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今日、この本のことを思い出して書棚から出して、久しぶりに読んで見たのは、 最近、スリランカ仏教の長老さまが、 「般若心経」を上座部仏教の観点から批判されている本を新たに出版されているようで、 私も、書店の店先でパラパラと見させて頂いたことが発端でした。 (すみません、この本はまだ購入までには至りませんでした。) 「般若心経」の内容を上座部のお立場から真摯に批判されているのですが、 南方仏教の原理原則にきっちりと則った説明のしかたは非常に分かり易く、 若い方は、大乗仏教の全てが「間違いである」または、少なくとも「非仏説なので仏陀の教えではない」 という強い印象を受けるかもしれず、般若心経の内容や大乗仏教の本意を残念ながら、 勘違いしてしまったり、「大乗仏教は後世の作り話で、全く意味がないのではないか?」と いった疑問に囚われてしまうのではないか、という印象を個人的には、受けました。 事実、私も大乗仏教に対して、数年前までは、そういった迷いがありましたが、 老師様について教えを請うていく中で、また、この竹村牧男先生の著作や祖師方の言行録などから、 そのような疑問が晴れていきました。 もし、そういったことで、悩まれている方がいらしたら本当にお勧めの一冊です。 上座部仏教のみが「釈尊の教え」を伝えていると、いう主張が如何に乱暴な主張かが、 歴史的事実と綿密な文献研究の事例を用いて分かり易く説かれています。 私は、個人的には大乗仏教の核心、仏心宗たる禅の流れの方が、仏典の最古層の諸経典の エッセンスをしっかりと伝えてきているという印象を受けました。 (上座部が伝える南方経典のほとんどは、アショカ王以降の編纂、改定作業が加わっているようです。) 参加してます→にほんブログ村 画像は、「行きたいのは山々」 (*しばらく、更新できなくて、ご迷惑をおかけした方もいらっしゃってすみませんでした。
出張等の兼ね合いもありますので、悪しからずお許し下さいませ。) |
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これが正しくて、他は間違い、そう言った時点で、それは間違い、という気が私はします。
釈尊は自らは何も書き残していない。現存最古の経典は、釈尊の死から数百年後に書かれたもので、いつ誰が書いたものか分かっていない。
釈尊は死んでしまって、この世にいない。
こんな状況ですから、どれが正しくて、どれが間違っているなんて、言えるはずないですよね。どれもその確証がないのですから。
2007/8/29(水) 午前 7:46 [ mag**iok ]
般若心経のサンスクリット原典を日本語訳したものを最近ネットで読みました。
般若心経は、大乗仏教の経典であり、小乗仏教を否定していると解説されていたのを以前に読んだことがありましたが、その日本語訳を読んで、そのことが更によく分かった気がしました。
そこでは、釈尊が瞑想する側で、小乗仏教の代表たる釈迦の直弟子であるシャーリプトラ(舎利子)が、大乗仏教の象徴である菩薩(観自在菩薩)に教えを請い、それに対して菩薩が、小乗仏教の教義をことごとく否定し、最後に真言の重要性を説く、その説法が終わったところで、釈尊が瞑想を止めて、菩薩の言うとおりで間違いない、と言う、という流れでした。
これはまさに、大乗こそ正しい、と釈尊が認めているということを言いたいのですよね。
それに対して小乗仏教側が反論したくなるのは、まあ当然なのでしょうね。
2007/8/29(水) 午前 7:52 [ mag**iok ]
小乗の代表たる上座部仏教、スリランカの僧が言っているのをネットでみると、彼らの経典は、釈尊の死の直後に教義を集大成したもので、当時の言語で書かれていて、それから全く加筆訂正がされていない。だからこれこそ釈尊の直説である、と主張しているようですね。
でも、学説では、確かに古い言語ではあるが、釈尊の当時の言葉とは少し違うし、経典は後世に加増されている部分がある、ということのようですね。
どこまでが直説で、どこからが追加部分かは、また難しい問題のようですが。確証がないですからね。
2007/8/29(水) 午前 7:57 [ mag**iok ]
釈尊の直説にこだわる必要があるだろうか、究極には、そこに問題があるような気がします。
でも、仏教というからには、釈迦の直説が根底にないといけないでしょうし。でもそこには確証がない。この辺までは直説なのではないか、という状況証拠があるだけ。また釈尊は方便も使っているから、それが真理とは言い切れない面もある。
こういう状況では、正しい仏教という論争に終着点があるはずがないですね。
2007/8/29(水) 午前 7:59 [ mag**iok ]
magagiok さん、こんにちは。数々のコメントありがとうございます。「正しい仏教」論争にしてしまうと戯論の罠に嵌りそうですね。現時点で、最古と言われているスッタニパータの4章、5章の内容とその他の南方経典を比較するとどうしても後者のほとんどがアショカ王以降の編纂と言わざるを得ないと思います。そうなると今上座部が主張していらっしゃることは歴史的には少々疑問もあるのかなと思います。(宗教論としてではなくです。)その上で個人的には心経のエッセンスは最古層に連なる部分があると感じています。
2007/9/2(日) 午後 4:36
スッタ・ニパータで私が好きな言葉のひとつに「ありのままに想う者でなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でも、想いを滅した者でもない」というのがあります。
それをどう解釈するか、それが悟りを解明する鍵のような気がします。
想いというのは、思考というのは言葉によってなされますから、それは戯論寂滅の世界とも言われますよね。
般若心経は、それを一言で「空」と表現した、私はそう解釈しています。
それを、得るべき悟りなどない、としたのが禅、とそんな気が私はしています。般若心経においては「無智亦無得 以無所得故」ということになるでしょうか。
2007/9/2(日) 午後 9:22 [ mag**iok ]
こんばんは。仏教に限ったことではないのでしょうが、哲学や思想は大きいほど深いほど、その解釈の仕方は多様になるのはやむを得ないと思います。
山は高いほど裾野が広くなるように。
ヒマラヤ山脈の南側と北側では全く風景が異なりますが、頂上は同じですよね。
2007/9/10(月) 午後 9:18
magagiok さん、こんにちは。「ありのままに想う者でなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でも、想いを滅した者でもない」は、私も好きな一節の一つです。おっしゃるとおりこれはひとつの鍵かもしれませんね。ただし、わたしは、これは解明するものではなく、同じスッタニパータにある「伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法をわたしはそなたに解き明かすであろう。・・・(1053)」と、釈尊がおっしゃっているとおり、「体得」すべきものではなかろうか、と感じています。
2007/9/16(日) 午後 9:05
さんちゃごさん、こんばんは。いつもコメントありがとうございます。^^「解釈の仕方は多様になるのはやむを得ない」は、本当にそうですね。「頂上は同じ」と私もずっと、思ってきていたのですが、1つの信仰体系を学べば学ぶほど、他の体系との共通項とともに相違点もどんどん知っていくことになってしまって、今では、「哲学、思想」が「頂上」なのか、「同じ頂上」だという考えは私の中では希望的観測かなぁ、という感じになってきています。ただし、むやみに対立する必要もないとは思いますが、大乗仏教の経典への他の立場からの批判の内容が、若い世代の方がたに無批判に、あるいは基礎知識をなしに受容されてしまっては、日本における大乗仏教の未来に関わることかもしれないので、少し心配をし、不勉強ながらも批判に対する疑問を呈せざるを得なかったのですが…。
2007/9/16(日) 午後 9:13
「体得」したものを、どのように語るか、そこが問題ですよね。
悟りは言葉で言い表せない、と言われることがありますよね。
そうすると、言葉で表現できないものを体得した人は、それを他者に伝えるには、どうしたらいいのだろうか、という大問題が持ち上がりますよね。
他者にそれを伝えようとするなら、自分が体得したものを、「解釈」して説明しなければならない。そこが、頂上が同じなのに、その登山ルートがたくさん出来るひとつの理由、なんてそんなことを考えたりします。
悟りを得た人が複数存在した場合、ある人の悟りと、別な人の悟りが、同じものか、違うものか、それを断定できる確たる証拠は、永久に得られない。なぜならそれは、本来、どちらも言葉で表現できないものだから、とそんなことも思います。
でも、言葉を尽くせば、ある程度のことまでは、説明できるだろう、共通認識を持てるだろう、そう思います。
だから、解釈することは、とても重要なこと、そう思います。その努力の跡が、経典の膨大な言葉、そう思います。
2007/9/18(火) 午前 9:10 [ mag**iok ]
突然失礼します マガギさんのみっつめのコメ異論があります 確かに原始経典と言われているものの多くが後代の加筆というより製作でしょう しかし 詩の形で書かれている 反復されている などの方法で古い層は検証可能だとおもいます また大乗経典のほとんどが五百比丘結集を無視しているので問題があると思います
2007/9/25(火) 午後 1:41
ちょっとサーリプッタの味方の立場として一言言わせて下さい 観自在菩薩は架空の人間です サーリプッタは実在の人物です 般若心経は誰が書いたか分からない怪文書の類です 維摩経も同じことがいえます 原始経典が問題あることは事実です しかし怪文書、つまり誰が書いたか分からない大乗経典と原始経典とを同列に扱うのはおかしいです
2007/9/25(火) 午後 1:50
原始経典の中に釈迦の直説の部分がある、というのを、ある程度までは検証できるでしょう。しかしそれは、結局は推定でしかありません。それで間違いないという確たる証拠がない、ということです。原始経典もまたいつ誰が書いたものか分からないからです。また、それを検証するために使った資料にも、それが完全に正しいという証拠はないでしょう。
原始経典のどの部分までが釈迦の直説で、どこからが後代の加筆修正であるか、それを特定できる、万人が納得できる証拠がない、ということです。
それでも、最大公約数的なものが学界の通説としてあるようですので、それは大いに参考にすべきなのだと思います。
2007/9/27(木) 午前 7:46 [ mag**iok ]
大乗経典の中にも、原始経典に書かれている内容と趣旨が同じものが現れてくるようです。
大乗仏教は、原始経典を元に、新たな観点から仏教を展開したのでしょう。
それを同列に扱うのは、おかしい、という主張も、もっともだと思います。
また、大乗経典の中にも、いろいろあるようですので、大乗経典だからと同列に扱ってほしくない、ということが言われるようですね。
2007/9/27(木) 午前 7:52 [ mag**iok ]
ヒロシさん、magagiokさん、私から、なかなかコメントできなずすみません。更新のペースが非常に遅くて…お二人の議論はとても参考になります。私の意見としては、釈尊が得た悟りが禅にも受け継がれていると思えることを傍証できる文献が初期仏教の経典にも見出されうるという問題提起がしたかったことと、現在「学術的」には、原始経典でさえも必ずしも釈尊の直説を一字一句違わずに伝えているとは言えないという事実を提示したかったということです。南伝仏教の経典が現在さかんに宣伝されているように「科学的にも釈尊の直説を伝えている」とは必ずしも言い切れないということを広くお伝えしたかったのです。
2007/9/29(土) 午後 11:21
本件、玄侑氏に問題があり、批判を載せました。笑覧あれ。
http://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006/841551.html
2008/1/20(日) 午前 0:04 [ イエスちゃん ]