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道元禅師のことば

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有所得の心を用って仏法を修すべからざる事


道元禅師の学道用心集の紹介も今回で、四回目、本日は、第四章です。

「『有所得の心を用って仏法を修すべからざる事』

  右、仏法修行は、必ず先達の真訣をうけて、私の用心を用いざるか。いわんや仏法は有心を以って

  得べからず、無心を以って得べからず、ただ、操行の心と道と符合せざれば、身心未だかつて安寧

  ならざれば、身心安楽ならず。身心安楽ならざれば、道を証するに荊棘生ず。」

●これから坐禅してみよう、仏教というものを勉強してみようという人は、

 この道元禅師のことばを重く受け止めて、しっかり理解することが大切だと思います。

 禅師は、「何か、自分の物欲、や名誉欲を満たしたいなどという気持ちで修行しないように。」

 と、はっきりと明確に断っています。

 仏道修行は、まずこれという仏道の先達、つまり、明眼の正師から真の修行の要諦を聞いて、

 自己流の考えだけで修行の道筋としてしまわないことと、注意されています。

 有る程度、本や、ネットなどで坐り方が分かったら、

 縁に従って仏道の「眼」のある(「悟り」を得た)指導者を探して、修行の心得や方向性を

 示していただく必要性を強調されています。

 そうすれば、下心や世間体などの、有心でもなく、ことさらに道を求める心までも捨てようと

 するような、無心を以ってしても修行を極めることはできないし、

 さらに、修行を行う動機や心持ち、また坐禅修行そのものが、仏道・仏法に適ったものでなければ

 心身ともにこれで、安心だという境地をおのずから受けが得ることができない。と言います。

 坐禅を行じていく際、できるだけ早い時期から眼の明らかな正しい師に就くことが大切です。

 そして、修行の動機、心持、坐禅修行そのものが、正しい方向性に適っていないと、

 荊棘(けいきょく)、すなわち、障害が生じやすいと続きます。

 つまり、動機が不純なものであればあるほど、道がそれて行きやすいということですね。

本文は、さらに

「いわゆる操業と道と合せんには、如何が行履せん。心名利無きなり。

 仏法修行は是れ、人の為に修せず。今世人のごときは、仏法修行の人、その心、道と遠うして遠し。

 もし、人賞玩すれば、たとい非道と知るもすなわち、之を修行す、若し恭敬賛嘆せざれば、

 是れ、正道と雖も棄てて修せず。痛ましきかな。」

●道元禅師は、「では、道に適った修行とはどのようにするべきか、それは、名誉心や利得・欲得の心

 を修行の動機としないこと。」と言います。禅師の同時代にも、名誉欲や出世欲、名声を望むがゆえに

 僧になる人が少なからずいたようで、禅師は、「人が喝采するようなことであれば、間違っていると

 知っていながらも行うのに、人が褒めないこと、世間の関心がないことに関しては、それが正しい

 ことであってもこれを行おうとはしない。なんと痛ましいことか。」と、そのような惨状を嘆いて

 おられたようです。

さらに本文では、

「汝ら、試みに心を静かにして観察せよ。この心行、仏法とせんや、仏法にあらずとせんや。

 恥ずべし、恥ずべし、聖眼の照らすところ。それ仏法修行は、なお自身のためにせず、いわんや、

 名聞利養のためにこれを修せんや、ただ仏法のために之を修すべきなり。

 諸仏慈悲、衆生を哀愍するは、自身のためにせず、他人のためにせず、唯、仏法の常なり。

 見ずや、小虫畜類すらその子を養育するに、身心艱難、経営苦心して、畢竟長養するも、父母において

 ついに益なきをや。しかれども子を思うの慈悲、小物すら尚しかり、自ら諸仏の衆生を思うに似たり。

 諸仏の妙法はただ慈悲一条のみにあらず、あまねく諸門に現ずれども、その本みなしかり。

 すでに仏子たり、なんぞ仏風にならわざる。」

●禅師曰く、諸君、このような心持ちや動機を仏法と言っていいかどうか、静かに反省してみなさい。

 そして、清らかな心眼を以ってそのようなことは、大いに恥ずかしいことであると反省すべきである。

 仏道修行というものは、自分のためだけにするものではないとされている、それなのに名誉欲や、

 人に良い印象を与えたいだとか、何か得することがないかという気持ちではなく、ただただ、仏法

 のために修行をするという心持ちで行うべきである。諸仏が衆生、すべての存在を慈しみ、哀れむ

 心のもとは、自分自身のためでも他人のためでもなく、これは仏法ではあたりまえのことなのです。

 小さな虫や動物ですら、子供を苦労して育てても成長して親元を離れればなんの特にもならない

 のに、子供を思う慈悲心はこのような小さな生き物ですらこのように、諸仏の生きとし、生けるもの

 への慈悲に同じく、自らの利得を本としていない。諸仏のおしえは、慈悲だけではなく、色々な

 法門 − 教えの道が、あるが、根本はすべてこのようである。仏の教えを信じ、すでに、

 仏の子(仏道修行者)となった諸君であるのだから、どうして御仏の教風にしたがわないということが

 あろうか。

そして、この章の最後のくだりです、

「行者自身のために仏法を修すと思うべからず、名利のために仏法を修すべからず、果報を得ん

 がために仏法を修すべからず、霊験を得んがために仏法を修すべからず。

 ただ、仏法のために仏法を修す、すなわち是れ道なり。」

●道元禅師は、最後にこの章をまとめて、こう書いています。修行者自身のために修行すると思っては

 いけない。名声・名誉や利益を得ようと思って修行してはいけない。修行してその良い報いを

 得たいと思って修行すべきではなく、超能力や神仏に祈って得られる不思議な現象を得るために

 修行してはいけない。ただ、仏法のために仏法を修することが、道なのだ。と。

 禅師は、仏法のために仏法を修行するとおっしゃっています。これは、前の段にあったように、

 慈悲の心で修行するのは当たり前だという前提でおっしゃっています。

 つまり、仏法をあきらめるために修行をしなさい。それがひいては、あたりまえのこととして、

 衆生:生きとし生けるもののためになる、とこうおっしゃっているように思われます。

 仏教の「四求請願」に「衆生無辺請願度(生きとし生けるものは無数だが、なんとかすべての存在

 を救うことを誓う)」という途轍もない誓いのことばがありますが、このような心持で

 慈悲のこころを持って修行を行うことは、あたり前のことということだと思います。

 中には、禅はかっこいいから、とか超能力が得られるかもとか、悟れば超能力者のような

 特別な存在になれるなどと、思って坐禅をはじめる人がいるかも知れませんが、

 まずは、そのような心持をすべて棄ててしまって、坐禅にむかいなさいよ、ということでしょう。

(テキストは大法輪閣「澤木興道 学道用心集講話」を参考にしています。)

写真は→ 「行きたいのは山々」
ここに参加してます→ ブログ村 仏教←参加しています。

 

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第三 仏道は必ず行に依って証入すべき事


●今回は道元禅師が、坐禅初心者への心得として記された「仏道用心集」の第三章です。

「右、俗に曰く、学べばすなわち録その中に在りと。仏ののたまわく、

 行ずればすなわち証その中に在りと。未だかつて学ばずして録を得る者、行ぜずして

 証を得るものを聞くことを得ず。

 たとい、行に信法頓漸の異なりあるも、必ず行を待って超証す・・・(以下略)」

 (現代的に置き換えるてこの言葉を考えて見ました)

 ○世間でも、一生懸命努力、勉強すればそのように勉強することで、いい仕事に就いて、良い収入を

  得るということが、可能になってくるといいますが、お釈迦様も、「修行すれば

  その結果(あかし、さとり)はその修行することの中に生じてくる」とおっしゃっています。

  未だかつて全く懸命に努力、勉強、(または知恵を絞る)こともなく、

  いい仕事につけて、良い収入を得る人がいないように、

  (坐禅を)実際に行いもしないで、その結果である、証(悟り)を得たという人を

  聞いたことがない。たとえ、信じながらゆっくり修行が進む人と、直ぐに法を悟って修行による

  あかしが、早い人の違いはあっても、必ず実際に(坐禅の)行いをすることで、

  結果を得るのです…


これは、第三章の始まりで、全体の3分の1程度の部分にあたります。

さて、このブログの趣旨は、知解を深めるためのものではなく、

あくまでも「坐禅を行うにあたっての、(ロケットの)ブースターのような役回りができれば…」

ということにありますので、

全文にご興味ある方や知識としてこの「学道用心集」を正確に勉強されたい方は

是非、書店で関連の解説本をお求めくださね。^^

さて、本文で道元禅師は、

「仏道は必ず行に依って証入すべき事」つまり、仏道とは、必ず修行を行うことで証を得ていくことが、

大事だとおっしゃっています。

坐禅はなんのために修行するのでしょうか?

少なくとも、我々社会人が貴重な時間を費やしてすべきことは何でしょうか?

「本当に救われること」「心底、うけがえること」ではないですか?

経典や、祖録をどれだけ諳んじれるようになったところで、

無眼子のまま(救われないまま)で一生を終わるのなら、意味がありません。

道元禅師は、「普勧坐禅儀」の中でも、

「…超凡越聖、坐脱立亡も、この力(坐禅の定力)に一任することを。いわんや、(中略)未だこれ、

 思量分別のよく解する所にあらず、(中略)然れば即ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者をえらぶこと

 なかれ。専一に工夫せば(頑張れば)、正にこれ、弁道(修行)なり。」

と、「(仏道の真実は)考えや知識分別で、理解できる所ではない。」と、こうおっしゃっています。

ですから、本を読んで分かったつもりになれたとしても、

戒律や、作法を身につけて、人から尊敬されるほどの人格者になれたとしても、

本当に、真実、自分自身に誠実で、「誠」を持つ人ならば、

自分が、真実救われたかどうかは、

「冷暖自知(飲んでみれば水がつめたいかどうか直ぐ見分けがつく)」

ように、自分を偽ってさえいなければ直ぐに見分けがつくはずです。

それまでは、ひたすらに、坐禅を行じていくしかないのです。

臨済宗の白隠禅師坐禅和賛にも、

    「それ摩訶えんの禅定は、賞嘆するに余りあり

         布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
 
            その品多き諸善行、みなこの内に帰するなり」と、

示されています。

さあ、仏典や祖録の研究などはすでに修行を成し遂げられたお師家様方にお願いして、

私たち、凡俗の社会人は、細かな文字を追いかける時間があるのなら、

極力、只管に打坐しようではありませんか。

公案を頂かれている方がたは、ひたすら、公案に参じているのです、

只管打坐するものは、ひたすら、坐禅に参じることせずして、

何を油を売る暇がありますか?

私たち限りある人生を自分が救われるため、

また、困っている人が救われるため、

できる限りの修行に費やさずして、

無常の風に吹かれるにまかせるのですか?

さあ、坐りませんか?

(テキストは大法輪閣「澤木興道 学道用心集講話」を参考にしています。)

写真は→ 「行きたいのは山々」
ここに参加してます→ ブログ村 仏教←参加しています。

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第二 正法を見聞しては必ず修習すべき事


坐禅しようと思っている人も、すでに始めてる人も、坐禅について書かれた本ではなく、坐禅を極めた方が書いた、坐禅にいざなう本を2,3読むことが助けになるときがあるようです。

坐禅の師匠 慈空老師からお勧め頂いた2,3の本にこの道元禅師の著書『学道用心集』が、ありました。坐り方の紹介は書店で手にはいる本や他の記事に譲るとして、ここでは内容の一部を紹介します。で、今回は二回目ですが。。。


さて、『学道用心集』の第二章です。

「右、忠臣一言を献ずれば、しばしば回天の力有り、仏祖一語を施せば回心(えしん)せざるの人なし。
 自ら明主にあらずんば忠言を容るることなく、自ら抜群にあらずんば仏語を容るることなし。
 回心せざるがごときは、順流生死いまだ断ぜず。忠言を容れざるがごときは、治国徳政いまだ行われず。」

第二章は短くて、以上が全文です。

タイトルの意味は、

「自分が、これだ!という教え(ここでは「正しい法=仏法」)を見聞きしたなら、まずは実際に

 実践(修行、習うこと)を必ず行ってみること。」とあります。

仏法、禅の教えは、理論をもてあそぶことや、哲学して、頭の中で分かった!理解した!

ということではなく、「実際に見て、聞いて、行じてみる」ということが基本です。

ですから、禅の教えに出会ったならまずは、しっかり理解したうえで実践してみることが大事です。

決して、解説本を読んだだけで分かったつもりになって終わってはもったいないですよ。

では、本文の中身ですが、若い世代には分かりにくい内容かもしれませんね。

では、現代語の自由訳(?笑)を続けますね^^;

右、つまり、タイトルで言わんとしたことは、この喩えで説明します。その喩えとは、

忠臣とは、王様や天皇など一国の主に仕える忠実な大臣だと思ってください。

このような忠実で優秀な大臣が王様に、間違いをいさめるような、または、

大臣の専門的立場から、国の方針の方向転換をするような一言を献上すれば、

その一言は、しばしば、王や天皇の決断を転回させる力を持っている。

お釈迦様や、代々の仏教や禅の祖師方(歴代の優秀な、悟った高僧)が、人々に一言、説法を

施せば、いままでの(欲に囚われ、悩み、疲れた)考え方を変えない人はいない、

ということから始まっています。

しかし、その優秀な家臣のすばらしい意見を聞くほうも、

自らが、明主(英明で、賢い王様)で、抜群の理解力・判断力のある王様でなければ、

家臣のいさめや、意見などには、なかなか、これを採用して、

王様自らが決めていた意見を180度変えるようなことはできないでしょう。

同様に、仏さまや悟った高僧の言葉に触れても、自らが色々な経験や苦しみや、

長い間の実存的疑問など、生き死にの問題に逃げずに、真剣に向かい合ってきたような

抜群の包容力のある人でなければ、今までの理論をもてあそぶ態度を改めて、心を転回して、

自分自身に向けるという大胆な回心は難しいでしょう。と続けています。

最近は仏教に関する本も沢山出ていて、図解や漫画などで非常に理解しやすいものになっています。

現代の理論重視の風潮にぴったりあっている、仏教の経論やお経の解説、はたまた南方仏教の

理論的な説明などが大流行しています。

このような本を読むだけ、説明を聞くだけで、頭で理解して「日本の仏教は空の理論だけで

わかりにくい仏教だ」などという意見も多くなっているようですが、

これも実践が伴わなければ、頭での理解だけじゃあないでしょうか。

やや脱線しますが、今の日本の仏教は鎌倉時代に実践を通して、論理的にも修行方法としても

高められてきたものが殆どで、実際に試してみると実に入りやすい、実践しやすいものです。

しかも、現存する中で、一番古く、生のお釈迦さまの声に近い経典と言われている

「スッタニパータ」を読むとよく分かると思いますが、

お釈迦様はほとんど、理論だった、系統だった哲学を教えていたわけではなくて、

修行のための根本的な思想(大乗仏教の空の思想や禅の無一物の教えに非常に近いと思われますが)を

説き、瞑想(坐禅)の実践を勧め、

修行の助けになる、ごく少数の基本的な戒律を説いていたようです。

つまり、理論をもてあそぶことをもって足れり、とはしていなかったということです。

さて本題に戻りますが、

 。。。優秀な大臣の忠言を聞き入れることがなければ、国が治まらず、徳のある政治、理想的な社会

など、とうてい無理な話であるように、

もし、禅について見聞きして、ある程度納得したり、魅力を感じたりしても、

これによって、頭で理屈や本の内容をもてあそぶすことをやめて、

心を内側に振り向けること、180度回転させることをしなければ、

生き死にの問題に振り回され続けることは終わらないですよ、ということです。

つまり、自分の欲に振り回されて、

仕事や出世や家族や趣味や遊びやグルメといったことに振り回されっぱなしで、

自分がそれらの事柄をコントロールできていないまま、

ある日、病気や死が訪れてしまって、そのときに慌てることに代わりがないですよということです。

ですから、この第二章は、「生きている間に、今の外側のことがらに振り回され続けているこころを

内に回心して、実践してみませんか」という、道元禅師からの問いかけのような気がします。

(画像は「いきたいのは山々」→ http://www.asahi-net.or.jp/~NM3K-TGC/tibet/6.html)

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道元禅師「学道用心集」を読む


坐禅をはじめてみたけれど、形だけなんとかまねしだしても、

中身がどうもわからない。

自分の生活と、心持をどう保っていいものやら。。。

という時に、羅針盤になってくれるのが、道元禅師のご著書「学道用心集」だと、

曹洞宗では広く親しまれてきたようです。

私の坐禅の師、慈空老師も、

「禅に関する本を読みすぎて、頭で理屈を捏ね回さないように。経典や祖録など読みすぎて
 頭でわかったようになることは坐禅とは違います。」

「禅に関する本を読むのなら、坐禅の励みになるような祖師方が示された本を少数読みなさい。」

という趣旨で示された中に、

「普勧坐禅儀、坐禅用心記、学道用心集」が含まれていました。

さて、当ブログでは、その中から「学道用心集」を

ブログ管理人が抜粋して、何度かに渡って自分の勉強がてらご紹介させていただこうと思います。

内容を深く、正確にお知りになりたい方は、大きな書店の宗教書のコーナーに行かれると

解説本が2,3出ているようですので、専門家の著書をお読みくださいね。

では、あくまでもご紹介ということで。。。

テキストは、大法輪閣発行の澤木興道老師の「学道用心集講和」の本文テキストから

道元禅師のオリジナルの部分の現代語訳部分をいくつか抜粋させていただこうと思います。

オリジナルテキストは、全体で10章からなり、その目次は、

「第一 菩提心を発すべき事

 第二 正法を見聞しては必ず修習すべき事

 第三 仏道は必ず行に依って証入すべき事

 第四 有所得の心を用って仏法を修すべからざる事

 第五 参禅学道は正師を求むべき事

 第六 参禅に知るべき事

 第七 仏法を修行し出離をゴングするの人は須らく参禅すべき事

 第八 禅僧の行履の事

 第九 道に向かって修行すべき事

 第十 直下承当の事」

慈空老師から、「直下承当」についてよくお示しを頂き、

特にこの「学道用心集」を良く読むようにとご教示いただいたこともあり、

すでに書庫に収納していた本書のテキスト部分を使用させていただくことにしました。

実はこの本は、私が慈空老師の下で坐禅指導を頂きながら坐禅を始める前に

買って読んでいたものですが、

最近、再読してみると以前とは大きく理解できる内容が変わっていて、

つまり、以前わからなかった所がより理解できるようになっていて、

我ながら驚いたり、老師のご指導や、坐禅修行についての

ありがたさを再認識させて頂くことができました。

勿論、澤木老師の往年の名講話も何度拝読しても含蓄が深く、

また分かり易く懇切丁寧なお示しで大変興味深く読めると思います。

ただ、ブログでは澤木老師の講話部分の紹介は今のところはせずに、

まずは、道元禅師のテキスト部分を抜粋、紹介させて頂きます。

かなり前置きが長くなりましたので、早速、「第一 菩提心を発(おこ)すべき事」

に参ります。

『右、菩提心とは、多名一心あり、竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずる心も又菩提心と名づくと。然れば即ちしばらくこの心によって、菩提心となすべきものか。

 誠にそれ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起こらず、時光のはなはだ速やかなることを恐怖す、故に行道は頭燃(ずねん)を救う。(以下略)』

本日は、テキストの出だしの部分のみを抜粋しましたが、

この出だしはこの第一章の重要な部分となっています。

仏教では菩提心ということが言われますが、これはつまり、修行をしようという心のことで、

仏教の最高の真理を体現しようという意欲ということが言えると思います。

菩提心については、インド仏教の昔から色々な名前や分類があるようですが、

ここでは、大乗仏教のインドでの中興の祖といわれる竜樹祖師(龍樹〔ナーガルジュナ〕150‐250 年ころ(生没年不詳)のインド仏教の僧。八宗の祖師といわれる。)の説明を取り上げ、

『唯、世間の生滅無常を観ずる心も又菩提心と名づくと』

ただ、世界の様々な事象が、生まれては滅し、栄えては滅び、する様を観察して、

全てのものごとは、「無常」であると見てとる、理解する心を菩提心と名づけて、

第一章のテキスト展開のベースとする、と位置づけられています。

ちなみに、ここで言う『無常』とは、

「無情」とは、違います。感情やなさけ容赦が無いこと、では無くて、

常では無いこと。

つまり、全てのことは、その形や状態を常に留めておくことはできないと、

世界や社会の動きを見て、よくよく理解する心のことを言っています。

社会の流行廃りを見て、「昔の栄光、いま何処?」とか、

何年か前に流行っていたことが、今となっては、すっかり忘れ去られていること、

少し前まで小中学生、高校生だった自分が、

気づいたら、大学生になっていた、

あっという間に社会人になって、

定年で、お迎えがくるのも、そんなに途方も無い話で無くなっていた、などなど。。。

または、信じきっていた友達や恋人、家族にまで裏切られた、

会社に裏切られた、

または、永遠に生きるてるとでも思って、

「うざい、くさい」なんて、バカにしていた祖父や祖母、両親が、亡くなってしまった。。。

そんなときに、しっかり、

全ての存在は永遠ではないんだと、

この自分も永遠ではないんだと、はっきりと自覚することが、大切です。

そうすることで、刻一刻とせまってくる自分の時間のタイムオーバーが、

まるで、『頭燃』つまり、頭に火がついているように感じられるから、

『行道』を行えるような心持になれるわけです。

それくらいの心持がなけりゃ、テレビや、ショッピング、グルメや、旅行や、美女や、名誉や、お金の

甘ーーーい、誘惑にすっかりはまって、

自分やこの生活が『無常』だと、心のそこから感じることなんて、

出来るはずないですよね。

ましてや、現代「抹香くさい」「葬式仏教」「宗教なんてうさんくさい」

という「常識」の中で、

社会の慣習や日々の習慣の外に、なにか「本物」がある!なんて

気持ちは起こらないでしょう。

足を痛めて、坐禅しようなんて、思えないですよね。

ですから、道元禅師が

「菩提心」を坐禅修行中、初心の用心の重要項目にもってこられた、

と言うわけだと思う訳です。

長くなりましたので、今日はこのあたりで。

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善悪のカルマ(行い/その結果)が自分に返ってくるには3つのパターンがあるようです。

世の中には、いいことをしても報われないときや悪いことをして自分だけいい目を見ても、

なんのお咎めも受けなくて済むときなどもありますし、善人で生活に困窮している人や、悪人でリッチな生活をしている人などに目がいって、「神や仏などあるものか!」などと、世の不公平を怨んでみたくなるときもありますよね?

でも、仏教で言う輪廻転生を考えた場合、目に見える範囲やこの人生だけで、自分の行いの結果が全て現れることにはならないようです。

ここのところを道元禅師は、

  善悪の報に三時あり、ひとつには順現報受、ふたつには順次報受、みっつには順後次受、
  これを三時という、仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならい
  あきらむるなり、しかあらざれば多く錯(あやま)りて邪見に堕つるなり、ただ邪見に
  堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。

  当に知るべし今生の我が身二つ無し、三つ無し、徒(いたずら)に邪見に堕ちて虚しく
  悪業を感得せん、惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと
  邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。
                           (道元禅師 正法眼蔵 84三時業より抜粋)

(現代的に言うと…)
善い行い、悪い行いにはそれぞれの結果の報いがあり、その報いの受け方には三つの種類があります。

一つ目は、今行った行為の結果がすぐ現れる場合(または、この人生で現れる場合)。
二つ目は、今行った行為の結果がしばらくしてから現れる場合(または次の人生で現れる場合)。
三つ目は、今行った行為の結果がずいぶん後になって現れる場合(または次の次以降の人生での場合)。

これを三時と言っています。仏道を習う人は、最初にこの三つの報いのありかた=「三時業」をしっかりと学んで、確実に理解するべきです。そうしなければ、道を踏み間違えるもとになります。そして、誤ったものの見方、価値観をするようになり、悪いことを悪いことと認識できなくなります。

これにより、心の闇の世界に堕ちていって長い時間苦しむことになります。(または、悪い世界や環境に輪廻転生して長い時間を苦しむことになります。)

よくよく、理解しておかなければならないのは、この人生の自分自身は、2つも3つもあるものではありません。(輪廻転生を信じている人も、この人生、この自分を繰り返すことはできないのです。)
無理解のまま、誤った考えや価値観に陥って、虚しく悪い行い=悪業を自分自信に重ねていくことは避けなければ、一度しかないこの今の人生を無駄にしてしまうのですよ。悪い行為を犯しながら悪いことをしているわけではない、と思ったり、悪い結果など来るわけが無いと言っていても、その悪業の報いは必ず自分に振りかかってくるのですよ。                (現代語訳:管理人)


現代の日本では因果応報、原因と結果の法則は、ほとんど忘れ去られてしまったかのように見えます。

かろうじて「カルマの法則」と、西洋経由で再輸入されているようですが…

「人に迷惑かけなきゃ」「犯罪を犯さなければ」何をやってもいいよ。と言って子供を放任する親が

増えていると、さかんに評論家が議論をしているようです。

「情けは人のためならず」という言葉も、逆の意味で捉えられることが多くなったと聞いて久しいのは、

この因果応報という仏教の基本が、日本社会の常識ではなくなってきたことも意味しているのでしょう。

「人のためを思って、情けをかけるという善い行いは、めぐりめぐって、自分のにもどってくるのだから、結局は人のためというよりも、自分自身のためになるんだよ。」という基本が分かっていれば、

「隠れて悪いことをしたり、これくらいは大丈夫とか、人に見つからなければ、警察に捕まらなければ、いいや。」といったことをすれば、いつかは、自分に返ってくるということも自ずから分かるはずです。

「情けをかけると、甘やかすことになるから人のためにならない。」と回答した若者の数が減っていることを望みます。

今回の、道元禅師のおことばが、少しでも多くの人に再認識されることを願っています。

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