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趣味人・我乱堂の放談三昧

放談歴史奇談

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 キリスト教徒ではないが、神の血といえばワインのことだというのは私だって知っている。
 私自身は日本酒党というか、酒といえばそれしか飲まなくて、それさえも年に何回か口にする程度なので、ワインに対する見識となるともう本で見聞きした以上のものではない。それだってたまに漫画にでてくる以上のことは知らないし、すぐ忘れる。元よりあんまり興味が無いからだろう。
 しかし、ワインそのものはともかくとして、ワインが絡んだ薀蓄というのはわりと覚えていて、ソースは忘れてしまったが皇帝ネロの暴虐がワインを飲むための器が鉛であったことからワイン中毒になったためだというのは面白い話だとずっと覚えていた。
 
 ワインに鉛というと奇妙な組み合わせのようだが、そもそも、なんでワインに鉛なのかというと、甘味を増すためのものだったらしい。
 元々のワインは、どうやら酸味の強く…もっといえば酸っぱい代物にだったそうだ。古代の未熟な発酵技術ではそれも仕方の無かったのだろう。蜂蜜などを混ぜて飲んでいたようだが、蜂蜜だって結構な貴重品だ。そもそも、人間というのは甘いものを美味と感じるらしい。 試しに「うまい」で漢字変換していくと「甘い」と換えられるのだ。現在では過剰な甘さはあまり好まれないが、それは微妙な味わいなどを感じるだけの食生活の余裕があるからであり、人間は世界中のどこにいっても近代まではとにかく甘味を欲していた。古代人ならなおさらである。
 さて、砂糖やら蜂蜜やらを混ぜることも行われていたが、これはそういうわけで貴重品だったわけで、全体としてはそんなに割合としては多くなかったと思われる。
 で、どういうものがワインの甘味を増すために使われたかというと、前出の鉛だ。
 鉛を酢酸で溶かしたものを鉛糖といい、ほんの少しだが甘みがある。
 ワインに含まれるのは酒石酸だったが、同様の反応が起こるようだ。
 ローマ人はそういう化学変化を知って、鉛の器にワインを注ぎ、弱火で暖めるという手法を作り出した。こうすることによって鉛はワインに溶け込んで甘味を増すという寸法だ。
 もっとも、検索してみるとこの鉛で暖めるというのワインだけでなくサパとかデフォルトゥムというブドウ汁を煮詰めたシロップを作る時にも使われていたらしい。酸味の強いブドウを使った調理の定番の仕様になっていたのかもしれないが、さすがにそこまでの詳細は解らない(ワインを煮詰めてサパにするとかもあるのだけど)
 それでこの鉛入りのサバやらワインだかは、ローマ人に深刻な被害を与えた。
 つまりまあ鉛中毒だった訳だが。
 
 ローマ人は一人が平均して一日で三リットル以上のワインを口にしていたという。パンとサーカスというが、まあパンを食べるためにワインがいったということだろう。この時代のワインのアルコール度数についてはよく知らないが、発酵技術の発達具合からしてもたいしたものではなかったと思われる。にしても三リットルは多すぎだ。それが鉛入りだというのならなおさらである。ネロだけでなく、鉛中毒はローマ帝国は臣民のほぼ全てを蝕む恐ろしい病いであった。
 ……なるほど。
 この現状からすれば、ローマ帝国がワインで滅んだといっても過言ではないように思える。
 鉛中毒の症状などについてはここを参照にしてもらうとして、これは本当に洒落にならなかったようだ。
 それで問題になるのが、ローマが滅んだのはワインのせいだとして、そのことによってその風習が改められたかどうかということである。
 結論からいうとされなかった。

 鉛に毒があると判明したのは、なんと1696年!――十七世紀も終わりかけた頃にようやくなのだ。

 おおよそ千年の間、ヨーロッパ人は毒入りのワインを飲み続けていたのだ。
 このことは単純に健康だけの問題ではない。神の血とも言われたワインはキリスト教徒だって飲む。僧侶だって飲む。そしてそのワインはほとんど鉛入りで、問題なのは、鉛中毒の症状には知能の低下や神経過敏があるということなのだ。
 そう。
 およそ千年間、鉛入りワインはプチ皇帝ネロを生み出し続けていた可能性がある。
 皇帝が神の如き権力を持っていた時代はとうに過ぎ去っていたが、神の声を届けるべく、神の家に住み、神の愛を知り、神の教えを学んでいる聖職者たちがいる。彼らが古代から中世にかけてやってきたことは知られている。
 即ち、魔女狩り。
 即ち、異端審問。
 即ち、十字軍――。
 これらには当時の社会状況やら利権などが関わっているので安易な断定は出来ないが、聖職にある者がそのようなことに加担することになった背景には、ワインを常飲することによる鉛中毒があったのではないのか
 同じくローマ・ギリシャの文明の流れを汲みながらも、イスラムではワインの甘味はより甘いのがよいとされ、蜂蜜などを加えるのが普通となっていった。貿易で財をなしたというのもあるだろうが、古代から近世にかけてはイスラムがヨーロッパより発展していたのも、ヨーロッパでは鉛入りが飲まれて、そのせいで遅れていたせいではないだろうか。

 まあここまでくると妄想の類だが、嗜好品には気を使った方がいいと思う。
 現在だって、鉛なんか入って無くても酒で身を持ち崩す人は多い。

 酒は百薬の長とはいうが、薬はとりすぎると毒にもなるものなのだ。
「つーか、さ、こういうのは陰謀というにはちとしょーもないことでない?」
「しょーもないこと、ですか?」
「だってさー、陰謀ってのは謀(はかりごと)でしょ」
「ええ」
「謀は密なるをもってよしとするもんでしょ」
「まあ、そうですねえ」
 理想をいえば、「陰謀があった」という痕跡さえ匂わさないで仕掛けてしまうものではないのか。
 パレードの最中に狙撃というのは、ちと感情的にすぎる。
 見せしめ、というのであれ。
 もっと、動機としてはしょーもないような、どうでもいいようなことではないのか。そういうことを想定せずに大仰な「理由」を考えるばかりというのはどうか。
 ツレもそこまで聞くと頷く。
「そうですね。ウォーターゲート事件も、ディープスロートの動機はほとんど腹いせみたいなもんでしたし」
 …つくづく、知識がわきでる人である。
「その人のことはよく知らんけど、冷静だったらネタをリークなんかせずに、脅しとかするんでないの?」
「それは確かに」
 私の適当な言葉に納得してもらうと、なんだか罪悪感にも似た感情を覚えるのはなぜ?
 そういうのを心の顎で噛み潰し、口を開いてさらに繰言を続ける。
「まあそういう推論はさておいて、確実にわかっていることは一つだけでしょ? ダラスで撃たれた――ダラスでなければいけない理由は何さ? それともダラスでしかできなかったのか」
 前提となる条件を増やしていけば推論もしやすくなって答えの幅は狭くなり――結論はでやすくなるものだけど、その前提が間違っていたら答えは無限に生じる。論理学の基本だ。ならば「絶対に間違いない事実」のみから推測をすれば……まあ、話の幅が広すぎるから答えはでにくいけど、それでもおかしな前提条件ふやすよりはマシではないのか。
 ――とかまじめそうなことを書いたが、まじめに考える必要はない。
 わたしはとにかく益体もないどうでもいい話がしたいのだ!
 陰謀説を否定しといて、「最初に結論ありき」で私は言葉を紡ぐ。
「ダラスは――確か、あそこを通るのは通常ありえないんでしたよね」
「ええ。あとオープンカーにすることも、SPは反対していたそうです。狙われているという情報はあったみたいですし、これでは守りきれないというのはあらかじめいってたようです。だからSPはちゃんとやることはやっていたとして責任は問われなかったとか。ケネディがああしたいという要望があってオープンカーで」
 そして殺された、と。
 つか本当に詳しいね、アナタ。
「とにかく、ダラスのパレードは、実に殺されやすい状況だったといえるわけで…しかし前述したけど、ホワイトハウスにスパイを飼ってたモサドとかはこんなところでなくても殺せるでしょ?」
「ええ。それにモサドならわざわざ殺さずにもケネディのプライベートな秘密を流して政治的にも殺せますし――いわれてみれば、わざわざあんなところで殺す必要はないですね」
「同様に、ジョンソン副大統領他、側近とか関係者がやったというのもどうか。だって毒を盛るチャンスはあったわけだし。それこそさっきいうてた病死した大統領みたいにした方がいいんでない? えと、ジョンソンの場合は動機として依頼殺人をしていた件がばれていたらしいとか、そういうのだったっけ?」
「ええ、年が明けたらすぐにでも告発されるはずだったと言われています。ですからあわてて口封じした――と」
「事件を派手にしたら、背後関係が調べられてその件が明るみに出るというリスクがあるでしょ。いくら権力者だからって、こちらのいうことを警察関係が聞くともかぎらないわけで」
「そういわれてみれば――リスクを抑えるのなら、毒とか使うほうがいいですよね」
 しかし、時間が切迫していたとか、そもそも私がいうたように感情的になっていて謀とか考えられる精神状態とかでなかったとするのなら、リスクの計算なんかできるはずがない訳で。

「だから、しょーもないこと」

 そこに精緻に組み上げられた陰謀の影を期待しても的外れなのだと、私は言った。


 つづく。 

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 前回、書きかけで投稿してしまった(汗 

 続き


「私はケネディ暗殺についてはよくわからないけど、色々と聞いた感じではそれらの説には問題があるですよ。つか、モサドのその話にちょっと」
「問題ですか?」
「確か、以前にイスラエルはモサドのメンバーを相当にワシントンにもぐりこませていたとかいうてたでしょ?」
「ええ、モサドはワシントンにもぐりこませていたので、ホワイトハウスの情報はかなり抜けていたようですよ」
「そんなんだったら、なんでわざわざダラスで暗殺なんかせにゃあならんのよ」
「………」
「ホワイトハウスにひとをもぐりこませているんなら、毒でも盛ればいーやん」
「……しかし、SPが毒のチェックとかしているわけですし…いや、抱き込めば」
 彼は頭はとにかく柔軟なのである。
 私のいったそれこそ適当な言葉を、脳内でまとめている。
「別にホワイトハウスでなくても、遊説先でやればいいしさー。別にあんなところでどたどたとやる必要はないでしょ」
「それは――そうですね」
 彼は遊説先だか旅行先だか、アラスカで病死したという大統領の話をだして、「暗殺説が根強く存在します」とその詳細を語りだした。
 …正直、彼が話の横道にそれ出したら戻すのが面倒である。まあ面白いのでいつも聞いておくのだけど。今日は話を進めたいので強引に戻す。
「まあその大統領はともかくとして、別に暗殺をするのなら毒でももってしまえばいいわけだしさー。なんでダラスでやったのかという話になるじゃないすか」
「見せしめ、というのはどうでしょう。いうことをきかなかったから。逆らったらこういうことになるぞと」
 なるほど。ありそうだ。
「…つい最近になるまで疑われなかったところが?」
「…それもそうですね」
 見せしめ、というのは誰がやったのかがはっきりとはしなくてもそれと解るようでなければあまり意味がないのではないかとも思う。まあこの場合はそれに当てはまるのかどうかはよくわからない。
「とにかくさー、確実に解っていることは、大統領はダラスでバレードしてて、そこをいきなりドスンとされたってことだけやん」
「はい。オズワルドは真相を語る前に死んでしまいました」
 ちなみに、佐々氏はオズワルドが犯人だと断定しているそうだが。
 別にオズワルドが犯人でもいいとは思う。資料がうまく組み合わないのと、明らかに隠蔽しようとする力学が働いて矛盾がおきているだけで、その間を「陰謀」というピースで埋めてしまう必要などはないのではないか。

 つづく

 ……あとで一つにまとめよう。

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 今日は高松にまでセドリの旅にでてた。
 まあ、セドリというか転売というか。
 GWの隙間の平日をねらい目と見ての行脚ではあるけど、それで上手くいくとも思ってない。小説の締め切りがあと一週間とまで迫ってなお何も書いてないので生き抜きという側面がおっきい。面子は私とあと一人だけではあるけど。つか、平日に一緒に同行してくれるツレというのはありがたい。特に30もすぎるとそういうことを実感するようになる。
 でまあ、車で一緒にいっていたわけだが、気の許せるツレとの間にするのは猥談とか趣味の話とか、それこそ益体もない話と決まっている。
 私は古本屋などをして多少は雑学を知っているが、ツレには歴史とか戦略とか経済とかに関してはまったくもってかなわない。とにかくそういう彼との会話は、そちらの主導にわたしが適当に相槌をうつのだというが毎度のパターンであった。
 
「ケネディ暗殺の犯人は誰だと思います?」

 そして、どういう会話の流れだったのか覚えてないけど、そういう話題になった。
 この話は以前にも聞いていた。
 確かその時は副大統領のジョンソンが妖しいという話だったのだが、つい最近になって「別の説にも説得力を感じまして」とのことだった。
 いい加減…というよりも柔軟というべきなのだろう。彼は新しい説を聞いては推論を重ねていく。決して目新しい話にとびついているわけではない。
「こないだ買った本ではユダヤの陰謀という説で、さすがにそれはどうかと思いましたけど、これがイスラエルと言い換えたら説得力があるんですよ」
「ほう」
 詳しい話は忘れたが、なんでも核戦略とかなんとか、とにかくこの当時、イスラエルはケネディの方向転換を快く思わずに、色々と手を回していたのだという。
「それで?」
「従わなかったから、ドスンと」
「なるほど」
 しかし。
「しかし、どうかな?」
 それらの説には、不備があるのである。
 私は運転しながら適当に話しをまとめた。

 続く。

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鉄砲の話。

 昔、歴史パラダイスで歴史小説を募集していた時に、王直と言われる海賊の話を書こうとしたことがある。
 この人物は日本史とかにちょっと興味があれば知っている有名人で、倭寇の頭目にして日本に鉄砲を伝来させたという。
 ――とは言っても、私が書こうとしたのは『格闘技の歴史』で、彼が好要流なる武術の開祖となっていることに注目して、武芸者としての彼を描こうとしたのだが、時間と資料が足りなくて結局は果たせなかった。
 好要流というのは松田隆智氏の『秘伝日本柔術』によると、大東流の源流となった「御式内」のこととなっているが、氏が引いた武芸流派大事典には好要流の系譜は書いてあっても、御式内だとは書いてない。氏がどのような経緯でこれを御式内だと判断したのか疑問が多いが、まあいずれこのことについては今回はどうでもいい。
 彼によって伝えられたとされる鉄砲と、それについての日本人の話だ。

 伝わったのがいつごろなのか、どういう風に広まったのかについてはいまだに諸説あるけど、だいたい十六世紀の半ばごろに日本にきたものと思われる。王直(民儒五峰という呼び名が多い)の伝とするのも本当かどうかはよくわからないが、だいたい倭寇らによって日本に持ち込まれたというのはありそうな話なので、無名の誰かよりも大物として知られる彼の名前を仮託されたのかも知れない。
 それから大して時もたたずに、織田信長は五百丁の鉄砲を注文しているのだからその広まり方は燎原の火のごときものだった。もっとも、それが戦場で戦術として使用されるまでにはさまざまな試行錯誤があったようだ。
 たとえば武田信玄(当時は晴信)が上田原の戦いで村上義清と相対した時、五十人の足軽に切り札として鉄砲を持たせているが、どうにも戦闘準備のマニュアルが確立されていなかったらしく、火薬のつめ具合のチェックなどをしている時間的余裕がなくなって、それによって「鉄砲を一丁も持っていない村上軍に負けた」という話がある。どうもそういうのは戦いが始める前にしておかねばならなかったのに、開戦になってからしようとしたらしい。五十丁でどれほど戦況が変わったかについては考える余地があるが、この戦いで板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門らの名のある武将を失っている。武田家にとっての痛恨事である。せっかく導入したのに、こんな結果となってしまっては新兵器である鉄砲の信頼性にも疑問をもたれてしまう。
 鉄砲の大量注文をした信長からして、時代によって武器の移り変わりがあって、近頃では鉄砲がはやりだが、信頼できるのは槍であると部下たちと談義したという。ここから長いのがいいか短いのがいいのかという話になるのだけれど、つまりこの時点での信長は鉄砲を大して使えると思っていなかったのだ。
 ここから武田軍が鉄砲の信頼性を失って騎馬隊を強化して、信長は軍を進化させて鉄砲隊を組織し、その二つが長篠の合戦でどちらが正しいのか証明された――といけば話は劇的で面白いのだが。

 実際のところ、長篠の合戦というのは世間に伝わっている話はほとんど嘘である。

 いわゆる三段撃ちはやろうとしてもとてもできないし、そもそもからして、武田軍には騎馬軍団なんてものは存在しない。
 このあたりを話し出したら長いので、詳細は省く。
 鉄砲が戦場で主武器となるのは、劇的なものでもなくて「いつの間にか」定着したというのが妥当ではないかと私は思える。信長は戦術家としてより戦略家、政略家として評価すべき人物で、彼は戦国時代でほとんどはじめて常設の軍隊を組織している(斉藤道三の影響ともいうが)。それまでの半農半士の兵隊たちと違って、得た教訓をブランクなしに次の戦いに生かせる彼らは、短時間で戦国百年分以上の進歩をなしえたのではないか。つまり細かいバージョンアップを繰り返した結果としてということである。 
 勿論、その背景には大量に量産される鉄砲の普及、進歩もあったに違いない。
 長篠の合戦で三千もの鉄砲が用意されたというのは嘘だが、少なくとも千丁以上はあったらしい。ところが、その十二年後のクトラにおけるアンリ四世の戦いで用意できた鉄砲隊は二十五名で、ピストルを所持できた兵士が三百人ほどであったという。この当時のフランスといえば欧州きっての先進国であったのだが、東洋の果ての日本は、鉄砲の総生産数でははるかに欧州を凌駕していたのだ。
 ここから数々の変遷を経て、鉄砲は家康によって量産規制がされた。
 家康という人物は、支配体制を長期にわたって維持していくのに何が必要なのかを熟知してたらしい。いわゆる鎖国や参勤交代などは、その代表的なものだが、鉄砲の規制もそのひとつだ。まあ、彼が直接みてきた秀吉や信長という先達の末路や、当代の知識人をブレーンにしていたりするので、彼だけの手柄というには言いすぎか。
 とりあえず、鉄砲生産の廃絶はしなかった。
 やったのは規制である。
 堺と国友という二箇所に鉄砲鍛冶を集めて、注文があったときにのみ作ることを許可した。細かいことを言い出せば違うのだが、まあだいたいそんな感じで、鉄砲は管理され、次第にその地位を失った。
 後年、オランダ人は新式の火打石式ピストルを幕府に献上した。
 これは平戸から長崎に移されるのを避けるための最後の努力であったともいうが、幕府はこの最新の銃火器についての興味を示さなかった。すでに鉄砲が支配者層にとっては重要なものではなくなっていたことを意味している。もしもこれが秀吉の時代であったのならば、これも研究されて大量生産されて、武士の何人かに一人は拳銃を携帯して、拳銃術なる武術が生まれたかもしれない――というのはないか。
 日本の鉄砲鍛冶にそれの再現ができなかった訳ではない、というのは確かだが。
 さらに時代は下って、幕末にやってきたペリーは、日本とアメリカの工業力の差をみせつけるためにさまざまなパフォーマンスをみせた。
 電信機と飛脚の競争だとか、まあいろいろと。
 その中で、当時の鉄砲鍛冶に自分の拳銃の再現を依頼した。無論、これはできるわけがないという確信のもとに行われたイヤガラセであり、その結果としてどうにかできあがったそれらしいテツノカタマリを嘲笑する意図であったのは明白だった。
 しかし、案に相違して、完成したものはオリジナルと同等のものであったという。

 鉄砲鍛冶たちはたいした注文がなかった三百年間、それほど技術を磨けなかったと思われる。実際に使われる機会がなかったのだから当然だ。だが、それでいてなお、十九世紀のアメリカの拳銃の再現ができたというのは、戦国時代に彼らがどれほどの技術水準に達していたのかの証明になる。丁度、その時期のアメリカの拳銃は停滞期であったともいうが、おおよそ二百年以上の技術の蓄積があったのは馬鹿にならない。それをただただ伝承されていた技術で埋めてしまえるのだからとにかくたいしたものだ。
 それどころか、彼らの銃は近代でなお使用された。
 開国から鉄砲が再び脚光を浴びる中、倉庫にしまわれていた銃の幾つかは改造されて軍隊用の雷管付き小銃に改造された。
 それらは見事に活躍したというが、さらに時代が下って1904年の日露戦争時には、それらの改造銃数千に二度目の改造が施されてボルト仕掛けの小銃になったのだ。
 アメリカの鉄砲専門家ロバート・キンブローは、この二度目の改造が施された種子島銃について
「私の見たのは1600年代の銘と日付のあるボルト仕掛けの小銃である。この改造銃は近代の火薬を使っても爆発しなかった! 昔の日本の職人の技術は最高級の賛美に値する」
 と述べているそうだ。

 歴史にifをつけるのは野暮だが、もしも鉄砲の技術が江戸時代を通じて発展し続けていたらどうなっていたのか――

 ちなみに、鉄砲鍛冶たちは多くが刀鍛冶などに転職したが、鉄砲製作にかかわるような技術はカラクリなどに応用されたらしく、和時計などに銃との共通する技術が使われている、という。
 そういえば時計といえば「スイス百年の平和が生み出したのが鳩時計だけ」というのは有名な文句だが、あの国でも銃が有名だ。偶然だろうが、もしかしたら似たような経緯があったのかもしれない。とりあえず江戸時代三百年の平和は、和時計を生み出した、ということで。
 だけ、ではないのだが……しかしこれもやはり、軍事技術の民間への流出ということになるのだろうか?


(って感じで、たいした落ちのないまま)終わり。

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