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永禄五年一月三日(J1562年2月6日) 浪岡具運が殺害される 北畠家の流れを汲む陸奥国司・浪岡氏の九代当主・北畠具運(31)が一月三日、年賀に訪れた叔父で河原御所家を相続していた浪岡具信(年齢不詳)に殺害された。具信も直ちに具運の弟・浪岡顕範(年齢不詳)に討ち取られた。 浪岡氏は具運の父で八代当主の具統が天文二十一年(1552)に亡くなると具信との争いの末、具運が家督を相続するが、その後も領地を巡り対立が続いていた。 具運には八歳になる嫡男があり、顕範が後見して家督を継ぐと思われるが、浪岡御所の権威の失墜は免れない。
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陸奥
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黒川城(会津若松城) 永禄四年二月十三日(J1561年2月26日) 蘆名氏方が謀反したものの討死 陸奥蘆名氏十六代で会津黒川城主の蘆名盛氏(41)の庶兄・蘆名氏方(46)が、盛氏が同国鴫山(南山)城主・長沼實國(年齢不詳)を攻めるために留守にした隙を衝いて謀反の兵を挙げたが、わずか数日で留守居の兵に東山に追い詰められ家臣らとともに自害した。 氏方は蘆名氏十五代・盛舜の長男として永正十三年(1516)に生まれたが、母・川野御前が遊女であったためか、大永元年(1621)盛舜の正室・金上盛興の娘(名前不詳)が盛氏を産むと黒川城を出され、家臣の富田義實のもとで養育された。
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永禄三年十月二十二日(J1560年11月9日) 佐竹義昭が白川氏の寺山城を攻略 常陸太田城主・佐竹義昭(30)が陸奥白河城主・白川晴綱(41)領である陸奥高野郡南郷に侵出し、寺山城を攻略した。義昭は仙道進出の足掛かりを手に入れた。 晴綱は佐竹氏に対抗するため天文二十四年(1555)後継者の白川義親(20)の正室に蘆名盛氏(40)の娘(名前・年齢不詳)を迎えて蘆名氏と結んだ。 しかし、晴綱は下野烏山城主・那須資胤(年齢不詳)とも対立し、今年三月の小田蔵での戦いは蘆名氏の支援を得て勝利したが、その勢力の衰えは隠しきれない。
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永禄三年八月十一日(J1560年9月1日) 佐竹義昭が陸奥南郷寺山城を攻略 常陸太田城主の佐竹義昭(31)が八月、陸奥南郷に進出して陸奥白河城主・結城晴綱(41)の南郷における拠点で深谷伊豆守(年齢不詳)が守る寺山城を攻略した。 義昭は今年正月には結城晴朝(27)の下総結城城を下野宇都宮氏・下野小山氏・常陸小田氏らとともに攻撃して和議を結んでいる。 義昭は寺山城に佐竹東家の佐竹義堅(年齢不詳)を入れて陸奥進出の拠点とする予定。 |
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永禄三年四月二十四日(J1560年5月19日) 葛西晴信が永徳寺に一村を寄進 四月十一日に病死した陸奥寺池城主・葛西親信(享年四十八)の跡を継ぎ、葛西氏十七代に就任した養子(異母弟)の葛西晴信(27)が養父の菩提を弔うため、四月二十四日、報恩山永徳寺に伊澤郡郡永徳寺に一村を寄進した。 |




