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ネタ不足につき
自称歴史通であるイナバが日本の歴史をお届することにする。
基本的に私自身の知識に基づき、連載していくことにするので、史実と異なる記載もあるかもしれないが、その点は大目に見ていただきたい。
もし、興味があるならいろいろとネットで調べてみるものも良いかもしれない
手始めは、歴史の中でも戦国時代が好きなので、皆さんもよくご存知の「武田信玄」を第一回目にした。
武田信玄(本名:武田 晴信)は、甲斐の国(現在の山梨県)を本土に戦国時代を生き抜いた戦国大名の一人である。
武田 晴信は武田 信虎の長男であったが、父は晴信を嫌い、二男である信繁をとても可愛がった。
晴信は家臣の支持もあり、父を甲斐から追放するクーデータを起こし、甲斐の国の当主となった。
この頃の晴信の領土は甲斐であったが、次第に信濃(現在の長野県)に侵攻して勢力を拡大していくようになる。
最初の難敵は、豪族の村上 義清だった。
晴信は彼に苦しめられ、人生で初めて大敗退を喫する相手になった。
村上 義清との戦いで有力武将(板垣 信方ら)を失う程の負け戦を経験したことで、晴信は大きく飛躍していった。
この戦を通じて、以後、智略も駆使しながら急成長していく大名になるのである。
ここで活躍した武将が真田 幸隆という武将である。
武田の軍師と言えば、山本勘助が思い浮かぶが、真田 幸隆が最初の軍師だったかもしれない。
彼の智略により、次第に村上 義清を打ち破るようになる。
そして、村上 義清は越後(現在の新潟県)に逃亡し、助けを求めた。
ここで登場するのが上杉 謙信(長尾 景虎)である。
村上 義清の助けを受け、武田氏が越後を脅かす存在になりつつあったことから謙信は信濃に兵を動かすようになる。
これが川中島の戦いに至るキッカケとなった。
川中島の戦いは全部で5回行われたが、その中で唯一まともな戦となって、後世に残る程の戦いにまで発展したのが第4回の川中島の戦いである。
上杉軍が1万3千、武田軍2万。数の上では武田軍に分はあった。
睨み合いが続いていたが、先に動いたのは武田軍であった。
武田方には当時、軍師 山本 勘助がおり、信玄に「キツツキ戦法」を提案する。
キツツキ戦法とは、兵力を2つに分断し、1隊が先に妻女山を登って奇襲をかける。
もう1隊は奇襲を受けて上杉軍が山を下り、逃走してきたところを叩くという作戦である。
山県 昌景や馬場 信春を始めとする妻女山攻撃先発隊1万2000は夜と共に動き出す。
この動きを上杉 謙信は見抜いた。
謙信は武田軍先鋒隊が妻女山を登っている間に、妻女山を下ってしまったのである。
謙信は13000の兵を千曲川を挟んで陣を作った。
目の前には武田 信玄の本隊8000である。
しかも、武田軍はまだ上杉軍に気付いていない。
朝霧が晴れると同時に、上杉軍は武田軍本隊に総攻撃をしかけた。
この時は数的に上杉軍が優位に立ち、武田軍は防戦一方となる。
この激戦で武田方の武田 信繁、山本勘助ら多くの武将が散った。
上杉軍はこの戦いで決着をつけたかったこともあって怒涛の攻撃を仕掛けていた。
何故なら妻女山を登った武田先発隊が山を下ってしまえば逆に武田先鋒隊12000と本隊8000で挟撃されてしまうからである。
結果的に多くの死傷者を出しながらも武田軍本隊8000はよく持ちこたえた。
そして、武田先鋒隊が到着すると形勢は逆転し、上杉軍も多くの死傷者を出して総崩れとなり退却となってしまった。
引き分けとされるこの戦いだが、死傷者の数は武田軍の方が多く、有力武将も武田軍の方が多く失ったことを考えると、上杉軍の優勢勝ちなのかもしれない。
この戦いの後、信玄の行動が変わっていく。
それは、駿河の国(現在の静岡県)の今川 義元の死だった。
1560年に織田信長の奇襲によって討たれてしまい、後を継いだ今川 氏真が凡将だったからだ。
信玄の狙いが駿河侵攻に変わる。駿河を手に入れることで塩も手に入る。
今川とは同盟関係にあったが、長男の義信を幽閉して切腹させると今川との関係が悪化し、同盟を破棄した上で
徳川軍と協力して駿河を占領することに成功した。
ここから西上への道が開けてくるようになる。
そして、準備が整った信玄は1572年に約25000の兵を率いて、京を目指し、3隊に分けて進軍した。
まずは美濃の国(現在の岐阜県)の信長領に秋山 信友が率いる5000が侵入し、圧力をかける。
そして山県 昌景率いる先鋒隊5000が三河の国(現在の愛知県)の徳川領に迫り、次々と城を落とし、連戦連勝。
信玄の本隊1万5千はのんびりと侵攻。
徳川は8000程で、信長に応援を頼んだが、3000しか得られず、浜松城に籠城することに決めていた。
ところが、信玄はこの浜松城を素通りしていこうとした為、怒った家康は城から出て信玄に決戦を挑んだ。
これが三方ヶ原の戦いで、武田軍が圧倒し、家康唯一の敗戦かつ大敗北となった。
その後、野田城を落とした武田軍ではあったが、1574年に信玄の容態が急変し、死去した。
武田軍は信玄の死去により甲斐へ引き返すことになった。
これで信玄と信長の天下分け目の大決戦は幻に終わってしまったのである。
ここでちょっと考えてみたが、信玄が存命し、このまま西に進んで、信長と決戦していたらどちらが勝ったか?
もしかすると包囲網の圧力がしっかり出来ていたなら信玄が勝利したかもしれないし、圧倒的国力の差に加えて戦術にも長けている信長だったかもしれない。
信玄が動員出来る兵力よりも3倍〜4倍くらいの兵力を信長は動員出来るという点で信玄は不利だった。
しかし、信長包囲網をかけておくことで信長の兵を分散させることを可能にしていたのである。
まともでは勝負にならないと信玄は判断していたに違いない。
それにしても、世紀の大一番を個人的には実現して欲しかったと思うのである。
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