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先日、日本剣道形について話が出て、上手く答えられなかった。 それでなんとなく本棚を整理していると「格闘技の歴史」を見つけた。なんでか個人的にあまり信用していない本なのだけど、確か近代の武道については充実していたような記憶があるので、試しに読んでみる。そうすると明治三十八年に大日本武徳会が武術教員養成所を開校し、翌年に「剣道形」と「柔道形」を制定しているとある。 最初の剣道形は「渡辺昇一(神道無念流)、柴江運八籠(神道無念流)、三橋鑑一郎(武蔵流)、得能関四郎(直心影流)、阪部大作(鏡心明智流)、根岸信五郎(神道無念流)、阿部守衛(直心影流)などが制定委員として作り上げたものだが」と書いてあるが、この面子を見ると、「一刀流の人間がいない」ということに驚く自分がいる。 主催になったのが無念流の渡辺昇であったことから考えれば、神道無念流の人間が多いのは当然のことであろうし、直心影流は幕末の日本でもっとも普及した流派であるとも言われていて、榊原健吉なども撃剣興行などで活躍していたこともあるし、この中で二人いるというのも不思議ではない。もっといてもいいくらいだ。鏡心明智流の阪部大作も同然である。 意外なのは三橋鑑一郎で、後に剣道要訣という著書をしているのだが、武蔵流というのはこの中でも古流に属している。武徳会創設の差異に一流の剣士に範士号を授与しているということは知っていたのだが、剣道というと竹刀剣術という偏見があって、剣道形の制定に関わってるというのは知らなかった。もっとも、熊本の二天一流には幕末に竹刀での用法があったとも聞くし、あるいは古流でも普通に竹刀を使われていたのかもしれないが。 ただし、この最初の剣道形は普及しなかったという。 明治四十四年に改めて制定がされて、新たに五人が主査委員となったのだが、最初の面子でこの制定に加わったのは根岸信五郎だけで、残りの四人は辻真平(心形刀流)、内藤高治(北辰一刀流)、高野佐三郎(中西派一刀流)、門奈正(北辰一刀流)と、あと二十人の委員がいたが、ここにきてようやく一刀流系の人たちが参加したという感じだ。 最初の人たちはどうしたのだろうか、と疑問に思うが、まず考えられるのがこの四人は不評だった制定形を改訂することを拒んだのかもしれない。名人ともいえる人たちが集まって作った形なのだから、それなりに自信があっただろう。あるいは、組織が形成されていく中で、ただ実力があるというだけでは地位を保てなくなり、主流の中からオミットされたのかもしれない。が、ここらのゴシップの領域のことは今読めるだけの本からは解らない。そもそもの範士号は六十歳以上の人たちへの称号なので、五年もたってたら最初の面子の中で、議論に参加できたのが根岸だけだった……ということもありえるし、案外とそれが真実かもしれない。 他に参加した二十人は、面倒なので色々とぐぐったらここの一番下に表示されてた。ありがたい話である。というか、最初にぐぐればよかった。 で、この二十人中六人が直心影流の使い手か関係ありそうな人たちなわけで、やはり幕末最大普及流派というのもまんざら嘘ではないと思わせる。神道無念流の使い手は柴江運八郎と中山博道の二人で、主査の根岸を加えても三人。第一回の七人中三人が無念流の使い手だったことを考えると、何かしら逆転したことには意味があるような気がしないでもないけど、やはり有意差を主張するにも無理がある数字であるようにも思える。 この制定形にも不満があったというので、大正元年から昭和八年まで議論は続けられて、ようやく剣道形は完成する。 最後の十二人の内、一刀流系が前出の三人と無刀流の小関教政を加えれば四人で、直心影流は二人いるが、無念流の中山博道以下、あとは新陰流やら無外流やらばらばらだ。 どうやら、日本剣道に一刀流の影響が強いというのは、第二回からずっと委員だった辻、内藤、高野の存在感の強さもさることながら、最終の委員の面子の偏りにあるようである。 しかしそれにしても、最初の剣道形はどういうものだったのだろう。面子からすると神道無念流を中心としたものだったと思われるが、存外と武蔵流の二刀の形も取り入れられたものだったのかもしれない。不満もなくそれが残っていたら、あるいは千葉周作が近代剣道の父みたいな扱われ方をすることもなかったかもしれないが、今となっては解らないことだ。 というわけで、落ちもなくここで一旦〆。
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武徳会剣術形は上、中、下段のわずか3本。
そのうえ貴族の渡辺がかなり独断で作っちゃったので
出来が悪くて普及しなかったそうです。
その後、学校体育への武術採用が許可され、文部省、実質的には
高等師範学校がもうちっとマシな形を…と嘉納校長の指揮のもと
一刀流高野佐三郎、直新影流木村敷秀などで同じく3本の形を
作成。
当然ながら面子を潰された武徳会は反発。
文部省形を改良、付け加えてできたのが剣道形です。
一刀流に関して言えば嘉納、高野という高等師範学校ラインの
影響と言うことになりそうですね。
2010/2/16(火) 午後 6:15 [ ちていのき ]
コメントありがとうございます。
というか、なんというか赤っ恥さらした感じですわ(^^
そうですか。上中下の三本だけですか。実戦の技の数はそんなに多くはないといいますが、夕雲流じゃあるまいし、ただふりかぶった刀をおろすだけというのよりマシとはいえ、修練になりませんな、それは。
そうすると最初の委員のほとんどが参加しなかったのは、第一回の渡辺の専横に嫌気がさしたのかもしれませんね。それこそ推測の類ですが。
しかし、一刀流の影響が大きいという言説を無批判に受け入れてた感じで、なんとも反省することしきりです。
これからもあれこれと書きますのですが、ご教唆お願い申し上げます。
2010/2/16(火) 午後 6:52 [ 佐上典明 ]
>渡辺の専横に嫌気がさした
ありそうですよね。おまけに普及しなかったんだからw
ただこれも推測なんですけど、武徳会形が普及しなかったのは、
剣道家が意味を見いだせなかったのかもしれない、
なんて思いました。
というのも、武徳会形は仕太刀が背中を斬って終わったり、
打太刀が脚に斬りかかったりと、古流テイストがある。
当時の道場だと、まだ古流の先生がやってるという処も
多かったでしょうし、こんなのなら自流ので十分、
わざわざやる必要ないと思ったのかも。
一方で剣道形は高野が「実際の試合にも応用できることを主眼」
と語っているように、より竹刀稽古によった形。
これなら竹刀稽古と並行してやる意味もあるわけで、
受け入れられやすかったのかも。
剣道は門外なんですけど、この辺のことも調べだすと面白いですね。
2010/2/19(金) 午前 3:08 [ ちていのき ]
>おまけに普及しなかったんだからw
39年から44年までですから、五年ですね。三本という本数で普及してないというのは、よほどに抵抗があったのか。
古流テイストですが…なかなか面白い話ですね。
しかし、剣道形にしても古流の技が反映されているものですし、そこらは教育の問題とかがあったのかもしれません。
試合に使えることを前提にしていたというのも、なかなか意味深ですね。当時はどれくらい、試合と実戦とは違うというのが認知されていたのか。今とは違って、そこらに乖離はなかったように思うのですが。勿論、実際にそうであるかどうかは別として、理念上の問題として。
ここらの剣道のイデオロギーの変遷とか、誰か調べててくれませんかねえ。
甲野先生の「剣の精神誌」とか、近代剣道についてはてんでふれてませんでしたし。
気長に、あれこれと調べてみます。
2010/2/19(金) 午後 8:51 [ 佐上典明 ]
愚輩が思うに、剣道形は飽くまでも仕無い剣道の実態を抑えて刀の使用に叶う理を設けたのであって、剣道の歴史を通じて思うには一刀での飽くまでも刀使いと心の練り上げを培うことであるし、二刀は身体的な運動機能を活性朝セルのに適していると思考して坐禅修行を加味して一刀も二刀も自由に使いこなせる様に君れしているのです。出来れば県土かは初期の頃合いは二刀で基本稽古を培い基本が出来他所で、一刀でも二刀でも大いに仕えは活性化すると位置づけています。
識者
2011/2/24(木) 午前 1:03 [ iso*an_*o ]
三橋鑑一郎は武蔵流だけではなく、桃井春蔵に入門して鏡新明智流も修行しております。このため竹刀剣術にも習熟していたと思われます。
また、「日本剣道に一刀流の影響が強い」のは、剣道の集団指導方法を確立したのが高野佐三郎であることに因るのではないでしょうか。
2011/6/29(水) 午後 11:14 [ 一閑人 ]