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北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室

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武田武将 甘利備前守虎泰

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
一書信益ニ作ル非也。
窪八幡普貿寺天文九年(1540)ノ旧記ニ当郷ノ御代官甘利備前守虎泰云云卜見ユ、同十二年(1543)四月二日西郡鷹尾寺ノ禁制ニ虎泰ノ花押アリ、同人ナルベシ、但シ鎮目寺棟札ニハ虎康卜記セリ、甘利ハ一条次郎忠順ノ後ヨリ出ツ、世々武田羽翼ノ臣ナリ、虎泰天文中晴信ヲ輔佐ノ功アリ軍鑑云同十五年(1546)信州戸石攻撃ノ時村上義清後援ニ出ツ、怒気凛々タリ、虎泰先隊ニ在リテ之ニ当ル、検使ノ横田備中守軍難義ニ及ンデ、二人共ニ戦死ス次将米倉丹後等勇猶ホ震フ、隊伍乱レズ且ツ戦且退ク、山本勘助本陣ヨリ遥ニ望視テ大ニ感歎シテ云、将死シ敗ザル者ハ倭漢其例希ナリ、虎泰平生ノ采配観ルヘシト、世以テ美談トセリ、『勝山記』ニ虎泰ノ討死ハ十七年(1548)二月十四日塩田原合戦ナリ、戸石ノ戦ハ十九年(1550)九月朔日トアリ、諸録ノ事実ニ違ヘル事定ノミニ限ラス、一々挙ゲテ記シガタシ、一蓮寺過去帳ニ延徳二年(1490)正月廿七日、東一房(甘利下野内)永正十二年(1515)十月十富合戦討死重阿(甘利)天文三年正月十六日底阿(甘利)ト見ユ、虎泰ノ父末ダ詳ク知レズ

武田武将 甘利左衛門尉昌忠

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
甘利左衛門尉昌忠
(諸記ニ晴吉ニ作ル今採ラズ)
虎泰ノ男ナリ、『軍艦』ニ天文十五年(1546)虎泰死シテ、玉千代立名藤蔵卜更ム、騎馬百五十ナリ、時二年十三当時ノ将帥ニ年少藤蔵ガ如キ者アル事ナシ、其年十月碓日峠ニ初陣シテ首級ヲ獲ル、同十九(1550)年九月左衛門尉卜為ル、永禄五年(1562)松山ノ役ニ米倉彦次郎ニ炮中テ病メリ医云ウ、血下リ腸ニ入ル宜シク、馬ノ糞尿飲ム之ヲ治スベシ、彦次郎云、汚物ヲ食イ看病治ザレバ則人我ヲ以テ徒ニ命ヲ愛ム者トセン、死シテ且ツ耻(恥)アリトテ敢テ飲マズ、昌忠聞テ彦次郎ノ営ニ到リ、病ニ候乃席ノ尿ヲ採リ親ラ半盞(さかづき)ヲ飲ミ、彦次郎ニ与テ云、良薬苦シト雖モ汝宜ク之ヲ飲ム思考卜為ス全命一彦次郎辞スルニ言バ無シ、遂之ヲ飲ム、悪血忽下リテ病愈ユ、其至厚人ヲ愛スルコト斯ノ如シ、故ニ士人用ラレテ死ナン事ヲ楽ム云々、同七年馬ヨリ墜ツ創ヲ憂リ死ス、年三十一、按ニ甘利氏職役ノ事前ニ記スル如シ、昌忠ノ名ハ窪八幡宮ノ社ニ、天文廿三甲寅(1554)八月十一日昌忠(花押)禁制ノ板記並ニ永禄八乙丑(1565)十月吉日旧記ニ当御代官甘利昌忠トアリ、『兵家茶話』ニ山村家伝ヲ引キ云、永禄三年(1560)山村三郎四郎良侯信玄ヨリ感状ヲ賜フ、甘利左衛門尉昌忠之ヲ奉ルノ添状アリ、ト記セリ今之ヲ訂定ス(軍鑑ニ妹二人安中左近、葛西左衛門ニ嫁ストアリ)

甘利郷左衛門尉信康

昌忠ノ子弟カ未ダ分明ナラズ、永禄十年(1567)下ノ郷起請文ニ名押アリ、西郡上ミ今諏村金丸某蔵ス、三月六日(年紀ナシ)信玄ノ手簡ニ一徳齊、甘利郷左衛門尉殿、金丸筑前守殿卜連署ノ文中ニ信玄白井不日ニ落去大慶候云云、猶沼田之是非急速注進待入候トアリ、上野国志ニ元亀三年(1572)九月、信玄白井城を攻メル、長尾景憲城ヲ棄テ発崎ノ不動山ニ保ムト見エタリ、軍艦ニハ此ノ年四月兼信信州ニ出ツ、信玄モ出テ越後ノ光明山マデ働ク、同十月ヨリ翌年ニ及ビ三州ノ陣ナリ、此ノ時参州・遠江・尾州・濃州ヲ攻略シテ直チニ京都ニ上リ、旗ヲ建ント欲シ、陣中ニテ卒去セリ、高坂弾正河中島ニ在テ越後関東ヲ圧へ箕輪ノ内藤以下ハ尽ク打立ツ趣ナレハ其以前方々ヘ奇兵ヲ出シ働ヲ懸シト見ユ、又云ウ左衛門ノ死後ハ百騎バカリナリ、米倉丹後守陣代ニテ小荷駄奉行ヲ役スト、其名ヲハ所記ニハナシ、長篠ニ於テ戦死ス、諸録三郎四郎信景ニ作ル(古戦録ニ三郎四郎後左衛門尉卜改ム、後風土記、四戦紀聞、信長記等ニハ左衛門晴吉、藤蔵吉利又利重トモ記ス、謬妄甚シ。

武田武将 甘利三郎次郎信恒 

鎮目寺ノ棟札ニ見ユ(年月刷落ス但シ長篠ノ後役ナリ)永禄八年(1565)栗原藤三郎後家ヲ甘利備前ノ息子ニ嫁スト、軍鑑ニ記シタルハ信康ニ相当ルナレドモ、同書ニ昌忠ノ息子幼年ノ間勝代トアル文ニ戻レリ(三代記ニ左衛門ノ嫡子三郎次郎卜記シタルヲ得タリトシ、信康ハ昌忠ノ弟、信恒ハ信康ノ男ニテ一家ニ二分レシナラン

武田武将 甘利次郎四郎 

大宮ノ神馬奉納記ニ馬三匹トアリ(是モ年月刷落、但シ長篠ノ役後ナリ)
此人家督卜見エタリ、昌忠ノ男子カ始末詳ナラス、壬午(天正十年)起請文ニモ甘利衆十五人ノ名ヲ載タリ、諸録天正三年(1575)遠州小山加勢ノ条ニ甘利次郎三郎ト云ウ者アリ(後風土記ニ云備前守ノ二男一方ノ隊将ヲ奉ル者ナリト)「続武家閑談」ニ佐橋甚五郎ニ甘利次郎三郎ヲ撃チテ来ラハ勘気御免アラント仰セケレハ、甚五郎姦細卜成リ、詐リテ小山ニ降ル、次郎三郎常ニ笛ヲ好ミケルニ甚五郎亦笛ニ堪能ナリ、遂ニ近ツキ狎(ナ)レ、次郎三郎ガ眠リタルヲ窺ヒ刺殺シテ首ヲ持来レリ、傍人弾指シテ甚五郎カ所為人情ニ非スト誹リケレバ、甚五郎モ自耻(ハジ)テ朝鮮へ迯走(トウソウ)リシカ、後年彼国ノ官僚トナリ来リシ事ヲ載ス、
(次郎三郎同人ナリヤ未ダ次郎三郎者証書ヲ見ズ)府中長谷寺過去帳二天正十年(1582)三月廿六日月山道因大禅定門(甘利乙吉時光)軍鑑聖道衆甘利三石衛門、小姓衆ニ甘利彦五郎アリ、(三国志ニハ采女一子彦五郎田野ニ於テ戦死)右未詳。

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