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「このブログは裁判で証拠提出されているものは原則として全て公開する。」
このブログの目的は再審請求である。私としては
このブログを見ている人に裁判官が目にしたのと同じ証拠を見ていただきたいと思っている。
そうしないと裁判官の思考について皆さんにたどっていただけないからである。
「今、裁判員制度が始まるが裁判員は全ての証拠を目にする。」
このブログを見ている人はもちろん現時点では裁判員では無いと思うが、裁判というものは当然に「公の争い」であり、「提出した全ての証拠は裁判資料として公文書になる」。
被告弁護人は弁護士であるから当然にそのことを良く承知して、被告の手紙を裁判の証拠として提出したのであるから、金沢再審請求人がその公文書である手紙を公開することに何の違法性もない。
このブログを見ている人は私の裁判について「裁判員と同様に全ての証拠を目にする」ことになるが、これは「再審を目指すというこのブログの目的」に欠かせない事である。
「石川弁護士が富山えん罪事件の弁護人ならえん罪は無かったかもしれない。」
今、富山でもえん罪事件が問題になっているが、富山の事件では全ての証拠が裁判で審議されていたのか
疑問がある。
靴跡の大きさが違うとか、犯行時刻に被告が家にいたことを証明する電話記録があったことなど、被告弁護人は何をしていたのだろうかと思う。
石川弁護士が富山えん罪事件の弁護士をしていたならば、上記証拠からの主張できっとえん罪事件は防いでいたと思う。
「裁判はプロレスと同じである。」
裁判は体験した者にとっては「プロレス」と同じである。
あらゆる言葉を武器にして相手と争う。
加賀の手紙や石川弁護人の主張にしても、特別なことではなく、人が争いに勝とうと思えば当然の戦略である。私が加賀であっても同じような手紙を書いたであろうし、石川弁護人であっても同じような戦略を試したであろうと思う。
「裁判は特別であるとあなたが思いこんでいたらそれは間違いである。」
裁判とは「特別なもので一般市民は近寄らない方がよい」とあなたが思っているとしたら、それは大きな間違いである。
もう一度、言うが裁判はプロレスと同じである。裁判員となる人は「裁判についての幻想を捨て、日々の常識の延長線上で裁判に参加すればよい」のである。「裁判員制度に反対する人は裁判に対する幻想が大きすぎる人」ではないかというのが金沢再審請求人の意見である。
ここまで読んだら213号を再度読み返していただきたい。
以上
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