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いつもお世話になっていますブロ友のfmyさんが紹介されました↓「伏龍特別攻撃隊」の http://blogs.yahoo.co.jp/nostalgic_fmy/26690744.html フィギュアがありましたので紹介します。 先ずは「伏龍隊」とは、このような部隊でした。 伏龍は海軍軍令部第二部長(戦備担当)黒島亀人少将の発案によるものといわれる。航空機による特攻作戦は既に実施されていたが、1945年の沖縄戦では中間練習機まで投入され、予科練の生徒たちは乗る飛行機がなくなり余剰人員となっていた。伏龍は、これらを「有効に活用」するため考案された兵器の一つである。もとはB-29が投下した磁気機雷を掃海するために開発されていた簡易潜水具を攻撃兵器に転用したもので、実験は横須賀防備戦隊で行われた。 本土決戦では、まず特攻機が米軍の機動部隊に体当たりし、輸送艦などが接近すれば人間魚雷回天や特攻艇震洋などの水上特攻部隊が迎撃。そして上陸用舟艇を水際で迎撃するのが伏龍という構想であった。 利用された潜水具は、海軍工作学校で試作された物で、逼迫する資材と戦況に対応するため、出来うる限り既製の軍需品を用いて製作された。粗末な工作の潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛をしこんだワラジをはいた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪かった。2ヶ月の短期間で予科練生徒数に見合う3000セットが調達される予定であった。 伏龍の作戦では遊泳は考えられておらず、隊員は海底を歩いて移動することになっていた。個々の隊員は水中で方向を探る方法を持たないため、あらかじめ作戦海面の海底に縄を張っておき、これをつたいながら沖合に向かって展開する予定であった。海岸からの距離は縄の結び目の数で測られた。陸上との通信は不可能で、隣の隊員との連絡手段もなかった。海中にいったん展開すると、陣地変換はほとんど不可能であった。 潜水缶は伏龍の最大の欠陥部分であった。これは長時間の潜水を可能にするために考案された、半循環式の酸素供給機であった。呼気に含まれる二酸化炭素を、苛性ソーダを利用した吸収缶で除去、再び吸入する方式である。吸収缶には潜水艦用のものが転用された。実験では5時間という長時間の潜水を実現し、他の潜水具に見られる呼気からの気泡を生じないという利点があった。しかし、吸収缶が破れたり蛇管が外れたりして呼吸回路に海水が入ると、吸収缶の水酸化ナトリウムと海水は激しく反応し、水和熱で沸騰した強アルカリが潜水兜内に噴出し肺を焼いた。きわめて危険なシステムで、訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。また訓練期間中に空襲を受け、訓練生および教官のうち281名が死亡している。 伏龍は陸軍の肉薄攻撃(梱包爆薬を抱いて戦車に体当たりする)にヒントを得て考案された。しかし海中では視界も悪く動きも鈍くなるため、上陸用舟艇に向かって移動するのは事実上不可能であった。五式撃雷(通称・棒機雷)は長い柄を持っていたが、水の抵抗のある海中では自由にこれを振り回すこともできず、当初5mも長さがあったものが2mに切り詰められた。また棒機雷の炸薬量では、舟艇を直撃しないと被害を与えることはできなかったが、数メートル離れたところを通過しても刺突することは不可能で、隊員の直上を上陸用舟艇がたまたま通りかかった場合以外に攻撃のチャンスは無かった。しかし部隊の展開密度を上げると、棒機雷が炸裂した時の爆圧で、近くの隊員まで巻き添えになってしまう問題点があった。海中での爆発による強烈な水圧は隊員に致命的なダメージをもたらすため、上陸に先立つ準備砲撃が付近の海中に落ちただけで、伏龍部隊の大部分は駆逐されてしまったであろう。兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。このように机上の空論に基づく兵器であり、実戦に用いられた場合に成功する可能性はなかったといえる。 隊員の多くは十代後半の予科練出身者であったが、緒戦で活躍した海軍陸戦隊の古兵も投入された。伏竜部隊は鎮守府に所属し、横須賀 5個大隊、呉2個大隊、佐世保2個大隊、舞鶴1個大隊が整備される予定であった。6月から横須賀対潜学校で先遣部隊要員480名への訓練が始まった。その後潜水訓練は、神奈川県横須賀鎮守府の野比海岸、広島県呉鎮守府の情島、長崎県佐世保鎮守府の川棚などで行われ、合わせて3000人近くが訓練を受けた。米軍の本土上陸は9-10月との想定で、作戦は米軍の上陸作戦正面と考えられていた九十九里海岸などを想定していた。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。今もなお、待機所の一つが稲村ガ崎の洞窟に残る。 元俳優の安藤昇、小説家の城山三郎は、かつて伏龍訓練部隊の一員であった。 ウィキペディアより もし実戦に参加していても戦果をを得られたかは、大きな疑問が残りますね。
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各地の戦跡、遺産
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戦争末期に日本陸軍が開発した特攻専用の飛行機「剣」です。 大戦末期の資材不足の時期に開発された航空機で、資材不足に対応するためジュラルミンなどの高価な資材を使わず木材やブリキで製作されている。機体構造も可能な限り簡素化され、胴体断面は通常の楕円形ではなく、作りやすい円形であった。発動機は仕様としては隼に使用されており当時最も入手の可能性の高いハ一一五とされていたが、800馬力から1300馬力までのものならどれでも装備できるようになっていたという。プロペラはエンジンに合わせて隼用の3翅ペラの予備品を使用。主脚は離陸後投棄、再利用する簡易な鋼管構造のものとし、胴体下面に半埋め込み式で爆弾を懸架した(ウィキペディアより)。 100機以上作られたようですが、実戦には使用されませんでした。
あまりにも簡素化されたつくりのため操縦が難しく、熟練者しか乗りこなせなかったそうです。 どのような形にせよ、実戦に使用されなくて良かったです。 出撃しても目的地に着くまでに、たぶん撃墜されたでしょうから。 |
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いつもお世話になっている稲口町さんに頂いた画像です。 名古屋市南区見晴台に残る高射砲陣地の跡です。 名古屋周辺は一大軍需産業の地域でした。特に航空機の製造が盛んで、これらの工場を防衛するために建設されたようです。 当時砲台は6基あったようですが、現在は2基が残っています。 このような高射砲が据え付けられていました。 丸く書かれているのが、高射砲陣地が配置されていた場所です。 この場所は現在、笠寺公園になっており資料館も併設されているようです。
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今日から2泊3日でまたまた尾道に来ています。 ただいま尾道ロイヤルホテルで泊まっています。和室の部屋で大人3人で素泊まり13500円です。 インターネットも繋げるし、畳の部屋はやはり落ち着きますね。 尾道他色々ネタは後日報告しますが、今日はまず安浦のコンクリート船を見に行きました。 コンクリート船は、文字通り「コンクリート」で作られた船です。 戦争末期に、資材不足の中でつくられたのが、このコンクリート船です。 広島県呉市の安浦漁港に防波堤として2隻、着底させてあります。 第一武智丸と第二武智丸の2隻の輸送船です。 錨が通る部分や船首には鉄が使われています。 分かりづらいですが、第二武智丸の全景です。手前が第一武智丸です。 このコンクリート船を知ったのは、つい最近です。 色々な戦争遺跡を調べている時に、偶然見つけました。 コンクリートで船を作らなければならないほどの、資材不足。しかし、実際にコンクリート船を作り浮かべ走らせた当時の日本の技術力、素直に凄いと思います。 このコンクリート船は機会を見て、もっと詳しく紹介したいと思います。
写真は漁業関係者の方の許可を頂き、撮影しました。 |
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終戦後65年経ち戦争への意識も薄れつつあります。 しかし、戦争の悲惨さは、後世に伝えていく必要があると思います。 今回紹介するのは、特攻兵器「桜花」です。 既にご存知の方も多いと思われますが、これは人間爆弾です。 桜花のエンジン部分です。 推進火薬ロケットが3本セットになっています。 火薬ロケットです。桜花の胴体の後ろに見えていますね。 火薬が爆発する時の推進力を利用したものです。 ほとんど滑空飛行だったので、発進される高度がポイントだったようです。 一式陸攻を母機としてこれにぶら下がり敵艦の近所まで運ばれ、そこで発進し攻撃を目的とした兵器です。
しかし、一式陸攻の積載重量は800kgの爆弾又は魚雷です。これに2千数百kgの桜花を吊り下げて行くのですから、どうなるか誰の目にも明らかです。当時はこれしか方法がなかったのでしょうか? 色々考えさせられますね。 |





