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●今回は道元禅師が、坐禅初心者への心得として記された「仏道用心集」の第三章です。 「右、俗に曰く、学べばすなわち録その中に在りと。仏ののたまわく、 行ずればすなわち証その中に在りと。未だかつて学ばずして録を得る者、行ぜずして 証を得るものを聞くことを得ず。 たとい、行に信法頓漸の異なりあるも、必ず行を待って超証す・・・(以下略)」 (現代的に置き換えるてこの言葉を考えて見ました) ○世間でも、一生懸命努力、勉強すればそのように勉強することで、いい仕事に就いて、良い収入を 得るということが、可能になってくるといいますが、お釈迦様も、「修行すれば その結果(あかし、さとり)はその修行することの中に生じてくる」とおっしゃっています。 未だかつて全く懸命に努力、勉強、(または知恵を絞る)こともなく、 いい仕事につけて、良い収入を得る人がいないように、 (坐禅を)実際に行いもしないで、その結果である、証(悟り)を得たという人を 聞いたことがない。たとえ、信じながらゆっくり修行が進む人と、直ぐに法を悟って修行による あかしが、早い人の違いはあっても、必ず実際に(坐禅の)行いをすることで、 結果を得るのです… これは、第三章の始まりで、全体の3分の1程度の部分にあたります。 さて、このブログの趣旨は、知解を深めるためのものではなく、 あくまでも「坐禅を行うにあたっての、(ロケットの)ブースターのような役回りができれば…」 ということにありますので、 全文にご興味ある方や知識としてこの「学道用心集」を正確に勉強されたい方は 是非、書店で関連の解説本をお求めくださね。^^ さて、本文で道元禅師は、 「仏道は必ず行に依って証入すべき事」つまり、仏道とは、必ず修行を行うことで証を得ていくことが、 大事だとおっしゃっています。 坐禅はなんのために修行するのでしょうか? 少なくとも、我々社会人が貴重な時間を費やしてすべきことは何でしょうか? 「本当に救われること」「心底、うけがえること」ではないですか? 経典や、祖録をどれだけ諳んじれるようになったところで、 無眼子のまま(救われないまま)で一生を終わるのなら、意味がありません。 道元禅師は、「普勧坐禅儀」の中でも、 「…超凡越聖、坐脱立亡も、この力(坐禅の定力)に一任することを。いわんや、(中略)未だこれ、 思量分別のよく解する所にあらず、(中略)然れば即ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者をえらぶこと なかれ。専一に工夫せば(頑張れば)、正にこれ、弁道(修行)なり。」 と、「(仏道の真実は)考えや知識分別で、理解できる所ではない。」と、こうおっしゃっています。 ですから、本を読んで分かったつもりになれたとしても、 戒律や、作法を身につけて、人から尊敬されるほどの人格者になれたとしても、 本当に、真実、自分自身に誠実で、「誠」を持つ人ならば、 自分が、真実救われたかどうかは、 「冷暖自知(飲んでみれば水がつめたいかどうか直ぐ見分けがつく)」 ように、自分を偽ってさえいなければ直ぐに見分けがつくはずです。 それまでは、ひたすらに、坐禅を行じていくしかないのです。 臨済宗の白隠禅師坐禅和賛にも、 「それ摩訶えんの禅定は、賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行、みなこの内に帰するなり」と、 示されています。 さあ、仏典や祖録の研究などはすでに修行を成し遂げられたお師家様方にお願いして、 私たち、凡俗の社会人は、細かな文字を追いかける時間があるのなら、 極力、只管に打坐しようではありませんか。 公案を頂かれている方がたは、ひたすら、公案に参じているのです、 只管打坐するものは、ひたすら、坐禅に参じることせずして、 何を油を売る暇がありますか? 私たち限りある人生を自分が救われるため、 また、困っている人が救われるため、 できる限りの修行に費やさずして、 無常の風に吹かれるにまかせるのですか? さあ、坐りませんか? (テキストは大法輪閣「澤木興道 学道用心集講話」を参考にしています。) |
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2013/4/26(金) 午後 5:36 [ イエスちゃん ]