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何巻かは忘れたけど、「バガボンド」の中で、釘を踏み抜いた武蔵というシーンがあった。 そのシーンを読んで、「うーん」と複雑な想いにとらわれた。 何年前に読んだのか、何巻だったのかはとっくに忘れたのだが、自分が「うーん」と思ったことだけは覚えている。 ◆ ◆ ◆ 手元にはないのだけれど、菊地秀行が昔出した本に「ザ・古武道」という本があった。 私が高校時代に出た本で、「別冊歴史読本」で連載していたルポタージュのまとめということだそうな。その時の編集が去年の大河「天地人」の原作者である火坂雅志だったり、取材対象の流派の人たちも、後に大東流の宗家になる(名乗る?)近藤勝之やら、当時まだマスコミに露出がほとんどなかった御殿手の上原清吉やら(西野流呼吸法の西野皓三もいたけど)、今から思うとなかなか豪華な面子での豪華な取材だった。ちなみに十二人の武神たちと副題がついているけど、番外の柳生魔剣行をあわせて十三人紹介されている。 菊地秀行はそれぞれの武道を見学したり体験したりで、古武道ファンにとってはとにかく羨ましくなってくるものだった。今では鬼籍に入られている人もかなりいて、それを考えるとなおさらである。当時、「拳児」を読んでいて、作中に登場した大東流から古流に興味を持ち出したばかりの私でも、その凄さは解ろうかというものだ。 古武道の資料としては今となってはいささか物足りなくなっているこの本だけれど、高校生で小遣いも少ない私にとっては、何度も繰り返し読んでは知識を貯めこんでいた。このあとで図書館にいって「秘伝日本柔術」を借りたり、まだ発行されていた「武術(うーしゅー)」を毎号購読したりするようになる(「武術」は季刊だったので、なんとかなった)のだが、私にとってはこの本との出会いそが古武術好きになるための一歩だったと今でも確かに言えるのだった。 さて。 その本の中で、白井流手裏剣術の宗家のところにいった折、毛利玄達と柳生十兵衛との対決の話を聞かせてくれたというのがあったんですな。確か大阪の大工だかの息子の玄達が五寸釘を打ち込む技から手裏剣の妙を得て、やがて十兵衛と勝負して……とまあ、今から思えば、どうしてこの話を本当だと信じたのかと思うようなものだけど、何せ高校の頃だったから。 それでその話を覚えていてというか、脳に刷り込んだままに高校も卒業して何年かたった頃、同僚の人と四方山話のつれづれに話していたわけですが――。 「それは江戸時代のいつ頃の話?」 「柳生十兵衛の時代ですから、初期の――ああっ」 そこで気づいたわけなのですが。 釘が一般的に使用されだすのは、江戸時代の中期以降だった! いやまあ、ウイキペディアでは 日本における釘の歴史 飛鳥時代から明治時代初頭までは、和釘が各種建築物に用いられていた。法隆寺の金堂から飛鳥時代の和釘が用いられていたことが確認され、これが日本で使用確認された中で一番古い釘である。和釘は、当初日本刀と同様に鍛造によって製作されており、釘型の金属製品を作成する鍛冶屋を「釘鍛冶」とも言った。人口増に伴う住宅需要の増加などから、江戸時代初頭には鋳造が主流となった。 とはあるのだが。 それでも土木関係者の知識としては、釘が世間で使われだすのは江戸時代も中期頃だってのが常識なわけだったりする。ここらはまた詳細を何処かの資料から出してこなければならないだろうけど、とにかく五寸釘というのは大工だかの家にもそうそうあるものではなかったわけだ。 そうするとこの毛利玄達が十兵衛と戦ったという話は、少なくとも江戸初期にはありえないということになる。 「武芸流派大事典」の毛利流の項目を見ると、 大阪横堀の材木問屋桔梗屋のせがれというが(中略)柳生十兵衛と試合した話は実録本「柳荒美談」が作り出したフィクションで、実際の桔梗屋の年代も徳川中期以降であるから、玄達は、どうも架空の人物であるように思われる
とのこと。 毛利流手裏剣術は確かにあったらしいが、これも伝系はよくわからないらしい。案外と玄達の存在が実録盆によって流布して、それを元に作られた流儀名かもしれない。今ならばそういうことも簡単に思いつくのだが、当時の私はそこまで思い至らなかった。 白井流の先生は、あるいはそういうことを知らずに言っていたと思われる。よくあることである。 しかし、この話で肝腎なことは、毛利玄達の逸話も釘が世間で使われ出した時期も知っておきながら、ちょっと考えれば解ることなのに、それが結び付けられなかったことである。知識は知っているだけではただの知識で、新しく得た知識をもって過去のそれを考え合わせて刷新すること、応用することができて知恵があるのだと、よく聞いていたのだが――改めてそれを思い知らされた気分だった。 だから、その話を思い出すたびに、自分の浅はかさと蒙が開けたりとしたことを思い出したりで、なんとも複雑な気分になるのだった。 余談として、こういう「ちょっと考えれば解ることなのに」ということは、高名で立派な学者にも起こり得ると書き添えておく。 鈴木眞哉氏の著書「刀と首取り」は、剣術について考えるに際して参考になる本である。この本では記録にある多くの戦で刀がどのように活躍していたのか、新書であるのだけどかなり詳しく書かれている。防衛庁勤務の人で、専門の学者ではないから、それをそのまま信用するわけにはいかないのだが、それでも読んでいるとかなり資料を読み込んでいるということが解る。 そんな中の四章、戦った刀たちの項目で (前略)成瀬関次氏の記しているところでは、軍刀が長すぎて困るといった者は一人もなく、短かすぎるからせめて柄を長くしたいという注文まであったという。江戸時代の標準である二尺二、三寸の刀を用意したために、戦場に出て悔やんでいる者も多かったというが、時代が移ると考え方も変わるのか、他に理由があるのか、それはわからない
とあって、首を傾げてしまった。 こんなことはすぐに解ることなのだ。 というか、解らなければおかしい。 江戸時代よりも昭和前半の人間の方が体格がいいだけの話なのだ。 「戦下のレシピ」を読むと、大正時代に食生活改善運動がはじまり、西洋式の栄養学が導入されたという。食生活が変われば体格が大きくなるのは道理である。そもそもからして、江戸時代の人間は平均身長が日本史の中で一番低いとすら言われている。大正、昭和前期に成長期だった人間は、少なくともそれ以前の時代の人間よりも格段に体格がよくなっているはずだった。体格が異なれば使用する武器のサイズが異なるのは自明の理だ。実際、戦国時代から江戸初期は三尺近い刀を普通に使用されているのが、前述の「江戸時代の標準」が定められたという江戸時代の後期で二尺二、三寸となってるのはそれを反映しているのだろう。それだけ日本人は縮んでいたのだ。私も居合を習うことになった時、178センチの体格にあわせて、二尺七寸の模造刀を購入している。 鈴木氏がこれらの食生活の違いによって、日本人の体格が異なってるということを知らないはずがない。著書を読むと博覧強記ぶりはうかがい知れるし、もっといえば昔より今の人間が大きいということは常識の範疇だ。 ただ、結び付けられなかったのだ。 本当に、ちょっと考えれば解ることなのに……もって他山の石として、忘れるべからず。 そんな感じで、今回は〆る。 |
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