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前回の記事からもう五年たつ http://blogs.yahoo.co.jp/sagaminoriaki/2281609.html
その後、あれこれとまた色んなことが解ってきたので、前記事のコメントなどについて触れながら覚書程度にメモしておく。
前の記事で、
その頃から武術に対して興味を抱き始めたというのもあるが、初めて「バリツ」について言及していた本には、「バートンという人物がはじめた柔術の梃子の原理を使った投げ技とボクシングの打撃を合わせた“まったく新しい護身術”である」とのようなことが書いてあった。いや、これは正確には "bartitsu"であり、ホームズが使っていた"baritsu"のことではない。まあ、この誤記なのではないかと書かれていたけれども。
本のタイトルも覚えていないが、このときに読んだそれはシャーロキアンの本であり、バートン氏が学んだ流派については言及されてなかった。ただ、その時にのっていた本の中で、バートン氏が黒い胴着を着ていて、棒を手にしていたように私のおぼろげな記憶には残っていた。 と書いたけれども、ツイッターでhttp://twitter.com/Molice/status/10518610095112192
なお、バートン流柔術についての記述があったのは、ちくま文庫の『われらロンドン・シャーロッキアン』ではないでしょうか。
とのご指摘を戴いた。このタイトルには覚えがあるので、多分、これであっている。
この後のツイートで、古武道史を研究なされている方http://twitter.com/inuchochinから色々と教えていただいたので、許可をもらった上でこれらを備忘録として貼り付けてみる。
神伝不動流と同系統の神伝実用流が宮城県に現存している(いた?)ようです。すくなくとも昨年までは宮城県古武道協会に加盟していました。マブニ先生の神伝不動流は矢田判官が開祖になっていますが、他の神伝実用(不動)流の開祖は根来独心斎です。
「神伝実用流」で検索してみると、確かに宮城県古武道協会http://salix48.web.fc2.com/miyagi.htmlに神伝実用流の記載がある…が、休会中って……。
ちなみに神伝実用流(不動流)は神戸等もですが、幕末の伝承地は滋賀県だったようです。宮城に伝わったのも、仙台藩の飛び地が滋賀県にあったからでは?と思っています。明治の井伊家の収蔵物の中に仙台藩系の流派の伝書がいくつかある事からの予測です。
なるほど。そういう経緯で宮城と滋賀に伝承があると。説得力のある考察です。
ところで同系統といっても、大東流は各派によって風格が違いますし、どの程度似ているのでしょうか。
ちなみに、伝書で比較した範囲では、神伝実用流と矢田の神伝不動流は極意までほとんど同じです(笑
えー……。
話戻して、矢田系神伝不動流はたぶん矢田さんが元の神伝不動流の伝承から変えたんだと思います。根来の神伝不動(実用)流は長崎県で伝承されている真妙流と傳系が途中まで同じで、中興祖が神伝不動流と名乗った、とされてて、宮城系と滋賀系は伝承者が結構前に分かれていますが内容はほぼ一緒です。
ああ、なるほど…この「話戻して」とあるのは、
初見先生の所は高松先生が元の流派から変えてたり、流派作ったりしちゃってますから…さらに初見先生が変えてるし(笑 @SagamiNoriaki 海外でバリツ再現している人が初見氏の系の不動流の同じ名前の技をかけてもらったけど、ほぼ同じだったというから、ごにょごにょと
流派の伝系捏造についてのpostからだけど、そもそもの摩文仁先生に伝わる前から捏造されてたとかさあ。
穏棲斎先生ェ…。
前回の記事のコメントで
はじめまして、ちょっと調べ物をしていてこちらを見つけました。
その神伝不動流の伝系に戸田という苗字の人はいますでしょうか? 最後の上野貢という人は昭和の人ですよね? この人の次の継承者はわかりますか? 質問ばかりですみません。 2010/11/25(木) 午後 1:38 [ 武蔵野 ] はじめまして。神伝不動流で戸田姓…というと、戸田真竜軒先生に関する話でしょうな…上の記事の伝系は武芸流派大事典の写しですので、それ以上の詳細はありません。
上野先生の後を継いだのは神長成佳師範です。 神伝不動流に関しての詳細は、BABジャパンの秘伝1999年の四月から六月号まで三回の記事があったことが確認できます。2000年からしばらく買ってないので、以降は不明ですが。とりあえずこの三冊を何処かで確認されるといいと思います。 2010/11/26(金) 午前 7:37 [ 佐上典明 ] とやりとりをしましたが、この秘伝で発表された記事についてもこの人はご存知で、
神永さんが伝承しているかどうかは別として、神永さんが秘伝で発表した目録内容は滋賀や宮城で伝承されていた神伝不動(実用)流の目録とほとんど一緒です。(原文ママ)
とりあえず、摩文仁―上野―神長と伝わった伝系は滋賀、宮城に伝わっていた神伝不動流とほぼ同じか、少なくともかなり近いというのは確かなようです。 その後のコメント欄の書き込みに、
神伝不動流を学んでいるわけではないですが、流派の近縁の者です。
神長氏は上野氏の弟子ですから、きっと同流は学んだのでしょうが、継承者と言える立場ではありませんし、武芸流派大事典自体が版によっては神長氏が情報源となっている場合もありますので、あまり信用なさらないで下さい。 摩文仁氏は上野氏と交流は深く、両者は相互教授の関係にはありますが、摩文仁氏は空手家ですので、同流を上野氏から教わることはあってもその逆はないでしょう。 また、初見氏は上野氏の弟弟子であり、当初は上野氏の弟子だった時期もありますが、高松氏から神伝不動流を学んでいます。 ちなみに、高松氏の流れとは全く別の流れで、同名称の流派を継承されている川上氏もいますが、たまたま名称は同じだが、技は別物らしいです。 但し、同流の初期の継承者には被る部分もあるようです。 複雑ですので、同流の伝系についてはあまり気にされない方が良いでしょう。 2010/12/2(木) 午後 8:38 [ K ]
とありまして、まあ神長先生も毀誉褒貶激しい人のようで…武芸流派大事典の記載に関しては、1999年秘伝四月号にはっきりと神長先生から資料が提供されたとありますが、
維新ごろには京都で草莽矢田隊を、子の
隆男と共に組織し、大和十津川等に武芸指南した。維新後は久留米・岡山・ 十津川等の保守派・不平党と結んで旧公卿をかつぎ、薩長藩閥政府の転覆を 計画したが、明治四年三月発覚。捕われて終身禁獄になった。時に五十歳。 その当時の変名は国野一郎といっていた。 という後半の詳細については、綿谷氏が独自に調べたことのようです。
それと、最初に書きこんだコメント欄では戸田という人について質問されているけど、恐らくは初見先生の師匠の高松先生(同時に上野先生の師匠でもある)の師にあたる戸田真竜軒先生に関するものとあたりをつけてましたが、そのとおりでした。
江戸時代も明治以降も滋賀から大阪に出る人は多かったですから、戸田さんは実在すれば伝承どおり神戸あたりの人じゃないでしょうか?たしかバーティスの人もその辺で習ったのでは?徳島の流派も結構大阪に出てきてますよ。 @SagamiNoriaki 件の戸田真竜軒先生も実在しているのならば
そしてKさんがコメントしておられる、摩文仁先生から上野先生への伝系についての疑義ですが、
なので大阪にいたマブニ先生が神伝不動流に触れる機会があっても全然おかしくないと思います。例の拳法○カ条?も神伝不動流に良く似たものがあったと思いますが今確認できません。RT @SagamiNoriaki バートン氏の同期によると「神戸で寺島くにいちろう氏に神伝不動流を習った」のだ
これについては私も前記事のコメントで、
摩文仁氏が古流柔術を研究、習得されていたことについては、秘伝誌上で不遷流、不動流なども習得されていたと小西師範の著書にあると紹介され、昭和17年の「糸東流拳法空手道 目録之巻」の「拳法の大事」は神長氏が伝授された「神伝不動流拳法 極意之巻」と注意書きまで全く同じ…
と書き込んだ。少なくとも昭和17年には、摩文仁先生は不動流についてかなり習得していたらしい。上野先生との付き合いがいつ頃かは解らないのだけども。
ただ、空手家が柔術を学ぶことは、
大阪でも上島先生が今眞流柔術と空手から空真流空手を作ってますし、東京でも小西先生、清水先生、大塚先生、有名所の人はみんな柔術師範です。
とのことで、摩文仁先生は小西先生と交流が盛んだったようで、柔術だけを別に教えることもありえたと思えます。とはいえ、ここら柔術を習った空手家はいっぱいいても、その空手家が柔術を教えるというのをありえるのか、という疑問も無理からぬことではあります。
なお、有名な空手家で柔術を習得していたというと、大山倍達先生が大東流の教授代理の吉田幸太郎先生に学んでいますが、こちらも大東流の柔術を弟子に教えたという話はありませんね。大山先生の死後すぐに出た弟子の誰かの著書には、棒術と投げ、関節技を中心とした極真館護身術を教えようとしたけど、生徒が集まらずに企画倒れになったということがかかれてた記憶がありますけど、調べてもでてこないし、もう十七年以上前の記憶なのであてにならない……。
そんなこんなでまとめてみましたが、バーティツの基になったであろう神伝不動流は、矢田氏で伝承されていたというのはどうも怪しくて、少なくとも技法名や極意など、伝書で確認できる範囲では滋賀県や宮城県で伝承されていた根来独心斎を開祖とする不動(実用)流と同一のものであると。
この神伝不動流は、長崎伝承の真妙流と途中まで伝書の上での伝系は同じであることから、元々は同系統の流派だったことが伺えるようです。
なお、神伝実用流は武芸流派大事典には記載がありませんでした。真妙流は名前と柔術であるとだけかろうじて書かれています。そろそろ誰かがこの本の再改訂版出さないといけない時期だと思える……。
宮城県の神伝実用流は現在休会中のようですが、検索すると、
伴家忍之伝研修所
で滋賀に残っていた神伝不動流を伝承、教授しておられるようです。
矢田穏棲斎先生が不動流から分かれたのは(分かたれたとすれば)少なくとも幕末で、さらにバートン氏が習ったのはその弟子ですから、伝書の内容が同じでも術技内容はかなり異なる可能性はあります。
ただ、ここは海外にも支部があるようなので、海外のバーティツ研究家の人にとって、かなり参考になるのではないかと思う次第。
しかしここの不動流も甲賀忍者に伝承されているとは……初見先生もそうだけど、つくづく忍者と縁のある流派だなあ(苦笑)
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何巻かは忘れたけど、「バガボンド」の中で、釘を踏み抜いた武蔵というシーンがあった。 そのシーンを読んで、「うーん」と複雑な想いにとらわれた。 何年前に読んだのか、何巻だったのかはとっくに忘れたのだが、自分が「うーん」と思ったことだけは覚えている。 ◆ ◆ ◆ 手元にはないのだけれど、菊地秀行が昔出した本に「ザ・古武道」という本があった。 私が高校時代に出た本で、「別冊歴史読本」で連載していたルポタージュのまとめということだそうな。その時の編集が去年の大河「天地人」の原作者である火坂雅志だったり、取材対象の流派の人たちも、後に大東流の宗家になる(名乗る?)近藤勝之やら、当時まだマスコミに露出がほとんどなかった御殿手の上原清吉やら(西野流呼吸法の西野皓三もいたけど)、今から思うとなかなか豪華な面子での豪華な取材だった。ちなみに十二人の武神たちと副題がついているけど、番外の柳生魔剣行をあわせて十三人紹介されている。 菊地秀行はそれぞれの武道を見学したり体験したりで、古武道ファンにとってはとにかく羨ましくなってくるものだった。今では鬼籍に入られている人もかなりいて、それを考えるとなおさらである。当時、「拳児」を読んでいて、作中に登場した大東流から古流に興味を持ち出したばかりの私でも、その凄さは解ろうかというものだ。 古武道の資料としては今となってはいささか物足りなくなっているこの本だけれど、高校生で小遣いも少ない私にとっては、何度も繰り返し読んでは知識を貯めこんでいた。このあとで図書館にいって「秘伝日本柔術」を借りたり、まだ発行されていた「武術(うーしゅー)」を毎号購読したりするようになる(「武術」は季刊だったので、なんとかなった)のだが、私にとってはこの本との出会いそが古武術好きになるための一歩だったと今でも確かに言えるのだった。 さて。 その本の中で、白井流手裏剣術の宗家のところにいった折、毛利玄達と柳生十兵衛との対決の話を聞かせてくれたというのがあったんですな。確か大阪の大工だかの息子の玄達が五寸釘を打ち込む技から手裏剣の妙を得て、やがて十兵衛と勝負して……とまあ、今から思えば、どうしてこの話を本当だと信じたのかと思うようなものだけど、何せ高校の頃だったから。 それでその話を覚えていてというか、脳に刷り込んだままに高校も卒業して何年かたった頃、同僚の人と四方山話のつれづれに話していたわけですが――。 「それは江戸時代のいつ頃の話?」 「柳生十兵衛の時代ですから、初期の――ああっ」 そこで気づいたわけなのですが。 釘が一般的に使用されだすのは、江戸時代の中期以降だった! いやまあ、ウイキペディアでは 日本における釘の歴史 飛鳥時代から明治時代初頭までは、和釘が各種建築物に用いられていた。法隆寺の金堂から飛鳥時代の和釘が用いられていたことが確認され、これが日本で使用確認された中で一番古い釘である。和釘は、当初日本刀と同様に鍛造によって製作されており、釘型の金属製品を作成する鍛冶屋を「釘鍛冶」とも言った。人口増に伴う住宅需要の増加などから、江戸時代初頭には鋳造が主流となった。 とはあるのだが。 それでも土木関係者の知識としては、釘が世間で使われだすのは江戸時代も中期頃だってのが常識なわけだったりする。ここらはまた詳細を何処かの資料から出してこなければならないだろうけど、とにかく五寸釘というのは大工だかの家にもそうそうあるものではなかったわけだ。 そうするとこの毛利玄達が十兵衛と戦ったという話は、少なくとも江戸初期にはありえないということになる。 「武芸流派大事典」の毛利流の項目を見ると、 大阪横堀の材木問屋桔梗屋のせがれというが(中略)柳生十兵衛と試合した話は実録本「柳荒美談」が作り出したフィクションで、実際の桔梗屋の年代も徳川中期以降であるから、玄達は、どうも架空の人物であるように思われる
とのこと。 毛利流手裏剣術は確かにあったらしいが、これも伝系はよくわからないらしい。案外と玄達の存在が実録盆によって流布して、それを元に作られた流儀名かもしれない。今ならばそういうことも簡単に思いつくのだが、当時の私はそこまで思い至らなかった。 白井流の先生は、あるいはそういうことを知らずに言っていたと思われる。よくあることである。 しかし、この話で肝腎なことは、毛利玄達の逸話も釘が世間で使われ出した時期も知っておきながら、ちょっと考えれば解ることなのに、それが結び付けられなかったことである。知識は知っているだけではただの知識で、新しく得た知識をもって過去のそれを考え合わせて刷新すること、応用することができて知恵があるのだと、よく聞いていたのだが――改めてそれを思い知らされた気分だった。 だから、その話を思い出すたびに、自分の浅はかさと蒙が開けたりとしたことを思い出したりで、なんとも複雑な気分になるのだった。 余談として、こういう「ちょっと考えれば解ることなのに」ということは、高名で立派な学者にも起こり得ると書き添えておく。 鈴木眞哉氏の著書「刀と首取り」は、剣術について考えるに際して参考になる本である。この本では記録にある多くの戦で刀がどのように活躍していたのか、新書であるのだけどかなり詳しく書かれている。防衛庁勤務の人で、専門の学者ではないから、それをそのまま信用するわけにはいかないのだが、それでも読んでいるとかなり資料を読み込んでいるということが解る。 そんな中の四章、戦った刀たちの項目で (前略)成瀬関次氏の記しているところでは、軍刀が長すぎて困るといった者は一人もなく、短かすぎるからせめて柄を長くしたいという注文まであったという。江戸時代の標準である二尺二、三寸の刀を用意したために、戦場に出て悔やんでいる者も多かったというが、時代が移ると考え方も変わるのか、他に理由があるのか、それはわからない
とあって、首を傾げてしまった。 こんなことはすぐに解ることなのだ。 というか、解らなければおかしい。 江戸時代よりも昭和前半の人間の方が体格がいいだけの話なのだ。 「戦下のレシピ」を読むと、大正時代に食生活改善運動がはじまり、西洋式の栄養学が導入されたという。食生活が変われば体格が大きくなるのは道理である。そもそもからして、江戸時代の人間は平均身長が日本史の中で一番低いとすら言われている。大正、昭和前期に成長期だった人間は、少なくともそれ以前の時代の人間よりも格段に体格がよくなっているはずだった。体格が異なれば使用する武器のサイズが異なるのは自明の理だ。実際、戦国時代から江戸初期は三尺近い刀を普通に使用されているのが、前述の「江戸時代の標準」が定められたという江戸時代の後期で二尺二、三寸となってるのはそれを反映しているのだろう。それだけ日本人は縮んでいたのだ。私も居合を習うことになった時、178センチの体格にあわせて、二尺七寸の模造刀を購入している。 鈴木氏がこれらの食生活の違いによって、日本人の体格が異なってるということを知らないはずがない。著書を読むと博覧強記ぶりはうかがい知れるし、もっといえば昔より今の人間が大きいということは常識の範疇だ。 ただ、結び付けられなかったのだ。 本当に、ちょっと考えれば解ることなのに……もって他山の石として、忘れるべからず。 そんな感じで、今回は〆る。 |
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先日、日本剣道形について話が出て、上手く答えられなかった。 それでなんとなく本棚を整理していると「格闘技の歴史」を見つけた。なんでか個人的にあまり信用していない本なのだけど、確か近代の武道については充実していたような記憶があるので、試しに読んでみる。そうすると明治三十八年に大日本武徳会が武術教員養成所を開校し、翌年に「剣道形」と「柔道形」を制定しているとある。 最初の剣道形は「渡辺昇一(神道無念流)、柴江運八籠(神道無念流)、三橋鑑一郎(武蔵流)、得能関四郎(直心影流)、阪部大作(鏡心明智流)、根岸信五郎(神道無念流)、阿部守衛(直心影流)などが制定委員として作り上げたものだが」と書いてあるが、この面子を見ると、「一刀流の人間がいない」ということに驚く自分がいる。 主催になったのが無念流の渡辺昇であったことから考えれば、神道無念流の人間が多いのは当然のことであろうし、直心影流は幕末の日本でもっとも普及した流派であるとも言われていて、榊原健吉なども撃剣興行などで活躍していたこともあるし、この中で二人いるというのも不思議ではない。もっといてもいいくらいだ。鏡心明智流の阪部大作も同然である。 意外なのは三橋鑑一郎で、後に剣道要訣という著書をしているのだが、武蔵流というのはこの中でも古流に属している。武徳会創設の差異に一流の剣士に範士号を授与しているということは知っていたのだが、剣道というと竹刀剣術という偏見があって、剣道形の制定に関わってるというのは知らなかった。もっとも、熊本の二天一流には幕末に竹刀での用法があったとも聞くし、あるいは古流でも普通に竹刀を使われていたのかもしれないが。 ただし、この最初の剣道形は普及しなかったという。 明治四十四年に改めて制定がされて、新たに五人が主査委員となったのだが、最初の面子でこの制定に加わったのは根岸信五郎だけで、残りの四人は辻真平(心形刀流)、内藤高治(北辰一刀流)、高野佐三郎(中西派一刀流)、門奈正(北辰一刀流)と、あと二十人の委員がいたが、ここにきてようやく一刀流系の人たちが参加したという感じだ。 最初の人たちはどうしたのだろうか、と疑問に思うが、まず考えられるのがこの四人は不評だった制定形を改訂することを拒んだのかもしれない。名人ともいえる人たちが集まって作った形なのだから、それなりに自信があっただろう。あるいは、組織が形成されていく中で、ただ実力があるというだけでは地位を保てなくなり、主流の中からオミットされたのかもしれない。が、ここらのゴシップの領域のことは今読めるだけの本からは解らない。そもそもの範士号は六十歳以上の人たちへの称号なので、五年もたってたら最初の面子の中で、議論に参加できたのが根岸だけだった……ということもありえるし、案外とそれが真実かもしれない。 他に参加した二十人は、面倒なので色々とぐぐったらここの一番下に表示されてた。ありがたい話である。というか、最初にぐぐればよかった。 で、この二十人中六人が直心影流の使い手か関係ありそうな人たちなわけで、やはり幕末最大普及流派というのもまんざら嘘ではないと思わせる。神道無念流の使い手は柴江運八郎と中山博道の二人で、主査の根岸を加えても三人。第一回の七人中三人が無念流の使い手だったことを考えると、何かしら逆転したことには意味があるような気がしないでもないけど、やはり有意差を主張するにも無理がある数字であるようにも思える。 この制定形にも不満があったというので、大正元年から昭和八年まで議論は続けられて、ようやく剣道形は完成する。 最後の十二人の内、一刀流系が前出の三人と無刀流の小関教政を加えれば四人で、直心影流は二人いるが、無念流の中山博道以下、あとは新陰流やら無外流やらばらばらだ。 どうやら、日本剣道に一刀流の影響が強いというのは、第二回からずっと委員だった辻、内藤、高野の存在感の強さもさることながら、最終の委員の面子の偏りにあるようである。 しかしそれにしても、最初の剣道形はどういうものだったのだろう。面子からすると神道無念流を中心としたものだったと思われるが、存外と武蔵流の二刀の形も取り入れられたものだったのかもしれない。不満もなくそれが残っていたら、あるいは千葉周作が近代剣道の父みたいな扱われ方をすることもなかったかもしれないが、今となっては解らないことだ。 というわけで、落ちもなくここで一旦〆。
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その後の変化は突然ではなかった。 往々にして、変化というものはいつの間にか始まっていて、気付いた時には終ってしまっているものである。それでも兆しというものはあって、最初にそれを感じたのは飛天のSFモノからであったと思う。もしかしたら、もっと別にもっと速くに気付いてたのかもしれないが、今思い出せるのはそれからだった。確かおぼろげに覚えている内容では、なんかすげー美形に蹂躙された過去を持つやっぱり美形な少年が宇宙の騎士団みたいなのに入る話であったと思う。この時には、しかし何の危機感も覚えてなかった。同時期の花とゆめですら男同士の恋愛を描いている作品は限りなく少数派になりつつある時期であったし、同性愛が出てくるというだけならば魔夜峰央が創刊号で「ホモじない」なんてギャグの短編を出している。恐らく「まあ本橋先生だっているしさー。あとツーリングエクスプレス。一成はどうすんのかなー」なんてことを思いながら読み流した、のではないかと思われる。まさかこの頃に少女小説の世界に変革期がきつつあったなどということも思いもよらなかった。 創刊から一年ほどたってみると、気がついたら花丸誌上で吉岡平やら安芸一穂やら北原尚彦やらの連載していた作品の名前はなくなっていた。そうでなくとも積極的に読もうと思った作品がほとんどなくなっていたのだが、それはまだ普通に恋愛小説とかコメディとかが増えたというだけで、しかし創刊号の頃のような雑多ともいえるほどのパラエティ溢れるものではなくなっていたということである。その時期には(当時の花丸は少なくとも月刊ではなかったので、一年でどれだけ出たのかはよく解らない)私も当初のような期待は抱かなくなっていた。というより、期待の抱ける時期はもう過ぎ去ったのだと理解していた。夏はもう終ったのだといったほうが文学的だろうか。もっとも夏の前には春があるのが順番であるから、私の注目していた時期は、芽生えの季節である春であったのかもしれない。以降の花丸の変遷を考えると、夏はこの頃から始まっていたのだ。 そしてその日差しの強さに夏を想う時は、もうそれの真っ盛りであるのが常だ。 いつの間にか、誌上の大半が同性愛の――いわゆるジュネだのBLだのと呼ばれる作品ばかりになっていた(この当時にBLという言葉があったのかどうかはわからないのだけど)。少なくとも、そのようなニュアンスの強い作品が多くなっていた。 探偵モノなどはまだしも女性が登場していたし、コメディ調の作品はノンケな主人公が美形に迫られるというような展開であったと記憶していたるのだが、確たるものではない。それらでも男性同士のカップルが目立って活躍していたような印象もある。正直な話をいうと、この頃の花丸は惰性で買っていたのでほとんど覚えていないのである。ただ一つだけ記憶に残っている作品があって、それは死んだ少年の魂が少女の中に入るという、いわゆるTS(トランスセクシャルの意)モノであった。後に調べたらそれは「ふたりめの蘭子」という作品で、読み返してみると確かに最初の方の溺れるシーンなどは覚えがあった。この作品の作者は微かに存在を覚えていた探偵モノの人でもあったのだけど……それはつまり、そのような作品が男女を交えた探偵もの以上に優先されるようになった、ということなのだろう。 今回の調査で、もう一つTSの作品が刊行されているのが確認できた(「六月の知恵の輪たち」という作品で、「ふたりめの蘭子」とは逆に主人公は少女から少年になっている)。時期はふたりめの蘭子の刊行の少し前である。だとすれば本格的にBLに移行する前の過度期の橋渡し的な存在としてTSがあった……と考えると文脈としてすっきりするが、それはちょっとできすぎである。 なお、「ふたりめの蘭子」のあとがきの中で「男同士の恋愛でやれ」というような注文が編集部であった旨が書かれていた。「ふたりめの蘭子」では、もう一人のTSキャラがいて、そちらは少女から少年に代わっていたのである。以降はそちらをメインにした少年同士(精神だけ片方は女だけど)の恋愛にするようにと。実際に書き下ろしの短編はその内容であったし、花丸の方でもその続きは幾つか書かれたらしい。このあとがきが1993年の六月頃のものであった。だから恐らく、花丸の決定的な方針の転換はこの何ヶ月か前の、1993年の前半か、その前の年の後半であったと思われる。 ともあれそんな感じで花丸は変容していったわけだが。私自身の嗜好としてはBLは好みではないし、今となっては「いや、それもアリだろう」とか思ってはいるのだが、当時は高校生であった。視野は狭く、度量はより狭い。いつの間にか新人賞に送ろうなどということは考えなくなっていた。それでもなんとなく買い続けたのは、もう本当に惰性としかいいようがない。あとH田氏の毒のある口調を読者の投稿コーナーだか雑記で読むのが楽しみであった。それも、その読者コーナーで、確か苗字に松がついていたと思うのだが、激しい文調で「流行に追従してBL専門になったのは許せない」というようなことを書いてある投書を読んだ時に「ああ、もう終っていたのか」と何かひどく心の中にある、かろうじて張り詰めていたものが萎えていったのを覚えている。 以降、私は花丸を買うことはなくなった。 結局、それからさらに何年かたった1995年の12月に、花丸は増刊号ではなくて、小説花丸として創刊し直した。 それはかつて目指した「活字新世代のための新しい小説雑誌」ではなくて、BL専門レーベルとしてであった。その翌年に漫画花丸が創刊され、そして花丸文庫が生まれた。 なんでこんなことになったのだろう……花丸の小説を本屋で眼にするたびに考えるのだが、「そういう時期だったのだ」としかいいようがない。 あまりそっちのジャンルには詳しくないし、ネットで調べてもちょっと煩雑なので未確認なのだが、どうにもこの前後の年にBL系レーベルが幾つも立ち上がっているらしい。件の投書でも「流行に」とあったから、多分、この頃はそういう小説が人気が出た時期なのであろう。どういう事情で流行ったのかというのはそれこそ門外漢なので不明である。とにかくそんな時勢であったから、花丸の新人賞はどんどんとその系統のものが増えていったようだ。いや、本当にそこらの記憶は曖昧なのだが。ただ、新人賞の二回目からほとんど印象にないのは、やはりそういうものばかりで読む気がしなかったのではないか。そしてそのことは花丸の編集方針に大きく影響を与えていったはずである。雑誌のコンセプトに多大な力を持っていたと思しきH田氏は、その方針転換にどう関わっていたのかはよく解らない。不本意だったのか、あるいは予定されていたものであったのか。そもそも当初のコンセプトが崩壊して以降も関わり続けたのか、それとも別の部署に移動してしまったのか。花丸から離れた私は知らなかった。 H田氏の行方が知れたのは、そのさらにずっと後になって、白泉社My文庫というものが創刊された時である。 2001年の九月になって創刊されたそのレーベルは、ややBLの要素は残しているものの、全体的にいわゆるライトノベルとして出発していた。 多様な顔ぶれであり、それはかつての花丸を何処か思い出させて。その中のどれだったかは覚えていないが、あとがきを見るとH田氏の名前が見えた。久々の氏が誘いによってこのレーベルで書いたのだということが記されてあった。 この白泉社My文庫がH田氏の復讐戦であるのか否かは、あくまで外部の人間である私にはうかがい知ることはできない。 ただ、私はこれらの顔ぶれにかつての花丸を思い出し、そしてまた波を――かつてとは比べ物にならないほどに小さくだが――期待した。 電撃も富士見もスニーカーも世代交代をして、かつてとはまるで様相の違う現在において、多少の波風などはまるで意味を成さないということは知っていたのだけれど。 白泉社My文庫は九冊だけ刊行して、消えた。 一年と続かなかった。 その後のH田氏の行方は知らない。 ◆ ◆ ◆ 昔、花丸ノベルズというのがあった。 今も続いていて、数多くの人気シリーズ、作家を輩出している。 しかしその当初の姿を覚えている者は、もう少ない。 追記。
花丸新人賞の初期に受賞した作品はBL以外のものも少なからずあって、そのうちの幾つかは花丸ノベルズとして刊行された。 そして上述した第一回の新人の中では、竜と女の子の話――ドラゴン・ザ・フェスティバルのみが本になった。 それは「活字新世代のための新しい小説雑誌」だった頃の花丸を偲ばせる唯一の証拠として、今も私の本棚の何処かに埋もれている。 |



