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今回から、禅ブログ管理人サイフーの坐禅の師、宮崎慈空老師の修行時代のことを 慈空老師の書かれた文章(雑誌「禅と念仏」5〜8号に掲載)から抜粋させて頂いて 皆さんに紹介したいと思います。 曹洞宗・西方寺の住職である宮崎慈空老師は、 昭和18年高知生まれ。神戸商科大学経済学部卒業の後、高校教師、出版社勤務を経て 昭和53年35歳で出家得度。永平寺に掛塔(かた)。下山後正師を求めて再び行脚。 平成5年より若狭の空き寺、西方寺(福井県大飯町)に入寺 慈空老師32歳、33歳の年は、慈空老師にとって人生の節目になる年だったようです。 この頃、関東の出版社で会社員だった慈空老師の身辺で悲しい出来事があったのです。 「いとしい者と別れる悲しみ、死んではいけない人を死なせる苦しみ」 と師が記事にされた出来事が襲い掛かり、このとき、はじめて「死」が現実味を伴って感じられたといいます。 「『死』が初めて身近なものとなった。『生きている』ということにはどういう意味があるのだろう。死んだら人は何処へ行くのだろう。」 慈空老師は「出口のないトンネル」のような状態に陥り、 そのような実存的危機の中で『般若心経』に出逢う。 ボクが直接お聞きした所によると「わらにもすがるような気持ちで『心経』を唱えていました。」 というくらい必死の思いで『般若心経』に没頭された時期があったそうです。 「お経(般若心経)の中の『無眼耳鼻舌身意』という不可解な言葉に吸い寄せられて、全身が途方もない疑い(死とは何か、死後何処へ行くのかなどの実存的疑い)の塊になりそれからは少しずつ脚を組み、坐禅をしてから会社勤めに出かける生活が始まった。」 そうして二ヶ月ぐらいした頃にたまたま用あって、高野山の宿坊で一夜を過ごした朝、 慈空老師は本堂を出て足を一歩廊下に踏み出された、その瞬間、 「完全に意識の糸が切れ、その後突然、世界が本来の姿を現したのである。」 突然にこれまでの日常的なぼんやりとした意識から開放され、 何か、言葉で言い表すことが難しいような事が起こったようです。 禅では「見性」とも「悟り」とも言いますが、普通、在家の生活をしながら坐禅を行って2ヶ月で、このような体験があることは非常にまれなことのようです。 おそらく、慈空老師の「全身が途方もない疑い」といった状態にまで高められた、実存的危機意識がこの稀有な見性体験の後押しになったのではないでしょうか。 老師はこのとき、どの様な状態だったのでしょうか、慈空老師ご自身のお言葉を見てみましょう。 「見るもの聞くものがいちいちそれ自体できっちり納まっており、どこにも滞らない様子。物がそれ自体でしかなく、何ひとつ手のつけようのない様子。 心経にある「不生不滅」「無所得」の事実である。禅宗でよく「忽然(こつねん)」という言葉が使われる。 物は同一の事実で裏も表もない。しかしたちまち一瞬にして夢から醒めたように一切が明らかになるのだ。 嬉しいとか悲しいとか言ってみても、全体底が抜けていて、どこにも根っこらしいもののない様子が現前する。 いちいちの大光明である。」 このように詳しく説明されてから、 「余談ながら、ヘッドギアや薬物の力を借りて解脱を得ようとする人達がいる。しかし、例えそのようにして得られる何かの体験があるとしても、それは特異な精神状態であり、造られた世界であり、迷妄の延長でしかない。仏の法に言う解脱とは全く無縁のものである。」 と補足説明されている。 つまり、何かここに無いもの、自分がもともとそうではなかった特別な状態になるといったこととは、全く違うことだと言われています。 心理学的にも極めて正常な状態、すっかり「何か特別なものを求める必要のなくなった」状態。 そして、純一に「今、ここ」にあるときに初めて真実を真正面から見ることができるということかもしれません。 ●どこか他にある「幸せ」や「権力・名声・地位・お金」または「超能力や超意識」など、何物かを追い求めて「空想」に酔っ払ったり、「白昼夢」を見ている、 起きながら眠っているような状態から目覚めたということかもしれません。 *次回へ続く。カッコ内は管理人が加筆しました。
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いろいろな宗教がありますが、禅宗にはしーんとした静けさがあり、情緒性と一線を画した平静がありますね。ヨーロッパの教会などへ行くとどこか神に頼るというのか、情緒に流されそうな感じを受けてしまいます。★とはいえ般若心経は手元に持っていますが、難しくて中断しています。
2005/7/3(日) 午後 5:48
ララさん、コメントありがとうございます。禅では情緒を超えて行くような感じなのかもしれませんね。ぼくは、キリスト教や他力門ではその情緒を積極的に信仰に使って行くという感じなのだと思ってるのです。強くて積極的な方向へ情緒を導くことができれば「今、ここ」に実在していくこおとの助けにもなるように思えるのですが、何分門外漢なものでいい加減なことはいえませんね。心経はまた再開されるときが来るといいですね♪
2005/7/3(日) 午後 6:01
こんにちは。随分と御無沙汰しております。良き師と出逢う事の大切さを今、思い致しつつ日暮らしをしております。浄土真宗は「親鸞は弟子一人も持たず候」との親鸞の言葉を大事にしますが、それは宗祖の謙虚な心であり、我々、後の者はやはり師と仰ぐのが自然だと思います。以て、私の師僧は私を弟子だと思っておられません。まやかしの新興宗教に墜ちた人々を救出するのは、伝統宗教に与えられた現代の課題かも知れませんね。
2005/7/28(木) 午後 2:47
慈空さんは完全に脱落されていませんよ。
だから悟った(本人が言われている)あとに、
禅修行に入られていますね。
ご本人に確認してください。
彼は今でも完全には落ちていません。
悪口で言っているのではありません。
2019/7/9(火) 午後 9:38 [ 桃色 夏海(ももいろ なつみ) ]