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北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室

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山梨県歴史上最高の土木技術者 明野村浅尾新田 窪田幸左衛門
窪田幸左衛門のかかわった山梨県下の諸堰
 資料(『明野村誌』資料編 第十四編 明野村内の各種用水堰)一部加筆
 
 明野村内における窪田幸左衛門の事跡とその業跡は、各種堰史の中に縷々述べてあるので、その資料の重複をさけるが、この項には特に明野村以外の水利事業に貢献した足跡を若干紹介してみたい。
窪田幸文家に残される資料だけからみても、それは驚くべき広域にわたっている。
 たとえば
隣村江草村の嘉納堰(文政七年 一八二四)、
塩川筋比志村の定式用水路(文政九年 一八二六)、
穴平村の遠照寺堰(天保二年 一八三一)、
神戸村の用水堰(天保三年 一八三二)、
都留郡平栗村用水路(天保四年 一八三三)、
一宮村宮堰の再修(天保五年 一八三四)
柳平・上今井・長久保三力村の八ヶ岳谷水の引水願い(天保十二年 一八四一)、
甲府上府中町々の飲用水(天保十四年 一八四三)、
等、編纂資料のごとくである。
 そのはか幸左衛門が普請のため見分に歩いたことを証明する添書、添触、御用書付、荷物添触等によってみると、谷村辺用水路、上野原宿用水路、遠くは駿州安倍川通りにまで及んでいる。
《窪田幸左衛門 郡内堰・堀抜》
 また「窪田幸左衛門百回忌記念誌」によると、郡内にとくに関係多く、十日市場堰、法能の宮原熊井戸堰、新倉随道堀抜、川茂の小形山堰などが浮かび上がってくる。前出の甲府上府中の上水道も注目すべきであるが、御岳新道開削にも関係あり、さらにあの「野呂川話」にも登場、夜叉神時に随道をつくるための測量も引き請けている。
 このように、江戸時代後半期、まだまだ土木技術者が希有の存在だった時代だけに、窪田幸左衛門は、まさに引っ張り凧の観があった。
 それも残された資料をみると、そのスケールの雄大さに驚くとともに、圧倒されてしまう。それだけにまた、土木工事は測量だけで夢に終わってしまう場合も多く、その最たるものが例の野呂川話といわれる計画であった。
《窪田幸左衛門 野呂川開発》
 今から凡そ三百年ほど前のことであった。原七郷の水飢饉をなんとか解消したいと願った付近の住民達が、夜叉神峠を掘り抜いて、山一つ隔てた野呂川の水を引いてくるしかないと考え、代官所に願い出たけれども、計画が大きかっただけに資金難や工事のむずかしさが手伝い、なかなか許可が下りない。何度計画しても同じことで、一向実現に向かわなかったので、実行不可能の夢物語として、「野呂川話」という言葉が生まれてしまったのである。この測量を依顧された幸左衛門は掘り抜き工事の計画書の中で、
「右野呂川之義、芦倉村字桐木島と申す所より、字井出の沢と申す所へ掘抜、尤も峯谷数多険難の場所にて、石都合三ケ所、長短合せて)一千五百六十間据抜、芦倉村分内井出之沢にて御勅使川へ合水、右川通より御用水路、駒坂村地内より有野村へ掛り、右堰筋より夫々配水いたし候、然る上は御勅使川水懸り田方、並びに呑用水等迄差支なく、徳島流末極難村々も相助り、且つ又野呂川用水行届次第、十七ケ村外地続き、村と共に凡東西一里半余、南北二里余畑田成、並小物成林芝間等、新田開発相成可き耕地、凡七千反余も有之侯云々」
と、抱負を語っているが、ついに実現しなかったのである。
 
《窪田幸左衛門 御岳新道》
実現した工事の方で、幸左南門が裏方として測量を引き請けたものとしては、御岳新道がある。天保五年(一八四三)から足かけ九年の歳月をかけて、猪狩村の円右衛門、勇右衛門らが切り開いた生活の道で、資料によると、天保三年(一八三二)七月、猪狩の長百姓勇右衛門が浅尾新田の幸左衛門宅まで出向いてきて、測量を依頼、現在の新道のルートを見立てて精密な測量を行っている。
 
《窪田幸左衛門 甲府上府中上水》
 完成したものの一つに、甲府上府中上水もあげられる。
甲州文庫の坂田家の御用留によると、
「差上申証文之事 此度甲府御郭内並町方上水新堰掘割入札被仰付、式御請負代金四百三十四両弐分、銀四匁六分九厘、私共落札にて御請負可仕旨被仰付小難有奉畏供、右に付賃 地之儀は、常兵衛居屋敷、愛宕町にて表口裏行町並之屋敷建家共壱ケ所、幸左衛門所持浅尾新田にて、六郎右衛門所持団子新居村にて、差上可申候、掘割代金被下置候は、御場所之掛凡壱ケ月程掘割初、御渡被下置猶、又壱ケ月程宛掘割為中金、両度御渡被下置、残金之儀は皆出来之上、可被下置旨被仰渡奉畏候、尤御仕様帳通、一式御請負之内へ入、御仕様帳適任立候上、不致不叶少々之御場所は、御差図次第、急度仕立差上可申候、且寅年より、来ル辰年迄三ケ年之内、小破之儀は何ケ度も仕直し差上申侯、依之為後日御請負証文差上申所、如件
  天保十三年寅十一月 団子新居村 六郎右衛門
            浅尾新田  幸左衛門
            愛宕町   常兵衛
とあるように、この工事を請け負ったのは、朝穂堰に関係をもつ、六郎右衛門と幸左衛門の二人、それに愛宕町の常兵衛が加わっていた。
 しかし測量とか、技術上の工事はすべて幸左衛門が引き請けていたようで、幸左衛門手記には、幸左衛門自身の動きについて、
一、天保十三年(一八四二)十一月 甲府上水道掘抜渡工事
  一、天保十四年(一八四三)十二月 甲府城二ノ掘波工事
一、弘化三年(一八四六)十一月 甲府上水道完遂のため水神河を御崎神  
  社境内に勧請し、参詣方案内状を発送す
とあるから、彼の面目が躍如としている。天保十四年工事が竣工をみた日の一節には、
天一水を生ずとその徳たるや塞に金蜂の麗水あり、流れの末を甲陽南郭 
の用となし、余れるを市中半ば是れに渇を助く、西北に流れなきこと年
久しく、こたび北鎭の大守憐み給ひ、積翠の峯より出づる水を命じ、霜
降る月の頃より溝を掘り、樋を渡し、未だ全からねど、水は波をあげて
流れるを思ひ、幾千代も尽せじと君恩を仰ぐのみ とその歓喜の情を記録している。また弘化三年甲府上水道完遂のために、水神伺を御崎神社境内に勧請し、その参詣方案内状には、
私儀、若年の頃より水利のため多年肝胆を砕き、相勤め罷在侯処、存じ
寄らず去る寅年新御上水御掘渡につき、地面の高低、水路の順滞、見積
方仰付られ、早速取調申立皆出来に罷成、冥加至極と存奉候、共につき
朝暮忘却なく水徳の探きを存じ、高恩を報ずるために、水神御勧請心願
に御座候得共、自力に及び難く拠処なく、其のまゝに相成り心に懸り焦
らず常在候内、今般厚き御信心の御歴々様御助力を以て、既に御崎明神
の社地に御宮御造営の趣きになされ、有難き仕合に存じ奉り候
と記している。これをもってしても、三人で工事を請け負ったといっても、
新御上水御掘渡につき、地面の高低、水路の順滞、見積方仰付られ…
とあるように、幸左衛門の土木技術に負うものが大きかったのである。
 
《窪田幸左衛門 富士青田市の新倉隆道掘技工事》 
富士吉田市の新倉隆道掘技工事でも、幸左衛門の測量技術が光っている。新倉上新田の金毘羅宮の境内に建つ「顕彰徳沢」の碑文にも、
   偶、弘化の末年、暴雨山を崩し杭路の一部露出するや、此に再び蹶起
   し、嘉永年間六星霜を資し、遠国技士を聘し、竪杭を設け、埋没を浚
   へ或は凸盤下ぐる等、実に二千六百両を投じ漸くにして通水を属し
   も、流れ細く開田僅かに二町余に過ぎず…
とあるけれども、文中「遠国技士を聘し」とあるのが、即ち窪田幸左衛門のことである。手記には、
 弘化四年郡内船津村より新倉村へ疎水隆道工事に着手す
とあり、また嘉永五年四月の項には、
郡内領新倉随道掘抜完遂…
 などとあり、八十歳過ぎの高齢でありながら、新倉掘技工事には遠路遥々茅ケ岳山麓から出張を繰り返しており、船津村村民を説得したり、新倉村村民の協力を求めて、まさに東奔西走の毎日を送って、この事業の完遂を図っているのである。
 このように窪田辛左衛門の一生は、まさに明野村一村の水利に貢献した人というよりも、近代の夜明け前に、不世出の遺業を成し遂げた傑物といってよいだろう。

15時間前 - 桐の木橋北 朝新田窪田幸左衛門と俊藏が中心となり嘉永三年(1850)着手し数千人 の労苦を費やし三年後に完成(『須玉』町史) 山梨最大の土木功労者 明野村(現北杜市 明野町)窪田幸左衛門(くぼたこうざえもん)
2015年6月25日 - 小野泉について 山梨県の歴史については 峡陽文庫 · 甲州の和算家 弦間耕一氏著 窪田幸左衛門『文学と .... この年譜は、幸左衛門の五代の孫、窪田幸民氏の『喜寿古希 金婚記念』所収の窪田分家先祖「窪田幸左衛門宝広履歴」から主な ...
sky.geocities.jp/miharasi2012/kubotakouzaemon.pdf
浅尾新田村の窪田幸左衛門が傑出した人物として. この山麓から育っていった。 とくに 本村から行跡を伸ばした窪田幸左衛門は、. 山梨県下のみならず、近県からまでその 技量を買わ. れて進出しており、その資料も窪田家に残されてい. るので、この項では ...

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