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大講堂の横にある、横幅140mのレンガ色の建物は、幹部候補生学校庁舎。 いわゆる海軍士官学校。 「新しそうに見えますが、明治26年の建築です」とガイドのおじさん。 日露戦争が明治37年ですから、「坂の上の雲」の主人公である、秋山真之はここで勉強していたのかも。 ちょっと分かりにくいかもしれませんが、金色に輝く、「桜に錨」。 校舎の前の砂はきれいに箒のあとがつけられています。(が、そのときは気付かなかった足跡が・・・) 140mの廊下を歩くのは、幹部候補生でしょうか。 この堂々とした立派な建物は「教育参考館」。 先輩達の偉業を顕彰し、学術研鑽のために、建設されました。 昭和11年の建設です。 この中には、明治維新前の勝海舟の時代からの海軍の歴史を分かりやすく展示してあります。 歴史的な資料も多いことから、館内は撮影禁止。 また、戦争で死んでいった英霊への敬意を表すため、帽子の着用も禁止です。 「教育参考館」の特に顕著な傾向としては、「人物」に焦点を当てていること。 歴史の流れというよりも、日露戦争の統合元帥とか、太平洋戦争の山本五十六元帥とか、その他多くの海軍の将軍であった方々の書なども展示してあります。 そして、その中に、太平洋戦争で特攻隊の一員として亡くなった方々の遺書などもあり、やっぱり泣いてしまいました。 展示してある色紙には、「轟沈」「至誠」「殺」「礎」などの文字が並びます。 戦争は決して正しい行為ではありませんが、国を守り、家族を守ろうとして崇高な志と決意は高く顕彰されるべきものでしょう。 そして、有為な人材を若くして戦地に赴かせ、さらには特攻などという愚を演じてしまったことを深く反省しなければなりません。 色紙の「礎」という文字を見ながら、私達が今生きている日本という国、そして国土があるのは、大きな犠牲があったからこそなのだと思いました。 少なくとも、しっかりと生きなければ・・・。 手前の潜水艦らしきものは、「特殊潜航艇」で、右の大砲の弾は戦艦大和の主砲砲弾。 一緒に見学したのは40人くらいだったでしょうか? 日曜日の3時からの見学にしては予想外に多いように思いました。 平日の見学ですと、生徒が訓練している様子なども見れるとか。 見学時間は1時間30分ほどでしたが、「参考館」をじっくり見学しようと思うと、時間が足りませんでした。 最終の見学組だったので、居残り不可でしたが、最終でなければ、居残りして長く見学することもできるようです。 広島市内から1時間半近くかかりますが、一度は見学する価値があると思います。 ご訪問ありがとうございます。 昨日の続きですので、コメ欄閉じさせていただきました。 |
呉方面
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江田島の海軍兵学校は、明治21年に東京の築地から広島県江田島に移転してきました。 以来、130年にわたって日本海軍の教育の中心です。 と言いつつ、私自身、広島に住みながら始めての訪問でした。 特攻隊で死んだ人の遺書などを展示しているという話は聞いたことがありましたが、流石に歴史のある学校だけに、建物の一つ一つも見ごたえがありました。 最近は、呉の「大和ミュージアム」とセットで訪れる人が増えているようですが、呉からでも、音戸大橋を渡って、車で30分以上かかるので、ちょっとした島巡りドライブコースになります。 それでも十分見学する価値のあるものでした。 最初に見学した大講堂は、大正6年に建設されたもの。 「先端に十字架を乗せたら、これ以上の似合う建物はない」と自衛隊を定年退職したガイドのおじさん。 外壁は花崗岩で、とても威厳に満ちたな建物です。 内部もなかなか、見事な造りになっています。 漆喰の壁に、木のモールディングが重厚。 私は見ていませんが、「坂の上の雲」のロケもあったようです。 「坂の上の雲」の日露戦争は明治37年ですから、もちろんこの講堂はなかったのですが。 「桜に錨」のマーク。 若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨・・・・。という軍歌もありましたが、桜というのは、軍人としての潔さや、大和魂を象徴するのでしょう。 太平洋戦争で散っていった若い隊員のことを思うと、ちょっと切ないです。 戦争で散っていった隊員も、この立派な講堂を見上げつつ、国を守るという誓いを胸に、各地の戦場へと旅立っていったのでしょうね。 ご訪問、ありがとうございます。 もう少し、海上自衛隊第一術科学校見学記を続けます・・・。 |
コメント(9)
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日曜日に、久しぶりに呉経由で江田島方面をドライブしてきました。 島から見えた大きな入道雲。 遠い日の夏休みを思い出します。 ※ドライブの主目的は、江田島の海上自衛隊の第一術科学校(旧海軍士官学校)の見学でした。 こちらは追ってアップしたいと思うのですが、取り急ぎ、目に焼きついた入道雲を。 ご訪問ありがとうございます。 ※前振りのような内容でもありますし、コメ欄閉じさせていただきました。 |
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呉の市内を抜けて、音戸方面に少し走ると、非日常的な光景を目にする。 巨大なクレーンが立ち並ぶ大きな造船所。それも非日常的だが、さらに坂道を下ると、そこには何隻もの灰色の船が停泊している。 自衛隊の艦艇である。 目立たないが、潜水艦の姿も見える。 呉は軍港である。自衛隊は軍隊ではないことになっているが、それが明らかに軍隊であるからには、その艦艇は軍艦であり、その港は軍港と呼んでもいいだろう。 第二次世界大戦においては、日本海軍の中心でもあった。 先週のことになるが、呉方面にドライブに行こうと調べていると、自衛隊の艦艇見学ができるという。 午前10時前に所定の場所に集合すると、観光バスや県外ナンバーの車まで来ていて、およそ60〜70人の見学希望者が集まっていた。 普段は入れない門の中に入り、艦艇に乗って見学ができる。 といっても、甲板だけではあるが・・・。 今回見学した船は「護衛艦いなずま」 通常の海軍でいえば駆逐艦に相当する。 軍艦であるので、砲台もある。 普通の船には決してないものだ。 船尾には海軍旗があった。その向こうにはさらに数隻の艦船が停泊している。 浮き輪と艦艇。 これはうちの奥様が撮った写真。 私の撮ったものより出来がいいと思ったので使わせてもらうことにする。 今年入隊したばかりと思われ隊員たち。 何を胸に自衛隊に入隊したのか・・・。 高台から見下ろしてみる。 左隅に自衛隊の艦船が見える。 正面の工場の屋根と巨大なクレーン群。 その向こうには建造中の客船。 この工場は現在 IHIの呉工場だが、終戦までは「呉海軍工廠」であった。 戦艦大和もここで作られた。 当時、多くの人たちが巨大な戦艦がここから出撃していく様を目にしたに違いない。 ある人はその威容に祖国の勝利を確信し、ある人は肉親を連れ去られた悲しみにくれただろう。 昭和20年4月7日。戦艦大和は片道の燃料だけを積んで沖縄に特攻出撃し、あえなく撃沈された。 さわやかな春風を受けながら、私たち夫婦は軍艦の甲板を歩きまわった。 たしかに軍艦ではあるが、第二次大戦後、わが国は戦争に巻き込まれることもなく、したがってこの大きな鉄の塊がその機能を発揮することもなかった。 そして、これからも「宝の持ち腐れ」になることを願う。 私は右翼でも左翼でもない。 しかし、日本人であることに誇りを持ち、日本をこよなく愛する人間の一人であることは間違いない。 65年前の日本人は、家族と国家の将来を守るために戦地に赴き死んでいった。 その時、他の選択肢はなかったのだ。 知覧では特攻隊員の遺書も読んだが、やっぱり泣けた。 戦争はすべきでない。 それは当り前のことである。 そして、現実に戦争ができない世の中になりつつある。 あのアメリカでさえ、イラク一国を思うように扱うことはできなかった。 軍事力そのものも核兵器と同様に外交交渉の重要な要素にはなり得ても、実際に戦争を始めれば甚大な被害が出ることは明らかであるため、始めることができない。 たとえ相手を打ち負かしても、自分のろっ骨が数本折れ、さらに、周囲の人からも軽蔑されるような喧嘩を誰が望むだろう? 勝てば官軍の時代は終わったのだ。 地球は小さくなった。 一人勝ちしても、地球が駄目になったらおしまいだ。 これからは「地球に住む誰もが幸せになるにはどうすべきか」が重要になる。 世界的不況も、イスラム社会とアメリカとの確執も、地球温暖化も、その発想がなければ解決しないように思うのだ。 宇宙船地球号的発想とでも言うべきか・・・・。 未曾有の世界的危機を、なんとか新しい時代の幕開けにつなげてほしい。 20世紀的な世界に幕引きを! 長々と文章を連ねてしましましたが、写真が写真だけに、私が右翼であるかのような印象を与えるのも嫌だし、かといって、無責任な戦争反対論者に思われるのも本意ではない、ということでくどくどと書いてしまい、失礼いたしました。
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色とりどりのツツジが咲く音戸大橋は、観光パンフレットなどにも必ず登場する風景である。 今回、狙っていったわけではなかったが、ラッキーなことにツツジの花が咲き始めたところだった。 音戸大橋は、広島県呉市と倉橋島の間の水道「音戸の瀬戸」にかかる橋である。 もともとは陸続きだったものを、船での便を良くするために、平清盛が切り開いたとされる。 大きな船も航行するため、ループで高い位置まで上がり、橋がかかっているというコンパクトな設計になっている。 島に渡って呉市側を見る。 水道の幅は90mほどしかなく、向こう側の様子もよく見える。 おまけ。音戸の瀬戸を優雅に鷹(とんび?)が飛んでいた。急いで撮ったら少々ピントが甘かったが・・・。 |
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