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今から半世紀も前のこと。フランスの学生機関紙「クラルテ」が、当時活躍していた6人の作家を招いて「文学は何ができるか」というテーマで討論会を開いたそうだ。その時の記録がたいへん面白い。その六人の作家の主張にしばし耳を傾け、各人の文学論を要約してここに書き出してみる。
<ホルへ・センプルン>
18歳で祖国を追放され、ナチスの政治犯収容所で生活。スペイン共産党員。
「文学の力とは異議申し立ての力である。真実を示し、読者の非難憤激を買う力である。大衆文化の振興は、そういう文学の力を中和しようというブルジョワジーの戦略であり、ノーベル賞もその一つだ」
<ジャン・リカドゥ> パリの教職者であり、作家。
「文学とは習練された言語行為(書くという行為)によって自ずと出現する一つの架空世界である。文学は、そうして出現させた架空世界を現実世界に対決させ、検討させるものである。(おまえは、おまえがそうであると称している通りのものなのか)と、世界に問いかける力がある」
<ジャン・ピエール・ファイユ>
哲学者・社会学者・小説の他に、詩・劇作も手がける。
「文学は信号を送る能力を持ち、遠いところから変革の下準備をすることができる。信号がどんなふうに我々に語りかけているかを示し、我々の現実がいかなる信号を通して我々の方へ到来するかを、語り得る」
<イヴ・ベルジュ> 評論家でもある。
「人間は現実を逃れるために書き、読む。文学世界は真実で、欠乏も、飢えも、死もない完璧な夢の場である。よって文学作品が、現実世界における人の行動を変えることなどない。ただ、その想像世界は真の生の感じを与え、読者がその想像界から現実界へと帰った時、彼が想い起こす想像界は、この現実界を非難する。文学にできるのは、そういうことだ」
なるほど、彼らの主張を総合すれば、文学には「現実を検討したり、非難したり、異議を申し立てたり、その変革のための信号を送る力」があるようだ。
彼らの論の導き方には処々異論もあるけれど、文学の力に関する彼らの結論については、私は反対はしない。そういう力も確かにあるように思われる。私が「沙羅と明日香の夏」で描いた 『空気による虐め』や『自然や命を見つめること』も変革への信号の一つだったと思う。
ただ、それだけだろうか? 彼らは、文学を現実社会との対峙においてのみ捉えている。そこに大きな欠落がありはしないだろうか。
次回は、サルトルとボーボワールの言葉を聞いてみることにしよう。
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何か自分との対立軸があり、それに抗ったり流されたりしながら、自己昇華させて行く過程を描く物のようにも思えます。
よって、共産主義や財閥による資本主義、背徳などの様々な大きなタブーがある方が、より劇的となり、訴える力も受け止める側の衝撃も大きくなるのでしょうね。
様々なものが顕在的だった20世紀以前から、今はサイレント・マジョリティという言葉が流行るほど何もかもが潜在化され見えにくくなっています。
しかし、それも100年経てば歴史の中で顕在化され、正しく認識されるはす。今はまだ現在進行形、結果が見えていないのでのですから。
カオスの中に生きる人間は、思考までがカオスとなってしまう危険性があります。
それを一歩立ち止まり、様々な観点から自分の心を見つめ直す道標であり反面教師でもあるもの。それが文学なのかもしれません。
2017/9/21(木) 午後 2:24
池ちゃん
確かに半世紀前は、何かと対立軸のはっきりしていた時代で、だから文学は非難・異議申し立ての力を求められていたのかもしれません。
現代は不透明性の時代ですね。非難・異議を申し立てる側・申し立てられる側と、決まった構図はありません。
みんな溢れかえる情報の中を手探りで歩いているように思われます。池ちゃんの仰るように、こんな時代の文学の使命とは、霧の中の一つの道標となることでしょうか。
2017/9/21(木) 午後 5:24 [ セイラ ]