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趣味人・我乱堂の放談三昧

小説創作記

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 三人目のキサブローは、それからしばらくして暗闇の中を歩いていた。

 一人ではない。
 その前を、提灯を持った小柄な男が歩いている。
 袴姿に腰には――刀を差している。すでに明治ですら遠くなりつつあるというのに、男の姿は異様であった。だが、それをそうと感じさせぬ鬼気とも呼べる迫力がある。歩く姿も堂に入ったもので、封建時代の古武士とはこのようなものであるのかと思わせた。
 油断なく周囲を見渡し、絶えず注意を払っているが、その武士の男の後ろを歩いている、やはり袴姿の男は悠然としたもので、口元を軽くほころばせさえしてその背中を見ていた。
 やがて。
「いつも思うが」
 と軽く、
「君は、どうにも余裕がないねえ」
「今だ修行が足りてまへんので」
 答えながらも、警戒は緩めていない。
 手は柄に延ばされている。いつものことだった。いつものことではあったが、今日はどうにも様子が違っているような気がした。
 いや――
(違っているのは、この空気か)
 どうにも、胸騒ぎがするのだと、今朝から言っていた。この武士のような弟子が自分よりも直観に優れているということはよく知っていたし、自分また何かを感じていた。
「今日は、早くに変えるつもりだったがなあ」
「仕方ありへんな。先生は皆に慕われてますから――」
 武士はそこで言葉を切った。
 立ち止まった。
 
 人に似た、人とは違う何かがいた。

 他に、表現のしようはなかった。
 ぼろぼろになっているとはいえ、確かに昔風の衣服を着て、それはそこに立っているのに、どうしてか人間には彼には思えなかったのだ。
「生人形?」
 思わず、口にした。
 見世物には興味がなかったし、彼の年代ではほとんど見ることはできなかったが、それから受ける印象は聞いた限りのそれだった。
 しかし、生人形であるとも思えなかった。
 これは、人とも人形とも違う、もっと得体の知れぬ何かだ。
 ばちり、と鯉口を切って刀を抜き放ったのは、得体の知れなさをそのまま脅威とみなしたからである。
「――出口先生は後ろに」
 切羽詰った声に、
「ああ、思い出した」
 と思いがけない言葉が返った。
 反射的に振り向こうとして、目の前のそれから目を離せずにそのまま刀を八双に構えた。
 動かば即座に切る――そこまでの覚悟を決めていた。
「これはアレだ、武田先生が以前にいっていた生人形だ」
「まさか――」
 その時、はじめてそれが口を開いた。

「きさぶろう」

 問うような、責めるような、どちらともつかぬ声であった。
 武士の背筋に寒気が走ったのは、およそ死んだ人間の声という、ありえぬものを耳にしたが故えだ。
「そうだ」
 先生と守られていた男は、軽い口調で言い切った。

「わたしがキサブロウだ」

 その後の変化は、想像を絶した速さであった。
 人間には到底なしえぬ、棒立ちのままからの移動は暗闇の中、月下において影すら残すまい。
 それに応じられたのは、男がやはり達人の領域にある使い手であったからだろう。
 振り下ろされた太刀筋は、柳生流に云う「一刀両断」。
 斬釘裁鉄の勢いのままにそれを真っ二つにする勢いで叩き込まれる。
 だが。
「おおっ」
 それを、ありえぬ動きで回避してのけたのも、それが人でも人形でもない、別の何かだったからであろうか。
 まっすぐ突っ込んでいたはずなのに、瞬くうちに刃に反応して――跳んだ。
 真上に。
「植芝くん、その呼吸ではいかん」
 男は、月を見ていた。

「それでは、人は斬れても、あれは斬れん」

 そして。
 手に持っていた何かを振り下ろした。
 ああ……。
 そこに、跳んだはずのそれの姿わ見つけて、植芝といわれた男は瞠目した。
 先生がいつの間にか手にしていた鉈は、真正面から唐竹割りにそれの頭を割っている。
 
「きサぶロう……」

 それは、最後にそれだけ言って、止まった。
 

 出口王仁三郎は1871年(明治4年)に現在の京都府亀岡市穴太(あなお)に生まれている。祖母の上田宇能は、『日本言霊学』で有名だった中村孝道の妹にあたり、伝承や言霊学、迷信を初めとした知恵を持っていた。喜三郎は幼少時は登校さえ出来なかった虚弱体質児であったため、家でこの祖母にあれこれと教わり、おばあちゃん子として育った。また、近所では神童と言われていた。
 やがて、宗教や霊能に関心を持つようになり、1898年3月1日松岡芙蓉と名乗る神使に伴われて、霊山・高熊山に一週間の霊的修業をする。(『霊界物語』第1巻、第37巻、『本教創世記』参照)。その年の10月に一度、大本の開祖・出口なおを京都府綾部に訪ねている。翌年の7月に、なおの神示により招かれて再度綾部に行き教団を改善させ、後に戦前の巨大教団であった「大本」を形づくる。1900年なおの末娘・出口すみこと養子結婚し 入り婿となり、名前を自ら改めた。
 出口王仁三郎は宗教のみならず、多方面のさまざまな分野にもその才能を発揮している。
 中でも合気道の開祖である植芝盛平には多くの啓示にも似た教えを与え、呼吸法をはじめ、多くの影響を与えたという。

 入り婿する前の彼の名が上田喜三郎だったことは、意外と知られていない。



 
 三人キサブロー 終わり。 
 二日たっても帰ってこないきさぶろうに、さすがに心配になった寺の人間たちだが、やがて四日目に手紙が来た。
「自分は今、京都にいる」
 ということが書いてあり。
「思うところあって、仏師に弟子入りする」
 と続けられていた。
 なるほど、聞くところによれば松本喜三郎も人形師になる前に仏師に弟子入りしているという。また多くの仏を作るうちに発心するところあったのかもしれない。ちと順番は違うが、この道を究めるにはそういう回り道も必要なのかもしれない。
 後に判明するが、手紙に書かれていたことは半ば以上が嘘であった。
 きさぶろうは、京都には行った。
 しかし仏師に弟子入りなどしなかった。
 何人かを訪ねた形跡はあるが、どうしてか弟子入りはしなかった。
 どうして手紙にこのようなことを書いたのかは結局解らない。
 だが、思うに、彼はこの時はまだ迷っていたのではないだろうか?
 思い立ったのはいいが、それは俄かには可能とは思えぬ所業であったし、やはり人としても許されぬことではない――それらの迷いから、彼は仏師に弟子入りするなどという虚偽を書かせ、また迷ったままに訪ねてみるなどということをさせたのではないか。
 京都時代のきさぶろうが何をどこで学び、試したのか、それを寺の者たちが知るのはさらに二年を経てからであった。

 結論から言おう。
 寺に帰ったきさぶろうは、すでに人間ではなくなっていた。
 人間ではなくなっていたきさぶろうは、やはり以前のままの作務衣で、寺の山門をくぐった。
 丁度その時に読経をしていた住職は、異臭を感じて経を読むのを中断して、思わず振り向いた。
「ご無沙汰しております――」
 懐かしい声だった。
 再会を喜ばねばならないはずだった。
 それなのに、住職をはじめとする僧侶も、寺男も、きさぶろうの体から発せられるあまりもの妖しい空気を感じ取り、困惑した。
「おぬし、何をしておった?」
 住職の問いも、詰問するかのようだった。
 きさぶろうは「修行をしておりました」と答えて、しばらくまた前のように逗留させて欲しいと願い出た。
 しばらく悩んで後に結局、受諾したのは、住職はきさぶろうにかなり大きく期待していからだろう。それは自らの直観を押さえつけるほどのものであったが、無理はない話だった。
 時代は明治であり、近代の波は僧侶であっても闇の領域を容易に信じさせ得ぬものにさせていた。
 理性のある者ならば、きさぶろうの雰囲気が変わったことを「錯覚」として片付けていて当然で、あるいは何がしかの境地に達せたと期待させる理由として充分であったろう。

 この時点で、惨劇は避けえぬものとなってしまった。

 しばらく滞在して、以前に使っていた工房になにやら材料を運び込み始めたきさぶろうを、以前とは違って奇異の目で寺のものたちは眺めていたが、すぐに慣れてしまった。人間、なんにでもすぐ慣れるものである。とは言え、やはり以前とは違って親しみを持って話かけることなどはしなくなった。なれてはいても、薄気味悪いという感触は抜けきらなかったらしい。
 そうして半年が瞬く間に過ぎ去り、ある男が寺に訪れた。
 寺を菩提寺にしている男で、二年前、「人は生き返らないのか」と聞いたあの若者だった。
 彼は、きさぶろうに呼ばれたのだいう。
「少し前に、賭けをしまして――」
 詳しくはいいたがらなかったが、どうも博打をしているところに話しかけられたらしい。
 そういえば、きさぶろうは昔は博打で小銭を稼いでいたな……ということを懐かしく思い出した住職だったが、どうにも胸騒ぎは収まらなかった。
 収まらないままに男を行かせた。
 男は、その日から姿を消した。
 そのことを住職が知るのは、翌々日に彼を探しにきた彼の女房に話を聞いてからである。
 日記には「すぐにもきさぶろうのことを思った」とある。その前日も前々日も、遠めからではあるが、きさぶろうの様子には変わったところはなかった。なかったのだが、今度こそ、その直観を押さえつけることはできなくなった。
 ただちに工房に入った住職が見たのは、ぼうと座り込んでいるきさぶろうの姿だった。しばらくその姿を近くにまでよってなかったせいか、寺に戻ったばかりの頃の妖しい雰囲気がすっかり抜け落ちているのに、今の今まで気がつかなかったのだ。
 精根尽きた――まさに、その言葉の通りであるように見えた。
 住職は何をしたのか、何事があったのかを問い詰めたが、呆けたようにまともな言葉を換えそうとはしない。もっといえば、きさぶろうは呆けていたと言ってもよかった。
 呆けたままに、四日後にきさぶろうは死んだ。
 眠ったままに、起きてこなかった。

 ……住職は何か釈然としないままにきさぶろうを葬って、墓を寺の隅に建てた。無縁仏とするにはきさぶろうは寺に関わりすぎていたし、名人の域に届かなかったにしろ、やはり実力のある人形師はそれ相応に弔うのがよいと思った。それに彼が残した仏は、いまだ評判がよくて何人かの好事家、あるいは廃仏毀釈で本尊を失っていた寺などが買い求めて、それなりの金を寺に残していたのだ。
 きさぶろうに生人形を作ってもらった何人かも、葬儀には参加した。
 近隣からもかなりの人が集まって、地方で死んだ無名の職人を偲ぶには十分以上であるかのように思えた。
 ただ、それからしばらくして事件が起きた。
 最初に、東村で十歳になる黄三郎という少年が殺された。
 当初、獣に襲われたかと警察が疑うほどの壮絶な死体が村外れに残されていた。熊か、そうでないにしろ、よほどに大きな獣が少年を襲ったのだろうと。それは、そのような死体であった。ばらばらで、無残というほかはない。
 それから間もなく、やはり喜三郎という名の、今度は三十の猟師が殺された。
 猟師ではあったが、彼を殺したのが獣だとは誰も思わなかった。彼は、自宅で殺されていたのだ。しかも昼間から。獣が家に侵入した形跡もなく、まして村に獣が入り込んでいたのを誰も目撃していない。つい最近に少年が殺されてたから、村人は警戒していたのだ。
 目撃されたのは、行方知れずになっていた男だった。
 たまたま、彼を知っていた娘がその姿を見ている。女房の知り合いであったが、さして仲が良かったという間柄でもなく、単にその姿を見知っているという程度の付き合いだ。だから自信はもてないが、との前置きはしていたが、「……よくは似ていた」と証言した。
 その後も、やはりキサブロウという名前の人間が殺され、男の姿がその都度目撃された。
 当然の様に男は疑われたが、何ヶ月前に失踪して以来、女房にも連絡はきていない。最後にきさぶろうを訪ねていたこととキサブロウという名前の人間を殺して回っていることには何かの関係があるようにも思えたが、上手くつなぎ合わせるには部品が足りなさ過ぎる。そもそも、例え恨みがあるにしても、同じ名前というだけで襲い、殺すというのはどうにも道理に合わない。狂っているとしか思えぬ。あるいは狂ったか――それならば、この人とは思えぬ兇暴な殺し方にもあるいは納得がいかないこともない……。
 だが、そうでないということを、その頃には住職だけは知っていた。
 猟師のキサブロウが殺されたと聞いた時、またしてもきさぶろうが関係していると思ったのだ。すでに死んでいるはずのきさぶろうがどう関わっているのかは解らないが、とにかくなんらかの関わりがあると結論した。論理も何もなかった。ただ、そのような答えが出た。しかし、どう調べたものか……と思った矢先、何年か前にこの近辺にきていたやわら使いが住職ときさぶろうを訪ねきた。
 
 やわら使いは、きさぶろうに陰陽道の秘術を授けたのだと言った。

 さすがに、そんなことをいわれてすぐさま信じることはできない。
 しかし、小柄ながらもある種の威厳を持って正座するその男を見ていると、嘘を言っているようには見えない。
 やわら使いは、自分が陰陽道他、方術の伝を師より授かったのだといい、二年前、この近隣できさぶろうと出会ったきさぶろうにそれの一部を伝えたのだと淀みなく言った。
「なんでそのようなことを?」
「大した意味はない」
 反魂の法について尋ねられた、という。
 今から京都にいって、その法の大家である源師仲の子孫を探そうと思っている、と。
 たまたま道中で行き会ったやわら使いにそういうことを言ったのだが、その様子はどうにも迷っている風に見えた。その時に、やわら使いが「反魂はできんが」と陰陽道の秘術を教えた。どうしてそういうことをしたのかは、それこそ意味がないらしかった。
「まさか、使えるとも思ってなかったから」
「無責任な……」
 その後、すぐに別れ、やがてつい最近京都にいった先で、やわら使いはきさぶろうの所業を知ったのだ。
「それは――」
「知らん方がええ」
 口をつぐんだが、それだけで、とても口には出せない凄惨なことであるのが推察できた。
 きさぶろうのことを、やわら使いははっきりと覚えていた。分盲ではあったが、記憶力はいいのだそうだ。ただ、すぐにはそれをやらかした人間ときさぶろうとを結びつけることができなかった。それは、とても人間ができるものだとは思えず、それをあのきさぶろうがしたのだということは、彼をしてとても思えなかったのだ。
 だが、気になってはいて、ここらを改めてきた時にキサブロウ殺しの事件を聞いて、ついには確信したのだという。
「恐らく、きさぶろうは死体で人形を作ったのだ」
 反魂の法とは――
 人は決して生き返らない、とやわら使いは言った。
「生きているような人形を作ることができるだけだ」
 それは。
 生人形師ではないか。
「人形だが、動く。動くが――人の魂のないものは、人とは言わぬ」
 肉体に残された記録が、まるで生きているかのような振舞っているような見せているだけなのだと。
「それは外法の類ではないか!」
「ワシも師匠に言われた。人の生き死にを操る技は外法ゆえに、決して行ってはならぬ」
 そして、容易にもできぬことであると。
「今、そのきさぶろうに人形にされた男は、きさぶろうを探しているのだ。どういう理屈をつけようと、殺されたのには違いないからな。みつけだして殺そうとしているに違いない」
「しかし、きさぶろうはとうに――」
「そのことを理解できんのだろう。およそこの国のきさぶろうという名の全てを殺しつくさぬ限り、決してそやつは止まることはあるまいて」
 やわら使いは、そこまで言ってから立ち上がった。
「あとのことは、ワシらが手を打つ」


 つづく。
 きさぶろうは、
「生人形師にはなれました」
 と自分が何処にでて、どう生活して、どう修行していたのかの経緯を説明した。
「東京に出て、生人形の技を持っている人に弟子入りして……」
 そこまでは順調だった。その少し前に柔術の師匠を探して東京中の接骨医を訪ね歩いていた嘉納治五郎などはかなり苦労をしていたようだが、廃れたりといえども生人形作りの技術は柔術のように封建時代の旧弊の技として嘲笑われていたというわけではない。比較的容易に師につくことができた。
 だが、そこでの修行が一年も続いて、ある程度の技術を習得できた頃になって、悟ったのだという。
「このままでは、松本喜三郎にはとどかぬ――」
 きさぶろうが、同じ名前であったせいなのか、松本喜三郎を特別視していたことは確かである。
 少なくとも最初は敬意だの憧憬だのを持ってその作品、業績を見ていたが、ある時からそれは殺意にも似た憎悪に変わった。
「それは……」
 仕方ない、と住職は思った。
 生人形に興味があるわけではないが、松本喜三郎といえば天下に聞こえた人形師だ。見世物とはいえ、千体を越す生人形を作り出し、その腕前はわが国の西洋科学の最先端である医学の分野でさえも認めざるを得ないほどの、素晴らしいものであったと聞く。
 その喜三郎に追いつこうなどということは、到底、身の程知らずだとしか思えなかった。
 このきさぶろうは、しかし大した腕前だったということを住職はすぐ後でしる。
 ひとしきり話した後で寺に逗留したきさぶろうが造った観音像は、それはそれはたいしたできばえで、近隣で評判になった。
(いかに天凛があっても、たかが三年でここまでできるものか)
 きさぶろうの話を聞いただけでは今ひとつ信じられなかったが、実物を見れば「生人形師になれた」ということは事実であると知れたし、「松本喜三郎には及ばぬ」という苦悩の深さも、まさに真実であると認めざるを得なかった。
「これでなお及ばぬとしたら、元祖はどれほどの腕前か知れぬ」
 日記には、そう書いている。
 住職は、しばらく寺でこのまま修行を続ければいいと告げた。松本喜三郎ほどの腕前には遠くとも、住職には彼が作り出す仏像は見事に思えたし、やがて何か悟るところがあれば、あるいは名人の域にたっせるのではないかとも考えた。この時に住職は昔話に見えるような仏師などの逸話を日記に書き添えているが、彼の前途に何かを期待していたのは確かだろう。仮に名人になったとろこで生人形で生計など立てられぬということは解っていたはずだったが。
 そうこうして、きさぶろうは寺の協力の元でさらに一年で二十体の観音、明王を作り上げ、また請われて何人かの生人形を製作している。
 やがて。
 ある日、近隣の檀家の者を集めての酒宴で、まるできさぶろうの人形は生きているようだ、と彼に人形を作ってもらったある人物が褒め称えた。注文したのは早死にした女房の人形で、たった一枚からの写真からきさぶろうは見事に再現している。
 それに対して
「わたしは到底およばぬ」
 と愚痴をこぼした。
 彼がそのようなことを口にすることはめったにない。だから住職以外には彼の苦悩を知る人間はいなかった。その日は珍しく酒を飲んだからであろうか、饒舌に思うところを吐き出した。
 曰く。
 自分は名人・松本喜三郎には及ばない。
 曰く。
 生きていると呼ぶに足るできばえなどとはとても思えない。
 曰く。
 比べて喜三郎の人形はまさに生前から生き返ったかのようで、まったくもって素晴らしい……。
 曰く。
 きっとみなも松本喜三郎の作った生人形を見れば、わたしのものなどごみのように思うに違いない
 ……最初は興味深く聞いていた人たちだが、そんなのが小半刻も続けばさすがにうんざりする。
 誰かが「人形にしたところで生き返ったとはいわんだろう」と言い出したのは、果たしてどういうつもりであったのかは解らない。喜三郎の腕前を貶したかったのか、それともきさぶろうのことを慰めたかったのか。いずれ酒の席のことであり、大した意味はなかったのであろう。
 ただ、それを受けて。
「人が生き返るということはあるのかね?」 
 そんなことを住職に聞いた男がいた。この男は近くの東村の若者で、元々は武士の出であったという。この寺を菩提寺にしていて、丁度三ヶ月ほど前に母を亡くしたばかりだった。
 男がなんのつもりだったのかは、それこそ今であっては推測する他はないが、住職は「うん」となにやら重々しく頷いて。
「そういう話はある」
 そして話したのが、西行法師の話だ。
 有名な説話集『選集抄』に載っている話だ。平安の昔、修行していた西行法師が、誰にも合えぬという孤独に苛まれ、また俗世への未練が断ちがたく、そうして「友も恋しく覚えしかば」とばかりに反魂法を使って人間を作った……云々。
 住職は当時ではかなりのインテリであった。
「しかしできあがったモノは、到底人間とは呼べぬものであったそうだ」
 顔色も悪く、心を持たない、声も酷い。
 まるで人形のようなそれに、さすがの西行法師も扱いに困り、捨ててしまったという。
「ひどい話だ」
 誰かが言った。
「というか、結局、生き返ってないじゃないか」
「あいや、続きがある」
 西行はその後、ことの顛末をその道の大家である源師仲に語ったところ、「大筋では正しいが技は未熟」と言って。
「『自分は何人かを生き返らせて、そのうちの一人は大臣にまで出世している』と……それが誰かを明かせば術者も生き返った人間ももたちどころに溶け失せてしまうので秘密だと言ったそうだ」
 その後、話は西行ってないつごろの人だのといった話から二転三転していって、あげくにはつい先ごろこの村にやってきたやまと流のやわら使いの名人の話になったりしたのだが、宴席の隅でいつからかきさぶろうは黙り込んでいた。

 きさぶろうが寺から姿を消したのは、次の日の朝である。
 

 つづく
 この作品はアンデット祭りに投稿したものです。
 改訂版はサイトで発表します。
 長いので幾つかに分けました。


 一人目のキサブローは、松本喜三郎という。
 
 松本喜三郎は文政8年(1825)熊本井出ノ口町(現・熊本市迎町)に生まれた。藩絵師天野良敬のもとで絵を学び、地蔵祭の造り物などで腕を磨いた。仏師の安本善蔵にも弟子入りした。20歳頃は祭り用の人形製作をしていたという。のちに彼は日本一の生人形の作り手として知られることになる。
 生人形とは、文字通りに生きているかのような人形のことである。等身大で、見世物のために造られた。もっとも、当初は異国の様子や伝奇物語の場面を人形で再現するという趣向であった。再現されている「異国」も山海経などの記載を元にして造られた手長人だのというような異形めいたものであって、そこにリアリティはあっても、リアルはない。
 後年になるに従って、生人形はその細密の具合を増してゆく。
 松本喜三郎の作る生人形は、当初から群を抜いていた。そも彼の作る人形があまりにも生々しく、生きているように見えたから生人形と呼ぶようになったというから、彼こそが生人形の元祖であって、生人形は彼の造ったものだけというべきであったのかもしれない。ただ、影響を受けた者たちも数々の生人形を作り、見世物で評判を得た。彼もまたまけじと多くの作品を作り出した。生人形と呼ばれるジャンルは、彼によって作られ、彼によって高められ、結果として、彼を最後になくなった。
 結局、彼以上の天才がでなかったというのと、やはり明治になってからはそのようないかがわしい「見世物興行」は流行らなくなったということが原因であったろう。
 喜三郎は明治になってから人体模型を東校(のちの東大)から依頼を受けて製作している。
 それは彼の技術と天才が結実した代物で、現存こそはしていないが「内臓は彼一流の凝り性から、臓器各部を一々嵌め込みの細工とし、それを原色通りにに着採し、皮膚は得意の練胡粉のバラで行き、人体そのままの肌色を出した」と伝える。
 そのできばえに感服した松本順は、「百物天真創業工」の賛称を喜三郎に贈り、以後喜三郎は興行ごとにこの称号を振り回したという。

 しかし、この物語に彼は直接関わりはしない。


 二人目のキサブローは、藤尾きさぶろう、という。

 生年生国、共にはっきりとしたことは解らない。姓名の藤尾というのも住み着いていた藤尾寺からつけた通称と呼ぶべきもので、またきさぶろうという名にもどういう字が当てられていたのかも不明である。彼自身が自らのことについて述べたことはほとんどなく、また覚書の類も一切残していなかった。彼のことを直接知る住職と弟子達は「どうも文盲だったらしい」とは証言しているが、それが事実かどうかも検証は不可能であった。
 寺にきた時、彼は二十歳頃に見えたが、着流しにまったくの手ぶらで、遠国から旅をしていたとも思えず、ふらふらと散歩の途中で立ち寄ったという風であったという。
 それが明治二十年の十月七日だった。このきさぶろうについて、最初に解っている各とした数字はそれである。たまたま住職がつけていた日記に、彼がきた日とその様子がごく簡単に記されていた。しかしこの日記にも、いつの間にきさぶろうが寺に住み着くことになって、それをみなが受け入れたのかということについては書かれていない。その後にこの男が起こした怪異から考えても、この頃にすでになにがしかの異能を使っていたという可能性は充分以上に考えられる。もっとも、藤尾寺にいついてからの五年間はごくごく普通に寺男として働いていた様子であったから、単に手伝いをしているうちに定着してしまったと思った方がいいのかもしれない。
 さて。
 このきさぶろう、五年間はごくごく普通に寺男をしていた。寺男とは寺に住み着いて修行などをするでもなく働く下男のようなものであるけれど、きさぶろうはたまに近隣の村にでかけて小銭を稼ぐ程度のことをしていた以外は、真面目に仕事をしていたということが日記には書かれている。小銭を稼いでいた方法はどうにも博打の類だったらしいが、自分の小遣い以外は寺の浄財としていたので、住職もうるさいことはほとんど言わなかった。
 そんな生活が続いていた五年がすぎて、六年目にきさぶろうは突然、奇妙なことを言い出した。
「生人形師になりたい」
 生人形というのは、前述した見世物に出す人形のことであったが、当時(明治26年)にはすでに廃れていた。明治18年に上の松本喜三郎が「本朝考子伝」を発表してはいたものの、当の喜三郎は明治24年(1891)67歳で死去してしまっている。生人形の元祖が死に、生人形そのものが死に絶えてしまっていたかのようだった。また見世物自体は続いてはいたけれど、それの人形を作るということが商売になっていた時代ではなくなっている。
 きさぶろうがどういう事情があってそんなことを言い出したのかも、よくわからない。
 記録ではその周辺に生人形を使った見世物が来ていたという話はない。あるいは寺に来る前にどこかで見て、それを思い出していたのかもしれない。とにかくあまりにも唐突であって、相談を受けた住職も面食らった。
「今時、生人形では食ってはいけんよ」
 と言って見たが。
「糧を得るために造るのではないのです」
 きさぶろうは、今までに見たことがないような真剣な面持ちで語った。
「わたしは、最高の生人形を作ってみたいのです」
 そこまでいうのなら――と住職は、きさぶろうの願いに「まあやってみなさい」と肯定した。
 いつでも帰ってきなさいよ、と言い添えたのは、やはり何処かでとても成功さ無理だろう、と思っていたからに違いないのだが。
 住職は、このことを本当に後悔している。


 やがて、三年が過ぎて、寺の誰もがきさぶろうのことを口にしなくなった頃、以前と同じ風に手ぶらで彼は寺にふらりとやってきた。
 以前とは違って着流しではなくて作務衣であったけれど。それはこの寺できさぶろうが使っていたもののままだった。
(ダメだったか)
 住職は、その着ていた作務衣の擦り切れ具合と、何よりも疲れたきさぶろうの疲れた顔を見て、そう思った。
 口にしなかったのは、せめてもの慈悲であった。
 かわりに。
「よう戻った」
 その言葉に、きさぶろうは涙を流した。
 名前についた九という数字からわかるように、九郎には上の兄弟が八人いた。
 ――らしい。
 いたというからには過去形で、今はいないのだそうだけど、綾も九郎も詳しいことは語りたがらない。まだわたしたちを怪しんでいるのかも知れないし、それも無理からぬことだとは思う。だけどわたしたちにしてみればこの国(世界といってもいいのだけど)にきて最初に出会った人間であって、必然、頼らざるをえず、その後の活動を依存せざるをえなかった。本当に、迷惑だったと今も思っているし当時もやっぱり心苦しかった。
 そして、例えどういう立場になってもこれだけはいえる。
 わたしたちは、本当に九郎と綾には感謝しているって――。

 
 ☆☆☆


 最初に出会った時、陶然のようにわたしたちは怪しまれた。
 今でもそうなのかも知れないけど、話かけたわたしたちに、露骨に胡散臭い者をみる目で見た九郎に、それを守るように短剣を逆手に構えた綾が前に出た。綾の目は敵を見る目だった。
(ここは―ーやはり異世界とか、そういうのかしら?)
 二人の様子を見て思ったのは、それだ。
 わたしは明確な敵意を向けられていても、やはりこの現状を理解しようという方向に頭が動いてしまうようだった。生存本能がそっちを優先していたのかもしれない。
 九郎は、二十歳を幾つかすぎたばかりの日本人――少なくとも、モンゴロイド系の人間に見えた。ただ、衣装はいわゆる武士が着るようなものに似ている。前をあわせている着物に、裾を絞った袴。旅装束っぽい。実際にそうだったけど。ただ、時代劇なんかにみるようなものと違って、布地の柄はシンプルでで、なおカラフルだった。下から赤と黄色と青の着物を三重に重ねているのが襟から判断できたが、多分、あれは十二単とかみたいな仕様なのだろうと思った。あとで聞いた話だと、この国では高貴な人間ほど単(ひとえ)を重ねて着るのだそうな。
 綾の服は、臙脂のような色の単だったけど、こちらは特に重ねている様子も見えない。ただし、色はともかく、こっちはなんか模様が表面にいっぱい書いてあった。唐草模様に似ているけど、よく解らない。ペルシャ文様とかの類には違いないのだけど。なんだか、昔話をした雲南省の少数民族の民族衣装をきた中国人の女性を思い出した。デパートの中国少数民族物産展で、こういう柄の服をきている人はいたのだ。
「……なんか、微妙にアジアンテイストだね」
「あ、やっぱり?」
 新城の囁きに、わたしもそう返した。
 二人の姿は、色合いといい、人種といい、現代の日本人っぽくもないが、日本のようであり、そしてどこかというとアジアのようなカラフルさを感じさせた。
「イインチョ、ああいう服におぼえある?」
 聞かれたけど、答えられない。
 わたしも大概、日常の役に立たない知識は持っているが、ああいうのにぴったりと該当するような衣装についての知識はもっていなかった。
 解らないときは当人たちに聞くのが早いのだが、ここが日本でないとしたら(同じ世界であるのかどうかすら怪しい)、意志の疎通は限りなく難しいだろう。

「――お前達、何者か」

 と、綾(その時は名前を知らなかったんだけど)が言った。
 わたしたちは顔を見合わせた。

 どう聞いても、それは日本語だったのだ。


 つづく。


 

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佐上典明
佐上典明
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