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翌日は雨だった。
いつもの荷物にかさが増えた分、電車の中は昨日に増して混んでいるように思えた。神保町駅に電車は7分遅れで到着した。
きょうから1週間はオリエンテーション期間だ。講義を自由に受けて回り、1週間以内にどの講義を取るかを決める。
1時間目の憲法の講義はすでに始まっていた。この講義は必修なので必ず取らなければならない。教室の後ろから入ると、300人くらいが受講していた。
教室内を見渡してみると、佐倉が小さく手を振って一番後ろから2列目の席に座っていた。
「電車、遅れてたね。」
「ほんと、参ったよ。」その隣の席に座って、小声で会話した。
教壇の上に立っている天然パーマの中年のおやじは、憲法9条の意義を熱く語っていた。いつだったか横浜駅前で見た共産党の演説に似ているなという印象を持った。
「すごいね、あいつ。」あくびをしながら佐倉は言った。
「たしかに選挙みたいだな。」
「わたしイラク戦争とかよく知らないんだけど。」そう言いながら机の上で寝る体制を整えている。初っ端から大した度胸だ。
「おれも。」
しばらくすると佐倉は動かなくなった。本当に寝たのだろう。
2時間目は佐倉とは違う講義を受けに行った。2時間目に一年生の必修科目はないから、自由に科目を選ぶことができる。2時間目の社会学の講義は50人くらいが入れる、中程度の教室で行なわれた。そこには黒部がいた。
「昨日さ、あのあと調布に行ったんだ。」講義開始、10分後。黒部が小声で話してきた。
「調布?…ああ、愛川さんのレストラン?」
「おれ、三鷹って言っても京王線沿線なんだ。」そんなこと言われても、どの辺りなのかさっぱりわからない。調布の場所だってよくわからないのだ。
「はぁ、つまりめちゃくちゃ近いわけだ?」
「おれがつつじヶ丘で愛川さんが調布だから、4駅となりだな。」横浜以外にもつつじヶ丘という町があるんだ。初めて知った。
「で、どうだった?うまかったか?」
「それがすごいうまかった。サイゼリヤとはわけが違う。チーズのこげ、おいしかった!」こいつもチーズのこげが好きなのか。直哉は噴出しそうになった。
「なんだよ?」黒部は怪訝そうな目で見てきた。
「いや、おれの友達でチーズのこげが大好きなやつがいて。昨日もそいつ、ドリアのこげをスプーンでがしがしやってたからそれを思い出して…。」笑いで声が少し上ずった。
「でさ、愛川さん、彼氏、いると思うか?」黒部は身体を乗り出してきたので、直哉は少し引いた。
「…へ、好きなの?」思わず声を少し大きく出してしまった。
そのとき、「そこ、静かにしなさい!」と注意された。
結局講義が終わるまで、神妙な顔つきで講義を聴いているような演義をした。初日から教授の印象を悪くはしたくない。ただ黒部は時折、ちらちら直哉の方を見てきた。
講義が終わると、黒部は「こんどさりげなくいやらしくなく聞いてみてくれ!」と頼んで走ってどこかに行ってしまった。それを聞くこと自体、いやらしいことであるのではないだろうか。残された直哉は「どうしろってんだ…」とつぶやくしかなかった。
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