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ある日の問答にて。 私「先日、老師様にお教え頂いた、動中の工夫の方法(日常の修行法)として、 『今のこの存在、今わたしがこうしているのは、何がこうさせているのですか?』 といつも自分に問いかけることで、工夫(修行)をしている姿勢を保ち続けようとしていますが、 答えは全く分かりません…」 老師「根本的な問題ですよね、 誰がしているのか?何がそうしているのか。 うーん、それさえ分かれば全て解決がつくんですから、 たったそれだけの簡単な問いですが、根本的な問いですよね。 それだけのために、修行者たちは皆、昔から苦労したんですよね。 でも、それが分かれば、何ていうことは無い。 いつでも、横になってゴロンとしておれる、大安楽の様子というものが手に入りますから。」 老師「坐禅の力が、それの答えを開いてくれます。うん。『坐の功なり。』と言うんですけどね。 やはり、しっかり坐ることですね。習慣的に。そのことの、そういうこと(習慣的に坐ること)が あって、やはりこの、『これ何ぞ?』の答えが向こうからやって来るという、 こういう時節がある訳で。特別に新しいものを発見するわけではない。 『今ある、このもの』の真相がおのずから明らかになる。 このものと、自分との間になんの隔たりもない。それが直下という。」 そのとき、慈空老師が湯のみをお膳の上にやや力を込めて置いた音が響いて、 湯のみの音が、「コン!」 老師「これが直下という。(中略)そのものそれという以外、説明がつかない。 そのものそれに落ち着けるということが大事ですよね。 ものが、それ自体である、とう以外ありようがない。」 再び、湯のみの音「コン!」 老師「このまんま。 それが、只管打坐というものだし、それが坐禅の様子だし、本来の面目というのもそれだし。 道元禅師の自受用三昧ということ、おのずから、自受用三昧。誰がどうするとかでない、 どこにもとどまっていない。」 老師「(先師)青野敬宗老師の所に行ったらね、 『今、あなたがそうしておるのは、あなたの何がそうさせておるのか?』と聞かれた。 『これ何ぞ?』と同じ。 馬祖の、『何者かここに来る?』と同じ。 雲門さんの所に修行僧がやって来た、で、雲門さん『これ、何ぞ?』、修行僧は悟りを求めて、 解脱を求めて、さとりを自分の外において、天地の外において、求めてきたときに、 『これ何ぞ?』、、、それで、修行僧は自己を忘じ、解脱をしたんです。 あるがままのまっさらのこれ以外、何ものも無い。 敬宗老師のね、『今、こうさせておるのは、自分のどこや?何や?』と、現代のことばでね、 これも、祖師方の問いと同じ。 『これ、何ぞ?』といって何か特別なものを見たらいけない。 ものが、あるがままに、あるように、そのようにある。 その様子、その様子にぴったり一枚になれば、それで終わり。 何か、特別なものが、何かあると思ってはいけない。それを求めてはいけない。」 私「頭では、それだけだな、と思うのですが…なかなか…」 老師「それだけだ、それだけだ、とだけ念じておっても良いし。一切の是非善悪を越えて、 それだけだ!それだけだ、ということだけ、粘提しておってもいい。 特別な神々しいものはない。 茶に逢っては茶を喫し、飯にあっては飯を喫し、それ以上に神々しいものはない…」 老師「もう一杯お茶を入れましょうか。」
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全てを受け入れなさいヨって、ことでしょうか〜?
写真はサイフーさんの家の窓から?
外国かな!
2007/6/5(火) 午前 0:26
レットゴーさん、こんにちは。写真は家内のドイツにいた頃の部屋の風景です。文章の方は、二元対立を超えた世界を垣間見るための手法です。心の持ち方を紹介したものではなくて、方法を紹介したといいますか…^^;
2007/6/6(水) 午後 11:59
>どうすればいいのか・・?
そう聞くと、「その心を出しなさい」???
そう言われたんです。
これって、達磨さんが神光に言った言葉ですね。
みんな知ってます。
私笑いそうになりましたが、必死でこらえましたよ。だって大真面目で言うんですから・・
自分以外は知らないと思ってるんでしょうね。
2016/12/11(日) 午後 8:02 [ 桃色 夏海(ももいろ なつみ) ]