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清水寺 (栗原市)

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栗原市栗駒岩ヶ崎桐木沢。
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真言宗智山派音羽山延通院清水寺。奥州霊場第16番。西国三十三所巡礼第16番の清水寺と山号寺名もまったく同じです。京都清水寺と地形が似ていることからそれに模したとも伝えます。
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岩ケ崎村では、元和年間藩主政宗の五男宗綱が鶴丸城に入り、以後の領主は寛永頃六男宗信、その後、石母田大膳・田村宗良・古内主膳・茂庭大蔵と続き、元禄7年中村日向が3000石を給され領主となり明治に至ります。栗駒山麓の当地は古くより馬産地として栄え、栗駒山の駒形の残雪は神馬のこもる所と信じられ駒形根神社が祀られました。天正19年藩直営となり桜馬場に上・下馬場が設けられ藩主の御用馬などもここで競売されました。桜馬場は東西300間・南北17間の広場で両側の土手に桜が植えられていたと伝えます。鎮守は熊野神社、寺は坂上田村麻呂勧請、寛永2年に藩祖政宗の参詣があったと伝える真言宗智山派音羽山延通院清水寺、伊達宗綱城主のとき政宗中興開山といわれ桃山式建築の山門を持つ浄土宗名越派摂取山円鏡寺、城主中村家の菩提寺曹洞宗明峰派旗本山館山寺、伊達宗信・石母田大膳・古内主膳・茂庭大蔵の墓がある曹洞宗太源派熊野山黄金寺、天保飢饉の供養碑のある曹洞宗太源派月峰山洞松院などがあります。
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音羽山清水寺庭園…『中世里谷森館城主の平師門が寄進したという浄土庭園。師門の夫人「千寿の前」にちなみ、千寿の池、千寿の松の名を残し、県内に聞こえた名園である。』
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門・参道・石灯篭。
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大同2年(807)征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州討伐のためこの地に滞陣した際、霊夢を感じて将軍の守り本尊として兜に埋めてあった閻浮檀金(経典にみられる香酔山の南の雪山の北に位置し、無熱池の畔にある閻浮樹林を流れる川底から採取されることから名付けられた美しい砂金)の金銅仏(5.5cm)の聖観世音像を観請して開山したと伝えられ、初崎大悲閣と称した名刹霊場。貞応2年(1223)、三迫森館主の弥平兵衛師門と夫人(千寿の前)が観音を信仰し、莫大な寄進を行い、京都清水寺に模して壮麗な堂塔を建立し、七堂伽藍、庫裡、鐘楼など12宇を有し、築山、泉地の作庭を造り隆盛を極めましたが、寛正6年春の野火により全山焼失。その後も幾度か野火により廃絶するも、真言宗智山派総本山智積院第五世安智和尚により再興されており、安智和尚を中興開基としています。現在地は当時の境内から移されているものの、本堂は安政4年に第28世泰教和尚により再建されたもの。幕末までは仙台藩の庇護を受けてきましたが、古来より修行寺あるいは祈祷寺としての役割を果たし、檀家のない寺として廃寺同然となりながらも、明治24年には第29世教道和尚により再興され現在に至ります。本堂の東にある千寿ヶ池を中心とした浄土庭園は、松と広葉樹林の自然林に囲まれ、春にはツバキや十数種のサツキが咲き乱れ、秋には千寿ヶ池が真っ赤に染まるほど紅葉します。
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本堂。岩ヶ崎八景の板絵があります。また、寛永2年に藩祖政宗公が参詣された記録が残されています。御本尊聖観音菩薩は秘仏であり33年毎に御開帳。本堂脇には金精様も奉納されていました。
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本堂向拝下。
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庭園から見た本堂。
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庭園。
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庭園には石仏ほか稲荷堂、弁財天、初代石割松跡、蛇柳樹など色々ありました。上記由緒とも関連しますが石割松には次のような言い伝えがあります。征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州討伐のためこの地に滞陣した際、将軍の夢に観音様が現れて「石の間に松の枝を植えれば、蝦夷が治まる」とのお告げがあり、翌朝、お告げ通りにすると、松は見事に根を張り、石を2つに割りました。蝦夷を平定した将軍は、そのお礼に清水寺を建立したとのことです。
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弁財天堂。
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先代住職之墓。
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