河童の川流れ〜

被災地の皆様が、一日も早く、いつもの暮らしを取り戻されますように。

長崎

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長崎 夕景

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長崎の夕景です。
日が沈んで、だんだんと西の空が茜色に染まると、長崎湾も赤く染まっていきます。

ちょっと無理して、女神大橋のアップ。
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橋をからめて、夜景の名所である稲佐山展望台
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空も、茜色から藍色に変わってきました。
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最後にパノラマでございます。

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黄昏時も終わり、とりあえず、有名な稲佐山に移動。
道が大渋滞で、駐車場に入るまで1時間近くかかりました。
ということで、オマケで、稲佐山展望台から、1000万ドルの夜景。
一応、長崎の夜景といえば、ここからの夜景が有名です。
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残念ながら、空が真っ暗で、稜線も見えず。
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坂本竜馬の像といえば、高知の桂浜が有名ですが、長崎の風頭公園にも竜馬は立っています。
大きさでは桂浜に負けていますが、ここの竜馬はなかなかいい男です。

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私も、大学時代に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、萌えた、いえ、燃えた男の一人です。

ということで、本日は、写真の出来はともかく、竜馬の事跡を振り返りながら記事を書きたいと思います。



竜馬が初めて長崎を訪れたのは、1864年、30歳のとき。
幕臣であり、竜馬の師匠ともいうべき勝海舟に同行してやってきます。
翌年の1865年には、薩摩藩の支援のもと、土佐の脱藩藩士らとともに、貿易を目的として、日本最初のカンパニーと呼ばれる「亀山社中」を設立。
グラバー照会との取引を開始しました。
そのころ長州は、朝敵とされて第一次長州征伐を受け、それに屈して、失意の状態。
当然武器の調達もままならないところに、薩摩藩の信任状と取り付けて長州に武器の転売を行い、長州からの信頼を得る。
それが、翌年1966年1月「薩長同盟」の締結につながります。

亀山社中資料館で撮影させていただきました。
亀山社中の一員になりきった河童でございます。(奥様撮影)
残念ながら、腕の組み方が逆でした。
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さて、1866年8月には、高杉晋作らの不穏な動きに対し、幕府は第二次長州征伐を行ないます。
しかし、第一次征伐の主力であった薩摩はすでに「薩長同盟」の密約で動かず、結果、幕府軍の敗北に終わります。
幕府の権威は地に落ち、これが結局倒幕の決め手になりました。

亀山社中資料館のそばの、山の中腹には、靴のまま履ける「竜馬のブーツ」があります。
ブーツを履いて、ご満悦の河童の奥様。
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そして翌1867年。脱藩した土佐藩との関係を改善し、土佐藩をスポンサーとして「海援隊」を設立。新政府のプランをまとめた「船中八策」を土佐の重鎮、後藤象二郎に示し、象二郎はそれを元に「大政奉還」を藩主 山内容堂に進言。
容堂は、「大政奉還の建白書」を幕府に提出し、それを受けて、10月、京都二条城で大政奉還が行なわれた。

そしてその直後の12月、京都の近江屋で暗殺されました。
なんと、初めての長崎訪問から4年足らず・・・・。
享年33歳。満年齢なら32歳。
密度の濃い人生です。

そして、竜馬が歩いたと思われる坂道のほとり。
役場の立てた看板と、ボランティアの方の立てた案内板で微妙に距離が違うのが気になる・・。
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竜馬通りの猫。
なぜか、坂道には猫がよく似合います。
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寺町から、亀山社中に向かう坂道
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もう一度、「竜馬がゆく」を読み返してみたくなりました。
息子に返してもらわなくちゃ。

※興味にない方にはコメントに困る内容ゆえ、今回もコメ欄をとじさせていただきます。

長崎 グラバー園

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長崎の観光地と言えば、グラバー邸が思い浮かぶ人も多いはず。
開港にともなって、外国人の居留区が生まれ、そこに洋館が建てられました。
大浦天主堂の背後に並ぶ洋館群は、特に立派な邸宅が多く、グラバー園として整備され公開されています。

旧スチイル記念学校
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旧三菱第2ドックハウスから、三菱重工長崎造船所を望む。
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グラバー邸
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グラバー邸のアーチ越しに、イギリスと日本の国旗を見る。
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グラバー邸の温室に飾られた鉢。
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舗道に埋め込まれたハート型の敷石。
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※またまた観光案内的記事でありますので、コメント欄を閉じさせていただきます。

長崎 大浦天主堂

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大浦天主堂は、日本最古の現存するキリスト教建造物であり、国宝でもあります。
立ったのは、江戸時代末期の1864年。
黒船が来航し、日米修好通商条約が結ばれて、神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫の五港が開港されたることになりました。
5年度、開港された長崎の外国人居留区内に立てられたのが、この大浦天主堂です。

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教会の正面には優しい表情のマリア像。
豊臣秀吉によって処刑された6人の殉教者のために捧げられた教会です。
美しい木造のゴシック様式。
残念ながら、美しいアーチを持つ教会堂の中は撮影禁止でした。

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教会の隣に立つ旧羅典神学校(現在は資料館)から大浦天主堂の側面を見てみる。
屋根の瓦は明らかに和瓦で、日本の棟梁の匠の技と、西洋の建築様式の融合に新鮮な驚きを感じました。

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開いた窓から、美しいステンドグラスや、アーチの柱の様子が垣間見えました。



「信徒発見」という事件をご存知でしょうか?
恥ずかしながら私は知りませんでしたが、大浦天主堂が建った翌年、長崎浦上村(浦上天主堂の立つあたり)の住人が数名が教会を訪れ、自分がキリシタンであることを告白したといいます。
ご存知のように、江戸時代はキリスト教は禁止されていましたから、その間、ずーっと隠れキリシタンとして先祖代々キシスト教を守り通してきたわけです。
実は、彼らだけでなく、長崎や五島列島、天草などに多くのキリシタンがいっるということが分かりました。
この出来事は、「信徒発見」として、教皇を感激させ、「東洋の奇跡」と呼ばれたとのこと。
ただ、残念なことに、自らがキリスト教信者であることを表明した者達は、明治政府の弾圧にあい、拷問の末流罪となりました。。
その後、その弾圧が欧米に知れることとなり、欧米からの圧力によって1873円(明治6年)にキリスト教が公認されました。
1614年の禁令以来、259年ぶりのことでした。

前日の夜撮影したライトアップされた大浦天主堂です。

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※観光案内的な内容でもあり、今回もコメント欄を閉じさせていただきます。
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雲仙と言えば、普賢岳の火砕流を思い出す人も多いだろう。
溶岩ドームが崩れ落ち、すさまじい噴煙とともに斜面を灼熱の土砂が駆け下りてくる様子はテレビで何度も放映された。
髭の島原市長も有名になった。

1990年に噴火を始めて、溶岩が盛り上がってできたのが、写真左側の山で、「平成新山」と呼ぶ。
火砕流は、ここにできたいくつもの溶岩ドームが崩れて斜面を駆け降りたいったものだが、今でもその跡ははっきりと残っている。
1995年に一応噴火活動は停止し、今は流れた火砕流の跡にも多少草らしきものが生えているようで、草原のように見える。

ただ、頂上には不気味な溶岩の突起も見える。

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雲仙・妙見岳(1333M)から有明海を隔てて、熊本方面を望む。
山頂の風はかなり強く、すすきも横に流されてます。

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雲仙温泉 雲仙観光ホテル
温泉卿のホテルというよりも、リゾートホテルの雰囲気がいっぱい。

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