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宇和島城 戦国時代は丸串城といい 家藤氏が守備していた 永禄三年十二月三十日(J1561年1月15日) 伊豫土居氏が没落 伊豫黒瀬城主・西園寺實充(51)の家臣で、西園寺十五将のひとりの大森城主・土居清宗(78)は主君の命令で石城に移り、豊後大友氏と戦ってきたが、石城は今年ついに落城し、清宗は嫡子・清晴(年齢不詳)とともに討死にした。 清晴の子で實充の外孫にあたる土居清良(15)は、現在伊豫を離れて土佐国司・一條兼定(18)の中村城でその被官となっている。
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四国
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永禄三年九月二十三日(J1560年10月12日) 長宗我部親武らが本山方の神森城を攻略 土佐岡豊城主・長宗我部元親(22)の家臣で従兄弟の長宗我部親武(年齢不詳)や福留儀重(年齢不詳)・中島親吉(年齢不詳)らが同国朝倉城主・本山茂辰の家臣・神森出雲守(諱・年齢不詳)の神森城を九月二十三日に攻略し、出雲守が自刃した。 さらに親武らは本山方の神田城・石立城へ進軍すると城兵らは城を捨て本山氏の本拠・朝倉城の方へ落ちていった。
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永禄三年七月十八日(J1560年8月9日) 伊予黒瀬城主・西園寺實充が従五位下左近衛少将に叙任 藤原北家閑院流の一門・西園寺家の支流で伊予黒瀬城主の西園寺氏当主・西園寺實充(51)が朝廷より従五位下左近衛少将に叙任された。 伊予西園寺氏は鎌倉幕府に近い太政大臣・西園寺公経が伊予宇和郡を強引に荘園としたが、幕府が滅亡すると西園寺家は衰退し、庶流の西園寺公良が宇和郡に下向したことに始まり、在地の国人を支配下に入れ、両国支配を拡げていった。 弘治二年(1556)實充は大洲城主・宇都宮豊綱と戦って敗れ、嫡男の公高を失うという敗北を喫し、湯築城主・河野通宣の仲介を受け和睦している。
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永禄三年六月二十五日(J1560年7月18日) 長宗我部元親が潮江城に森孝頼を入れる 今月十五日に父・長宗我部國親を亡くした土佐岡豊城主・長宗我部元親(22)は二十五日、先の同国朝倉城主・本山茂辰(36)との戦いで攻略した潮江城に家臣・森孝頼(年齢不詳)を入れた。 五月二十八日の長濱の戦いでは潮江城は茂辰の家臣・片山半兵衛尉(年齢不詳)が守っていたが、茂辰の敗戦を受けて片山は城を放棄、元親が悠々とここに入城していた。 孝頼の父・頼實はかつて森郷や潮江村を領していたが、本山氏に本拠の森城を攻略されて討死し、孝頼は脱出して長宗我部氏のもとに身を寄せていた。 潮江城もかつては森氏の支城であり、孝頼はここを拠点に森城の奪還と森氏の再興を目指す。 |
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永禄三年六月十五日(J1560年7月8日) 長宗我部國親が急死 土佐岡豊城主・長宗我部國親(57)が六月十五日、岡豊城で急死した。家督は嫡男・元親(22)が相続する。 國親は五月二十七日、朝倉城主・本山茂辰(36)と長濱表に戦って寡兵ながら勝利、茂辰を浦戸城に追い詰めていたが、その後脱出を許して岡豊城に戻っていた。陣中で急病を発したものと思われる。 國親は永正元年(1504)に長宗我部兼序の嫡男として誕生、管領も務めた守護・細川政元に仕え勢力を拡大した兼序だったが、政元死後孤立し、永正五年(1508)本山茂宗らにより岡豊城を攻められ、土佐国司・一條房家を頼り國親ともども落ち延びた。 永正八年(1511)房家に斡旋で茂宗らと和睦して、岡豊城に復帰し、永正十五年(1518)頃に國親が家督を相続した。 吉田周孝らの補佐を得て実力を蓄えた國親は天文十三年(1544)かつての仇敵・本山茂宗の嫡男・茂辰に娘(名前・年齢不詳)を輿入れさせた。 そして弘治元年(1555)茂宗が病死し、茂辰が家督を相続すると婿である茂辰打倒の兵を挙げ、本山方の秦泉寺氏を調略し、大高坂氏や國澤氏を討伐した。弘治二年(1556)には香宗我部氏の養子として三男・親泰(18)を送り込んでいる。 家督を相続した元親は軟弱との評判で「姫若子」と揶揄されるほどであったが、先頃の長濱表で初陣を果たし、勇猛に戦い「鬼若子」と称賛され、家臣団の評価は上がっている。 |




