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菩提山城 永禄五年二月七日(J1562年3月11日) 美濃の竹中重元が死去 美濃菩提山城主・竹中重元(64)が二月七日、病死した。法名・常善、岩手村禅憧寺に葬られる。家督は嫡男・重治(19)が相続する。 重元は明応八年(1499)竹中重氏の子として生まれた。土岐氏のち齋藤氏に仕え、弘治二年(1556)の齋藤道三・義龍父子による長良川の戦いでは道三に与したため、後に当時の本拠・大御堂城に義龍勢の攻撃を受けたが撃退した。 永禄元年(1558)同族の菩提山城主・岩手忠誠を破り、これを奪って菩提山城主となった。永禄二年(1559)には義龍の忠臣・不破光治(年齢不詳)の襲撃を受けるが、これも退けた。 永禄三年(1560)末からは近江六角氏の要請により度々近江に出陣して浅井氏と戦い、六角義治(18)から感状を受けた。
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東海
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永禄五年二月四日(J1562年3月8日) 松平家康が上之郷城を攻略 先月、尾張の織田信長(29)と同盟を結んだばかりの松平家康(20・元康改め)が駿河今川氏家臣・鵜殿長照(年齢不詳)の三河上之郷城を攻略、長照とその父・鵜殿長持(50)を討ち取り、長照の二人の子、新七郎(14)と藤三郎(年齢不詳)を捕縛した。 長照の母は永禄三年(1560)尾張桶狭間で討死にした今川氏先代・義元の妹(名前・年齢不詳)で、分家の下之郷鵜殿氏を始めとする三河の諸将の多くが独立を志向する家康に従う中、今川氏支持を変えなかった。昨年八月には松平勢の侵攻を一度は撃退していた。 今川氏の姻戚である新七郎・藤三郎兄弟を捕らえた家康は今川氏の人質となっている正室・築山殿(年齢不詳)、長男・竹千代(4)、長女・亀(3)との人質交換を持ち掛ける可能性が高い。
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永禄五年一月十五日(J1562年2月18日) 織田氏と松平氏が同盟 三河岡崎城主・松平元康(20)は一月十五日、尾張国守護・織田信長(29)の居城・清須城を訪れ、正式に同盟を誓い合った。 松平氏は駿河今川氏の傘下にあったが、永禄三年(1558)桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれると織田氏と対峙しながらも今川氏からの独立を画策してきた。 元康は六歳時の天文十六年(1547)今川氏への人質として駿府に護送途中の三河田原城で戸田康光の裏切りにより織田氏に送られ、その後二年間尾張に留め置かれたことがあった。 美濃への進出に専念したい信長と、駿河からの独立を確かなものにしたい元康の利害が一致しての同盟である。 将軍・足利義輝(27)は相模の北條氏康(48)を仲介人として今川氏眞(25)と元康それぞれに和解を促していたが、父の仇である信長と同盟した元康に怒り心頭に発するのは避けられない。 元康は駿河に人質として正室・築山殿(年齢不詳)、嫡男・竹千代(4)、長女・亀(3)取られている。 |
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永禄五年一月十二日(J1562年2月15日) 織田氏家臣・前田利家に長男誕生 尾張国守護・織田信長(29)の家臣で赤母衣衆筆頭の前田利家(25)の妻・まつ(16)が一月十二日、男児を出産した。父の幼名と同じく犬千代と名付けられたという。 利家は永禄三年(1560)に亡くなった荒子城主・前田利昌の四男。信長の小姓として寵愛を受けたが、永禄二年(1559)信長面前で同朋衆の拾阿彌(年齢不詳)を惨殺して出仕を停止された。 永禄三年の桶狭間の戦いに無断で参加し、首三つを挙げるも帰参は叶わず、翌永禄四年(1561)の齋藤龍興との森部の戦いで「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取り、四百五十貫文で帰参を許されていた。
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永禄四年九月二十一日(J1561年10月29日) 野々山元政が今川氏に服従を誓う 駿河守護家の今川氏眞(24)は九月二十一日、今川氏への服従を誓った三河重原城主・野々山元政(年齢不詳)を顕彰した。 野々山氏は先代・野々山政兼が天文十五年(1546)義元の三河侵攻の際、主君の戸田宣成が籠る今橋城にて今川氏に内通して落城させ、細谷郷を与えられた。 その後、元康の父・松平廣忠に仕えたが、天文十七年(1548)義元の命で出陣した尾張織田方の大高城攻めで一族とともに討死し、義元が遠縁の元政を送り込み相続させた。 昨年五月、桶狭間で氏眞の父・今川義元が敗死すると、今川氏の人質の身であった松平元康(19)は故郷の岡崎城に留まり独立の旗を掲げた。元政の周辺の三河国人衆もこれに従うものが続出していた。
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