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北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室

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韮崎市歴史上の人物 教育者 伊藤うた
『韮崎市誌』下巻 教育者の項<佐藤八郎氏著> 一部加筆

伊藤うたは、明治元(一八六八)年一二月一〇日、穴山村石水の神職守屋其清の長女に生まれ、同一六年(一八八三)三月県女子師範学校を卒業し、同二一年一月同村の伊藤又六に嫁した。
 又六の家は伊豆の伊藤祐親の後といわれる。のち武田家に仕えて穴山領を知行され、玄蕃允祐次は信玄の時、二〇人頭となった。主家没落ののち徳川家に仕えたが故あって辞し、帰農して子孫は村役人を世襲した。
又六の父祐愛は穴山村初代村長に選はれた。家は田畑山林合わせて七町歩を有する大百姓であるが、又六は大蔵省官吏であったから、農事はいっさい嫁のうたに任せたが、勝気のうたは一言の不平をも言わず真心をもって働き続けた。
 ぅたと又六の仲は至って濃かで、やがて二男二女の子宝に恵まれた。
うたは、舅姑に対しても誠意をもって仕えたから、家内は和気にみち、男姑は満足のうちに世を去った。
 又六は能吏として嘱望されたが激務に病を得て、うたの献身的看病の甲斐もなく、明治三〇年(一八九七)年七月惜しまれつつ早世した。三三歳。
 不幸にもうたは三〇歳で未亡人となった。うたは、将来同じ運命に見舞われるであろう多くの女性を、自活力のない結果陥る悲惨な境遇から守るため、彼女たちに技術を体得させることの必要を感じ、裁縫学校創設を思い立った。うたの周囲の人びとはこぞって反対したが、うたは志をひるがえさず、着々と計画の実行に移り、先ず生家の父を説いて四児を預かってもらい、家屋敷・田畑の管理経営を伊藤家親族・子分衆に託し、明治三二年に上京して東京裁縫女学校への入学を許された。うたは同校で裁縫学校の設置、経営法などについて詳細に研究し、一年半後に帰郷した。
 旅の疲労を休める暇も惜しんで出甲、手塚語重県視学の協力を得て裁縫学校設立の認可を得、代官町の借家を校舎に充てて明治三三年(一九〇〇)一日、山梨裁縫学校を開校した。生徒数六名。これが伊藤学園の濫しょうであった。
 はじめ六名だった生徒が、三年後に五〇名、六年後に一二名を超え、狭い借家も幾度か借り代えたが、遂に身動きがとれず、うたはいよいよ新校舎建築の決意をかため、まず一蓮寺に請うて太田町公園東に隣接する専有地の内四〇〇坪を借地することに成功した。次に建築資材として、親族の反対を押しきって穴山の自邸の住宅、倉庫を解体して充てた。資金の不足はうたの衣服、調度を売って補い宝物の書画・骨董を入質して資金を調達した。明治三九年(一九〇六)総建坪一七九坪の校舎が落成した。
 内容も充実した。大正七年山梨実科高等女学校創立(のち甲府湯田高等女学校)。山梨裁縫学校を山梨女子実科学校と改称。昭和二年甲府女子商業学校創立。同年還暦を迎えたうたは三校の経営権を財団法人伊藤学園に譲った。
 昭和五年(一九三〇)、教え子たちにより学園にうたの寿像が建てられた。同九年四月一一日、一代の女傑伊藤うたは六〇〇〇人の教え子を遺して生涯を閉じた。享年六七歳。うたの霊は郷里穴山伊藤窪の墓に眠っている。<佐藤八郎氏著>

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