
イメージ 39
その他、獏王像(羅漢堂内)、羅漢会館、誓いの広場、平和の鐘、目黒霊廟、法堂・書院、聖宝殿、らかん亭、らかん茶屋などがあります。
イメージ 40
イメージ 2
イメージ 3

この記事に

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

開くトラックバック(0)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事