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(Photo by 「行きたいのは山々」) 賢いものは善行を積みなさい。それは他人に持ち去られず、盗人に盗まれず、 永遠になくなることのない富である。 (南伝仏典 クッダカパータ より抜粋) 今、社会では、「良い行い・悪い行い」に対する意識が希薄になっていますね。 因果応報などと言うのは古い迷信だと考えているようです。 禅でも、善行を積んだ昔の中国の王様に「私の積んだ善行にどのような良い功徳がありますか?」 と聞かれた達磨大師(ダルマさん)が、「無功徳!」と一言だけ答えたという逸話があます。 (これは禅の公案でもあり、文字通りに取ることはできないのですが…) このような禅の高度な思想をそのまま文字通り受け取り、 「因果応報などないのだ」と間違って取ってしまう人もいるようです。 ブッダは、在家の信者には特に「善い考え方、善い行いをして、良い報いを得なさい。 悪い考え方、悪い行いをやめて、悪い報いを避けなさい。」と説いています。 そして、在家信者には、健全な職業によって、正しく富を得ることを奨励していましたが、 同時に、経済力を絶対と見なして、富に執着することは愚かなことだとも説いています。 最後に、キリスト教の新約聖書のイエス・キリストのよく似たことばをご紹介します。 「自分のために天に富を蓄えなさい。そこでは虫も錆も付かず、 盗人が押し入って盗みを働くこともない。」(マタイ伝)
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ブッダのことば
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田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、ゴータマ・ブッダが食を受けるため(托鉢)に立っているのを見て、そしてブッダに言った、 「道の人よ、私は耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食べる。あなたもまた種を播け。耕して種を播いた後で食べよ。」 ブッダは答えた、「バラモンよ、私もまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食べる。」 バラモンは、「しかし、我らはあなたのくびきも鋤も鋤先も突き棒も牛(などの農具など)を見ない。 それなのにあなたは、『私も耕して種を播いてから食べる』というのか。」と言った。 ブッダは答えた、「私にとっては信仰が種子である。苦行が雨である。智慧がわがくびきと鋤である。こころが縛る縄である。気を落ち着けることがわが鋤先と突き棒である。 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。私は真実を守ることを草刈りとしている。 柔和が私にとって牛のくびきを離すことである。 努力が、わが『くびきをかけた牛』であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。 この耕作はこのようになされ、甘露の実りをもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」 この答えを聞いて、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、鉢に乳粥を盛って、ブッダにささげ言った、 「ゴータマさまは、乳粥を召し上がれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の実りをもたらす耕作をなさるのですから。」 南伝仏典 スッタニパータ 蛇の章「4.田を耕すバーラドヴァージャ」より 現代語訳 岩波文庫 ブッダのことば −スッタニパータ− 中村元訳より (一部管理人により加筆修正して抜粋しました) ブッダはこの後、詩や説教の対価としての食物を受けることは出来ないといって、 このバラモンの乳粥を受け取ることはなかったが、このバラモンはブッダの教えに帰依したと経典に続いています。 このお経は、こころやこころの育て方を植物や耕作にたとえて、分かりやすく説いたものです。 (トラックバックをさせて頂いた先の記事、「心という畑を耕そう」は、まさにこのようなことについて洞察された文章だと思いました。)
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頭髪が白くなったからとて「長老」なのではない。ただ年をとっただけならば 「虚しく老いぼれた人」といわれる。 誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷(そこな)わず、つつしみあり、自らととのえ、 汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。 (ダンマパーダ(法句教)第十九章260、261 岩波文庫版 より) ブッダのことばとしては、ずいぶんあからさまで、あられもない言い様ですね。 年長者に対して、敬意を払わない若者が増えてきていると言われ出して久しいですが、 10代の青少年に対して、「誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず」といった大人が、 今、どれだけいるでしょうか? 学生や若者のモラルが失われたから戦前の教育に戻したほうが良いといった発言もあるようですが、 ことの良し悪しは専門家の方がたの見解にゆずるとして、 私たち大人は、教育の場での道徳教育の強化や再導入を声高に叫ぶ前に 考えなければならないことが大いにありそうですね。 このブッダのことばの後には下記のような文章がつづいています。 嫉み深く、ケチで、いつわる人は、ただ口先が上手くても、美しい容貌によっても 「端正な人」 とはならない。 (ダンマパーダ 第十九章262) 我々も「端正な大人」と若者に認識されるようになりたいものです。
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「彼は、私を罵った。彼は、私を害した。彼は、私に打ち勝った。彼は、私から強奪した。」という思いをいだき続ける人には、怨みはついにやむことがない。
「彼は、私を罵った。彼は、私を害した。彼は、私に打ち勝った。彼は、私から強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みがやむ。 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。 (ダンマパダ 第一章三、四、五 岩波文庫版 ブッダの真理のことばより抜粋・加筆) 中国の「老子」という古典にもこういう言葉があります。 「怨みに報いるに徳をもってす。」 また、イエス・キリストも聖書の中で、 「右の頬を打たれたなら左の頬を差し出しなさい。」 と言います。 洋の東西を問わず、「許す」ことの大切さや、 「うらみ、怒り」はさらなる「うらみ、怒り」を生むことを教えることばは多いようです。 「憎しみではなく、愛を!」ですね。 大乗仏教には「忍辱(にんにく)」という徳目があります。 これは、「屈辱を忍ぶ、耐える」ということです。 いざ、腹立たしいことがあると、人間「カァーッ!」としてしまいます。 それを持続させるか、気がついて収める方向に向かうかは、 普段からの心構えが大きく影響すると思いませんか? 「情けは人のためならず」怨まないことは、相手のためではなく、自分の健康や、人間関係や、評価、 精神の安定、時には、自分のお金や生命を守ることになる時もあるはずです。 最後に再び、これを憶えているようにしてみませんか? 「怨みは怨みを捨ててこそ、やむ。」
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「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、くるしみはその人につき従う。 車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。」 (中村元訳 岩波文庫 ブッダの真理のことば 第一章一) やはり、心が昂ぶっていたり、怒っていたり、悲しんでいたり、落ち込んでいたりすると、 自分では分からなくとも実際に起こっていることを 過大評価したり、過小評価したり、勘違いしたり、してしまいがちです。 そして、その間違った現実認識から、家族や友人・知人など周りの人たちに対して 間違った反応をしてしまうことは多々あると思います。 普段から、心を冷静に保つことが、大事だということをゴータマ・ブッダは、 この経典の一番最初に説かれています。 ゴータマ・ブッダ、お釈迦様、釈尊、釈迦如来などその呼び方は沢山ありますが、 ここでは、「真理に目覚めた人」というインド古来からの尊称であり、手塚治虫氏のマンガで、一般的にも広く浸透している呼称でもあることから、「ブッダ」を使いました。 一般にブッダという呼び名が、お釈迦様のことを指しているということは良く知られていますが、 そのブッダが、どのようなことを話したのか、本当はどのようなことを教えたのかは、 知らない人の方が多いと思います。 日本のお寺に伝わった大乗仏教の諸経典は、ブッダが亡くなられて500年前後にブッダから脈々と続くその後世の弟子で悟った人々が、その教えを新たにまとめて編纂されたもので、その思想は多岐にわたり、荘厳かつ、緻密ですが、一般に難解であることは否めません。 この ZEN BLOG では、「ブッダのことば」として、ゴータマ・ブッダその人が直接語ったであろう言葉に一番近いといわれている原始仏教の諸経典の中でも、一番古くに編纂されたと認められている「ダンマパーダ」や「スッタニパータ」などを中心に分かり易いことばを引用してご紹介します。
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