明日につづく文学

陽の光のように暖かく ( 著作権がございます。転用はご相談ください。)

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涸沢にて

炎暑の夏ももう終わりです。残暑はまだありますが、自然は正直なもので、ツクツクボウシにミンミンゼミ、谷川の冷たさ(もう泳げません)、風の涼しさ、ショウロトンボ・・・どれも秋の訪れを知らせてくれています。

この夏、山に登られた方はみえますか? 山の魅力って何なのでしょうね。
私は山が大好きなのに、実は登るのは苦手なんですよ。 笑

山に登る人、帰りを待つ人、登頂を遂げる人、引き返す人、遭難する人、助ける人・・・姿はいろいろでも、そこには人間の正直な素顔が現れてくるような気がします。 きょうは、そんな 「山」 にまつわるお話です。

 
             「 涸沢にて 」  

                                緋野晴子

 梓川の幅が急に狭まって、流れが激しくなった。澄みきった水が川底の岩々に当たってうねり、暴れながら下流に落ちていく。その流れの中から、白い光がキラキラと翻ってきて、私の眼を刺した。
八月だというのに、山々は雪を頂いて、四方を取り巻いていた。梓川の水が凍るように冷たいのは、あの雪渓の下から走り出てくるからなのだ。

流れを少し遡って行くと、川はまた開けてきて、前方に吊り橋が見えた。
「ほら、着いたわよ。あれが有名な河童橋。あの橋を渡れば、もう上高地よ」
 山岳ガイドとして付き添ってくれていた園田さんが、橋を指差して言った。山登りというよりまだ散策にすぎないうちから、ひ弱な私の足はすでに辛くなり始めていたが、その言葉で俄かに力を取り戻した。今夜はここの宿で一泊する。

 河童橋の上に立って眺めると、前方には穂高が、巨大な岩壁のような斜面を見せて聳え立っている。夏でさえ人を拒もうとしているかに見えるこの穂高を、雪深い冬に登るなど、まったく正気の沙汰とは思えない。その山の頂に立つことに、いったいどれほどの価値があるというのだろうか?
「馬鹿なんだから」と、私は呟いた。
 ふり返ると焼岳が、峰々の間にひと筋の白煙をたなびかせていた。

この宿に泊まる人の半分は観光客だが、あとの半分は、冬山に登るための下見として夏山に来ていた山男や山女たちだった。自然と山の話になる。私は食堂で知り合った人たちに訊いて見た。

「どうして危険な冬山に登るのですか?」
「冬山の持つ味、としか言いようがないですね。自分で攀じ登ってみないと分からないことです」
「夜明けや暮れに、雪山というのは言いようもなく輝くんですよ。その神々しいまでの美しさに惹かれてね」
「若いころは征服欲でした。今は、ただ、ただ、山の中にいたいのですよ」
「刺すような風と、雪と、岩壁という試練の後にくる、魂の充足。一種の洗礼ですね」

 訊ねる人ごとに様々な答えが返ってきた。彼らは尤もらしい表情で答え、いちおう、尤もらしいように聞こえた。けれども私は、馬鹿だと思った。冬山を味わうためや、雪山の美しさを見るためや、征服したり、ただそこにいたり、洗礼を受けたりする、たったそんなことのために、掛け替えのない命を危険にさらすなんて馬鹿だ。私は、山なんか大嫌いだ。

 翌朝は快晴だった。絵に描いたような上高地の圧倒的な美しさが、心に痛かった。
私と園田さんは、涸沢をめざして出発した。
まず明神までほぼ一時間、多少のアップダウンはあるものの、山登りというよりはトレッキングだ。明神池の手前に山小屋があって、岩魚を焼く匂いになぜかほっとした。その鏡のような池からまた一時間ほど歩くと、徳沢に入る。まだまだ平坦な道のりだったが、足はすでに疲れていた。ここの山小屋でしばらく休憩してから、私たちはさらに一時間余りかかる横尾に向かった。彼女は初心者の私に、けっして無理をさせないよう配慮してくれていた。

 横尾に着くと、三時間以上も山道を歩いてきた私の足は、もうくたくたになっていた。岩に腰掛けて昼食のおにぎりを食べながら、園田さんが聞いた。
「どうする? 上高地に戻ってもいいのだけれど」
 ここから本当の山登りが始まろうとしていた。最大の岩場といわれる屏風岩が見える。徐々に山道になっていって、一時間半も歩くと、残りの一時間半は文字通りの登山になるらしい。彼女は私の足を心配していた。いったん涸沢に向かって歩き出したら、どんなに辛くとも、もう行き着くしかないのだ。途中で挫折することは野宿を意味する。引き返すなら今だ。

「行きます」
 私は答え、彼女は、覚悟したように頷いた。

 足は重かったが、前半の行程は二時間ほどでなんとか歩けた。本谷橋からは、なるほど正真正銘の山登りとなり、私は初めて、登山というものの苦しみを知った。何度も立ち止まっては息をついた。腿が疲労して力が入らず、足がなかなか上がらない。酸素が薄いためか、高度が上がるにつれて肩が凝り、頭も痛くなってくる。三分の一も登らないうちに、なぜこんな所へ来るはめになったのかと、私は恨めしさで涙ぐんでいた。
(みんな、あなたのせいよ)
 今年は雪が多いからやめてと言ったのに、私を無視して行ってしまった、あなた。雪山に魂を落として、骸になって帰ってきた、あなた。あなたはそれで満足だったのかもしれないけど、残された私の気持ちはどうなるの? ほんとうに無責任なんだから。あなたの魂を探し出して、「馬鹿!」って言ってやるんだから。
心の中で、何度も何度もそうくり返すことで、私は、くず折れそうになる体をなんとか支え、這うようにしてようやく登りきった。一時間半といわれた登山に二時間半もかかり、全体としては八時間にも及ぶ山行だった。

 涸沢の小屋に着くなり、私はまず死んだように眠った。とても起きてはいられなかった。眼を覚まして、園田さんに温かい珈琲をもらい、やっと人心地がついた時には、外はもうすっかり夜になっていた。

 夜の涸沢。空一面に散らばった星々の、零れるような輝きを見た。広いカールは融け残った雪で、ぼうっと白んでほのかに明るい。青白い夜の光に包まれて、雪を頂いた穂高が、そのむこうに凛々しく、黒いシルエットを描いて聳えていた。
(あなたも、この景色を見たのね)
その山頂の白い雪の中に、私は夫の笑顔を見たような気がした。

(馬鹿なんだから。ひとりで逝ってしまうなんて、ほんとに馬鹿なんだから。……一度もいっしょに登ってみようとしなかった、私もほんとに、ほんとに、馬鹿なんだから。
 ……あなた、……もう、いいわ。あなたは、そこにいてもいいわ)

 私は彼を許した。なぜ許せたのか、そして、泉のように次から次へと湧き出してくる涙のわけが、私自身にも解らなかった。 

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素敵なお話し、ありがとうございました。
お散歩は好きなんですが、登山なんておよびもしないわたしですが、その風景は観てみたいものだなと、思います。
残された者の心情・・・、考えさせられますね。

2018/8/30(木) 午後 3:08 [ てるてる ]

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とても文学的で良かったです。「くず折れる」は「頽れる」の方が字面が美しくて私は好きです。
まず、最初の「馬鹿なんだから」で、すぐに恋人か旦那さんがここで亡くなったのだなと分かります。その後の展開が「そんなに嫌いなら何故山に来るのか」「連れの付き合いでもないのに」ですからね。すると、最後の書き方がくどく、安っぽい「どんでん返し風」に感じてしまうのです。
中途半端な「匂わせ」に加え、そこまでの文学的書き方からエンタメ的書き方に変わる事で、せっかくの風情が殺されてしまいます。
もしその効果を狙うなら、「馬鹿なんだから」は邪魔。材料だけを提示し、あれだけ書き込んでいるクライマックスで充分効果を得られると思います。

私の好みで言えば、書き出しの風情を生かしてほしいですね。
仕掛けではなく、最初からある程度事情を提示してしまい、主人公の悲しみを共有させながら進む方が合っているのではないでしょうか。

2018/8/30(木) 午後 3:39 池ちゃん

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>夏でさえ人を拒もうとしているかに見えるこの穂高を、雪深い冬に登るなど、まったく正気の沙汰とは思えない。その山の頂に立つことに、いったいどれほどの価値があるというのだろうか?
「馬鹿なんだから」と、私は呟いた。

この文章に「命を懸けてまで」と、「家族(恋人)を犠牲にしてまで」「あいつ…」「あの人」などが入るだけでほぼ伝わりますよね。

でも、もしその上で私が仕掛けるとしたら、、、。
彼は出かける前に「いつか二人で登った時のために、○○の場所に○○をこっそり隠して来るよ」と言っていた。実は、彼女はそれを見つけるために山に登ったのだ。そして彼の言った通りにそれはあった。彼の○○が…。彼女の涙が頬を伝い、そっと呟いた。
「…………
これは想像にお任せですね^^

2018/8/30(木) 午後 3:39 池ちゃん

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もう一つだけ。
どうしても欲が出てしまうので色々書きましたが、とても良かったですよ。

あとは、最後が短すぎて余韻がもう少し欲しかったです。
「私の中にあったわだかまりがスーッと消えた」であるとか、主人公の気持ちを読者に印象付け、残さなくてはなりませぬ^^
その読後感こそ重要。ある意味内容より大事かもしれませんよ。本を思い出した時、人は内容は忘れても印象は忘れないものですから。

2018/8/30(木) 午後 4:03 池ちゃん

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てるてるさん、お返事遅くなってすみません。移動生活をしているので、許されてください。

私も上高地までは行ったことがあるのですが、登山はまったくダメです。でも、上高地にいたら、山に憑かれる人の気持ちが分かるような気がしましたよ。

2018/9/2(日) 午前 9:54 [ セイラ ]

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池ちゃん、いつも丁寧に読んでくださって、ありがとうございます。
勉強になります。

ご指摘の場所「その山の頂に・・」の前に、「家族に心配をかけてまで」と入れるかどうかで迷いました。そしてやめました。「馬鹿なんだから」の一語以外の説明はないほうがいいと思いました。
すると、こんどは「馬鹿なんだから」の「匂わせ」が鼻について、これも嫌な感じがしました。けれど、この一文がなければ、こんどは彼女の冬山へのこだわりが「謎かけ」として匂う。と言って、最初に山に来た理由を説明をしてしまうと、この文章のラストは光を失うと思いました。

結局、彼女の心の声のままに、ストーリーを流すのがいいと思いました。最初の「馬鹿なんだから」で、誰か大切な人を冬山で亡くしたのだと察してもらい、彼女とともに登山しながら彼女の心の声を聴くことで、その心情に寄り添ってもらえるのではないかと。

2018/9/2(日) 午前 11:29 [ セイラ ]

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字数制限がなければ、最初にすんなり目的を提示しても、ラストを生かす展開ができるように思います。けれど短いということは、何らかの謎や引っ掛かりを自ずと必要とするものなのだと、書いてみて分かりました。
機知を旨としないショートを、安っぽい「どんでん返し風」にならないように書くのは、はてはて、至難のことですね。

2018/9/2(日) 午前 11:29 [ セイラ ]

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河童さん、?さん、たそがれさん、てるてるさん、ナイスありがとうございます。

2018/9/2(日) 午前 11:39 [ セイラ ]

ikechan、ナイスありがとうございます。

2018/9/4(火) 午後 8:47 [ セイラ ]


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